【人生】どう生きるべきかは、どう死にたいかから考える。死ぬ直前まで役割がある「理想郷」を描く:『でんでら国』(平谷美樹)

目次

はじめに

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この記事で伝えたいこと

「どう死にたいか」を考えることは「どう生きたいか」を考えること

犀川後藤

「健康なまま死にたい」と考える私は、死ぬ直前まで自分のことは自分でやりたい

この記事で取り上げる本

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いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

この記事の3つの要点

  • 「死ぬ直前まで役割がある」という晩年は非常に理想的だと思う
  • さらに「死ぬ直前まで役割がある」と、若い頃から理解した上で生きられる「でんでら国」は素晴らしい
  • 「1度死んだ」という感覚があるお陰で、楽天的に生きていられる
犀川後藤

時代モノ・歴史モノが苦手な私でもスイスイ読めた、メチャクチャ面白い小説です

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

平谷美樹『でんでら国』が描き出す、死の間際まで「役割」がきちんと存在する人生こそ、理想的ではないだろう

「老衰」では死にたくない

私は時々、「どんな死に方が理想的か」について考えるのですが、真っ先に「老衰」は選択肢から外れます。私は「老衰」について、「身体の機能が衰え、今まで出来ていたことが出来なくなった状態で死んでいく」とイメージしていて、それは最も避けたい死に方なのです。

犀川後藤

とにかくいつも考えているのは、「身体に不自由を抱えてまで生きていたくないなぁ」ということ

いか

そもそも生きる気力が薄いから、ハードモードの人生だと頑張れないよね

そうやって理想の死に方を考える度に私が結論するのは、

健康な状態のまま、「自分は死ぬのだろう」と悟ってから死ぬ瞬間までの時間が限りなく短い死に方

がベストだ、ということです。具体的には「事故死」でしょうか。他にも「脳溢血」や、父親の死因である「致死性不整脈」など、「自分は死ぬんだ」とさえ感じられないほど瞬間的に死を迎える、というのが私の理想です。

そして、そう感じてしまう理由には、「自分のためなんかに、誰かの時間を使わせたくない」という感覚があります。「介護」が一番分かりやすいですが、他人の時間を消費してまで生きるのはしんどいなぁ、と私はどうしても感じてしまうのです。

だからとにかく、「健康なまま死にたい」といつも思っています。長生きには興味ありませんが、「健康なまま死ぬ」ために、健康に良さそうな食べ物を食べたりするほどです。

そんな考え方、まったく理解できないという人も多いでしょうが、共感できる人も多少はいると思います。実際、こういう話を身近な人間にしてみると、半々とまでは言いませんが、多少なりとも私の考えに賛同してくれる人もいるからです。

犀川後藤

やっぱり多く聞く意見は、「即死がいい」だなぁ

いか

もちろん、実際に自分が「死」に直面するようなことになったら、考え方は変わるかもしれないけどね

「どう死ぬか」は「どう生きるか」を考えること

でんでら国の爺婆たちは、生き生きと生き、そして生き生きと死んでいく

「生き生きと死んでいく」というフレーズは、なかなか面白いでしょう。小説の設定や中身については後で触れますが、本書『でんでら国』では、「死ぬ直前まで、コミュニティの中で役割が存在する」という世界が描かれます。

特徴的なのは、怪我をしたり、身体が弱っていたりする人間にも、きちんと役割があるということです。

私が「健康なまま死にたい」と考える理由は、今の世の中に対して「健康ではない人間が担える役割が限られている」と感じるからです。病気で長く仕事を休んだり、怪我をして働けなくなったり、障害を負って不自由さを抱えてしまったりすると、どうしても「出来ること」が減ってしまいます。さらにそれだけではなく、介護や介助など、他人の手を借りなければならない状況に陥ってしまうわけです。

私はどうしても、そういう状況が得意ではありません。まあ得意な人なんかいないでしょうが、特に私は、いわゆる「貸し借り」の「借り」が多くなってしまうと、心苦しくなって自滅してしまうのです。それが善意からのものであれ、お金が介在するものであれ、「誰かに何かをしてもらってばっかり」という状態はあまりに辛いですし、耐えられる自信がありません。

犀川後藤

「物を借りる」ってのもあんまり好きじゃないから、「借りる」っていう状態が全体的にダメなんだろうなぁ

いか

図書館で本借りるのとかも好きじゃないもんね

もし自分が、怪我や病気あるいは老いなどによって、それまで出来ていたことが出来なくなったとして、それでも何か役割がある、と信じられる世の中であれば、自分が弱っていく現実や、身体の不自由さを抱えながら死に向かっていく状況も許容できるかもしれません。

ただ今はそういう社会ではない以上、やはり私は「健康なまま死にたい」という感覚を捨て去ることはできないだろうなぁ、と思います。

こんな風に私にとって、「どんな風に死にたいか」を考えることは、「自分はどんな風に生きている状態が好ましいのか」を考えることに繋がっていくわけです。皆さんそうではないでしょうか。

「でんでら国」は理想的な環境

この作品で描かれる「でんでら国」には爺婆しかいません。60歳になったら、それまで住んでいた村を去り、「でんでら国」に移り住むと決まっています。そしてその共同体の中で、それぞれが死を迎えるまで重要な役割を担うことになるわけです。

「でんでら国」の素晴らしい点は、「60歳になったら必ず『でんでら国』に移り住むと決まっていること」でしょう。そして誰もが、「『でんでら国』には自分が果たすべき役割がきちんとある」と理解しています。

つまり「若い頃から、『死ぬ直前まで、自分にはきちんと役割がある』と思って生きることができる」というわけです。

これは非常に理想的な環境と言えるのではないかと私は思います。

普通、人生の晩年を自分がどんな風に過ごしているかなど、なかなか想像できないものです。65歳で「ケンタッキーフライドチキン」を創業したカーネル・サンダースのように、晩年こそ輝く人もいるでしょう。しかし逆に、若い頃はバリバリ働いていても、定年を迎えたら友達もいない寂しい老後を過ごすかもしれません。

しかし「でんでら国」の場合には、身体が弱っても病気をしても、死ぬまで自分にはきちんと役割があると、若い頃から信じて生きていられます。これは非常に重要なポイントではないでしょうか。

日本は、世界に先駆けて「超高齢化社会」を迎えようとしています。社会が激変する中、「でんでら国」のような共同体のあり方は、1つの理想に据えてもいいのではないかと感じるのです。

少しずつですが、「お金があっても、幸せとは限らない」という価値観が広まりつつあるのではないかと思っています。しかし、「じゃあどうなれば幸せなんだ?」という部分は、まだまだ探り探りといったところでしょう。「死ぬ直前まで、コミュニティの中で役割が存在する」という生き方は、その答えの1つになり得るのではないかと考えています。

平谷美樹『でんでら国』の内容紹介

舞台は幕末の東北、陸奥国八戸藩と南部藩に挟まれた大平村。ここには、「60歳を迎えた者は『御山参り』をする」という習わしがあった。「御山参り」とは、山奥へと自ら分け入り、二度と郷には戻らない、というものだ。

近隣の村は「姥捨てだ」と考え、大平村のこの風習を嫌っていた。しかし、身分の低いものは生きていくのがやっとであり、近隣の村では飢饉の際に子どもを殺すこともある時代だ。「御山参り」を非難するのはお門違いとも言える。

さて、「姥捨て」と非難される「御山参り」だが、実態はまったく違う。彼らが向かう先には、「でんでら国」と名付けた別の共同体が存在しているのだ。そこには60歳以上の者しかおらず、そこで皆新たな生活を始めることになる。「でんでら国」の存在は秘密であり、そこで作られた米には当然税が掛からない。だからこそ飢饉の折には、苦しい大平村に「でんでら国」で作った米を届けて助けたりもしている。「大平村」「でんでら国」双方にとってメリットのある仕組みなのだ

そんな大平村と「でんでら国」を繋ぐのが<知恵者>である。大平村との調整役がいないと不便だということで、若手が<知恵者>と呼ばれる役割を担い、情報交換や物資のやり取りなどを補助しているのだ。

若い頃から<知恵者>の役割を担ってきた善兵衛もついて60歳を迎え、「御山参り」へと向かう。

一方、外館藩の別段廻役(警察のような役人)である船越平太郎は、代官の田代から内密の頼まれごとを受ける。穏田探しだ。穏田とは、藩に届け出をせずに税を逃れている田んぼのことを指す。外舘藩は南部藩から内々に御用金の調達を命じられたのだが、そんな金があるはずもない。だからこそ穏田を見つけ、税を取り立て、御用金に充てようという腹だ。

しかし、穏田があると確信を持っているわけではない。何しろ、申告せずに開墾した田んぼで米を作っていることが露見すれば死罪、という時代だ。おいそれと出来ることではない。

しかし田代には引っかかる記憶があった。5年前の大飢饉の際、周辺の村が損耗を届け出たのに対し、大平村だけではきっちりと税を納めたのだ。「姥捨て」して村人を減らしているとはいえ、それだけで説明がつけられるような額ではない。

となれば、どこかに穏田があると考えるしかないではないか。

こうして、「でんでら国」の存在を秘密にしたい大平村と、御用金の調達のためにどうしても穏田を見つけなければならないお上との、壮絶な知恵比べが始まる。

平谷美樹『でんでら国』の感想

とにかくべらぼうに面白い作品でした。私は、歴史モノ・時代モノの小説は正直あまり得意ではないのですが、この作品は、そんな苦手意識も吹っ飛ぶほどスイスイ読め、真剣なのにどこか間の抜けたバトルに爆笑させられてしまいました。

冒頭であれこれ書いたように、まず何よりも「でんでら国」という設定が見事だと思います。存在を秘すことで窮地の際に助け合ったり、60歳で再び「新入り」に逆戻りしたり、60歳以上の者だけで共同体を成立させるためにその成員すべてに役割があるなど、良い事づくしだと感じました。

本来的には、「お上の目を盗んで米を作る」という目的のために生まれた「でんでら国」ですが、結果としてある種の「理想郷」としての性質を備えることになった、という設定は、非常に秀逸だと思います。

いか

お上に「怪しい」って勘付かれたのが、「飢饉の時に税を全部払った」ってのも面白いよね

犀川後藤

良かれと思ってやったことが逆効果だった、ってことだもんなぁ

冒頭からしばらくの間は、「でんでら国」の設定と別段廻役である船越平太郎の事情が描かれるわけですが、いざ「穏田探し」が始まると、「でんでら国VSお上」のバトルがひたすらに展開されていくことになります。

このバトルがとにかく面白いのです。

両者が知恵比べのような形で相手に迫っていくわけですが、しかし普通に考えればお上が有利に決まっています。当時は農民の地位がとても低く、お上に楯突くなどもってのほか、という時代なので、対等な闘いには成りえないように感じてしまうでしょう。

しかし決してそんなことはありません。何故なら「でんでら国」には、「これまでずっとお上にバレないように『でんでら国』を運営してきた」という経験を踏まえた知恵や度胸があるからです。彼らは、いずれ「でんでら国」の存在に勘付かれる可能性についてもあらかじめ検討しており、先回りして様々な準備をしてきました。だからこそ、どう考えても不可能としか思えない闘いを、互角に持ち込むことができているわけです。

またもう1つ、「でんでら国」側の強みを挙げることができます。彼らが自分たちのことを「1度死んだ人間」と捉えているということです。

彼らは、「御山参り」をした時点で、大平村では「死者」という扱いになります。そして、「既に1回死んでいる」という感覚が彼らの中にあるが故に、楽天的でいられたり、世の中の常識を無視できたりするわけです。

そんな彼らの闘いは、物語の展開と共にどんどんと予測不可能なものになり、最終的には「そんなアホな」という流れになっていきます。ただそんな奇妙奇天烈な展開さえも、「でんでら国」はあらかじめ想定し準備していた、という点が非常に面白いと感じられました。

お上を敵に回す農民が使える武器は「知恵」だけです。そんな「知恵」をフル活用し、やれるだけのことをやりきるというスタンスで闘いに挑む者たちの奮闘を是非楽しんでください。

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最後に

「死」というのはなかなかイメージが難しく、「健康なまま死にたい」という私の感覚も、「死」というものの現実を正しく捉えていないが故の机上の空論に過ぎないかもしれません

ただ、机上の空論だろうが砂上の楼閣だろうが、「どう死にたいか」を通して「どう生きたいか」を考えられることは間違いないでしょう。そういう意味で、イメージが遠くても「死」について考えてみることは、無意味なことではないと私は考えています。

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