【貢献】飛行機を「安全な乗り物」に決定づけたMr.トルネードこと天才気象学者・藤田哲也の生涯:『Mr.トルネード』(佐々木健一)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 世界中で激賞される「藤田哲也」の存在を、何故か我々日本人は知らない
  • 既に多大な功績を有していた藤田哲也が発表した「ダウンバースト」は酷評されてしまう
  • 藤田哲也が渡米するに至った奇跡的な出来事の連続

藤田哲也がいたからこそ、私たちは当たり前のように飛行機に乗れているのだ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

日本では知られていないMr.トルネードこと藤田哲也がいたお陰で、我々は安全に飛行機に乗れる

日本では知られていない「藤田哲也」をNHKが追う

本書を読むまで、私も藤田哲也の存在は知らなかった。そのことは、アメリカ人からすれば異常だと感じられるようだ。

「ショックです。日本で彼の存在があまり知られていないなんて……。異常な感じさえします」
アメリカ人の口から発せられたその言葉を思い返していた。

冒頭に書かれているこの文章は、本書を読み進めるにつれて徐々に実感できるようになっていった。何故なら、私たちが当たり前のように飛行機に乗れるのは、彼のお陰だからだ

そして皆、彼の偉業について口をそろえた。
「何百人もの命を救った。……世界中で!」
「彼は、世の中をより安全にした。飛行機に乗ることをずっと安全にした」

本書に登場するパイロットは、こう断言する。

藤田博士は、間違いなく航空安全において、単独で最も貢献した人です。本当に、言葉では言い尽くせないほどの存在です

これだけは言っておきたいのですが、藤田博士の存在がなければ、ここまで来ることは不可能だったということです。重要なのは、博士が時代の先を行く存在だった点です。

ただし彼は、飛行機の設計などで活躍した人物ではない。専門は、気象学だ。そして、その存在すら疑われていた「ある気象現象」を予測・発見し、対策を促したことで、彼は飛行機の安全性を飛躍的に高める貢献を成したのだ。

気象庁の元職員は、こんな風に語っている。

気象学という人間生活に最も関係がある地球科学分野に、ノーベル賞が存在しないことは非常に残念ですね。もしあれば、藤田先生は間違いなく受賞していたと言われています。世界中で認められていますからね。

2021年のノーベル物理学賞に、真鍋淑郎氏が選ばれたことが大いに話題になった。もちろんこれは、真鍋氏の功績が多大であったことも関係しているわけだが、さらに「地球科学分野初のノーベル物理学賞受賞」という点でも大いに注目を集めたのである。もし藤田哲也が今もなお存命であれば、ノーベル物理学賞の受賞は間違いないはずだ

本書はNHKのディレクターが執筆した作品である。NHKのドキュメンタリーシリーズ『ブレイブ 勇敢なる者』の第1弾として『Mr.トルネード 気象学で世界を救った男』を放送した。その取材を担当したのが著者であり、放送には盛り込めなかった情報を含めて書籍化したのが本書である。

著者が藤田哲也を取り上げたのは、「人間・藤田哲也」が伝わる評伝が存在しなかったことが大きい。これまでも何らかの形で藤田が紹介される機会はあったのだが、それらはほぼすべて、彼自身が自費出版した本をベースに構成されていた。藤田は研究に関してであればいくらでも話をするが、自身についてはほとんど語らなかったそうだ。というか、誰もが口を揃えて証言するように「朝から晩までずっと研究していた」ようなので、研究以外には何も語ることがない、という認識だったのかもしれない。

著者は、藤田の人間像を知るべく、アメリカでの取材を敢行する。関係者はアメリカ全土に散らばっており、その取材は難航したそうだが、その取材によって、「人間・藤田哲也」が浮かび上がることとなったのである。

藤田哲也がいなかったら、飛行機なんか怖くて乗れた代物じゃない

藤田哲也の貢献を理解するためには、少し前の飛行機がどれほど危険な乗り物だったかを伝えるのが良いだろう。本書に分かりやすくまとまっているので抜き出してみる。

今、世界の空では、一日に五〇万便もの航空機が飛んでいるという。飛行機に乗り、無事、安全に、行きたい場所へ行き、会いたい人に会える。そんな空の旅が当たり前の世界を、私たちは生きている。
しかし、たった三〇年前までは、世界の空は死の不安と隣合わせだった。
十八ヶ月に一度の割合で一〇〇名を超す人々が離着陸時に突然、上空から地面へと叩きつけられ、一瞬にして命を失う”謎の墜落事故”が頻発していたのだ。
その悲劇の連鎖を食い止めた男へ、パイロットたちは今も惜しみない賛辞をおくる。
「不可解な航空機事故の謎を暴いた。数多くある人類の危機の一つを取りのぞいた人」
死の不安が覆う世界の空を、一人の男が「気象学」によって変えた。
それが、シカゴ大学教授、藤田・テッド(セオドア)・哲也(一九二〇-一九九八)だ。

かつて「飛行機」は、「ほぼ間違いなく死に至る事故が、1年半に1度の割合で起こる乗り物」だった、というわけだ。そんなものに乗りたいと考える人は少ないだろう。

その状況を、藤田哲也が一変させたというわけだ。確かに、人類に計り知れない恩恵をもたらした人物だと言っていいだろう。

藤田がその安全性を飛躍的に高めることになった「飛行機」は、現在なんと自動車よりも安全だ。アメリカにおけるデータだが、自動車で死亡事故に遭遇する確率が0.03%なのに対して、飛行機で死亡事故に遭遇する確率はなんと0.0009%だという。もちろんこれは、航空機会社の努力によるところも大きいだろうが、やはり、「謎の墜落事故」の原因を究明した藤田哲也がいなければ成し遂げられなかっただろう。

しかし、藤田の発見は当初猛反発を食らってしまうのである。

竜巻研究で「Mr.トルネード」と称賛された藤田哲也が大バッシングを受けた「ダウンバースト」

藤田哲也は、「謎の墜落事故」の原因を”予想”して発表した際、既に確固たる地位を築くスーパー研究者として知られていた

32歳でアメリカへ渡った藤田哲也は、わずか十数年の内に竜巻研究の第一人者となり、気象学の常識を次々と塗りかえ、一目置かれる存在となった。

しかしそんな藤田が50代半ばで発表した新説が波紋を呼ぶこととなる。それは、確固たる立場にいる研究者に向けられたものとは思えないほど苛烈な反応で、

あの論争は、藤田先生にとっても忘れられないようで、『嘘つき』だとか『フジタはホラふいてる』とか、そこまで言われたと仰っていましたから

というような凄まじいものだったそうだ。

この反応については、藤田にまったく非がないわけではない。当初彼が発表した理論には明らかな間違いが含まれていたし、また、功績が評価されてきた一方で、藤田の研究姿勢には疑問を呈されることも多かったからだ。

しかしそれ以上に、藤田が発表した新説がとても信じられるようなものではなかったことにより、激烈な反応を引き起こすこととなったのである。

彼はある現象に「ダウンバースト」という名前をつけたのだが、現象を発見してから名前をつけたわけではない。航空機事故の原因究明をした結果、「上空でこのような現象が起こっているはずだ」と”予想”し、それに「ダウンバースト」という名前をつけたのだ。

きっかけとなったのは、ジョン・F・ケネディ国際空港で起こった、イースタン航空66便の事故である。乗員乗客124名の内112名が亡くなるという、当時のアメリカにおける最悪の航空事故だった。

この事故については政府が調査を行い、「パイロットの操縦ミス」で片付けられようとしていたという。そこでイースタン航空が直接依頼し、藤田が原因究明に乗り出すこととなったのだ。そしてその過程で「ダウンバースト」を予測、最終的にその存在を実証し、航空機業界に革命をもたらすこととなったのである。

「純然たる観察者」であり、「並外れた直感の持ち主」だった藤田哲也

藤田の特徴は、まずひたすら観察することにある。気象に限らないが、科学研究においては「理論を構築しながら観察する」のが普通のようだが、藤田はとにかく、まずは徹底的に観察することから始めるのだという。気象現象は予測が難しいものも多く、なかなか「観察」という行為に向かない側面もあるが、それでも執念深く観察を続ける。

そしてその上で藤田は、「直感力」が凄まじかったそうだ。本書には、観察と直感を組み合わせる藤田の凄さについて、様々な人間が語っている。

テッドは特に、複雑な現象に対する”直感”が並外れた人でした。

単なる直感ではなくて、数学とか物理学とかの基礎があって、現場で自分の目で見たものと照合する。非常に優れた洞察力から、自然現象を解釈されていたんだと思います。

テッドは、あまり観測データが揃っていない状況でも、その嵐で何が起きていたのかを三次元的に視覚化できたんです。嵐がどんなものかを頭の中でイメージして、それを絵にして表現できる人でした。データが乏しい中で、そんなことができる科学者はほとんどいません。きわめて特殊な才能でした。テッドはヴィジョン(視覚)の科学者だったのです。そんな科学者は、ほとんどいません。

ちなみに、「テッド」というのは藤田哲也の愛称である。彼は生粋の日本人だが、アメリカに渡って以降自ら「藤田・テッド(セオドア)・哲也」と名乗ることにしたらしい。

これらの証言から、「仮に藤田哲也と同じだけの情報を有していても、『ダウンバースト』という現象の予測など不可能」だと示唆されるだろう。科学研究に「直感」はそぐわないし、だからこそ彼の研究スタイルが批判されることもあったわけだが、しかしまさにその「直感」のお陰で「ダウンバースト」は発見できたのである。

前述した通り「ダウンバースト」は、名のある研究者だった藤田哲也が発表しても激烈な反対が巻き起こるほど”信じがたい”と受け取られたのだ。本当に、藤田哲也の「直感」がなければ発見されなかったかもしれない

実は、「ダウンバースト」の発見には「長崎の原爆」が関係している

長崎での原爆投下の直後、藤田は現地入りして調査を行った。そして彼は、徹底した観察により爆破地点を導き出すことに成功する。彼が示した爆破地点は、後に最新鋭のスーパーコンピューターが導き出した場所とほぼ同じだったそうだ。そして、この時に観察した「原爆の衝撃波」が、結果として「ダウンバースト」の発見に繋がっている、というわけである。

藤田哲也が渡米するに至った”ありえない出来事”の連続

最後に、藤田哲也が何故アメリカに渡ることになったのか、という話に触れて終わろう。

そもそも彼は、気象学を専門的に学んだことがない。藤田は、九州工業大学の前身である明治専門学校の出身で、つまり工学を修めた人物なのだ。その後、同学校の「物理学」の助教授となる。その頃福岡管区気象台に通い詰めていた彼は、そこでもらったデータを元に専門家をも唸らせる解析をしてみせたという。繰り返すが、気象学の教育を受けていない彼は、独学でそれを成し遂げているのだ。

そんな彼の凄まじい能力を知った気象庁は、藤田を特別扱いすることに決める。なんと、気象庁の職員ではないにも拘わらず、気象庁の職員と同等に扱おう、ということになったのだ。この話だけでも「ありえない」と感じさせられる。

しかし話はまだまだ続く。彼の運命を決定づけることなった「ゴミ箱の論文」の話だ

気象庁職員同然の扱いを受けることになった彼は、背振山の観測所に通っていた。そして彼は「雷雲には下降気流も存在する」という発見をし、英語で論文を書く。しかしこれは日本ではまったく注目されなかった。理由は単純で、気象庁の人間はその事実を既に知っていたからだ。日本の気象に関わる人間には常識だったのだが、藤田は気象の専門的な教育を受けていなかったためにその事実を知らず、自らの発見を「未発表のもの」と勘違いしてしまったのである。

さて、そんな藤田に友人が手渡したものが「ゴミ箱の論文」だ。背振山の観測所の敷地の隣にはアメリカ軍のレーダー基地があり、友人はそこのゴミ箱からその論文を拾ったのだという。その論文は、アメリカで発表された雷雲の研究に関するものであり、藤田が雷雲の研究をしていると知っていた友人が届けてくれたのだ。

藤田はその論文を執筆したシカゴ大学のバイヤース教授に、自身の論文を送った。するとバイヤース教授から「すぐにでもシカゴに来てほしい」という申し出が来たのだ。

何故か。それは、藤田が「まったく金を掛けずにバイヤース教授と同等の研究を行っていたから」である。

バイヤース教授らは、アメリカ空軍の支援を受け、2年間で200万ドル、当時のレートで7億2000万円ものお金をつぎ込んで「雷雲には下降気流も存在する」という結論にたどり着いた。しかし同じ結論を藤田は、100ドル程度しか使わずに導き出したのである。この研究に驚愕したからこそ、バイヤースは藤田を招聘することにしたのだ。

その後も様々な出来事が起こるわけだが、この「ゴミ箱の論文」こそが藤田をアメリカに向かわせた直接の理由となった。

しかしそもそもの話、何故藤田は英語の論文を執筆できたのだろうか? 要するに、「何故藤田は英語を打てるタイプライターを使えたのか」という疑問である。当時まだそのようなタイプライターは一般的ではなく、裕福な家庭に育ったわけではない藤田にはもちろん手が届く代物ではなかったのだ。

しかしここにも幸運があった。苦学生だった藤田は、生活のためのアルバイトを行っていたのだが、その1つである家庭教師の仕事を通じて、英語を打てるタイプライターに接する機会があったのだ。

このように藤田の人生は、まるで何かに導かれるようにしてアメリカへと向かっていく。ほんの僅かでも運命の歯車が狂っていれば、藤田哲也がアメリカに渡ることは恐らくなかっただろうし、だとすれば「ダウンバースト」の発見にも至らなかったかもしれない。

本書ではこのような「研究者」としてではない面白いエピソードも様々に知ることができる。他にも、「アメリカ国籍を取得した理由」「通常の手続きを踏まずに研究を続けた理由」「生涯研究に没頭できる環境が整っていたはずなのに晩年に絶望していた理由」「『Mr.トルネード』というネーミングは誰によるものか」などなど、興味深い話が満載の人物なのだ。

改めて、これほどの人物が日本で知られていない現実に驚かされるし、彼のお陰で世界の空が安全になったという事実に感謝したい気持ちになる。

最後に

著者はあとがきでこんな風に書いている。

これほどの人物、偉業、人生が、なぜ今まで埋もれてきたのかと不思議に思う方も多いだろう。
しかし、このタイミングでなければ、本書はこのようには成立しなかったのだ。

例えば、この記事で「長崎の原爆」との関連に少しだけ触れたが、その資料が発見されたのは本書出版の4年前。この資料の存在無しに、藤田哲也と「長崎の原爆」との繋がりは明確なものにはならなかったに違いない。また、藤田の地元・北九州で彼の企画展が行われたことがきっかけとなり、国内の関係者と連絡を取りやすい状況が偶然整っていた、ということも大きいそうだ。

藤田哲也の存在は、同じ日本人として誇らしく感じる。しかし一方、最近特に顕著だが「優秀な研究者の国外流出」が問題視されており、「同じ日本人として誇らしい」と呑気に言っている場合ではない。藤田哲也も恐らく、日本に留まっていたとしたら、知られているような業績を生み出すことは難しかっただろう。

能力があっても、環境によって生み出せる業績は変わる。藤田哲也の存在は、そのような危機感を改めて認識させるものとしても受け取られるべきではないかと思う。

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