【不可思議】心理学の有名な実験から、人間の”欠陥”がどう明らかになっていったかを知る:『心は実験できるか』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

著:ローレン スレイター, 原著:Slater,Lauren, 翻訳:彰, 岩坂
¥2,699 (2021/09/30 06:13時点 | Amazon調べ)

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「普遍的な法則を追い求める」という意味で、心理学は科学にはなりきれない
  • 「なぜそんな実験を行おうと思ったのか?」という意味での人間の複雑さも垣間見れる
  • 日常生活の中でも注意すべき知見が多数描かれている

「傍観者効果」や「認知的不協和」などは、致命的な失敗を犯さないために知っておくべき知識と言えるだろう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

有名な心理学の実験はどう行われ、何を示してきたのか

著者は心理学という学問をどう捉えているか

本書の著者はノンフィクションライターだが、心理学者でもある。自身も心理学という世界に身を置く彼女は、「心理学という学問」についてこんな風に書いている

19世紀末、心理学の祖と考えられているヴィルヘルム・ヴントが世界初の道具的な心理学実験室、つまり計測を専門とする実験室を開設した。こうして科学としての心理学が誕生した。しかし、本書の実験が示すように、心理学は逆子の奇形児として生まれた。それは科学であるとも、ないともつかない怪物だった

著者は「心理学」を、科学であり科学ではない、と捉えているのだ。

心理学と科学とが結びついたこの学問は、誕生のときから先天異常があった。自力で呼吸できなかったのである。科学を、問題を体系的に追究して普遍的な法則に相当するものを生み出すものと定義するならば、心理学はその条件を満たすことに失敗し続けてきた。科学は現象を命名し、分離し、時間関係の中に位置づける。けれど、どうやって思考者から思考を、流れる思いの中から観念を分離できるというのだろう。身体ならば掴んでおくことができる。けれどもその行動は? この分野の本来的な性質が、科学的探求や科学的実験の成功を許さないのである

つまりこういうことだ。「科学」とは「普遍的な法則」、つまり「どんな場合でも成り立つ法則」を追い求める。しかし、「人間の心理」が対象となる「心理学」においては、そこから「普遍的な法則」を取り出すことは難しい。その「難しさ」の本質はいくつかあるが、その「難しさ」ゆえに、「心理学」というのは「実験が上手くいったかどうか判断することが困難」になるというわけだ。

本書は有名な10の心理学実験を取り上げる作品だが、そこで描かれているのは「実験手法」や「実験結果」だけではない。「心理学という”科学の逆子”に関わる者たちが、どのような軋轢・逸脱を生み出してきたか」という歴史を描き出す作品でもある。

「心理学の実験」には常に、倫理・道徳の問題がつきまとう。「特殊な状況に置かれた人間がどう振る舞うか」を知るためには、「被験者を特殊な状況に置く」必要があるが、そのこと自体が倫理的・道徳的に認めがたい、というケースもある。現代ではとても許容されない実験もあるだろう。

「心理学」とはそのような歴史の堆積の上に成り立っているのだ、ということをまず理解しておこう。

本書で紹介される10の実験について

先程も触れた通り本書では、20世紀に行われた様々な心理学実験の中から10個選び、それらについて「何故実験が行われたのか」「どんな影響を与えることになったのか」「どんな課題が残ったのか」などについて詳しく触れていく作品だ。

選んだ基準について著者はこう書いている。

私はここに10の実験を選んだ。選択の基準は、同僚や私自身の物語的好みに基づくもので、私たちの目から見てきわめて大胆な疑問を大胆なしかたで提起している実験、というものだ。私たちは何者か。何が私たちを人間たらしめているか。私たちは本当に自分の人生を自分で決めているか。道徳的であるとはどういうことか。自由であるとは。

一言で言えば、「インパクトがある」ということだろうか。確かに、インパクトの強い実験が多い。

それでは本書で紹介される10の実験の名称を以下に挙げよう。

  • スキナー箱を開けて(スキナーのオペランド条件づけ実験)
  • 権威への服従(ミルグラムの電気ショック実験)
  • 患者のふりして病院へ(ローゼンハンの精神医学診断実験)
  • 冷淡な傍観者(ダーリーとラタネの緊急事態介入実験)
  • 理由を求める心(フェスティンガーの認知的不協和実験)
  • 針金の母親を愛せるか(ハーローのサルの愛情実験)
  • ネズミの楽園(アレグサンダーの依存症実験)
  • 思い出された嘘(ロフタスの偽記憶実験)
  • 記憶を保持する脳神経(カンデルの神経強化実験)
  • 脳にメスを入れる(モニスの実験的ロボトミー)

この中で、本書を読む前に「ざっくりとでも実験に関する知識を持っていたもの」は大体半分と言ったところ。特別心理学に詳しいわけではない私が半分知っているということは、やはりメジャーな実験が扱われているということだろう。

この記事では、私が気になった5つの実験について紹介しようと思う。

ミルグラムの電気ショック実験

「心理学の実験」の中でも特に有名で、心理学についてまったく詳しくない人でも、何かしらで見聞きする機会が多いだろう実験だ。

この実験は「アイヒマン実験」とも呼ばれている。ホロコーストの責任者の一人であり、数百万人のユダヤ人を強制収容所に送ったアイヒマンは、当然「極悪非道」と捉えられたが、ミルグラムは、「アイヒマンの冷酷非情さは、本当にアイヒマンの個人の性格によるものなのか」を検証しようと考えて実験を行った。

実験の主たる目的は、「権威ある存在から強制された場合、他人を殺すような行動さえとってしまうのか」を調べることだった。ミルグラムが行った実験は以下のようなものである。

被験者は、目の前のボタンについて説明される。向かいに解答者(実験側の人間だが、被験者には、解答者も同じく被験者だと思い込ませる)が座っており、出された問題に解答者が正解できなければ、そのボタンを押すように命じられる。そのボタンは、解答者に電気ショックを与えるためのスイッチであり(実際に電気は流れず、解答者が電気ショックを受けている演技をする)、1問間違えるごとに電圧は上がっていく。電圧を上げる度に解答者に悲鳴は酷くなり、死んでしまうのではと想定されるような状況になるが、白衣を着た実験者から、解答者がどういう状態になろうがボタンを押すように指示される

この状態で、被験者は苦しむ解答者にどれだけ電圧を高めた電気ショックを与えてしまうかを検証するという実験だ。

結果はなかなか驚くべきもので、65%もの人が最大電圧の電気ショックを与えたという。

この実験は、「権威ある存在から強制されれば、人は他人を殺すような行為をしてしまい得る」ことを示した実験として非常に有名だが、「実験室で作られた状況が現実的ではなく、信憑性がない」と批判を浴びる実験でもあるようだ。

しかし私は、この「ミルグラム実験」を「テレビ番組の収録」という現代的な設定に置き換えて行ったフランスでの実験に関する『死のテレビ実験』という本を読んだことがある。こちらでも同様の結果(実に80%以上)が出ているのだ。「現実的ではない」という批判は当てはまらないのではないかと私は感じている。

「何を『権威』と感じるか」は時代や国によって変わるだろうが、「『権威』に命じられたら酷い振る舞いもしてしまう」という人間の本質は変わらないと思う。「自分はそんなことしない」と楽観視してしまうのは怖いと感じさせる実験だ。

本書には驚くべきことに、実際にミルグラムの実験の被験者だった2人の人物が登場する。論文では全員仮名だったが、著者が苦労の末探しだしたのだ。一方は途中で電気ショックを中断でき、もう一方は中断できず最後まで与え続けてしまった。

彼らの話はとても興味深いし、ミルグラムの実験に参加したことが人生にどう影響したのかという話も載っていて考えさせられる。

ダーリーとラタネの緊急事態介入実験

この実験の説明には、必ずある殺人事件がセットになる。1964年にニューヨークで起こった「キティ・ジェノヴィーズ事件」である。ダーリーとラタネの2人はこの事件に触発されて実験を構築したので、まずは事件の説明からしていこう。

被害者であるキティ・ジェノヴィーズは、自宅のアパート前で暴漢に襲われ殺害されてしまう。彼女は叫び声を上げ、その声は、周辺に住む38人の住民が聞いていたことが後の捜査で明らかになった。

しかしその38人の誰一人として、彼女を助けに行かなかったどころか、警察にも通報しなかった。この事件は「都会の人間の冷淡さ」を示す事件として、当時大々的に報道されたという。

さて、ダーリーとラタネの2人はこの事件を、「都会の人間の冷淡さ」とは違う捉え方をした。彼らは、「自分以外にも事件に気づいた人がいることを知っていたからこそ、誰も行動を起こさなかったのではないか」という仮説を立てた。現在では「傍観者効果」として広く知られているものである。

そして彼らは、「傍観者効果」を実証するための実験を構築し、「人数が多くなるほど、トラブルが起きた際に行動を起こさない者が増える」ことを立証したのだ。

殺人事件に遭遇する機会などほとんどないだろうが、この「傍観者効果」を自分でも行ってしまっているケースはきっと多々あるだろう。私自身も、「誰かがなんとかするでしょう」とスルーしてしまったことはきっとあったと思う。人数が多ければ多いほど、自分1人の責任は薄まると考えてしまうこの心理効果は、日常の中でも気をつけた方がいいだろう

フェスティンガーの認知的不協和実験

そして、「傍観者効果」以上に私たちの生活で無視できない心理効果だと考えられるのが、この「フェスティンガーの認知的不協和実験」で明らかになった事実である。

まず実験内容に触れよう。

被験者を2つのグループに分け、一方には「1ドル渡す代わり嘘をついてもらう」、そしてもう一方は「20ドル渡す代わりに嘘をついてもらう」とする。もちろん被験者は、それが「嘘」だとちゃんと分かっている。

そして実験の最後にアンケートを取ると、1ドルもらったグループの方が、「自分がついた嘘を信じている」と語る者が多かったというのだ。

さて、これはどういうことだろうか? 本書ではこう説明される。

1ドルという金額は、「嘘をつく」という行為を正当化するには不十分であると被験者は感じている(認知A)。一方で、善良で賢明な人間は、理由もなく嘘をついたりはしない(認知B)。このように被験者の中には、「認知A」と「認知B」が存在し、これが「不協和」を起こしている。つまり、「自分は善良な人間なのに、たった1ドルで嘘をつかなければならない」という状態にあるのだ。

人間はこの「不協和」の状態を許容できない。だからこそ、その「不協和」を低減させるように認知を変えるのだ。この場合、「自分が口にすることが『嘘ではない』」という状況だとすれば、「不協和」は無くなる。だから「不協和」を無くすために、「自分は嘘をついているわけではない=自分が口にしたことを信じている」という認知に変わる、というのだ。

これは、「喫煙」や「馬券の購入」など様々な場面で現れる。「タバコが身体に悪いことは知っているが吸いたい」と思う人が自分の都合の良いように認知を変えたり、「馬券購入の締め切りが過ぎてもう変更できなくなることで、自分が買った馬に自信を深める」という心理を抱いたりするというわけだ。

日常生活の中でこの「認知的不協和」に直面することは多いだろう。そのような状況に置かれた時、人間が本能的にどのような対応を取ってしまうのか、理解しておくことは重要だと思う。

アレグサンダーの依存症実験

この実験は、発表された際にはある意味で注目を集めたが、実際にはほとんど評価されていないそうだ。追試が何度も行われたが、アレグサンダーの実験結果を再現できなかった、という話もある。しかし、主張自体はなかなか興味深いので紹介しよう。

この実験は、「薬物依存症」に関するものだ。麻薬などの薬物は、脳の報酬系に作用することで依存性を引き起こすと考えられるようになり、それに関連する実験も行われている。現在でも、「薬物には、薬物そのものに依存を引き起こす要因が存在する」というのが一般的な認識だろうと思う。

しかしアレグサンダーは、それとは異なる主張をした。「薬物そのものに依存性はなく、服用する人間を取り巻くすべての環境が影響している」というのだ。つまりもっと言えば、「理想的な環境にいさえすれば、たとえどれだけ薬物を摂取しようが依存症になることはない」と考えたのである。

これを立証するためにアレグサンダーは、実験用ラットが一切のストレスを感じずに済むよう、遊び場や食料を充実させた「ラットパーク」という空間を作り上げた。そしてこの「ラットパーク」に、「普通の水」と「モルヒネ入りの水」を用意し、実験を行った(モルヒネ入りの水は苦いので、砂糖が混ぜられたという)。

アレグサンダーが行った実験によれば、「一般的な実験用ケージのラットはモルヒネ入りの水を好んで飲んだが、ラットパークのラットはどれだけ砂糖を入れて甘くしてもモルヒネ入りの水を飲まなかった」「実験用ケージでモルヒネ入りの水を好んで飲んだラットをラットパークに移すと普通の水を飲むようになった」という。

さて先述した通り、様々な人間によって追試が行われたが、アレグサンダーが出したものと同じ結果を再現することは難しかったようだ。そもそも「薬物の依存性を否定する研究」というのは、科学的探究心としては良いが、倫理的にはグレーと言えるだろう。そういう意味で、賛否ある実験と受け取られているようだ。

またそもそも、「ラットパーク」による実験結果が正しいとしても、「人間がそれだけの理想的な環境にいられるか」という別の問題は出てくる。学問的には興味深い問いだが、この実験をどれだけ行いその信憑性を高めたところで、「社会で薬物使用が認められる」という方向には進んでいかないだろう。

ロフタスの偽記憶実験

この実験が行われたのには、「催眠療法によって、過去の性的虐待の記憶を思い出す事例」が多数報告されるようになったという背景がある。「父親にレイプされた」という記憶を思い出す者も多く、それらに関する裁判も行われていった。

そんな中でロフタスが、「被験者に、偽の記憶を埋め込む実験に成功した」と発表する。「ショッピングモールで迷子になった」という偽りの記憶を、被験者の一部に「思い出させる」ことに成功したというのだ。

この実験によって、「人間の記憶はあやふやであり、被害者が『思い出した』と主張する記憶に誤りがある可能性がある」と判断されるようになり、裁判の結果にも影響を与えたそうだ。

しかしこの実験に関しても様々に批判があるという。確かに裁判の話だけに限ってみても、「人間には偽りの記憶が存在する可能性がある」と証明したところで、「目の前の被害女性の記憶が偽りである」ことの証明にはならない。しかし、他に物的証拠がなければ、裁判という仕組みの中で敗北してしまうのも仕方ない側面もあるかもしれないとも思う。

実は私にも、偽りかどうかは不明だが、両親と記憶が一致しない過去の出来事が2つある。その内の1つは、「足の骨折」に関するものだ。私は子どもの頃、足を3度骨折し、松葉杖をついて学校に通った記憶がある。しかし両親とも、「そんなことはなかった」と主張する。父親曰く、「もし足を骨折したら学校まで車で送り迎えしなければならないが、そんなことしたことはない」という。確かに私も、車で送り迎えをしてもらったのかどうか記憶はない。

いずれにせよ、私か両親のどちらか一方の記憶は確実に誤りであり、両親が揃って「無い」と言っているのであれば、僕の記憶が間違いである可能性の方が高いのだろう。しかしなぁ、松葉杖、ついてたんだけどなぁ……。

著:ローレン スレイター, 原著:Slater,Lauren, 翻訳:彰, 岩坂
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最後に

心理学の実験は様々に行われており、その中で、人間の不思議さが色々と明らかになっていった。一方で本書はさらに、「なぜそんな実験を行おうと思ったのか」という意味での人間の複雑さも明らかにしているとも言えるだろう。

科学であって科学ではない「心理学」という学問の一端を垣間見れる作品だ。

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