【現実】生きる気力が持てない世の中で”働く”だけが人生か?「踊るホームレスたち」の物語:映画『ダンシングホームレス』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:アオキ裕キ, 出演:西篤近, 出演:小磯松美, 出演:平川収一郎, 出演:横内真人, 監督:三浦渉, クリエイター:—

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • ホームレスになるのにはそれなりの事情がある
  • 他人にさほど迷惑をかけないのであれば、どんな生き方も許容されるべきではないか
  • 「自分の感覚」を優先しても、いつでも社会に復帰できる世の中であってほしい

この映画は、「こんな社会でいいのか?」と、私たちに強烈な問いを突きつける映画だと思う。

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『ダンシングホームレス』が突きつける「社会のルールの方がいいですか?」という問いかけに、あなたならどう答えるか?

ホームレスは”怠け者”なわけではない

一般的に「ホームレス」というのは、「仕事をしたくない人たち」「ただ怠けている人たち」という風に見られがちだと思う。特に、社会の中で「自分だって苦しいのに」と思いながら踏ん張って生きている人からすれば、「仕事が無いなんて甘えだ」「努力が足りないんじゃないか」と感じられてしまうのかもしれない。

私は、ホームレスの人たちにそんな印象を抱いたことがない。なぜなら私は、「自分がいつホームレスになってもおかしくない」とリアルに想像しながら生きていたからだ。

子どもの頃からどうも、学校・家族・社会に馴染めない感覚が強くあった。どこで何をしていても、「なんか違う」という感覚がつきまとう。子どもの頃より薄れているとはいえ、今でもそういう感覚がゼロになったわけではない。

中学生の頃には既に、「自分はサラリーマンにはなれない」と判断していた記憶がある(どうしてそう思ったのか理由までは覚えていないが)。勉強だけは好きだったので、割と良い大学に進学するも、就職活動が怖くなって中退。その後長くフリーターを続けた。現在に至るまで正社員として働いたことがない。そんな状態で、コロナ禍でもなんとか無事生き延びている。ありがたいことだ。

社会で真っ当に生きている人からすれば、私のような生き方は「不真面目」「努力していない」と映るかもしれないが、私としてはその時々で必死だった。普通の人なら当たり前にできるだろうことが私には上手くできず、四苦八苦しながらどうにか人生と折り合いをつけてきたつもりだ。

たぶん私の人生など、どこかのタイミングでちょっと何かが違っていたら、すぐさまホームレスまっしぐらだったと思う。私がホームレスにならなかったのは、運が良かったからに過ぎない

映画に登場するホームレスの人たちにも、様々な事情がある。

映画の中でメインの人物として取り上げられている平川収一郎は酷い少年時代を過ごした。父親から木刀で殴られるなど苛烈としか言いようがない暴力が日常茶飯事の生活に耐えきれず、15歳で家出。当時はまだ、年齢をごまかして住み込みの仕事ができたが、今は時代が変わり雇用の条件が厳しくなった。15歳の時点では身分証など持ちようがなく、その後新たに作る方法も分からないまま、身分証がなければ仕事を得られない時代においてホームレスになってしまったというわけだ。

さて、このような背景を知ってもなお、「サボっている」と判断できるものだろうか?

もちろん、怠けていると判断せざるを得ないホームレスもきっと中にはいるだろう。しかしそれは決して多数派ではないはずだ。コロナ禍で、やむにやまれずホームレスになってしまった人もたくさんいることだろう

そして、ホームレスについて知れば知るほど、ホームレスを生み出しているのは、「働かない人間は怠け者だ」と断定する社会の風潮の方なのではないか、と考えてしまう。

この映画は、ホームレスの人たちによるダンス活動を映し出すドキュメンタリーだが、その振り付けを行っている振付師のアオキ裕キがこんな風に言う場面がある。

社会のルールの方がいいですか?

この場面から私は、この映画はホームレスを描くのと同時に、「社会のルールに唯々諾々と従っている私たち」をも切り取るものだと感じた。

生き方には、もっと多様性が認められていい

さて、ここまで書いてきたことと矛盾するような話をこれから展開するが(私は矛盾しないと考えているが、そう思わない人もいるだろう)、映画に登場するホームレスの西篤近がこんな発言をする場面がある。

仕事に就くことに、まだ気持ちが乗らないんですよね。仕事をするって、自分のために働くとか、自分のためにお金を稼ぐとかじゃないですか。でも、そういう部分に気分が乗らない。もちろん、自己実現のためとか、誰かのために働くみたいなのもあると思います。じゃあ自分は? って思った時に、自分が一番やりたいと思えることが、今のダンスなんですよね

これは見方によっては「怠けている」と捉えられるだろう。

しかし、これが「怠けている」と受け取られる理由は一体なんだろう? 恐らくそれは、三大義務として「勤労」が位置づけられているからだと思う。三大義務のことを特には意識していなくても、「働くことは生きる上で避けては通れないものだ」と考えている人は多いはずだ。

しかし、本当にそうだろうか?

Wikipediaの「勤労の義務」の項目には、

そもそも自由主義を掲げる国の憲法に「勤労の義務」を規定することはふさわしくないとの意見がある。「納税の義務(日本国憲法第30条)」を規定していれば「勤勉の精神」は十分確保できるものであるとしている。

Wikipediaより

と書かれている。少なくとも、「勤労」が義務であるかどうかについて議論がある、と言えるだろう。

私も、「勤労」が義務であることには違和感を覚える。「他人に”さほど”迷惑を掛けない」という状態を満たし、「社会的な財・サービスをある程度受けているのなら納税を行う」のであれば、働く必要は別にないだろう、と感じてしまう。

ホームレスの人たちは、確かに他人に迷惑を掛ける存在かもしれないが、誰だって普通に生きているだけで他人に迷惑を掛けているものだ。ホームレスの人たちは、それが目に付きやすい、というだけにすぎないと私は思っている。また、彼らが受けている財・サービスなど、ほとんど無いと言っていいだろう(まったくゼロとは言わないが)。納税しなければ許されない、と目くじら立てるほどではないというのが私の意見だ。

もちろん、ホームレスの数が異常に増加するとか、ある地域に密集するといった状況になれば、それまで顕在化しなかった問題が目に見えてくるようになるかもしれない。だからこれは程度問題だと思ってもらえたらいい。状況が変われば、私の意見も変わるだろう

望まずにホームレスになってしまう人ももちろんたくさんいる。そういう人たちには支援が必要だと思うし、社会復帰への道筋が広く残されていると良いと思う。しかし一方で、社会に上手く馴染めず、ある意味で望んでホームレスになるような人もいる

そして私は、そういう生き方は許容されてもいいのではないか、と思っている。「他人に”さほど”迷惑を掛けない」という条件付きではあるが、誰もが「社会のルール」に則って生きていかなければならないわけではないと思うのだ。

「仕事をしてお金を稼ぎ、ちゃんと家で生活すること」よりも、「社会に出ず、仕事もせず、家はないが目の前にある環境の中で自分なりに生きていくこと」が劣っているとは私には思えない。それに、「お金を稼ぐために悪事スレスレの行為を行うこと」の方がホームレスの存在以上に社会を悪化させている可能性だって充分にあるのではないかとも感じる。社会のルールに則っているかどうかと、その行動の良し悪しはあまり関係ない。

「自分の感覚」を優先しても、いつかまたレールに戻れる社会の方がいい

アオキ裕キが代表を務める、ホームレスたちによるダンスチーム「新人Hソケリッサ」では、練習や稽古への参加を強制することはない。練習の前に行うストレッチの時間に寝てしまう者がいても、そのまま起こさない。

彼は何よりも、その時々のその人の感覚こそが大事だと考えている。だからこそ、稽古に行きたくないと思うならその感覚を優先すればいい、と伝えているのだ。

アオキ裕キはこんな風に語っている。人間は、普通にしていると先々のことを考えてしまう。だから、「こんなことをしたら恥ずかしいと思われるかもしれない」と考えて、表現ができなくなる。それじゃあ面白くない。自分は、踊ることによってホームレスの魅力を引き出したいと考えている。だったら、その瞬間の感覚に常に正直でいてもらう方がいい。そんな思いから、ダンサーには何も強制しないのだという。

これを聞いた監督が、「それは一般的な社会のルールとは違いますよね?」と問いかけた際の返答が、先に挙げた「社会のルールの方がいいですか?」というわけだ。

アオキ裕キのこのスタイルは、もっと社会の中に組み込まれてもいいように思う。

誰もが実感しているだろうが、私たちが生きている社会では、一度レールを外れると、元の場所に戻ることはほぼ不可能だ。絶対に無理ではないし、レールを外れたことによって以前よりも遥か高みへと上っていける人もいるだろうが、そういう話はレアケースに過ぎない。

だから私たちは、「どうにかしてレールから外れないようにしよう」と必死になるし、そうであれば自分の感覚を優先することなど不可能だ。「今日は会社に行きたくないな」と感じても、「しばらく働かないでダラダラしてみようかな」と思いついても、実行には移せない。レールから外れたら元には戻れないという恐怖が染み付いているからだ。

アオキ裕キのように、自分の感覚を優先してもいつでも元の場所に戻ってこれるのであれば、もっとみんな気楽に生きていけるはずだ。もちろん、そう簡単ではないと理解しているが、みんながちょっとずつ不便さを分かち合えば実現は遠くないと思う。電車が時間通り到着しなくても、ネット注文の商品が翌日届かなくても、別にいいじゃないかと思えれば、社会を動かす大きな機械のネジを、もう少し緩められるのではないだろうか。

また、様々な経験をしている人間が社会のあちこちに偏在している方が、社会は多様性をより目指しやすくもなるだろう。それこそ、ホームレス経験のある政治家がいてもいいじゃないかと思う。

映画に登場するホームレスの一人は、

路上生活は、人間性が欠落していくんです

と語っていた。ホームレスに限らずとも、「人間性が欠落していく」経験などたくさんあるだろうが、ホームレスでなければ体感できないこともあるだろうし、その感覚がホームレス以外の世界に広がっていくためには、元ホームレスという経歴の人間が社会の様々な場所にいる必要がある

極端な話、ホームレスになっても政治家を目指せる社会であれば、「自分の感覚」を優先して社会のレールを外れてみる人は増えるように思うし、結果的に自殺者やホームレスは減少するのではないかとも思う

コロナ禍で改めて実感した人も多いはずだが、私たちは、いつホームレスになってもおかしくない、割と綱渡りの人生を歩んでいる。「絶対に安泰だ」と思われていた職業の人たちがコロナ禍で苦労を強いられている現状を、メディアやネットなど様々な形で知る機会があるはずだ。

コロナウイルスというのは確かにあまりに特殊な状況かもしれないが、これからも未来にどんな事態が起こるか誰も分からないし、それがどんな悪影響を自分にもたらすのかも想像できない。社会が複雑になればなるほど、「風が吹けば桶屋が儲かる」的な難解な理屈で窮地に追い込まれてしまう可能性は充分にある。

そして、今私たちがホームレスに向けている視線は、自分がホームレスになってしまった時にそのまま跳ね返ってくることになる

そういう想像力を持って、「ホームレス」という存在について考えた方がいいのではないだろうか。

映画『ダンシングホームレス』の内容紹介

映画は、「新人Hソケリッサ」に所属するホームレス(あるいは元ホームレス)に密着し、今の生活やホームレスになった経緯について聞きつつ、「新人Hソケリッサ」としての活動についても追っていくという内容になっている。

「新人Hソケリッサ」というのは、ホームレスの自立支援を行う「ビッグイシュー」のサークルとして立ち上がったようだ。全員そうなのかは映画からは分からなかったが、メンバーの多くは「ビッグイシュー」という雑誌を販売することで現金収入を得ている。

映画撮影時には結成から10年以上が経っており、路上でダンスを披露したり、イベントや公演などに呼ばれることもあるという。

路上生活を経験している人たちの身体から溢れ出てくるものに魅力を感じる

と語るアオキ裕キが、ホームレスの魅力を引き出し、彼ら自身に感情や内面を吐き出させるきっかけとしても機能しているダンスという表現を通じて、ホームレスではない我々に「社会のルールの方がいいですか?」と問いかけていく映画だ。

映画『ダンシングホームレス』の感想

なかなか興味深い映画だった。「ホームレス」という存在を「ダンス」という切り口で描き出すという構成も面白いし、何より彼らに深くコミットしているアオキ裕キの存在が魅力的だ。

彼は元々、チャットモンチーの『シャングリラ』やL’Arc-en-Cielの『STAY AWAY』の振付を担当するなど、華やかな世界で活動する振付師だった。しかし今は、空いた時間は施工のアルバイトをしてソケリッサの活動資金を稼ぐという、それまでとはまったく違う人生を歩んでいる。

彼がホームレスにダンスを教えるようになったのは、振り付けを行う中で感じるようになった「違和感」にある。「振り付けをする」というのが、「その人の個性を消していく作業」だと感じられるようになったのだ。

「こんな風に全体を揃えよう」「ここで止まったらカッコイイ」という指示は、そもそもダンサーの個性を無視するものでしかないし、「言われた通りにちゃんとやろう」という意識が強くなることで、その人自身の内側から何も出てこなくなってしまう。そういう現実に直面し、もっと「ダンスの自由さ」みたいなものを伝える方法はないだろうか、と考えている中で、ソケリッサの活動と関わるようになっていったのだという。

新しい意気込みで臨んだソケリッサの活動だったが、やはり当初は「動きそのものを教える」という、それまでと変わらないやり方をしていたという。しかし、それではどうしても上手くいかなかった。そこで、試行錯誤の末に彼が導き出したやり方が、「言葉を伝え、その言葉から連想される動きを表現してもらう」というものだ。

例えば、「覆う群青」「花畑を進む巨体」「太ももを閉じて下げる」「熱を吸い込む口」というような言葉をダンサーに伝え、そこからイメージされる動きをその人自らの解釈で表現してもらう。それらを繋いで、全体を構成していくのだという。

映画の中では、ソケリッサで行っているそのやり方を、一般の人も交えて行うワークショップの場面も描かれていた。ソケリッサのメンバーと一般の人が2人1組となってダンスを披露するのだが、その日初めて会ったとは思えないほどのコミュニケーションが行われていて、面白いスタイルだと感じた。

「ホームレスの支援」というと、もっと生活に根ざした直接的なものがイメージされるだろうし、それはそれで当然重要だ。しかし、アオキ裕キの挑戦もまた、支援のいち形態だと感じた。「これは支援と言えるのか?」という見方も当然存在するだろうが、衣食住が満たされていさえすれば充分だと言えないのは、ホームレスでも同じだだろう。もしかしたら、より本質的な支援であるとも言えるかもしれない。

出演:アオキ裕キ, 出演:西篤近, 出演:小磯松美, 出演:平川収一郎, 出演:横内真人, 監督:三浦渉, クリエイター:—

最後に

アオキ裕キの活動は、「ホームレスたちに感情や思いを発露してもらう」という意味での「支援」だと感じる一方で、「社会の何かに対するアンチテーゼとしてのアート」という側面もあると思う。ある意味でホームレスの人たちというのは、「『生きている』ということが表現になる存在」と言えるだろうし、「生きている」の根底に過酷な経験がある彼らにしかできない表現があるとも言えるだろう。

私はアート方面には疎く、彼らのダンスを見ても良いとも悪いとも感じられないのだが、しかし、彼らの存在や表現が、「窮屈な社会をちょっと違った方向にずらしてくれる」のではないかと期待しているし、そういう力強さはひしひしと感じさせられた。

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