【限界】「科学とは何か?」を知るためのおすすめ本。科学が苦手な人こそ読んでほしい易しい1冊:『哲学的な何か、あと科学とか』(飲茶)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:飲茶
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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「科学」は決して、「何だか分からない問い」に対して「明確な答え」を返してくれる装置ではない
  • 有名な「二重スリット実験」から、「科学では世界の成り立ちを理解できない理由」を知る
  • 「科学」と「エセ科学」を見分ける「反証可能性」とは何か

「科学」にどんな限界があるのか知った上でその有益さを享受するために知っておくべきことが書かれている

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「科学とはどんな営みなのか?」という壮大なテーマを含んだ、初心者でも楽しめる理系本

本書のテーマと、「科学」への印象について

本書の著者である飲茶氏は、科学・数学・哲学について非常に分かりやすく説明してくれる作家として非常に高く評価されている。

普通に接したら難解でしかないジャンルに関する本で、その分野に関する知識をまったく持たない読者さえ知的に興奮させてくれる、非常に信頼している作家である。

本書は、「科学の奇妙な話」を詰め込んだような作品であり、主に扱われるのは「量子力学」と呼ばれる分野だ。このブログ「ルシルナ」でも、量子力学に関する記事は多数扱っているので読んでみてほしい。

さてしかしこの記事では、量子力学的な内容についてはほとんど触れない。本書で扱われる量子力学の話は、まったくの初心者には初めて聞くような驚きの話が満載だろうが、ある程度理系の本を読んでいる人間ならまず知っているだろう知識だからだ。私も、本書に載っている知識そのものは、本書読了以前にほとんど知っていた。それらに興味がある人は、上のタグから記事を探して読んでみてほしい。

しかしだからと言って本書がつまらないわけでは決してない。「科学の奇妙な話」を雑学本のように羅列するだけの本ではなく、「科学とはどんな営みなのか?」という壮大なテーマを組み込んでいる作品なのだ。

などなど、哲学的な視点で「科学的な正しさ」を問いかけていくと、実はそれがかなり危ういものだと気づかされるだろう。いままで確かだと思っていた景色がガラガラと崩れる瞬間は、怖いけども、ちょっぴり楽しかったりもする。

私は元々理系の人間で、特に物理系の話が好きだ。科学全般に対して関心を持っていて、もちろん科学を信頼している。科学者がどれだけ厳しい条件をクリアして「正しい」という主張をするのか、あるいは、科学では到達できない限界がどこにあるのかなど、「科学」というものの本質をそれなりに理解しながら「科学を信頼することがベストだ」という風に考えている

しかし普通はなかなか「科学」について考える機会はないだろう。

例えば、「科学的に実証されたダイエット法」などという謳い文句を目にしたことはあると思う。では、これがどういう意味なのか考えたことがあるだろうか?

もちろん、「二重盲検法という評価法を使い、本当に科学的に『正しい』と主張できる形で実証された」という可能性もあるが、広告などで使われている「科学的」という言葉は、大体そういう意味ではないはずだ。恐らく、「ある医者(多数の医者ではない)がそう言っている」「そのように主張する論文が少数ある(多数ではない)」という状況であっても、「科学的に実証」という言葉を使っているのが現状だと思う。

科学について詳しくない人からすれば、「医者が言ってるなら、少しでも論文が存在するなら、それは正しいんじゃないの?」と感じるかもしれないが、そんなわけがない。これは「科学」という学問を捉え間違っていると言える。

ただ、このような種類の「誤解」であれば、理系と非理系の間のミスコミュニケーションとして理解すればいい。教育やコミュニケーションによって解消できる問題だと私は考えている。

しかし、本書で取り上げられる問題は、そのようなレベルのものではない。本書では、「科学というのは、本質的には『現実』を捉えることはできない」ということが明らかにされる。そして、そのような「限界」を理解した上で科学と接しなければならない、と示唆するのだ。

本書の指摘は、理系の人間でもあまり考えたことがないようなものではないかと思う。私も本書で初めて知った。

「科学というのは本質的にどんな営みなのか?」という、日常的になかなか考えることはないが、日常生活においても決して無視はできない事柄について、是非本書で触れてほしいと思う。

科学には「限界」がある

「科学」にあまり詳しくない人は、こんな風に考えることが多いのではないかと思う。

「科学」というブラックボックスの中に何か「問い」を入れれば、「白か黒か」を判定してくれる

「科学」が何なのかはよく知らないが(=ブラックボックス)、何か分からないことがあった時に「科学」に問いかければ明確な答えが返ってくるはず、みたいに捉えているのではないかというのが私の感触だ。

しかし「科学」というのは決してそういうものではない

例えばニュースで「何かの安全性」が取り上げられることがある。「築地市場の移転問題」や「コロナウイルスのワクチン」など、「科学的に安全性が評価されるべき対象」は常に何かしら出てくるものだ。

そういう際に、記者などが科学者や医師に対して、「◯◯は100%安全ですか?」というような質問をする。まさにこれは、「科学というブラックボックスに問いかければ明確な答えが返ってくる」と期待していることを示しているだろう。

しかし科学者も医師も、この問いには答えられない。科学に「100%」は存在しないからだ。後で詳しく説明するが、「間違っている可能性を含むもの」でなければ「科学」とは呼べないのである。つまり、「科学」で扱うことができるすべてのものは「100%」に到達することはない

そういう意味で、「◯◯は100%安全ですか?」という問いは、問いそのものが間違っているのである。

科学にはこのような「限界」もある。これは、理系の人間なら概ね理解している事柄だろう。だから「科学的な知識」について「絶対に間違いない」みたいな言い方をしている人がいたら、ニセモノだと判断するといいだろう。

さて、前置きが長くなったが、それではここからきちんと、本書で扱われる「科学の限界」について触れることにする。

まずは著者の結論を抜き出しておこう。

だから……。
この世界は、ホントウはどうなっているの!? 世界は、いったい、どのような仕組みで成り立っているの?
という、古くから科学が追い求めてきた「世界のホントウの姿を解き明かす」という探求の旅は、科学史のうえでは、すでに終わっているのである。
科学は、世界について、ホントウのことを知ることはできない。
「ホントウのことがわからない」のだから、科学は、「より便利なものを」という基準で理論を選ぶしかないのだ

非理系の人間だけではなく理系の人間も、「科学は『世界がどうなっているのか』を解き明かす学問」だと考えているだろう。しかし著者は、「科学におけるそのような役割は既に終わった」と書いている。そして、「『正しい科学理論』とは『便利な科学理論』だ」と主張しているのである。

なかなか驚きの結論ではないだろうか。

著者がこのような結論を導くにあたって取り上げているのが、量子力学の世界で衝撃の実験として知られている「二重スリット実験」である

「二重スリット実験」については図を使わずに説明するのが難しいので、詳しく知りたいという方は以下のリンク先に飛んでほしい。

ここではざっくりと説明していこう。

この実験は、ヤングという科学者が最初に行ったため、「ヤングの二重スリット実験」と呼ばれることも多い。18世紀後半に活躍した人物だが、彼がこの実験を行ったのにはある背景があった。

それは、「光は波なのか粒子なのか論争」である。この問題そのものについては別の記事で詳しく触れているのでそちらを読んでほしい。

偉大な科学者として知られるニュートンは「粒子派」だったのだが、ヤングが行った「二重スリット実験」によって、「光は波である」と確定してしまう。これでこの論争に終止符が打たれた……

とは決してならなかった。何故ならその後、ヤングが行った実験を改良した新たな「二重スリット実験」によって、「光は粒子である」ことが判明したからだ。

一体どうなっているのだろうか? 

ヤングが行った実験では「光は波」であり、その後の改良実験では「光は粒子」だという。科学者は大いに混乱した。というのも科学の常識では、「波でもあり、かつ粒子でもある状態」など理解不能だからだ。

しかし実験結果は明らかに、「光は波でもあり、かつ粒子でもある」ことを示している

現在の科学ではとりあえず、「光はある時は波であり、ある時は粒子である」という性質を持つのだと理解されている。これは「光の二重性」と呼ばれており、さらにこの「波と粒子の二重性」は決して光だけの話はなく、原子など極小の物質すべてに当てはまることが分かってきたのだ。

このような歴史の中で形作られたのが「量子力学」という分野であり、私たちの日常感覚から外れる「奇妙で異常な主張」が満載のジャンルとなっている。

さて問題は、このような背景の中で、「科学の役割」がどう変遷していったのかだ。

科学者というのは「世界がどうなっているのか」という探究心から研究を行ってきた。それを最も印象的な形で示したのが、かの有名なアインシュタインだ。彼は、「神はサイコロを振らない」という有名な言葉で量子力学を生涯批判し続けたわけだが、その骨子は、「確率に支配されるという量子力学は、『世界がどうなっているのか』を明らかにできない以上、不完全な学問だ」なのである。

アインシュタインが量子力学を攻撃し続けた歴史と、それによってどんな貢献を成したのかについては以下の記事にまとめた。

アインシュタインが攻撃し続けたのは「コペンハーゲン解釈」と呼ばれる考え方であり、これは「光の二重性」から生まれたものだ。「二重スリット実験」から、「観測する前は波、観測した後は粒子」という光の奇妙な性質が理解されるようになったのだが、ある意味でこれは、「『観測以前の状態』について考えることで生じる矛盾」とも言える。

だから「コペンハーゲン解釈」は、「観測する前の『実在』など存在しない。我々は、観測した後のことについてしか語れないのだ」と主張した。

これはつまり、「人間が観測する以前の世界がどうなっているのかを理解することは諦めよう」という宣言なのだ。そしてアインシュタインは、このような「観測以前の実在を否定する」考え方に拒否感を抱いたのである。

アインシュタインの感覚は実に真っ当だと言えるだろう。私も、「観測以前の実在を否定する」という主張は受け入れがたいと感じる。しかしなんと、アインシュタインの死後、驚くべき実験が行われ、「アインシュタインの敗北」が決定することになった。このような流れについて、上記の記事では解説している。

ちなみに、アインシュタインは敗れたわけだが、これは決して「コペンハーゲン解釈の勝利」を意味するわけではないことに注意しよう。「アインシュタインが攻撃したようなやり方ではコペンハーゲン解釈の主張を崩すことができないと判明した」というだけで、「コペンハーゲン解釈」が誤りである可能性はまだまだ十分にある。

さて、このような論争を経ることで、「科学は観測以前の実在について語れないのではないか」という考えが生まれることになった。現在も「波と粒子の二重性」は未解決のままであり、科学者は「波でもあり粒子でもある状態」が理解できないでいる。

さて、このような説明の後なら、著者の次の主張は理解しやすいだろう。

だから、決して科学は、「コペンハーゲン解釈が説明するとおりに、現実もホントウにそうなっている」とは述べていないことに注意してほしい

そもそも、科学の役割とは、「矛盾なく説明でき、実験結果を予測できる理論を作ること」である。
だから、ぶっちゃけ、「観測する前は波! 観測されると粒子に大変身!」ということが、「本当に起きているかどうか」なんてことは、科学にとって、どうでもいいことなのだ

もちろんこれは、科学者が「世界がどうなっているのか知りたいという探究心を失ったこと」を意味しない。今も科学者は、世界の仕組みを知りたいという好奇心で研究をしていることだろう。しかし、「実験や観測によって導かれた結論」が「現実そのもの」であるかは確証が持てないとも理解しているということだ。

科学者は、「波でもあり粒子でもある状態」を想像できないし、仮に現実がそうなっているとしてもその仕組みも現時点では分かっていないが、「とりあえずそう考えると、今までの観測結果とも矛盾しないし、非常に使える理論が手に入る」からそのような理解をしているというわけである。

これが、「『正しい科学理論』とは『便利な科学理論』なのだ」という著者の主張の要点である。

このような考え方は、漠然とイメージする「科学の姿」とはかけ離れているだろう。科学は「世界を理解するための手段」ではなく、「『これまでの観測事実と矛盾しない』という条件の元で最も便利な説明を探すゲーム」のようなものだと言っているからだ。

そしてこれは、「科学が何故100%にならないか」も説明し得るだろう。観測事実と矛盾しない説明は多数存在し得るので、新たな知見によって過去の「正しさ」が否定される可能性がある、ということでもあるからだ。科学理論というのは常に、「新たな知見が登場するまでの仮説」でしかないというわけである。

さて、このような「科学の姿」に幻滅したという方もいるかもしれない。「世界がどうなっているのか」を説明できるわけではない科学なんかを信頼していいのかと感じる人もいることだろう。

しかしそういう人に対しては、「科学に何を求めるか」の認識が正しくないと言いたい。科学を「問いを投げ込んだら明確な答えが返ってくるブラックボックス」と捉えているのでは、科学と有益な付き合いをすることは難しい。

そうではなく、科学に出来ること・出来ないことを明確に把握し、科学が得意とする点を上手く活用するという思考に切り替えていく必要があるということだ。

そういう意味で本書は、「科学について詳しくない人」に是非読んでほしいと思う。「科学とはどんな営みなのか?」を多くの人が理解することで、科学はより社会に有益なものになっていくと思うからだ。

「これは科学ではない」を判定するための「反証可能性」

反証可能性」については以下の記事で少し触れた。

この記事ではもう少し詳しく見ていこう。

「科学」か「科学ではない」かを判定するために、パッと思いつく基準は「矛盾があるかどうか」だろう。理論内部に何か矛盾する点を見つけることが出来れば「誤り」だと指摘できるし、その場合「科学ではない」と主張できる可能性が高い。

しかし、いわゆる「エセ科学」と呼ばれるものの中にも、「これまでの知見と照らし合わせても矛盾しない理論」はいくらでもある。「矛盾するかどうか」という観点では判定不可能なのだ。

本書ではこの点について、数学の世界で非常に衝撃的な事実として発見された「非ユークリッド幾何学」を取り上げて説明している。

非ユークリッド幾何学」については、以下の記事に詳しく書いた。

ざっくり要点を書くとこうなる。それまで数学者は、「幾何学こそが真理」と考えていた。そして古代ギリシャに端を発する「幾何学」は、5つの大前提(「公理」と呼ばれる)から導かれている。つまり、この5つの公理は「絶対的に正しい」と考えられていたわけだ。

しかしある数学者が、「5つの公理の内の1つを無視しても、矛盾の無い新たな幾何学を作り出すことができる」と示した。これは「幾何学こそ真理」と考えていた数学者を驚嘆させる。そして、それまで「幾何学」と呼ばれていたものが「ユークリッド幾何学」と、そして「5つの公理の内1つを無視して作られた新たな幾何学」は「非ユークリッド幾何学」と呼ばれるようになったのである。

「幾何学」は決して「真理」というわけではなかったのだ

このことの最大の問題点とは、
「適当に、好き勝手に、公理を決めてしまっても、無矛盾な理論体系をいくらでも作り出せる」
ということなのだ

本書にはこんな風に書かれている。数学史においても非常に大きな「事件」だったそうだ

これで、「正しいか正しくないかに関係なく、『矛盾しない理論体系』はいくらでも作れる」ことが判明してしまった。それはつまり、「矛盾しないからといって正しいとは言えない」という事実を突きつけることにもなったのだ。

この「非ユークリッド幾何学」が発見された時代には、「エセ科学」みたいなものが次々に登場しており、「何が科学であり、何が科学ではないのか」を判定することは急務だった

そんな時代背景の元、「ウィーン学団」という「ウィーン大学の哲学教授を中心とした論理実証主義の集団」がこの問題に乗り出した。「科学」と「科学ではないもの」の境界を見極めようというのだ。そして彼らが検討に検討を重ねた結果、なんと、「科学とエセ科学の間に境界は存在しない」という結論が導き出されてしまうことになる。

要するに、「厳密に考えればどんな科学的な主張も正しい保証などはない」という指摘なわけだが、そんな厳密な議論が求められていたわけではない。あくまでも、「科学者から見て『明らかにエセ科学でしかない』と感じるものを、何か明確な基準によって選り分けたい」という希望を叶える手段が求められていたのである。

そこで登場するのが、ポパーが提唱した「反証可能性」だ。そしてこの考え方が登場したことで、今では、「反証可能性を持たないものは科学ではない」と明確に主張することができるようになった(他に「科学」の要素として「再現可能性」がある。これは、「別の人物が同じ実験を行っても同じ結果が導ける」ということだ。この記事では詳しく説明しない)。

冒頭でも少し触れたが、「反証可能性」とは「間違っている可能性」のことだ。つまり、「『間違っている可能性』を持たない仮説はすべてエセ科学だ」ということになる。

どういうことだろうか?

ここで、昔テレビ番組などでよく扱われていた「透視能力」について考えてみよう

ある人物が、「私には透視能力がある」と主張し、その能力を実証する実験を観客の前で行うとする。実験の詳細は何でもよく、裏返しになったトランプの数字を当てるとか、箱の中に入った物を言い当てるなど、好きな想定をしてほしい。

さて、その「自称透視能力者」が、この実験の前にこんなことを言うとしよう。

<私は確かに透視能力を持っているが、この能力は、同じ空間の中に私の能力を疑う者が多いと発揮されない。なので観客の皆さんは、私が透視を成功できるように信じて見守ってほしい>

さてこの場合、彼の透視能力は「科学」の領域に含まれるかどうかについて考えてみよう。

彼がもし透視に成功したとすれば当然「私には透視能力がある」と主張するだろう。一方、彼がもし透視に失敗した場合はどうか。この場合、彼は恐らくこう言うだろう。「この会場に私の能力を疑う者が多かったようで、申し訳ないが透視能力を発揮することができなかった」と。これは、彼が失敗した場合でも、「私には透視能力がある」という主張を否定することはできない、ということを意味するだろう。

つまり彼の主張には「反証可能性(間違っている可能性)」が存在しないことになり、それゆえ彼の透視能力は「科学ではない」と判定できる、というわけである。

意外かもしれないが、それが「科学」であるためには、「間違っていると指摘される可能性」を常に保持していなければならないのだ。本書にも、こんな風に書かれている。

一般に「科学」と言えば、「明らかに正しいもの」「間違っていないと確認されたもの」というイメージを持ちがちであるが、実はそうではないのだ。面白いことに、「科学」であることの前提条件とは、「間違っていると指摘されるリスクを背負っているかどうか」なのである

科学理論というのは基本的に、「その仮説から生まれる予測が実験・観測によって認められる」ことによって初めて「正しい」と認定される。これはつまり、「その予測が誤りである可能性」を常に保持しているということだ。科学の歴史の中でも、提唱された仮説が実験・観測によって否定されたという事例は山ほど存在する

また、科学は基本的に「それまでの知見を否定すること」で進化してきた学問だ。以前何かで聞いた話だが、大学の理系学部では、「皆さんがこれまで教科書で学んだことは全部ウソですので、すべて忘れてください」と言われることもあるそうだ(私は言われたことはない)。

有名な話では天動説と地動説の話があるし、「物質の最小構成要素は原子」と学校で習うだろうが、これもすでに「クォーク」というさらに小さな存在が知られている。

ニュートンが生み出した「万有引力の法則」は、300年以上も不動の地位を守ってきた素晴らしい理論だが、しかしアインシュタインがその綻びを見出し、「一般相対性理論」という新しい重力理論を作り上げたこともよく知られた事実だろう。

だからこそ科学者は、「これは100%正しい」や「絶対に間違いない」といった言い方をしない。そんな言い方をした瞬間、それは「科学」ではなくなってしまうからだ。これは「科学」を捉える上で非常に重要な視点なので、意識しておくといいだろう。繰り返すが、科学的知見について何か断言するような言い回しをする人物はニセモノだと思った方がいい。

さてここまで、「反証可能性」の重要性に触れてきたが、しかしこの考え方も決して万能ではない。当たり前の話をするが、例えば「すべてのカラスは白い」という主張は明らかに間違っているのだから「反証可能性」がある。つまり、「反証可能性」があるからと言って正しいと考えてしまうのもダメなのだ。

だからこそ最終的に、著者はこんな言い方で科学の「正しさ」を捉えている

つまり、科学理論とは、
「うるせぇんだよ! とにかくこれは絶対に正しいんだよ!」
という人間の<決断>によって成り立っており、そのような思い込みによってしか成り立たないのだ

結局のところ「科学」というのは「『正しいはずだ』という思い込み」でしか成立させられない、ということだ。そんなものを信じていていいのか、と感じる方もいるかもしれないが、少なくとも、これまで人類が手に入れてきた「正しさの基準」の中では最もマシだと言っていいだろう。「科学」を手放してしまえば、私たちは迷信や呪術によって物事を判断するしかない、とても文明とは呼べない時代まで後退してしまうはずだからだ。

この記事を読んで興味を持ってもらえたら、本書を読んで改めて「科学的に正しい」という言葉が何を意味するのか考えてみてほしい

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最後に

記事中の引用を読んでもらえればわかると思うが、本書は非常に読みやすい文章で難しい内容を説明してくれる作品だ。この記事では具体的には取り上げなかったが、「量子力学」という学問も不可思議な話がたくさんあって面白い。その話の一環として「ドラえもんのどこでもドア」が登場する章もある。

「量子力学」という分野や「科学」という学問はなかなかとっつきにくいが、最初に触れるきっかけとして適している作品だと思う。

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