【信念】9.11後、「命の値段」を計算した男がいた。映画『WORTH』が描く、その凄絶な2年間(主演:マイケル・キートン)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:マイケル・キートン, 出演:スタンリー・トゥッチ, 出演:エイミー・ライアン, 出演:テイト・ドノバン, 出演:シュノリ・ラーマナータン, 出演:タリア・バルサム, 出演:ローラ・ベナンティ, Writer:マックス・ボレンスタイン, 監督:サラ・コランジェロ

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

この記事の3つの要点

  • 未曾有の被害者数、そして「ワールド・トレード・センタービルで起きた事件である」という事実が、「命の値段の算出」という想像を絶する状況を生み出した
  • 「長きに渡る裁判よりも、補償金をもらう方が良い」という合理的な判断が、被害者遺族にはなかなか受け入れられない
  • 結果として被害者遺族のリーダー的存在になった人物との人間的関わりも興味深い

とてつもなく困難な状況に対峙した者たちをリアルに描き出す、信じがたい人間ドラマが織りなす物語

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

信念を持って「命の値段」を計算した男の実話を基にした映画『WORTH』は、改めて9.11テロの凄まじさを思い起こさせる衝撃作

凄まじい作品だった。私は「実話を基にした作品」をよく観に行くのだが、本作『WORTH』で描かれるのはあまりにも巨大すぎる現実である。なにせ、未曾有の犯罪である9.11テロに関わる話なのだ。「現実の不条理」がこの作品にすべて詰め込まれているのではないかとさえ感じさせられた。こんな世界に自ら志願して飛び込み、そのあまりに辛い2年間をやり遂げた人物がいたことに、驚きを隠せない。

9.11テロの犠牲者の「命」に値段を付けた男

映画『WORTH』は、9.11のテロで命を落とした被害者の「命の値段」を算定した男の物語である。

映画を観る前の時点で私は、この情報だけは知っていた。どんな物語になるのかは想像していなかったが、しかし漠然と、「裁判資料に載せるのに値段の算出が必要だったのだろうか」ぐらいに考えていたのだと思う。映画を観る前の時点では正直、「『命の値段』を算定する」という状況が上手くイメージ出来ていなかったのだ。

その辺りの事情が映画の冒頭で説明されるのだが、9.11テロならではの特殊な事情が様々に絡んだ、かなり特例的な状況だったことが理解できた。というわけで、まずはその辺りの事情について説明したいと思う。

9.11テロの直後、アメリカの航空業界、そしてアメリカ国家は「ある懸念」を抱いた。それは、「テロ犠牲者の遺族が、航空会社を訴えるかもしれない」というものだ。訴訟大国と言われるほどの国であれば、当然想定しておくべき状況だろう。そして、もし本当にそうなってしまえば、とんでもないことになる

恐らく、裁判は何年もの月日を要する長大なものとなるだろう。さらに、死者数が3000人弱に達した9.11の裁判で航空会社が負ければ、莫大な賠償金が課せられることにもなる。もちろんそれは、航空業界への大打撃となるわけだが、決してそれだけに留まらない。アメリカ経済にも甚大な影響を及ぼすことになるはずだ。いち業界の問題ではなく、国家的問題だと認識されていたのである。

そこで航空業界とアメリカ国家は、「どうにかして訴訟を回避する方法」を模索した。そして、たった1日の審議である法案が可決されることになる。それが、「『訴訟権を放棄すること』によって、国から補償金が支払われる」という基金の創設を認めるものだった。

先述した通り、裁判ともなれば長い時間が掛かる。勝てば大金を得られるかもしれないが、それより低い金額だとしても確実にもらえる補償金の方を選ぶ人だっているはずだ。全員がその選択をするわけではないにせよ、一定数の「訴訟権の放棄」が実現されれば、仮に訴訟に発展しても損害は低く抑えられる。そのような思惑の下に作られた仕組みというわけだ。

さて、早々に法案だけは成立した。しかし問題は残されている。「補償金の額をいくらに設定すればいいのか」だ。

シンプルなのは、「被害者全員が一律の金額」という設定だろう。しかし、そうするわけにはいかない事情があった。それは、9.11テロの標的になったのが、大企業のオフィスが多数入る「ワールド・トレード・センタービル」だったことに大きく関係している

被害者には様々な人物がいたはずだ。オフィスで働いていた人、荷物を届けにきた人、トイレ掃除をしていた人など、様々な事情でビルやその周辺にいたことが想定されるだろう。そして、いわゆる「高給取り」だった「ビル内で働いていた人」の補償金と、そうではない「平均程度の給与の人」の補償金を同等に設定したら、納得されないのではないかと考えられたのだ。

現に映画では、「高給取り」側の遺族の関係者だろう人物から、「金額に納得出来なければ別の手段を取る」と、暗に訴訟に踏み切るつもりだと示唆するような場面が描かれる。「補償金」は表向き「被害者遺族救済」の名目で作られたわけだが、真の目的は「訴訟権の奪取」なのだから、遺族が金額に納得しなければ話が進むはずもない

このような事情があったため、「被害者ごとに異なる補償金額を算出する」ことが必要とされたのだ。

そこで白羽の矢が立ったのが、本作の主人公ケネス・ファインバーグである。周囲からケンと呼ばれているこの人物は、これまでも様々な事件で和解や補償の交渉をまとめたことがあり、この難題にうってつけだと判断されたのだ。

打診を受けたケンはなんと、この依頼を無償で引き受ける決断をする。そこには、彼なりのこんな想いがあった。

ケンは当然のことながら、この基金の目的が「訴訟権の奪取」なのだと理解している。一方で彼は、弁護士としての経験から、「訴訟を起こすことがベストな選択とは思えない」という確信を抱いてもいたのだ。裁判は恐らく10年以上に渡って続くし、必ず勝てる保証もない。だから、補償金をもらうのが最善だ。彼はそのように考えていたし、遺族も必ずそう判断するはずだと思っていたのである。そのため、「遺族のためになることなのだから、手弁当でやりたい」と、無償で引き受けることにしたというわけだ。

しかし彼は、想像もしなかった状況に直面することになる。

合理的に物事を考えるケンには予想出来なかった、被害者遺族たちの反応

さて、9.11の犠牲者と直接関わりのない第三者の視点からは、ケンの判断はとても「合理的」に映るだろう。長い長い裁判をやっても、賠償金は得られない可能性がある。だったら確実に補償金を受け取っておく方がベストだと、誰もが判断するはずだ。

このような発想は、「人間はすべての物事を合理的に判断するはずだ」という前提で研究がなされる「経済学」のようなものと言えるだろう。そしてそのような人のことを経済学の用語で「合理的経済人」と呼ぶ。例えば、「合理的経済人」は、同じ商品の分量・値段が「150g 320円」と「230g 450円」だった場合、1gあたりの値段が安い「230g 450円」を必ず選ぶ。しかし普通は、わざわざ電卓で割り算をしてまで値段の比較をしたりしないものだ。このように、「現実の人間は、必ずしも合理的とは言えない選択をする」という条件を組み込んだ経済学が「行動経済学」と呼ばれ、より現実に近い行動を説明する理論として研究されている。

ケンはまさに「合理的経済人」そのものだと言っていいだろう。確かに合理的に考えるなら、ケンの判断が正しいと言える。そしてケンは、「遺族もまた、自分と同じように合理的に判断するはずだ」と思っていた。さらに彼は、この難題に向き合うにあたって、「『公平さ』よりも『前進すること』の方がより重要だ」と考え、こちらについても遺族が同じように判断するはずだと思っていたのである。だからこそ彼は、様々な要因を組み合わせた「計算式」を定め、「その計算式に則って補償金額を算出する」のが現実的に最もベストな進め方だと信じていたのだし、そのようなマインドで遺族とも向き合っていたというわけだ。

しかし当然ではあるが、そのようなケンの態度は遺族から反感を買うことになる。さらにケンは事故直後、法案が成立してすぐに動き始めた。もちろんそれは、「早く終わらせた方がいい」というケンなりの配慮だったのだが、これもまた遺族には伝わらない。なにせ、テロが起こってからあまりにも日が浅いのだ。気持ちの整理もつかない状況で、「計算式によって、あなたの親族の補償金はこうなります」と言われても、「はいそうですか」などと言えるはずもないだろう

しかし、これまで様々な案件を成功させてきたケンの信念は揺るがない。ケンは多くのスタッフを動員し、申請者たちの聞き取りを行うのだが、申請者の気持ちに寄り添おうとするスタッフに対して「私情を挟むな」と声を荒らげるほどである。もちろん、「自分のこのやり方が、被害者遺族のためになる」という確信あっての態度なわけで、ケンとしては善意のつもりなのだ。

さて、この任務を引き受けた時点で、ケンには達成すべき数値が課されていた。「全遺族の内、80%以上から申請を受けること」である。つまり、「訴訟に回る可能性のある者を20%以下に抑えたい」というのが航空業界と国の目標だったというわけだ。

しかし申請者の数は一向に伸びなかった。ケンには、「基金創設から2年間」という期限が設けられていたのだが、期限間際になっても10%台の申請しか達成できていなかったのだ。ケンとしては、大いなる誤算と言わざるを得なかった。

ケンの前に立ちはだかった、被害者遺族のリーダー的存在

たった10%程度しか申請者がいなかったのには、1つ大きな要因がある。それが、被害者遺族の1人であるチャールズ・ウルフの存在だ。彼は初回の集まりの時点で「計算式には問題がある」と主張し、彼の意見に賛同する者たちからリーダー的な扱いをされるようになっていった。そして遺族の多くは、「彼が納得出来ないと言っている」という理由で「申請控え」をしていたのである。

これだけ聞くと、「被害者遺族を束ねて無茶な主張を通そうとする悪い人物」に感じられるかもしれないが、決してそんなことはない。チャールズはとにかく、「倫理的に正しくないことには納得できないし、そのような状況には徹底的に抵抗する」というスタンスを明確に持っているだけなのだ。映画を観る限りにおいては、人間としては実に真っ当だと感じた。ケンと直接話をする場面も何度か描かれるのだが、「あなたに個人的な恨みはない」と明確に伝える彼のスタンスは、その言動からもはっきりと滲み出ている。

ケンは長い間、自身の考えを変えなかった「不公平かもしれないし、正しくもないかもしれないが、しかし自分が提案するこのやり方が最善手だ」という信念を決して曲げなかったのである。しかし、期限間際になっても申請率が異常に低いという現実を突きつけられたことで、彼は自身の過ちを受け入れざるを得なくなった

ただし、だからと言って何が出来るわけでもない。確かにケンは、全権が委任された「特別管理人」という立場にあるが、しかし国が決めた方針の範囲内で全権が委任されているだけであり、方針そのものを変えるのは困難だ。場合によっては、成立した法案の修正を提言出来るかもしれない。しかしケンは、「法案の再提出」となれば、法案そのものが無くなってしまう可能性の方が高いと睨んでいた。そうなれば遺族には、「訴訟」しか選択肢がなくなってしまう。それだけは避けなければならないと考えていたのだ。

ケンが示してきた方針は遺族に受け入れられなかった。しかし、大きな方針を転換させようとしたら、補償金の話そのものが無くなってしまう可能性が高い「このような板挟みの中で、ケンがどのような決断を下すのか」が、映画の1つの大きな見どころだと言っていいだろう。

フィクションとしか思えないような凄まじい実話

映画『WORTH』の描写がどの程度まで事実に即しているのか分からないが、少なくとも大筋の物語は事実の通りだろうと考えている。そしてその上で私は、「状況設定」がとてもフィクショナルだと感じた。というのも、「補償金額」の決まり方が普通ではないように思えるからだ。

何か事件が起こり、その責任を負う主体が補償金を支払うという場合、普通は、「主体が補償金額を決め、納得できれば受け取るし、納得できなければ訴訟で争う」という流れになるはずだ。この場合、「補償金額」の決定に被害者は関与できないし、納得できなければ裁判を起こすというやり方でしか対抗できない。これまでケンが担当してきた案件も恐らく、このようなケースが多かったのではないかと思う。

しかし、映画『WORTH』で描かれる状況の場合、最大の目的は「訴訟権の奪取」であり、その実現のためには「被害者の納得」が何よりも求められる。つまり、「補償金額」の決定に被害者側がかなり強く関与出来ることになるのだ。まったく起こり得ない状況ではないだろうが、「全員が訴訟を起こしたら甚大な影響が及ぼされる」と想定される程度の莫大な被害者が存在する状況下で無ければこのような事態には陥らないはずである。そりゃあ、百戦錬磨だろうケンも当惑するはずだ。

また、チャールズ・ウルフという人物も非常に魅力的だった。もちろん、ちょっと穿った見方をすれば、次のような可能性も考えられる。9.11という、凄まじい数の犠牲者を出した未曾有の事件を元にした作品であるが故に、映画制作においては、「どういう形であれ、被害者側を悪く描くことは出来ない」という制約があったのだ、と。だから、「実際にはチャールズ・ウルフが『あくどい人物』だったとしても、フィクションの映画ではその通りには描けなかった」という想像も可能だろう。

しかし、特に根拠があるわけではないのだが、チャールズ・ウルフは映画で描かれたような人物だったのではないかと感じた。映画の結末には触れないが、チャールズ・ウルフが映画で描かれているような人物だったからこそ、このような帰結を迎えられたのではないかという気もするのだ。映画で描かれる結末はもちろん事実に即しているだろうし、だとすれば、チャールズ・ウルフが「あくどい人間」である可能性は低いような気がする

本作にはこのように、「とてもフィクショナルな要素」が含まれているように感じられるし、だから、実話を基にした作品でありながら、どこか「物語的」だとも感じられた。そして逆説的ではあるが、「そのような『フィクション感の強い物語』が実話を基にしている」という事実が、この作品の物語としての「強度」を一層高めているような印象も受けたのである。

私は、9.11テロの陰でこのようなことが起こっていたなんてもちろん知らなかったので、映画の結末もどうなるのか分からなかった。本当に最後の最後まで、「この物語は一体、どう決着がつくのだろう?」と感じていたと思う。提示される状況だけ見れば、「詰んでいる」と言っていいだろう。ケン自身も「どうしていいか分からない」と口にしていたように、はっきりと手詰まりの状況にあったのだ。

映画では、そのような2年間の出来事が断片的に描かれるわけだが、2年という長きに渡ってこのような難しい状況に対峙し続けたケンやスタッフたちは本当に苦労したと思う。ケンに振り回された部分が大きいとはいえ、関わったスタッフたちにしても、「これは誰かの役に立つ仕事だ」と言い聞かせていなければやっていられなかっただろう。

聞き取りを担当するスタッフは、遺族との関わりなどについて申請者たちからヒアリングを行うのだが、本当に様々な事情があるものだと感じさせられた。この点もまた、「シンプルな計算式で補償金額を算出すること」の困難さを浮き彫りにするポイントと言っていいだろう。

作中ではチャールズ・ウルフの他に、2組の被害者遺族が重点的に描かれる。具体的には触れないが、観れば、どちらもかなり「残酷」な状況に置かれていることが理解できるだろう。一方は、「どこかで線引きしなければならない」というその境界線上にいる人物であり、もう一方は、「『死以外の残酷な現実』に直面せざるを得なかった」と言える。どちらの状況も、仕方ないと言えば仕方ない。しかし、「『仕方ない』では済ませたくない」とも感じさせる現実である。

そしてもちろん、映画で取り上げられていないだけで、他にも様々な状況が現実に存在していたのだろう。本当に、凄まじいとしか言いようがない出来事だ。9.11テロの酷さについてはもちろん理解していたつもりだが、テロ後の対応にもこれほどの状況が存在していたことにとても驚かされてしまった

出演:マイケル・キートン, 出演:スタンリー・トゥッチ, 出演:エイミー・ライアン, 出演:テイト・ドノバン, 出演:シュノリ・ラーマナータン, 出演:タリア・バルサム, 出演:ローラ・ベナンティ, Writer:マックス・ボレンスタイン, 監督:サラ・コランジェロ

最後に

全体的にはやはり、チャールズ・ウルフの印象がとても強かったなと思う。もし私が何らかの被害者的な立場に立つことがあるとしたら、彼のように振る舞いたいと感じるほどには、とても好意的に捉えている。結果的にキーパーソンとなったチャールズが、とても真っ当な人物だったことは、被害者遺族にとってもケンにとっても「僥倖」と言っていいのではないかと思う。

実話を基にしているとはちょっと信じがたいぐらい、凄まじい物語だった。

次にオススメの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次