【創作】クリエイターになりたい人は必読。ジブリに見習い入社した川上量生が語るコンテンツの本質:『コンテンツの秘密』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「正確な表現」と「脳が気持ちいいと感じる表現」は違う
  • 大塚伸治が担当すると聞いて、「荒地の魔女」が階段を上る場面で宮崎駿が絵コンテを修正した理由
  • 「分かりやすさ」が求められるせいで陥る「ワンパターン」を宮崎駿はいかに回避しているのか?

著者自身「不十分」と認める内容ではありますが、「創作」に携わる人は興味深く読めると思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「『創作』の本質」を突き詰めようとした、ジブリ見習い・川上量生の”卒論”

「コンテンツとは何か?」の定義は不十分

本書は『コンテンツの秘密』というタイトルであり、著者自身も「コンテンツ全般」に対して議論を展開したいと考えているのだろう、ということが本文から感じ取れる。しかし一方で本書では、「0から何かを生み出す創作」にばかり焦点が当てられているとも思う。

「コンテンツ」と呼ばれるものには様々なものがあり、それらすべてが「0から生み出されるもの」とは限らない。私がこのブログで書いているような「本・映画の感想」は、本や映画に対してどう感じたかを書くものだし、「CM」の場合は「0から何かを生み出すこと」よりもまず「クライアントが伝えたいメッセージを伝達するという機能」の方が重要になる。

「歌ってみた動画」などはオリジナルの「模倣」を基本とするものだし、バンクシーに代表されるようなストリートアートは「創作物であること」と「街の景観の破壊」がセットになるという性質を有してしまう。

このように、「コンテンツ」と言っても様々なものがあるし、そのすべてを網羅するような定義は難しい

著者自身、

本にするなら、もっと膨大な証拠を集める必要があるし、ちゃんと証明しようとすると大変な手間がかかることになるけど、そんな時間はない

と、書籍執筆の提案に対して「無理だ」と感じたようだが、その後、「不十分でも出す価値がある」と考え直し、本書を出版するに至ったという。

そのため本書では、「コンテンツ」という非常に大きな枠組みに対して包括的な議論がされているわけではない。しかし、創作の第一線に居続けていると言っていいジブリでの経験から、「創作とは何か?」について考え続けた著者の思索は非常に興味深いだろう。

それがどんなジャンルであれ、「クリエイター」と呼ばれる人たちには、参考になる視点や新たな発見のある作品ではないかと思う。

川上量生がジブリに”潜入”して解き明かしたかったこと

著者の川上量生はかつて着メロサイトで一世を風靡し、ニコニコ動画の運営も手掛けるドワンゴの創業者である。現在は会長職に就く彼が、その立場のままジブリに入社。「見習い」という立場のため無給だが、ドワンゴには週1日しか出社せず、残りはすべてジブリに通うという生活を2年ほど続けた

そんな日々の中から生まれたのが本書だ。

著者は、宮崎駿、高畑勲、鈴木敏夫は当然として、ジブリの凄腕のアニメーターたち、また庵野秀明や押井守などらとも関わり、日々その仕事ぶりに触れる。そして彼らに様々な質問を投げかけ、その答えを引き出しながら、超一級の「クリエイター」が何を考え、どう生み出し、「創作」のために何をしているのかを探り出そうとするのだ。

「創作」について考える著者が抱いていた疑問は、最終的には3つに集約できる。

  • 「創作活動」とは具体的にどんな行為のことを指すのか?
  • 人間は何故「コンテンツ」に心を動かされるのか?
  • 「コンテンツ」を”本当に作っている”のは一体誰なのか?

これらの疑問は、「創作」という戦場で日々闘っている人たちにとっても関心があるはずだ。本書を読むだけでこれらがすべてスッキリ解決するわけでは決してないが、思考を深める際の材料を拾ったり、新たな見方を獲得したりできるだろうと思う。

「コンテンツ」の定義と、「荒地の魔女」のエピソード

著者はまず、「コンテンツ」を定義しようとするところから始める。ジブリに深く関わる前に彼が考えていた定義は、アリストテレスを引き合いに出しながら検討を進めた「コンテンツとは現実の模倣である」というものだ。そしてそこからさらに、「主観的情報」と「客観的情報」という2つの概念に行き着く。

これらの詳しい説明は本書で読んでほしいが、「絵」で喩えれば、「脳が気持ちいいと判断する絵」と「正確に描かれた絵」となる。この具体的なエピソードについてはすぐ後で触れるが、先に、ジブリで頻繁に耳にしたという「情報量」という単語について触れておこう。

ジブリのクリエイターがよく口にする「情報量」について、詳しく説明してほしいと問いただすと、「線の数」のことだという。つまり、「どれだけ細かく描かれているか」ということだ。

アニメは元々子ども向けのものとして生まれたため、「情報量」は少なかった。子どもが見ても理解できて楽しめる必要があるからだ。しかし宮崎駿は、そんなアニメという分野において「情報量を増やす」という方向に早くから足を進めた人であり、だからこそジブリ映画は何度再放送しても視聴率が落ちることがない、と語られていた。

先述した通り、本書には「コンテンツの定義」はなされないが、「情報量」という捉え方は「コンテンツの定義」に関わると言えるだろう

さて、先程の「脳が気持ちいいと判断する絵」の話に戻ろう。本書には、こんな文章がある。

鈴木敏夫さんをはじめ、いろいろなアニメ業界の人から同じ話を聞いたのですが、アニメーターの動きは現実の人間の動作を忠実に再現しても、良いものにはならないそうなのです

ジブリでは「らしい動き」と言い方が多用されるそうだ。現実の人間の動きとは「それっぽく見える絵」を描けるかどうかが、ジブリにとって「良いアニメーター」の指標となるのだという。

この話に関連して、大塚伸治というアニメーターの凄い話がある。

『ハウルの動く城』の印象的な場面として、主人公のソフィーが荒地の魔女と一緒に長い階段を上る、というシーンがある。宮崎駿は当初この場面に、「ソフィーが荒地の魔女に手を差し伸べる」という場面を入れる予定だった。しかし、このシーンを大塚伸治が担当すると聞いて、手を差し伸べる場面をカットした、というのだ。

どういうことか。

宮崎駿が手を差し伸べるシーンを入れようと考えたのは、「そうしなければ、荒地の魔女が階段を上る苦しさが伝わらないだろう」と考えたからだ。しかし一方で宮崎駿は、大塚伸治というアニメーターが「らしい動き」を見事に描くことを知っていた。だから、彼が担当するのなら、ただ階段を上らせるだけで十分その「苦しさ」を表現するだろう、と考えたというわけだ。

それほど「らしい動き」を描くのが難しいということであるし、また、アニメーター個々の力量がこのような場面で表出するのだなとも感じさせられた。

いずれにせよ著者は、「コンテンツの定義」を模索しつつ、その困難さを記述していくのである。

ワンパターンにならざるを得ない「コンテンツ」の宿命

この記事では深く触れないが、著者は「クリエイター」という存在についても定義を試みようとする。そしてその思索の過程で、「脳がコンテンツをどう受け取るのか」という話を展開し、そしてその帰結として「『コンテンツ』はワンパターンにならざるを得ない」という主張に至るのだ。

その説明のために「着メロ」の話が出てくる。音楽をスマホで簡単に聴ける時代にはもう忘れ去られているだろうが、かつては「携帯電話の着信音」を購入したり自分で打ち込んで作ったりする「着メロ」という文化があった。著者自身、「着メロ」を事業にしていたこともあり、当時のエピソードを交えながら「『コンテンツ』を脳がどう判断するか」について具体例を記している

「着メロ」が大流行していた当時、多くの会社がカラオケ音源をそのまま使っていたのに対し、ドワンゴは「着メロ」専用の音楽を作成するチームを編成したという。多くの音大生からなるそのチームに「着メロ」を作らせたのだが、高校生からの評判は悪かったという。色々と検証してみると、どうやら「音大生の耳が良すぎる」ことに原因があることが分かった。つまり、「『着メロ』をよく使う普通の高校生にとっての良い音」と「音大生にとっての良い音」が違っていたために、高校生ウケが悪かったというわけだ。

著者は自身のこの経験から、「『コンテンツ』に求められるのは『分かりやすさ』である」という結論に至る。それは、脳の仕組みから考えても当然だという。脳は物事を単純化してからでないと情報を取り込めないので、単純なものほど受け取りやすいということになるのだ。

そして、「クリエイター」は「脳が『分かりやすい』と判断するもの」を生み出そうとするのだから、どうしても「コンテンツ」はワンパターンに陥ってしまう、という話が展開されていく。

「いかにしてワンパターンを防ぐのか」は常に大きな課題であり、多くのクリエイターがその問題に直面するわけだが、やはりこの点に関しても宮崎駿は凄まじい

宮﨑駿さんの作品のつくり方は独特です。どういうことかというと、脚本なしに絵コンテから描き始めるのです。絵コンテとは作品の設計図にあたるもので、なにをどう描けばいいかを指示するものです。4コママンガみたいなものが延々と続いてストーリーを説明しているといったイメージを想像してもらえばいいんじゃないかと思います。
宮﨑駿の特徴は、ある程度の絵コンテがたまると、もう作品の制作を始めてしまうことです。同時進行なのです。
ですから、制作が始まったとき、まだ絵コンテは完成していないのです。脚本ももともとありませんから、ストーリーが最後にどうなるか、スタッフも誰も分からないまま作品をつくることになるのです。
話の展開を知っているのはじゃあ宮﨑監督ただひとり……というわけじゃなくて、実は宮崎監督も分かっていません。
「宮さんは一本の映画で連載マンガをやってんだよ」
プロデューサーの鈴木敏夫さんはそう説明してくれました。だから映画に緊張感が生まれる、とも。

製作総指揮と言っていい宮崎駿自身さえ、「自分が何を作っているのか」を理解していない状態で創作が進んでいくのだから、確かにそれはワンパターンの呪縛に陥りにくいと言えるのではないかと感じさせられた。

「クリエイター」は何を生み出しているのか?

本書には、宮崎吾朗のこんな言葉が載っている。

でも日本みたいな貧しい国は、天才を使って対抗するしか戦う方法がない

この発言は、アメリカの創作手法との比較で出てきたものだ。

ハリウッドやピクサーは、映画やアニメを作る際にまずCGでプロトタイプを作る。そしてそれを見ながら様々な人間が意見を出し合って最終的な形を決めていくのだ。時間もお金も掛かるが、「天才」を必要としないやり方だ、と宮崎吾朗は語る。

そして、お金がなく時間も掛けられない日本が、そんなアメリカと対抗するには「天才」が必要なのだ、と彼は主張していた。

多人数による合議制では生まれ得なかっただろう、『魔女の宅急便』のある場面に関するこんな言及も本書にはある。

高畑監督にこういう問いかけをされたことがあります。
「宮さんの『魔女の宅急便』に出て来る女の子。魔法が使えなくなって飛べなくなったのに、また、最後に飛べるようになった。なぜなのか?」
一度は飛べなくなった魔女のキキが、なぜ再び飛べるようになったのか。それを、宮﨑駿は映画のなかで説明していません。なんの説明もなく、キキは再び飛ぶことができるようになった。これは「宮さんの魔法」だと高畑さんは言います
なぜ使えなくなった魔法がまた使えるようになったかは、いろんな説明が考えられるかもしれない。でも、作劇上のテクニックとして解説すると、そのとき観客は、キキに感情移入をしていて、飛んでほしいと願っていた。みんなが「ここで飛べ、飛べ」と思っていたから飛んだ。だから、そこで拍手喝采して、「ああ、よかった。よかった」とカタルシスを感じた。
願いが叶ったんだから、なぜ飛べたのかということに観客は疑問を感じない。それが魔法のトリックだと高畑さんは言うのです

なるほど、と感じる説明ではないかと思う。恐らく、アメリカのような合議制で「コンテンツ」を生み出す場合は、「キキが飛べるようになった理由」をきちんと説明しなければならない、と考えるだろう。しかし、宮崎駿という「天才」が生み出すアニメでは、その説明がなくても成立する

そして、この「キキが飛べるようになった理由を説明しなくてもアニメとしては成立する」という事実こそが、「クリエイターは一体何を生み出しているのか?」という問いに対する1つの答えになり得るのではないか、と本書では示唆されているのだ。なかなか興味深い話ではないだろうか。

最後に

本書では決して、創作のための具体的な方法論が語られるわけではない。しかし、「クリエイター」が普段なかなか言語化しないだろう事柄について、川上量生が質問を繰り出すことで言葉として立ち上がり、それによって「クリエイター」が見ている世界を僅かながら体感できる、という得難い効用があると感じる。

「コンテンツ」の良し悪しは、最終的には感性的なもので決まるのだろうが、しかしそれは最終段階だ。その手前には、これまで様々な「クリエイター」が開発し積み上げてきた手法や理屈があり、それらを理解することは、単に「技術を身につける」だけではない、ある種の「深み」を獲得するために必要なのだと思う

本書はそのための一歩になると私は感じた。

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