【狂気】映画『ニューオーダー』の衝撃。法という秩序を混沌で駆逐する”悪”に圧倒されっ放しの86分

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ナイアン・ゴンザレス・ノルビンド, 出演:ディエゴ・ボネータ, 出演:モニカ・デル・カルメン, 出演:エリヒオ・メレンデス, 監督:ミシェル・フランコ
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 86分の映画とは思えないほど濃密で、とにかく凄まじい作品だった
  • 理由や背景などについては正確に捉え切れなかったが、それでも「もしこういう世界になったらどうする?」というリアリティに圧倒されてしまった
  • 「両極の答えしか許容されない世界」に対する違和感が強烈な、とても現実的な物語でもある

「躊躇の無さ」と「人間性の剥奪」を極限まで振り切って描き出し、徹底して「最悪」を映し出し続ける怪作だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

狂気に満ちた映画『ニューオーダー』は、秩序が根底から覆された時の「人間の醜悪さ」を極限まで描き切る問題作だ

とてもイカれた映画だった。公式HPに、「第77回ヴェネツィア国際映画祭で審査員大賞など2冠を受賞しながらも、各国の映画祭で激しい賛否両論を巻き起こした本作」とある通り、まさに問題作と言っていいと思う。

映画を観終えて最も強く感じたのは、「たった86分の映画だったのか」ということだ。体感では、もっと長い物語に感じられた。それは決して「冗長」とか「間延びしている」みたいな意味ではない。「濃すぎて、86分の物語だったとは信じられない」みたいな感覚なのだ。変な表現だと分かっているが、「体感では2時間ぐらいの映画であり、その2時間があっという間に過ぎた」みたいな印象である。とても不思議な感覚だった。

映画『ニューオーダー』の内容紹介

マリアンは新婦として、結婚式という晴れの舞台の中心にいる。父がよく知られた実業家であるため、多数の来賓客を呼んだ盛大なパーティーとなり、その中で幸せを噛み締めていた。しかしそんなパーティーの最中、後から来た者たちが、「空港で足止めを食らった」「警察の検問に捕まっていた」などと口にする。何かが起こっているようだが、細かな状況はよく分からない。というか、知ろうともしなかった。富裕層である彼らには、「今メキシコでどのような事態が進行しているのか」に対する興味などなかったのである。

彼らが知らないところで、実はとんでもないことが起こっていた貧富の差に対する抗議運動の参加者たちが、暴徒化したのである。

そのあおりを食らった人物が、パーティー会場に足を運んだ。マリアンが住む屋敷でかつて使用人をしていたエリサの夫である。彼曰く、デモの怪我人を優先して入院させるために、手術を待っていたエリサが無理矢理退院させられてしまったのだという。手術には20万ペソ必要なのだが、そんな大金が工面できるはずもない。そのため、思い悩んだ末、かつての主人の元を訪ねたというわけだ。

彼はエリサを知っているはずの者何人かに声を掛けるが、つれない対応をされてしまう。人づてに状況を知ったマリアンは、今日もらった祝儀の一部を彼に渡そうと考えるのだが、「彼はもう諦めて、パーティー会場から自宅へ帰ってしまった」と聞かされた。マリアンには、自分たちに良くしてくれたエリサを見捨てることなど出来ない。そこで彼女は、パーティーの主役であるにも拘わらず、車で20分ほどの場所にあるエリサの家まで、今の使用人の息子と一緒に向かうことに決めた。

そして、マリアンが出発するのを待っていたかのように、直後パーティー会場を悲劇が襲うことになる。

さて、パーティー会場をたまたま脱していたマリアンとて決して安全というわけではなかった街が凄まじい状況に陥っていたのだ。荒れ狂う街から安全に脱出できるようにと、兵士が彼女を自宅まで送ってくれることになったのだが……。

「よく分からない部分」が随所に残る物語

本作は全体的に、「よく分からない」と感じる部分があちこちに残り続ける作品だった。とにかく、「今何が起こっているのか」を把握することさえなかなか困難な物語なのだ。もちろん、「主人公がどういう状況に置かれているのか」は観れば分かる。しかし、「何がどうなってそういう状態になっているのか」みたいな経緯はちょっと想像しにくかった

しかし一方で、「物語の背景には、こういうことが関わっているのだろう」という推測は立ちやすい。といっても、「その背景が、物語の細部まで含めてすべてを説明してくれるのか」、あるいは「物語全体の展開が、その背景と整合性が取れているのか」みたいなことまで判断はできなかった。ただ、「何が根底にあるのか」は大体想像できるというわけだ。

それが「貧富の差に対しての弱者の怒り」と「軍部の暴走」である。ただ、前者についてはかなり明確に捉えやすいものの、後者の「軍部の暴走」については、「その捉え方さえ正しいのか分からない」という感じだった。それが「暴走」と呼んでいい状態なのかも分からなかったし、仮にそれが「暴走」なのだとしても、「軍部が何故暴走しているのか」の理由も定かではない。「とりあえず私はそう捉えた」ぐらいに受け取ってもらえばいいだろう。

恐らく、本作では概ねこの2点が核になっていると思うのだが、さらにその上で、「『弱者』あるいは『法ではないもの』が支配する世界」を描き出そうとしているのだと思う。だからこそ、「ニューオーダー(新秩序)」というタイトルが付けられているのだろう。

日本での公開は2022年6月なのだが、映画が初めて上映されたのは2020年9月である。もちろん、制作はもっと前だろう。世界では常に様々な問題が起こっているとはいえ、その頃はまだ、「ロシアによるウクライナ侵攻」も、「パレスチナとイスラエルの大規模な戦闘」も起こっていなかった。それらの世界的な大事件を前に、私たちは今まさに「『新秩序』による世界の再編」みたいなことをリアルに想像させられているだろう。しかし、映画が制作された時点ではまだ、世の中はそのような状況にはなかったはずだ。正直こういう言い方は好きではないのだが、かなり「予見的な物語」だと言えるだろう。

本作では、「もしも一夜にして『新秩序』による支配に置き換わったらどうなるか?」という極端な状況が描かれる。そしてそれはまさに、私たちの目の前に存在している現実そのものなのだ。残念なことではあるが、恐らく世の中はもっと混沌としてしまうのだろう。

そういう「世界のリアル」を、大分極端にではあるが、先取りして描き出していた映画だと言っていいのではないかと思う。

「両極の答えしか許容されない世界」への強烈な違和感

映画を観ている時は、「なんなんだこの映画……」という混乱状態にあったので、正直まともな思考力は働いていなかったはずである。後から振り返ってあれこれと考えてみて思ったことは、「『両極の答えしか許容されない世界』は嫌だな」ということだ。

当たり前の話だが、「『強者』と『法』のみによって支配される世の中」なんかには、絶対に生きていたくはない。しかしだからと言って、「『弱者』と『法を逸脱した何か』のみによって支配される世の中」に生きたいのかというと、もちろんそんなわけはないのである。どっちも最悪の選択肢でしかない。

しかし、これはあくまでも私の感触に過ぎないが、世の中ではますます「極端な主張」ばかりが受け入れられるようになったように思う。というか、正確に表現するなら、「『極端な主張』でなければ、人々の視界に入らない世の中になった」と書くべきだろうか。

例えば、今目の前にA・Bという2つの選択肢が存在するとして、「Aはあり得ないからBだ」「Bなんか許せないからAだ」みたいな主張ばかりが世の中に溢れているように感じられてしまう。本来的には、「AでもBでもない、CやDといった選択肢」についての言及があっても良さそうなものだが、どうもそうはならないのだ。特に、A・Bが対極の選択肢で、C・Dがその中間あたりの主張であればなおさらその印象が強くなる。

私にはどうしても、「何かを否定することによって、自分の主張の正しさを演出しようとする」みたいな風潮が強まっているように感じられてしまう。だから、「Aはあり得ないからBだ」「Bなんか許せないからAだ」みたいな主張が蔓延るのだし、受け入れられていくのではないかと思う。

そして本作はまさに、そのような風潮を極限まで突き詰めたような作品だと言える。映画『ニューオーダー』を観ると「恐怖」を感じるはずだ。しかしその「恐怖」は、作中で描かれる「暴力」「理不尽」「怒り」「不寛容」などに対する反応ではなく、「こんな『あり得ない世界』が、実は今私たちが進んでいる道の先に広がっているのかもしれない」という、漠然とした予感に対してのものではないかとさえ思えてしまうのである。

「躊躇の無さ」と「人間性の剥奪」がとても印象的だった

本作のストーリーの大きな特徴の1つは、「誰もがほぼ何の『躊躇』もしない」ということだろう。これには2つの側面がある。1つは、「恐怖や抑圧ゆえに、『躊躇』している余裕などない」という「強者」側の混乱だ。そしてもう1つが、「残虐性を発揮することに一切の『躊躇』を抱かない」という、「弱者(新秩序)」側のスタンスである。

どちらの理由であるにせよ、この「躊躇の無さ」こそが、本作における「圧倒的なスピード感」に繋がっているのだと私は感じた。一般的な物語の場合、登場人物たちが何らかの形で「躊躇」を見せるからこそ、そこに葛藤や選択や決断が生まれるのだと思う。しかし本作では、ミックスベジタブルからグリーンピースだけを綺麗に取り除くかのように、ありとあらゆる場面から「躊躇」のみを拾い集めてポイポイ捨てているような感じがする。そしてそれ故に、本作には「人間らしい物語」が存在しないのだ。

実際、本作において「人間らしい人間」と言えるのは、「マリアン」と「エリサの夫」の2人ぐらいではないだろうか。それ以外の登場人物に共感できる観客はそういないはずだ。

冒頭で「各国の映画祭で賛否両論を巻き起こした」と紹介したが、やはりそれは「『人間らしい物語』が存在しないから」ではないかと思う。私は正直、「共感できたかどうか」をあまり重視しないので、登場人物や物語に共感できなかったとしても、そのことが作品に対する評価に直結することはない。しかし一般的にはやはり、「共感できない=ダメ」という風に捉えられがちだろうし、そういう判断をする人にとっては、本作は「ダメな作品」なのだと思う

しかし私の捉え方は違う。本作は、「これほど多くの『人間』が生きる世界を描いているにも拘わらず、その世界から『人間性』があまりに容易く剥奪されている」という部分こそが特異点なのだと感じられるし、その点こそが評価されているのではないかとさえ思う。作品全体から、「『社会』は容赦なく『人間性』を奪い去っていく」という主張が感じられたし、それは私たちに対する警告でもあるのだと思う。

「こんな世界にするんじゃないぞ」と警鐘を鳴らしているのである。

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最後に

とにかく、疾走感と濃密さが凄まじくて圧倒されてしまったし、「頼むから、こんな社会にはならないでくれ」と願わずにはいられなかった。私たちはずんずんと、このような世界に片足を突っ込み始めているように思う。手遅れにならない内にその進行を止めないと、映画で描かれるような「残酷な世界」に生きざるを得なくなるだろう。

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