【誤り】「信じたいものを信じる」のは正しい?映画『星の子』から「信じること」の難しさを考える

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:芦田愛菜, 出演:岡田将生, 出演:大友康平, 出演:高良健吾, 出演:黒木華, 出演:蒔田彩珠, 出演:新音, 出演:永瀬正敏, 出演:原田知世, 監督:大森立嗣, Writer:大森立嗣
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いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「自分の判断は間違っていない」と考えることは間違っていると私は思う

犀川後藤

それがなんであれ、「疑う気持ち」は常に頭の片隅にあるべきではないだろうか

この記事の3つの要点

  • 何故「物質が原子からできている」と信じることができるのか?
  • 「奇跡の水を信じること」はなぜ「おかしい」と感じられるのか?
  • 「信じることの難しさ」を常に抱えながら生きていくしかない
犀川後藤

「100%正しいもの」は存在しないからこそ、「何故それを信じているか?」を考えることはとても大事なのだ

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『星の子』は、「信じたいものを信じること」の難しさと勇気について考えさせる

「物質が原子からできている」と、疑いもなく信じているのは何故か?

多くの人が、理科や物理の授業で「すべての物質は原子からできている」と習ったことがあるでしょう(実際には「クォーク」と呼ばれる、原子よりさらに小さなものの存在が分かっているのですが、とりあえずここでは「原子」で話をします)。恐らく多くの人が、「へー、そうなんだ」と思いながら、特に疑うこともなくそのことを信じているのではないかと思います。

しかし、何故そう信じられるのでしょうか

私は人生で一度も「原子」を自分の目で見たことがありません。触ったり匂いを嗅いだりしたことももちろんないわけです。「やっぱり物質って原子からできてるよねぇ」と実感することは、日常生活の中にはまずありませんし、実際には物質が原子以外のものから出来ているとしたってそのことに気づかないでしょう。

いか

なんか、すげぇ屁理屈から始まったな

犀川後藤

まあ、少々お付き合いください

でも私は、「物質が原子からできている」と信じています。元々理系の人間だから、ということもあるかもしれませんが、しかしそんなことは関係なしに、世の中の多くの人が、私と同じく当たり前のようにそう信じているでしょう

見たことも触ったことも実感したこともないのに、そう信じていられる理由については、細かく考えれば色々とあるかもしれませんが、大きく以下の3つに集約できるのではないかと思います。

  • ①偉い人がそう言ってるみたいだから
  • ②みんながそう信じてるみたいだから
  • ③そう信じたとしても、自分に害はないから

どうでしょうか? これ以外の、もっと明確な理由があるという人は教えてほしいですが(現役の科学者で、実際に原子を見たことがある、など除く)、大体こんなもんだろうと思います。

そしてこれは、自分が見たり体験したりしたことではない何かを「信じる」場合にも、同じようなことが言えるでしょう。原子の話から広げるためにもう少し一般的に書けば、

  • ①自分が信頼している人がそう言っているから
  • ②周りのみんながそう信じているみたいだから
  • ③そう信じることでメリットがある、あるいは、そう信じてもデメリットがないから

となるでしょうか。

いか

まあ、確かにそうなるかなぁ

犀川後藤

「信じる」と強く考えるようなことじゃなくても、普段特に疑問を抱きもしないことへの「信頼」って、大体こんなもんだよね

さて、この基準を元に、「奇跡の水」を信じるかどうかについて考えてみましょう

病気を治す「奇跡の水」をあなたは信じるか?

この映画では、飲めば風邪を引かなくなるし、様々な病気が治ると宣伝される「奇跡の水」が登場します。

さて、先に自分の結論を書いておくと、私はこのような「奇跡の水」の存在は信じません。では、これから何を書こうとしているのかというと、「奇跡の水を信じている人を、簡単に非難できるのか?」についてです。

先程の基準に照らして考えてみましょう。

映画の中で主人公は、

この水は偉い科学者がその効用を証明している

と語っています。普通に考えれば、「怪しい」「嘘だ」と感じるでしょう。しかし主人公の態度は、私たちが原子を信じるそれと同じです。私たちも、「科学者がそう言っているから」という理由で信じています。「物質は原子からできている」という論文を読んで確かめることもしないし、科学者を質問攻めにすることもないでしょう。つまり、基準①の点でいえば、「奇跡の水」も「原子」も大差ありません。

いか

そうだと信じて飲めば、病気が治っちゃうことも実際にあるだろうしなぁ

犀川後藤

プラシーボ効果ってやつね

また、主人公の周りには、両親を始めとして、この「奇跡の水」の効用を信じている人がたくさんいます。それは、ある種の宗教団体のようではありますが、しかし、日々集会が開かれ、時には研修旅行も行われる中で、この水のことを信じているたくさんの他人に出会うことになるわけです。これもまた、「周りのみんながそう信じているみたいだから」という基準②をクリアするでしょう。

さらに、仮にこの「奇跡の水」の効用を信じても、大きな実害はありません。もちろん、普通の水より高いと思いますが、「平均より高いものにお金を払う人」など世の中にたくさんいるでしょう。私には、数百万円も掛けてバッグや靴を買う人と大差ない、と感じられます。大量に飲み過ぎなければ「水」は健康に大きな影響を与えないし、また信じて飲めば本当に病気が治る可能性もあるわけです。

”実害”という意味で言えば、例えばこの「奇跡の水」を売る団体が、儲けたお金で何か犯罪行為に加担している、というのなら、「奇跡の水」を買っている人も間接的な”加害者”と言えるかもしれません。そうだとするなら、私も、基準③に照らして、この「奇跡の水」を信じる人にNOと言えるでしょう。しかしこの点に関しては、「犯罪行為に加担していること」が明白になった、あるいは疑いが濃厚になった時点で判断されるべきだと思います。少なくとも、この映画ではそのような予兆については描かれません。

さて、このように考えた場合、「物質が原子からできていると信じる人」と「奇跡の水を信じる人」の何が違うのか、ちょっと分からなくなってくるのではないかと思います。

いか

うーん、確かにこんな風に言われると、返答に困るかもなぁ

犀川後藤

普段の生活の中で、「なぜそれを信じるのか?」なんて、なかなか考えないからね

コロナワクチンへの拒否反応はなぜ生まれるのか?

ここまでの説明とまったく同じ理屈で、コロナワクチンへの拒否反応も説明できてしまうでしょう。

若い世代ほど、コロナワクチンに対する不信感を抱いている人が多い、と報道されます。私はSNSをほとんど見ないので直接には知りませんが、ネットでデマが広まっているのだそうです。

ネットで広まっているらしいデマというのは、「ワクチンを打つと磁石人間になる」だとか、「ワクチンを打つと体内の遺伝子が組み替えられてしまう」など、常識的に考えれば「あり得ない」ような話なのですが、これらの言説を信じてしまうのも、ここまでの話とほとんど同じでしょう。

デマを発信する人は、「権威ある人が言っている」と主張するに決まっているし、SNSでは似たような人が集まりがちだから周りに「コロナワクチンを信じていない人」がたくさんいることになるし、コロナワクチンのデマを信じている人からすれば「打たない方がメリットがある(身体に害がない)」と思っているわけです。3つの基準をすべて満たしていると言えます。

犀川後藤

私は近しい人から「コロナウイルスそのものを信じてない」と言われて驚愕したよ

いか

世の中色んな人がいるよね……

「奇跡の水」の場合は、それを信じようが信じまいが、正直そこまで大した問題ではありません。「奇跡の水」を信じることでクラスメートからハブられるなら信じるのを止めればいいし(この映画の場合は「両親が信じている」という点に難しさがあり、容易な決断ではありませんが)、高いお金を払うことになってしまうのは「何にお金を使うか」という個人の選択でしかないと思うからです。

しかしコロナワクチンの場合は、「奇跡の水」と同じというわけにはいきません。打たないことで打たない本人がコロナウイルスに感染する確率は格段に上がるし、それは社会全体にとってもマイナスとなるからです。

では、信じるべきものと信じるべきではないものを、どう判断すべきでしょうか

信じる信じないの基準としての「反証可能性」

そのそもですが私は、「科学」を信じた方がいいと思っています。「科学」というのは、もの凄い厳密さで「何をもって『正しい』と判断するか」という手続きが定まっていて、「100%正しい」と主張しない代わりに、「科学的に証明されれば、『正しい』確率はかなり高い」と言えます

例えば、科学がどれだけ厳密かという例を紹介しましょう。

「ヒッグス粒子」が発見されたと話題になったことを覚えているでしょうか? このヒッグス粒子、2012年に「発見」されたのですが、2011年の時点で「ヒッグス粒子が存在する確率は98.9%」というところまで来ていました

日常生活で言えば、98.9%なんてほぼ100%と言っていいし、この時点で「発見した」と判断してもいい気がします。しかし科学ではそうはいきません。科学において「何かを発見した」と主張するためには、「存在確率99.9999%」まで確認しなければならない、と決められているからです。恐ろしく厳密だと感じるのではないでしょうか。

もちろん科学者の中にも嘘をついたり不正を働く者もいるので、科学者の言っていることが何もかも正しいと言いたいわけではありませんが、科学においては「正しさの基準」が相当明確に定められているので、嘘や不正がなかなか生き残りにくいとも言えます。

犀川後藤

とはいえ、「エセ科学」と言われるものは、日常の中に結構あるけどね

いか

「マイナスイオン」とか「ゲーム脳」とか「ホメオパシー」とかね

さて、ここで重要なのは「何をもって『科学』と判断するか」です。「奇跡の水」も「科学者が有効性を確認した」とされていました。ではなぜこの「奇跡の水」は「科学」ではないのでしょうか。

そこで出てくるのが「反証可能性」で、「どうだったらそれが『間違い』と判定されるか」という意味です。そして、意外かもしれませんが、「科学」はこの「反証可能性」を必ずと言っていいほど含みます

科学者というのは、何か仮説を提唱しますが、それは必ず「予測」を含みます。「予測」とは、「この仮説が正しければ、◯◯になる」ということですが、これは同時に、「◯◯にならなければ自分の仮説は間違い」という主張でもあるのです。

つまり、「どうだったら『間違い』と判定されるか」という「反証可能性」を含まないものは、「科学ではない」と判断していいでしょう。「奇跡の水」はすべての病気を治すはずがないので「間違い」と判断されるはずですが、信仰などの何らかの理由によって「これは間違いではない」という説明がなされるのだと思います。そして、そのような説明が出てきた時点で「科学ではない」と判断していい、ということです。

そしてこの考え方は、日常的な場面でもかなり活かせるだろうと思います。繰り返しますが、「間違いだと判定される可能性が0%、あるいはかなり低い話」は「科学ではない」と判断していいですし、大体そういう話は「嘘」だと思うべきでしょう。

「自分が間違っている可能性を想像できない人」は好きになれない

そして、「反証可能性」とはまた違う話だが、何かを”信じる”時に、「自分の判断が間違っている可能性」も常に頭の片隅に残しておくべきだろう、と私は考えています。

先程も書いた通り、私は「奇跡の水を信じる人」を軽々に非難できません。私は、「奇跡の水を信じることは誤りだ」と思いますが、仮にそれが誤りだとしても「信じる行為」がダメなわけではないでしょう。誰だって、誤っている事柄を信じている可能性は常にあるし、誤っていると分かっていてそれでも信じるしかないという辛い境遇に置かれている人もいるかもしれないと思うからです。

犀川後藤

前に聞いて印象的だったのは、「頭ではゲームを止めたいと思ってるのに手が止められなくて泣きながらプレイしたことがある」って話

いか

「中毒」になってしまうと、自分の判断ではどうにもならないもんねぇ

ただし、「自分の判断が間違っている可能性を1ミリも抱いていなさそうな人」には、違和感を覚えてしまうことが多くあります。

何を信じていてもいいし、仮に信じているものが誤りであろうが「それを信じる行為」は間違いではないと考えていますが、「狂信」と呼ぶのが相応しい、一点の曇りもなく何かを信じている状態に対しては怖さを抱いてしまうのです。

この映画の主人公は、疑念を抱きつつも、「両親が信じているものを信じたい」という気持ちから「奇跡の水」を信じます。彼女のスタンスは決して非難されるべきではないでしょう。それは、ここまで説明してきた通り、私たちが何かを信じる時の態度と大差ないからです。

しかし、彼女の両親が「奇跡の水」を信じるスタンスは、ちょっと難があるかもしれないと思います。理由があるとはいえ、両親が「奇跡の水」をあまりに疑わないからです。もしかしたら、「自分が信じているものに対して他人から不信感を示されると、より信じたいという気持ちが強くなる」という心理が働いているかもしれないし、あるいは、「奇跡の水」無しの生活などもはや考えられないから、絶対的なものだと信じ込むことでなんとか自分を支えているという可能性もあるでしょう。

しかしいずれにしても、「自分の判断が間違っている可能性」を抱けないとすれば、「信じる」という気持ちそのものが無意味になってしまうと私は思います。「反証可能性」が含まれないものは「科学ではない」のと同じように、「疑いなく信じる対象」は「正しくない」と私には感じられてしまうからです。

「何かを信じること」は、他人や社会と軋轢を生まなければ完全に個人的な行為であり、自分が思う通りにすればいいでしょう。しかし、信じる気持ちが強くなればなるほど、その行為は残念ながら他人や社会と摩擦を引き起こす可能性が高くなります。

だからこそ私は、「信じている対象を疑う勇気」を持つことも、一方では大事なのではないか、と考えてしまうのです。

映画『星の子』の内容紹介

生まれたばかりの頃、全身が湿疹だらけだった娘・ちひろに対して、母親は「もうどうしたらいいかわからない」と日記に書くほど追い詰められていた。そんな時、父親が会社の同僚から耳にしたのが「金星のめぐみ」という水の存在だ。特別な力があるというその水でちひろの身体を拭くと、不思議なくらい湿疹は良くなっていった。

以来ちひろの両親は、「星々のちから」という団体の商品を疑いもなく買い続ける「信者」となっていく。

15年後。中学生になったちひろは、新しく赴任した数学教師・南隼人に恋をする。数学の授業中はずっと先生の絵をノートに描き、クラスメートも皆「ちひろは南先生のことが好き」だと知っている。数学の授業以外になかなか接点が持てずにいたが、ちひろは密かに恋心を募らせていく。

ちひろは「金星のめぐみ」を学校に持っていって飲み、両親の”信仰”のこともそれなりに受け入れていた。「星々のちから」の集会や旅行にも参加しているし、そこに友達もいる。ちひろの両親の”信仰”を知った上で仲良くしてくれるクラスメートもいるので、ちひろはこれまで”信仰”について頭を悩ませることがなかった

ある日、委員会の仕事で遅くなったちひろは、友人たち何人かと南先生の車で送ってもらえることになったのだが……。

映画『星の子』の感想

非常に静かに展開していく物語なのですが、ずっとざわざわさせられっぱなしの映画でした。

この記事であれこれ書いたように、「信じるということ」について物凄く色んなことを考えさせられます

私は、自分がしている決断や選択を「正しい」と思っているし、皆さんもそうでしょう。時々「あー、過去のあの決断・選択は間違いだったかもしれない」と感じることはあっても、日常的に常にそう思わされているという人は多くないはずです。

しかしこの映画でちひろは、「自分のこれまでの決断・選択は、全部丸ごと間違いだったのかもしれない」というかなり壮大な問いかけをされ続けます。これはかなりハードな経験だと言えるでしょう。

両親が当たり前のように信じているものを、ちひろも当たり前のように信じています。そして運良くそれまで、その「信じる行為」によって周囲と大きな摩擦が発生することはありませんでした。しかし、いざ大きな摩擦が起き、火傷せんばかりにその熱に当てられて初めて、「自分が信じていることは誤っているのかもしれない」と考えざるを得なくなるわけです。

しかし15歳の少女からすれば、やはりまだまだ両親の存在は大きなものでしょう。両親が信じているものを、丸ごとすべて捨てて我が道を進んでいくというわけにもいきません

これほどの板挟みに置かれる人はそう多くないでしょうが、しかし誰もが同じ状況に置かれる可能性はあります。誰だってちひろと同じように、「自分の決断・選択は間違っていない」と感じているのですから。

自分が信じていた世界が崩壊しかけた時どのように自分の世界を支えてあげればいいのか。いつか来るかもしれないそんな瞬間のために、「信じるという行為」について、改めて考えてみるのもいいでしょう。

出演:芦田愛菜, 出演:岡田将生, 出演:大友康平, 出演:高良健吾, 出演:黒木華, 出演:蒔田彩珠, 出演:新音, 出演:永瀬正敏, 出演:原田知世, 監督:大森立嗣, Writer:大森立嗣
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最後に

何が正解で何が間違いなのか非常に曖昧な状況の中で、15歳の少女が懸命に何かにしがみつこうともがく姿が印象的な映画です。

私たちの日常は、ある意味で「思考停止に近い信仰」の重ね合わせによって作られているだろうし、それは何かのきっかけで大きく崩れ去ってしまうものでもあるでしょう。「お金」や「国家」はもともと幻想でしかないですし、「会社」や「友人・家族」も、自分の思い込みにすぎないかもしれません。

コロナウイルスの蔓延をきっかけに、そのようにことを実感させられた人も多いのではないでしょうか。そういう意味で、まさに今ちひろと同じような問いに直面している人は、世の中にたくさんいると言えるかもしれません。

あなたなら、どんな決断・選択をするでしょうか

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