【解説】「小説のお約束」を悉く無視する『鳩の撃退法』を読む者は、「読者の椅子」を下りるしかない

目次

はじめに

この記事で伝えたいこと

よくある小説とは一線を画す、作家の企みに満ちた見事な物語

犀川後藤

よくもまあこんな物語を構築してみせたものだと驚かされました

この記事の3つの要点

  • 三人称の小説の登場人物は、自分には知り得ない事実があるからこそ小説を書く
  • 「鳩」とは何かについてはこの記事では触れない
  • ダラダラ進む、特別なことが起こらない物語なのに、物凄く面白い
犀川後藤

別の作品を読んで、佐藤正午は合わなかったと感じる人にも読んでほしい作品です

この記事で取り上げる本

著:佐藤正午
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いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

まあなんとも奇妙な物語をお書きになったことで(褒めてます)

映画も観ました。映画のネタバレ考察は以下の記事にまとめています。

「佐藤正午」という作家に対する印象

私は、本書『鳩の撃退法』を読む前に、佐藤正午の作品を2冊読んでいました。『ジャンプ』(光文社)と『5』(KADOKAWA)です。そしてどちらも、私には合わない作品でした。

著:佐藤 正午
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著:佐藤 正午
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なぜこんな話をするのかというと、「佐藤正午」という作家にマイナスの印象を抱いている人にも、『鳩の撃退法』は読んでほしいからです。特別これという出来事は起こらない、ダラダラ展開していく物語なのですが、頭をガツンと殴られたみたいな衝撃が確かにあって、ホントによくこんな物語を書いたものだと感じさせられました。

いか

ある作家の作品すべてが面白い、なんてことはあり得ないはずだからね

犀川後藤

合わない作品がある方が自然だと思う

三人称の小説の主人公は、なぜ小説を書くのか?

本書の主人公である津田は、小説家です。そして、彼が自身の現実を取り込みながら執筆している小説こそが、読者がまさに今読んでいる『鳩の撃退法』である、という構成になっています。意味が分かるでしょうか?

いか

いきなり複雑な話が出てきたな

犀川後藤

確かにこの辺りの説明はややこしいんだよなぁ

よく分からないかもしれませんが、とりあえず話を続けます。

ここでまず、一人称の小説と三人称の小説の差について考えてみましょう

一人称の小説の場合は、主人公が基本的に1人に固定され、その人物が見聞きしたこと、体験したことが「小説」になります。つまり、「主人公」と「読者」が持っている情報量は同じだと言っていいでしょう。主人公が経験したことしか読者は知り得ないわけですが、「主人公が経験したこと」こそがその物語のすべてである、ということです。

では、三人称の小説の場合はどうでしょう? この場合、主人公が複数存在し、それぞれが見聞きしたこと、体験したことが寄り集まって「小説」になります。例えば、A・B・Cの3人の主人公が存在するとして、Aさんが見聞きしたことをBさんは知らないかもしれないし、Bさんが体験したことをCさんは体験していないかもしれません。

つまり、「読者」はすべての情報を知っているが、「A・B・Cそれぞれの主人公」は情報を断片的にしか有しておらず、結果的に物語の全体像を把握できていない可能性が高い、ということになります。

さて、こんな話をして何の意味があるのでしょうか? もう少しお付き合いください。

「現実の世界に生きる津田」は、ちょっとしたトラブルや少し奇妙な出来事に遭遇します。しかしそれらについて、「現実の世界に生きる津田」には理解が及ばず、何が起こっているのか把握できません。何故なら、現実世界を生きる誰もが、三人称の小説の主人公と同じく、全体像を把握するためのすべての情報を手にすることは出来ないからです。

この状況において、小説を書くことを生業としてきた男は何をするでしょうか。

彼は、「自分を取り巻く現実を小説に書く」のです。

「小説の主人公である津田」も、三人称の小説に登場するが故にすべてを理解できるわけではないというのは、「現実の世界に生きる津田」と同じです。しかし、この小説世界の生みの親である「現実の世界に生きる津田」は、その作家的想像力を駆使して、自分が見聞きも体験もしていない空白部分を埋めていきます

そうやって『鳩の撃退法』という小説が組み上がっていくというわけです。

つまり、「現実の世界を生きる津田」が経験したことを「小説の主人公である津田」が改めて経験し、その過程で、「現実の世界を生きる津田」には理解できなかった余白を作家的想像力で埋めることで、「自分に一体何が起こったのかを特殊な方法で記録する」というのが、この小説の基本構造と言っていいでしょう。

いか

分かったような分からないような

犀川後藤

実際に小説を読み始めれば、そんなにややこしい感じにはならないから大丈夫

津田は「作家的想像力」をどのように駆使するのか?

「現実の世界に生きる津田」は、小説だからと言って何をしてもいい、みたいな理屈で物語を書いてはいきません。彼なりのルールがあります。

まずは、「おそらくこうだったのだろう」という強い推測が可能なことについて想像で書いていきます。例えば、Aが起こった後でCという状態になったとします。この場合、「自分はそれを見たり経験したりしなかったけれど、間違いなくBという出来事が起こったはずだ」と推定できるでしょう。

津田の周辺では、様々なことが五月雨式に起こります。それらは、起こった時には意味が分からないものが多く、津田には理解が及びません。しかし、様々な出来事が起こることで事象ごとの関連性が見えてくるし、きっとこんなことがあったのだろうなぁという、自分の目の前では起こらなかった背景部分がぼんやりと分かってきます

それらを、「小説の主人公である津田」ではない人物の視点で描き出していく、というわけです。

「現実の世界に生きる津田」は、自分の視界の範囲内で起こった出来事については大きな改変をしませんが、まったく改変しないわけではありません。津田自身が、「事実を歪曲して小説に書いている」と語る場面があるからです。津田の言葉を借りるなら、

僕が小説として書いているのは、そうではなくて、過去にありえた事実だ。

となります。小説に書かれたことが、実際に起った出来事と少し違っていても、それは「起こり得たこと」というわけです。津田にとっては、自分の周辺で起こった出来事を改変することに意味はなかったということでしょう。

だからこそこの『鳩の撃退法』という小説は、非常にダラダラと特別盛り上がることなく展開するわけです。設定から既に「小説的なお約束」が無視されていると言っていいですし、それは作品全体に対しても言えます。普通なら解決されるだろう謎は未解決のまま終わり、大したことのない話題や出来事が長々と展開されるのです。

そういう点だけ切り取って「面白くない」と感じてしまう気持ちも分からなくはありませんが、本書をそんな風に分かりやすく読んでしまうのは、ちょっともったいないと私は感じています。

犀川後藤

ダラダラ展開していくんだけど、私には最初から最後までずっと面白く感じられたんだよね

いか

メチャクチャ長い物語だったけど、一気読みだったしね

さて一方、妄想としか言いようがない想像力を駆使して展開される場面も度々登場します。例えば、不倫をしているカップルについて、彼らがどのように出会い、日々どんなセックスをしていたのかを津田は執拗に描き出すのです。

このような場面で、作家的想像力が発揮されるのは何故なのでしょうか。

それは、物語の本筋に大して影響を与えないからです。

『鳩の撃退法』という小説は、「現実の世界に生きる津田」にとっては、ある種の記録のような側面もあります。だからこそ、実際に起ったことや、きっと起こっただろうことについては、なるべく正確に書こうとするわけです。しかし、そういう実際的な記録に影響しない部分については、「小説的な余白」として作家的想像力を駆使することになります

この物語の冒頭は、まさにそんな描写から始まります

冒頭で登場するのはある夫婦。妻は夫に懐妊を報告する。そしてその後すぐ、夫婦は幼い娘と共に失踪する。全国紙でも「神隠し」という見出しで報じられ、全国的な話題の旬が終わってからも、地元の人たちの間では不思議な話として度々口に上る。

これが『鳩の撃退法』の冒頭で語られることなのですが、この夫婦と津田はほとんど関係ありません。夫婦が失踪する前日、旦那の方とドーナツショップでほんの少し会話を交わした、という接点しかないわけです。

では何故、そんな一瞬しか関わりのなかった人物の失踪話が物語の冒頭に来るのでしょうか。それは、この旦那との邂逅こそが、ある意味では彼が『鳩の撃退法』という小説を書く間接的なきっかけになっているからです。

ドーナツショップで旦那は、近くの古本屋で買った小説を読んでいた。その帯には、「別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった」と書かれていた。それを見て、「小説の主人公である津田」はこう考える。

でもそれだったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな

実際には「現実の世界で生きる津田」が聞いたのだろうこの言葉に、彼自身が囚われてしまっているというわけです。

失踪したその家族について津田が知っていることはほとんどありません。前日にほんの僅かすれ違った旦那の印象と、「失踪した」という事実だけです。それ以外の事柄は、津田の作家的想像力で埋めています。そしてそれによって、恐らく高い確率で既に死亡しているのだろうその家族を、小説の中で生かし続けることができるというわけです。

そんなこともきっかけの1つとなって、「現実の世界を生きる津田」は、誰にも読ませるあてのない小説を書き続けることになります。

いか

聞けば聞くほど変な小説だね

犀川後藤

まったく、よくもまあこんな話を考えついて、物語としてまとめたものだと思う

「鳩」について

さて、タイトルにもなっている「鳩」についてざっくりと触れておきましょう。と言っても、この記事では「鳩」が何を指しているのかには触れません。それは是非作品を読んでください。

津田が「鳩」と関わることになったきっかけには、失踪した旦那が本を購入した古本屋が関係しています

この古本屋の店主と、津田は元々知り合いです。決して一筋縄ではいかない関係なのですが、お互いに「友人」と呼んでも差し支えない、年の離れた親しい間柄になります。

津田はなかなかどうしようもない男で、

性格がねじくれてて、軽佻浮薄で、小心者で、女好きのセックス下手

と言われることもあるほどですが、たまには良いこともするのでしょう。ある時、老境に入りかけた店主が住む家を失いそうになり、津田は住居確保の手助けをしてあげたのです。

さてその後、その店主は亡くなります。津田は見舞いにもろくに顔を出さなかったわけですが、店主はなんと津田に形見分けを用意していたのです。それが、銃弾さえ通さない素材でできているというバッグで、恐らく中身は古本だろうと津田は見当をつけます。何故か南京錠がついており、津田は「0000」から順に数字を合わせて、そのバッグを開けようと試みるわけです。

3日目に南京錠は解錠しました。そして中からはなんと、3403枚の一万円札が出てきたのです。

これがどう「鳩」と絡むのかは是非読んでもらうとして、この「鳩」の物語もなかなか複雑に、そしてちょっと思いも寄らない展開になっていくことになります

いか

結局なんの話なのか全然分からんな

犀川後藤

分からないように書いてるし、分かるように書いても分からない物語だと思う(笑)

読者は「読者の椅子」を下りなければならない

この小説の非常に特徴的な点は、「『小説のお約束を逸脱している』ということが小説の大前提となっていること」だと思います。というのも、「小説の主人公である津田」が作中でそのようなことを繰り返し語るのです。つまり、物語の中から「この小説は、当たり前のお約束を踏み外している」と宣言されているということになります。

そしてこの点は、物語の後半、編集者が登場する場面でさらに強調されます

この女性編集者は津田の大ファンで、津田が長い間失踪中だったのにも関わらず、「津田の小説を出版したい」という思いで出版社に入社するほどの人物です。かつてサイン会で一度会ったことがあるというその女性編集者は、津田に再会し、あまつさえ新しい小説の原稿を読ませてもらえていることに感激しています。

しかしその小説を巡って、「こんなふうになるのが小説的なお約束でしょう」「こういうのが小説の大前提じゃないんですか?」というようなやり取りが展開されるわけです。確かに編集者の指摘は的確であり、読者もその通りだと頷けるものなのですが、しかしそのやり取りが、まさに今自分が読んでいる小説の内部で展開されているという違和感はなかなか強烈でしょう。

そして、小説の内部から繰り返し発せられる「この小説はお約束を逸脱しています宣言」によって、私たちは「読者の椅子」を下りなければなりません。そしてそれこそが、この小説を読むことによって得られる新たな読書体験なのだと私は感じています。

私たちが普段小説を読む時はいわば、「小説のお約束」というシートベルトを着用しているようなものだと言えるかもしれません。急ハンドル・急ブレーキのような大きな動きが起こっても、「小説のお約束」というシートベルトのお陰で物語から振り落とされる心配なく読書を進めることができる、ということです。

しかし『鳩の撃退法』の場合は、「小説のお約束」というシートベルトは存在しません。だから、「車(物語)に乗っている」という体験そのものは同じでも、普段の読書とは受け取り方が変わってくることになるでしょう。シートベルトが無いという不安定感の中、物語がどんな急ハンドル・急ブレーキをもたらすか分からない、という未知の体験をもたらしてくれると思います。

「小説のお約束」を逸脱することで驚きを持ち込む物語は多数存在しますが、あらかじめ「この物語では『小説のお約束』を逸脱しますよ」と高らかに宣言される物語というのはほとんど存在しないでしょう。そういう場を作り上げた上で、佐藤正午がどんな物語的展開を生み出していくのか、それは是非読んで体感してみてください。

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最後に

物語の中で津田は、夏目漱石の『虞美人草』からの引用を行っています

運命は丸い池を作る。池を回るものはどこかで落ち合わねばならぬ。

夏目漱石『虞美人草』

作品を最後まで読むと、この言葉が非常に示唆的だと感じられるでしょう。

決着しない事柄は最後まで決着せずに終わるわけですが、特異な設定を構築しながら、物語は収まるべきところに上手く収まっていると言っていいだろうと思います。特に「鳩」の結末に関しては見事と言う他ありません。長い長い物語のどこかで登場した人物たちの言動が絡まり合い、それらが一周するような形で因果が巡ってくるという展開は素晴らしいでしょう。

どこまでが作家的想像力でどれが津田にとっての現実なのか、その辺りの無限回廊に迷い込みながら、この不可解な物語を体感してほしいと思います。

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