【不穏】大友克洋の漫画『童夢』をモデルにした映画『イノセンツ』は、「無邪気な残酷さ」が恐ろしい

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ラーケル・レノーラ・フレットゥム, 出演:アルヴァ・ブリンスモ・ラームスタ, 出演:ミナ・ヤスミン・ブレムセット・アシェイム, 出演:サム・アシュラフ, 出演:エレン・ドリト・ピーターセン, 出演:モーテン・シュバラ, Writer:エスキル・フォクト, 監督:エスキル・フォクト
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この記事の3つの要点

  • 中盤に至るまで、何が描かれているのか、どう展開していくのかが全然想像がつかない物語にゾワゾワさせられた
  • 「人間は空を飛ぶことが出来ない」のような「当たり前」を、私たちはいつどこでどのように学んだのだろうか?
  • 「非現実的な設定」と「大人の不在」によって、「無邪気な残酷さ」がより強調される構成がとても見事

ラストシーンも含めてとても印象的な物語であり、同じ北欧映画である『ぼくのエリ』を彷彿とさせる不穏さにも満ちていた

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

子どもたちの「無邪気な残酷さ」に大人はどう向き合うべきか。そんな示唆にも富んだ映画『イノセンツ』の恐ろしさ

ストーリーがどう展開していくのかまったく想像できなかった、凄まじい作品

とんでもない作品だった。静かに淡々と展開されるのに狂気に満ちていること、子どもたちの物語であること、そして北欧の映画であることなど様々な点で、映画『ぼくのエリ』を彷彿とさせる雰囲気を持つ作品だと思う。

この映画については、公開直前まで私はその存在さえまったく知らなかった。映画館で予告を観たこともなければ、公開前に何かの評判が聞こえてくることもなかったのだ。そして公開直前になって、何がどう話題になっていたのか未だに知らないが、映画『イノセンツ』の名前をSNSでよく見かけることになった。そんなわけで、『イノセンツ』というタイトルと、少女が吊り下げられたようなメインビジュアルだけしか知らないまま、この映画を観に行こうと決めたのである。

もともと内容についてまったく何も知らなかったとはいえ、物語の中盤に差し掛かっても、どんな話なのか全然捉えきれなかったことには驚かされた。私は、内容や評判をまったく知らずに映画を観に行くのが好きなのだが、もし私と同じタイプの人がこの記事を読んでくれているとしたら、すぐに読むのを止めて映画を観た方がいい。何も知らずに観る方が、「物語に翻弄されていく感じ」が一層強く味わえるからだ。

私にとって幸運だったのは、映画のタイトルが『イノセンツ』だということだろう。原題をそのまま邦訳(というか英訳)したもののようだが、もし別のタイトルだったら、映画を最後まで観ても、何を描きたかったのか捉えきれなかった可能性があるからだ。

この映画で描かれているのは、要するに「イノセンツ(無邪気さ)」、つまり「子どもは無邪気なほどに残酷だ」ということなのだと思う。そしてそれを描き出すために「超能力」というモチーフが登場するのである。「超能力」の存在をとてもリアルに描き出すことによって、「子どもの残酷なまでの無邪気さ」を丁寧に描き出しているというわけだ。

普通に考えれば、「超能力」が登場する時点で「非現実的な物語」に仕上がってしまうはずだが、映画『イノセンツ』は決してそうはなっていない。観れば観るほど「現実そのものを抉り取っている」と感じさせる作品であり、そのバランスの取り方がとても見事だったと思う。さらに、この記事の後半で触れるが、「『大人の存在』が完全に排除されている」という本作の特徴的な構成も、物語全体の主題を浮かび上がらせる要素の1つと言えるだろう。

さて、私は鑑賞後に知ったのだが、映画『イノセンツ』は、大友克洋の『童夢』にインスパイアされて生まれた作品なのだそうだ。監督自身が、そのように公言しているのだという。私は『童夢』を読んだこともないので、その情報を事前に知っていたとしてもストーリーの展開を想像出来たとは思えないが、『童夢』を知っている人なら大体の想像がつくのかもしれない。しかし、『AKIRA』もそうだが、やはり大友克洋の影響力はとても強いんだなぁと改めて実感させられた。

著:大友 克洋
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まずは内容紹介

9歳のイーダは、郊外の団地へと引っ越してきた。両親と姉の4人家族である。姉のアナは重度の自閉症と診断されており、言葉を発することはおろか、自律的な運動も困難なほどだ。両親はそんなアナにも愛情を注いでいるのだが、当然イーダには不満がある。両親がアナにばかり構っていることや、時々アナのお守りをしなければならないことなど嫌なことばかりだ。しかし、彼女がその不満を表立って口にすることはない

引っ越した時期は夏休み期間中であり、家族で旅行にでも出かけているのか、団地に残っている者は僅かだ。そんな中イーダは、同じ団地に住むベンという少年と仲良くなる。彼は不思議な力を持っていた。軽いものであれば、手を触れずにその落下軌道を変えることが出来るのだ。そんな普通じゃないところも、彼に惹かれた理由である。

その日イーダは、ベンと遊ぶために、アナをしばらくブランコに独りで座らせていた。しかしブランコに戻ってみると、そこにいるはずのアナがいなくなっている。彼女が自発的に動けるはずがない。近くを探してみると、アナはアイシャという女の子と一緒にいた。アナは喋れないはずなのだが、しかし2人を見ていると、どうもアナとアイシャの間で心が通じ合っているような感じがするのだ。実際アイシャは「アナの考えていることが分かる」と言うし、アナも普段と比べるとおとなしいように見える。

4人はこんな風にして出会った。ベンとアイシャは出会った当初から不思議な力を備えていたのだが、4人で遊ぶ内、なんとアナにも謎めいた力があることが判明し……。

私たちは「当たり前」をいつどのようにして学んだのか

冒頭でも触れた通り、映画『イノセンツ』は「無邪気な残酷さ」を描き出している。そしてその背景にあるのが、「何が『当たり前』なのかを知らない」という感覚なのだと私は感じた。

例えば、少し前にネットで見かけたこんな話はどうだろう。ママ友同士の会話の中で、ある親が「子どもがジブリ作品に興味を持ち始めた」と話したところ、先輩ママから「『人間は空を飛べない』って何度も教えた方がいいよ」とアドバイスされた、という話である。

私はこの話を読んだ時、「なるほど、確かにその通りだ」と感じた。人間が空を飛べないことなど「当たり前」なのだが、しかしその「当たり前」を私は一体いつどこで学んだのだろう? 「人間は空を飛べませんよ」と、誰かが教えてくれたような記憶はない。「空を飛ぼうとしてはダメですよ」なんて注意されたことだって恐らくないはずだ。しかしいつの間にか、「人間は空を飛ぶことが出来ない」という「当たり前」を理解している

さらに、先ほどのママ友の話を踏まえれば、「生まれた時からそのことを理解しているわけではない」とも判断できるだろう。「空は飛べないよ」と子どもに注意しておかなければ、「自分もジブリの登場人物みたいに空を飛べるかも」と試してしまうかもしれないのである。

こんな風に考えてみると、とても不思議ではないだろうか? 「赤信号では渡っちゃいけません」みたいなことはちゃんと教わったことがある。しかし、世の中のすべての「当たり前」をそんな風に誰かに教えてもらったわけではない。それなのに、世の中の大体の人が、そう大きくは異ならない「当たり前」をちゃんと身につけて大人になっていくのだ。

私たちは、そういう「当たり前」を、いつどのように学んだのだろう?

何故こんな問いかけをしているのかと言えば、映画『イノセンツ』で描かれる主人公たちが、「『◯◯をしてはいけない』という『当たり前』」を全然理解していないように見えるからだ。「◯◯」には様々な動作が含まれるわけだが、とにかく彼らは、「しちゃいけないことを、あっさりと無邪気に飛び越えていく」のである。

これはまさに、「ジブリ作品を観て、空を飛べるか試してみたくなる」ようなことに近いだろう。「人間は空を飛べない」という「当たり前」を知らなければ、そりゃあジブリ作品を観て自分も飛べるか試してみたくなるはずだ。それと同じように、映画の登場人物たちは、「しちゃいけない」という「当たり前」を理解していないように見えるのだ。

そしてその様が、「無邪気な残酷さ」として映し出されていくのである。

「超能力者の物語」と聞くと現実離れしているように感じられるだろうが、実際には「『当たり前』を知らない子どもたち」が描かれているというわけだ。私たち自身にも「いつ理解したのか覚えていない『当たり前』がたくさんある」のだし、裏を返せば、「誰もが知っているべき『当たり前』を、実は自分だけが知らなかった」みたいなことだって十分あり得るはずだ。だからこそこの映画が示唆することは、決して他人事ではないと言えるのである。

「超能力」を描くからこそ、「無邪気な残酷さ」をよりリアルに切り取ることが出来る

この映画の見事な点は、「超能力」が扱われていることだと私は思う。

例えば、少し卑近な例を出すが、私たちは未だに、「『回転寿司店で醤油差しを舐める』みたいな動画がネットで出回る世の中」に生きている。この「醤油差しを舐める」みたいな行為は、私には「無邪気な残酷さ」とは受け取れない。何故なら、「生きていればどこかのタイミングで理解すべき事柄」だからだ。「回転寿司店に行ったら醤油差しを舐めている人が多い」みたいな状況はまずあり得ない。また、「醤油差しを舐めるな」と直接的に指摘される経験は無いにしても、店の商品やサービスに対して何か注意されたみたいな経験は誰にでもあるはずだ。そういう中で、「醤油差しを舐めてはいけないとは知らなかった」という主張はまず通らないし、だからそれが「無邪気な残酷さ」だと受け取られるはずもないと思う。

しかし、「超能力」の場合は少し違う。私たちは普段、「超能力者」に出会うことはない。だから子どもに、「超能力者に出会ったらこうしなさい」「もし自分に超能力があると気づいても、こうしてはいけない」などと注意することはないはずだ。つまり、「『超能力を持っていることに気づいた子ども』が普通取るべき行動」などという規範は存在しないと言っていいだろう。

そしてそれ故に、彼らの「無邪気な残酷さ」が一層強調されているように感じられたのだ。

「醤油差しを舐める」みたいな「当然してはいけないこと」の場合、最終的には「個々人の倫理観」や「親からの教育」などの話に収斂していくだろう。しかし「超能力」というのは、「当たり前」からかけ離れた存在である。だからこそ、「個々人の倫理観」「親からの教育」などではない「何か」が浮き彫りにされるのだと感じるし、その「何か」というのは要するに「子どもが生来的に持ち得る性質」なのだろうと思う。そしてまさにそれが「無邪気な残酷さ」として現れているである。「超能力」という非現実的なものを突き詰めて描き出すからこそ、子どもが持つ普遍的な「残酷さ」が浮き彫りにされるというわけだ。

そう考えて物語全体を振り返ってみると、随所で「無邪気な残酷さ」が描かれていることに気付くだろう。例えば冒頭で、イーダが自閉症の姉の腕をきつく抓る場面がある。これは「姉に対する苛立ち」によるものとも捉えられるが、同時に、「自閉症なら痛みに鈍感だろう」という興味関心からの行動とも受け取れるだろう。あるいは、ベンが「ヤバ」と名付けた猫に関する描写も挙げられる。その行動自体はここでは触れないが、「当たり前」を理解した大人であればまずしないだろう振る舞いをしているのだ。

繰り返すが、これらの背景には子どもの「無知」があり、そしてその「無知」は普通、個人の能力や家庭環境など様々な要因と結びつけられる。しかし「超能力」が扱われる場合は、すべての人間が「超能力」に対して「無知」だと言っていいはずだ。つまり、その「無知」の要因となる要素は存在しないわけで、すべての焦点が「子どもが生来的に持ち得る性質」に当たるのである。このような構成がとても見事だったと思う。

「大人の存在」が完全に排除されている物語

さて、物語の焦点が「子どもが生来的に持ち得る性質」に当たるためには、1つ重要な要素がある。それが「大人の不在」だ。映画『イノセンツ』ではとにかく、物語から「大人の存在」が完璧に、そして意図的に排除されているのである。

もちろん、映画には大人も登場するし、基本的には「4人の子どもの親」と考えていいだろう。そして彼らは物語の中で、子どもたちの日常にそれなりに関わっていく

しかし大人たちは、最後の最後まで「超能力」の存在について一切知らないままなのだ。だから当然、子どもたちの間で何が起こっているのかも理解できていない。もちろん、「何かおかしなことが進行している」という兆候を掴んではいるのだが、その背景にあるものが何なのかは、まったく想像が及んでいないのである。核となる物語から、「大人」が完全に排除されているというわけだ。

しかし映画『イノセンツ』においては、状況の凄まじい変化に伴って、「大人の存在」が求められることにもなる。ただ先述の通り、「大人」は完膚なきまでに排除されてしまっているのだ。となれば、誰かが「大人」になるしかないだろう。

その象徴とも言えるシーンが、とても印象的だった。映画全体の中でも、かなり胸に刺さるシーンだったと言っていいだろう。

物語におけるかなり後半の展開なので、具体的には伝わらないように書くが、イーダがある場面で「もし大人だったら?」と口にするシーンがそれである。

イーダのその問いを耳にした者たちは、当然それを「仮定の話」として受け取った。イーダは9歳で、「大人ではない」ことは明らかだからだ。しかし、観客には明確に伝わるのだが、イーダははっきりと「大人である私はどう行動すべきか?」という意図を持って質問を繰り出している。そのことは、その後の彼女の行動からも明らかだろう。

映画『イノセンツ』の物語に、何らかの形できちんと「大人」が関わっているのであれば、「もし大人だったら?」などとイーダが口にする必要はなかったはずだ。しかしイーダは、大人たちが「超能力」なんてものを信じるはずがないと理解していた。イーダの両親は決して理解力に乏しい人たちではないと思うが、それでもやはり「超能力」の存在は受け入れないだろう。なにせイーダの母親は、「アナが喋った」というイーダの訴えさえ疑って掛かるのだ。「超能力」なんてもっての他だろう。

となれば、誰かが「大人」になるしかない。そして、「自分が『大人』になるしかない」というイーダの決意が観客に伝わるのが、先のシーンというわけだ。「大人の排除」については作中の様々な場面で示唆されるのだが、イーダの決意のシーンが最も象徴的な場面だと私には感じられた。

そして、このように徹底して「大人の存在」が排除され、そのせいでイーダが「大人になる決意」をせざるを得ならなかったという物語は、「子どもは、大人が思っている以上に物事を深く考えている」という示唆にも繋がっていくだろうと思う。

私には子どもはいないが、親子に関する様々な話を知るにつけ、「どうも子を持つ親は、『自分もかつては子どもだった』という事実を忘れているんじゃないか」と感じることが多い。「自分が子どもの頃、親に言われたら絶対に嫌だっただろう」と感じることを、自分の子どもに言ってしまっている親は、結構いるんじゃないかと思うのだ。「親の立場になったからこそ分かることがある」みたいに反論されるだろうし、それは確かに一側面だとも思うが、同時に「自分が子どもだったことを忘れている」という捉え方もあながち間違ってはいないはずだとも感じる。

そんなわけで、最初から最後まで「子ども視点」で物語を描き出す映画『イノセンツ』を観ることで、「子どもは子どもなりにきちんと考えて様々な判断をしている」と理解しやすいのではないかと思う。大人の視点では、「嘘をついている」「何か隠している」ように見える言動でも、そこには子どもなりの切実さや葛藤を経た決断があるのかもしれないのである。

もちろん、繰り返しになるが、本作で扱われているのは「超能力」であり、非現実的なものだ。その点だけを捉えるなら、映画で示唆される様々な事柄をリアルに捉えるのは正しくないと感じられるかもしれない。しかしやはり、「超能力」というモチーフは「無邪気な残酷さ」を強調する舞台装置だと感じられたし、描かれていることは私にはとても現実的なものに思えたのである。

実に興味深い物語だった。

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最後に

ラストシーンには、色々と考えさせられてしまった想像力を掻き立てさせる終わり方であり、観る人によって受け取り方は様々だと思う。グッドともバッドとも形容し難い、なんとも言えないラストなのだが、同時に「これしかないよな」という着地の仕方でもあり、物語は上手く閉じていると言えるだろう。

まったく想像もしていなかったような設定・展開の物語であり、その訳の分からなさも含めて全体としてとても良かった「大人の存在」をナチュラルに排除しながら、子どもの無邪気さ、残酷さをリアルに描き出す物語は、圧巻の一言である。

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