【矛盾】法律の”抜け穴”を衝く驚愕の小説。「ルールを通り抜けたものは善」という発想に潜む罠:『法廷遊戯』(五十嵐律人)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:五十嵐律人
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • どんなルールにも瑕疵や矛盾が存在する
  • ルールがあるからルール違反を指摘できるのだが、その一方で、「ルールが存在する目的」よりも「ルールそのもの」が優先されてしまう
  • 「過去の解釈」ではなく「過去そのもの」を変えてしまう魔法のような法廷

新人のデビュー作だとは信じられない、エンタメとしても問題提起としても優れた見事な作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

五十嵐律人『法廷遊戯』は、「ルールの範囲内だから問題ない」というすべての判断を瓦解させ得る、魔法のような衝撃作だ

新人のデビュー作だとはとても信じられないような、とんでもない傑作だった。

この作品は、ラストにあっと驚くような展開が待っている。誰も想像できないような展開なので、「驚きのラストが待っている」と書くことは恐らくネタバレにはならないだろう。そしてこの作品は、内容に触れようとすれば何を書いてもネタバレになってしまいそうな、非常に繊細な作品だ。

それでもこの記事ではどうにか、作品のネタバレをせずに、この作品が示唆する「法律・ルールの捉え方」について触れていきたいと思う。

ルールは矛盾を回避できない

この小説の中核には、「無辜ゲーム」と呼ばれる”遊び”が存在する。詳しくは後で触れるが、「主人公の1人である結城馨が審判者となって、食い違う訴えを裁定する」という「裁判もどき」のようなものだ。この「無辜ゲーム」に参加する者は皆、結城の判断を受け入れる。そこには、「結城が優等生だから」というだけではない理由があるのだが、その点には触れずにおこう。

いずれにしても、「『無辜ゲーム』が成立するためには、『参加者全員が結城の判断を受け入れる』という前提が必要」であることは間違いない。

そしてこれは、あらゆるルールに当てはまると言えるだろう。例えば、「法治国家」が成立するためには、その国で生きる者が国の法律に従うことが前提となる。ルールには、それを無条件に受け入れる者の存在が不可欠なのだ

しかしどんなルールも「完璧」にはならない。結局のところ人間が作ったものであり、どこかしらに「思いもよらない瑕疵」が存在してもおかしくないはずだ。法律であれば、その瑕疵が浮き彫りになる事件をきっかけに、法律が改正されることもある。しかしそれは、「瑕疵が見つかったから修正された」に過ぎない。どんなルールにも、まだ気づかれていない瑕疵が存在する可能性は常に残っているわけだ

あるいは、「ストーカー」や「インターネット」などの言葉が存在しなかった頃に作られたルールが、時代に合わなくなることもある。どんなルールも、時代と共に変化すべきであり、逆に言えば、ルールは常に時代に取り残されているというわけだ。

「ルールに瑕疵はつきもの」という考えもベースにあるのだろう、法律の場合は誤った判断を回避できる仕組みが備わっている。いわゆる「推定無罪」と呼ばれる考え方だ。

「推定無罪」そのものの話ではないが、結城がこんな風に言う場面がある。

僕の前に十人の被告がいるとしよう。被告人のうち、九人が殺人犯で一人が無辜であることは明らからしい。九人は、直ちに死刑に処されるべき罪人だ。でも、誰が無辜なのかは最後まで分からなかった。十人に死刑を宣告するのか、十人に無罪を宣告するのか――。審判者にはその判断が求められる。殺人鬼を社会に戻せば、多くの被害者が生まれてしまうかもしれない。だけど僕は、迷わずに無罪を宣告する。一人の無辜を救済するために。

ただ、本当にそれでいいのだろうか、という思いも過ぎる。理想は「9人を死刑にし、1人を救うこと」だ。そしてその理想が達成できない要因の1つは、「ルールに瑕疵が内包され得ること」にある

完璧なルールを作るのは不可能だ。しかし、強制的に守らせなければルールは機能しないその矛盾を解消するために、「疑わしきは罰せず」という仕組みを備えている。これは、「いかにルールを制定するか」に人類が長い間向き合ってたどり着いた現時点での最善解なのだろうが、なんとなく私は「それでいいのだろうか」という思いを拭えないでいるのだ。

「ルール」があるから「ルール違反」が存在し得る

以前テレビであるコメンテーターが、「この法律ができたお陰で、『法律違反だ』と指摘できるようになった」という話をしていた。確かにその通りだ。ルールが存在しなければ、誰のどんな行為の是非も、ただの「個人の感想」になってしまう。ルールが決まるからこそ、「それはルールに則っていない」と指摘できるようになるというわけだ。

俺は、倫理や道徳という曖昧な基準を信用していない。

しかし一方、ルールができることで、本来は「手段」だったはずのものが「目的」に変わってしまいもする

例えば、「赤信号で横断歩道を渡ってはいけない」というルールは本来、「歩行者と車両が安全に共存するための『手段』」であるはずだ。両者が安全に移動するための「手段」としてルールが存在する。つまり、「ルールを守ること」以上に「安全」の方が重要なはずなのだ。

しかし、「赤信号で横断歩道を渡ってはいけない」というルールが明文化されることで、「安全」よりも「ルールを守ること」が重視されてしまう。深夜、まったく車通りのない道路でなら、赤信号で横断しても「安全」上はなんの問題もないはずだ。しかしルールの方が上位の概念になってしまうことで、「安全」に問題がない状況でもルールに支配されることになってしまう。「安全」かどうかの判断を置き去りにして、「ルールを守ること」そのものが「目的」に変わってしまう、というわけだ。

私はこのような状況に違和感を覚えてしまうことが多い。これは、「ルールを守らないものは悪」という安易な単純化だと私は考えている。

一方、ルールが定まることによって、「ルールを守ってさえいれば何をしてもOK」という感覚も強くなるだろう。人気商品を高額で転売するいわゆる「転売ヤー」は、私たちの倫理的な感覚からすれば明らかに「悪」だが、しかしルール上はセーフだ。「ルールを通り抜けたものは善」という、こちらもシンプルな諒解と言えるだろう。

それでも、ルールに反していない以上、私は選択しなくちゃいけない。

そもそもルールが存在しなければ善悪を判定できない。しかし、ルールが存在することで、「不必要な悪」や「許されない善」が生み出されもする。ルールにはこのような矛盾がどうしても内包されてしまうのだ。

そしてこの小説は、そんな矛盾を鮮やかに見せつける作品だと言える。私たちが守るべきルールの中で恐らく最上位に位置するだろう「法律」によって善悪が判断される「法廷」という場に、「ルールを通り抜けたものは善」という諒解を逆手にとってあり得ない光景を現出させる「魔法のような物語」なのだ。

作者自身も小説の登場人物も法律家だからこそのこんなセリフが印象的だった

正義の味方になりたいのなら、正しい知識を身に着ける必要があるんだよ。

五十嵐律人『法廷遊戯』の内容紹介

久我清義と織本美鈴は、法都大ロースクールに通っている。過去5年間司法試験合格者を出していない「底辺ロースクール」と揶揄される学校だ。清義も美鈴も共に成績優秀なのだが、金銭面からこの学校しか選べなかった。

最終学年に所属する21人はよく、模擬法廷を使って「無辜ゲーム」を行う。「無辜ゲーム」は2つの条件が満たされた時に開かれる。「刑罰法規に反する罪を犯すこと」と「サインとして天秤を残すこと」だ。この条件が揃った時、結城馨が審判者となり、裁定が行われる。

「無辜ゲーム」はこう進んでいく。まず、告訴者(被害者)が証人に質問をすることで、罪を犯し天秤を残した人物を特定する。そして、告訴者が指定した人物が、審判者が抱いた心証と一致すれば告訴者の訴えが認められ、罪を犯した者に罰が与えられるのだ。審判者である結城は、既に司法試験に合格している秀才であり、底辺ロースクールで「無辜ゲーム」なんかで遊んでいる理由は誰も分からない。しかし、その優秀さ故に彼の裁定を受け入れている、というのが1つの側面としてある。

清義はある日、初めて告訴者となった。彼を告発するチラシが配られたからだ。そこには、清義が「けやきホーム」という児童養護施設出身であり、彼がその施設長をナイフで刺したと書かれていた。犯人はすぐに判明し、「無辜ゲーム」は終わる。しかしこの一件は、清義に嫌な予感を抱かせることになった。

しばらくして、清義と同じ施設で育った美鈴に対する嫌がらせが始まる。犯人を特定しようと行動する美鈴だったが、結局誰の仕業なのか分からずうやむやのまま終わってしまう。

さて、しばらく時間が経ち、清義と美鈴は司法修習へ進むことを決めた。就職活動も行い、いよいよ弁護士としての活動が始まるというまさにその矢先、久々に結城からメールが届く

久しぶりに、無辜ゲームを開催しよう――

このメールが、清義の運命を大きく変えていくことになる……

五十嵐律人『法廷遊戯』の感想

もの凄い物語だった。何よりも凄まじいのは、この作品が「現実に存在する法律の範囲内で構築されていること」だろう。つまり、この作品で描かれる「殺人事件を扱う裁判での信じがたい大逆転」は現実に起こりうるということだ。もちろん本作は、薄氷を踏むような精緻さで組み上げられているので、実際に起こる可能性はかなり低いだろう。しかしそれでも「机上の空論」ではないという点に驚かされる。

この作品は、ラストにとんでもないどんでん返しが用意されているのだが、決して「どんでん返しが凄いから傑作だ」と言いたいのではない。この作品の「どんでん返し」は、「私たちが生きている世界が立脚する土台がいかに脆いか」を示しており、そのことを強烈に実感させる物語だからこそ傑作だと感じるのだ。

この作品では、「世界の土台の脆さ」が「ルールが内包する矛盾」によってあぶり出されるわけだが、さらに、その「矛盾」を使って「過去そのものを変えようとする」と言ってもいいだろう。

「過去の解釈」を変えるのではなく、「過去そのもの」を変えるのだ

「過去の解釈を変える」という話なら分かりやすいだろう。例えば、久我清義はかつて人を刺した。普通に考えれば、これは「汚点」だろう。しかし彼は、「人を刺した」というその行為を「正義のため」と捉えている。彼の中では「汚点」ではない

また清義は、傷害事件を起こし鑑別所に入れられたことで、思いがけず法律と出会った

感情が入り込む余地がない学問は、ただひたすらに学んでいて心地良かった。

と感じた彼は、法律の世界を志すことに決める。つまり彼は、「人を刺した」ことを「法律と出会うための行動だった」と解釈することも可能なのだ。「人を刺した」という過去そのものは変えられないが、その過去をどう解釈するかは自分次第だと言えるだろう。

しかし一方で、自分次第だからこそ、自分に都合の良い解釈をしたくもなってしまう

皆が幸せになってるんです。これのどこが悪いことなんですか?

お墓の供え物を盗んで食べていた男のこの言葉は、「解釈が個人的なものであること」の難しさを示していると言える。

このように、「個人による解釈」であるが故に他人の解釈と対立してしまう問題こそあれど、「過去の解釈を変えること」はそう難しい話ではないだろう

しかし本作は、「過去そのものを変える」物語だ普通はそんなこと、できるはずがない。タイムマシンや魔法が存在する世界でなければ無理だろう。しかしこの作品は、そんな不可能な状況を、現実に存在する法律の範囲内で実現させてしまう。「過去そのものを変える」という説明はまったく理解できないと思うが、読めば私が言いたいことは理解してもらえるはずだ。

針の穴を通す以上の無謀さを成し遂げた著者の挑戦を、是非読んで確かめてほしい。

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最後に

「ルールを通り抜けたものは善」という捉え方では零れ落ちてしまうものが、世の中に存在する。ルールは完璧なものになれない以上、どうしても矛盾が内包されるし、だからこそこの作品で描かれるような「異常事態」も可能性として存在し得るのだ。

エンタメ作品としてももの凄く面白いが、社会の見えざる溝を可視化させてくれる作品としても一級品だと感じさせられた。

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