【絶望】杉咲花主演映画『市子』の衝撃。毎日がしんどい「どん底の人生」を生き延びるための壮絶な決断とは?

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:杉咲花, 出演:若葉竜也, 出演:森永悠希, 出演:倉悠貴, 出演:中田青渚, 出演:石川瑠華, 出演:大浦千佳, 出演:渡辺大知, 出演:宇野祥平, 出演:中村ゆり, 監督:戸田彬弘, プロデュース:小西啓介, プロデュース:King-Guu, プロデュース:大和田廣樹, プロデュース:小池唯一, プロデュース:亀山暢央, Writer:上村奈帆, Writer:戸田彬弘

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 川辺市子の過去には一切触れず、映画『市子』の凄まじさについて書く
  • 法律も倫理もなぎ倒していく市子を「許容したい」と感じてしまう理由
  • 「もし市子が身近にいたら、私は彼女のことを助けられるだろうか」と考えてしまった

市子が纏う「魔性」が必要不可欠な物語であり、それを杉咲花が見事に醸し出す、とにかく凄まじい作品だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『市子』は、杉咲花の演技がとにかく圧巻だった!壮絶過ぎる人生を生きざるを得なかった少女の葛藤と決断を、凄まじい熱量で描き出す作品

何はともあれ、「杉咲花が圧巻だった」としか言いようのない映画だった。杉咲花以外でこの役を演じられる役者はちょっといないんじゃないだろうか。それぐらい、凄まじい演技だったと思う。

彼女が演じたのは、映画のタイトルにもなっている市子。そして物語は、「市子がどのような過去を背負っているのか」にその焦点のほとんどが当てられている

だから、作品の中身について具体的に触れるのは難しい

もちろん本作には、「市子を助けようとする者」の物語も描かれる。しかしやはりそれは、「市子」という女性の凄まじい存在感を前提とした、ある種の「付属物」のようなものと言っていいと思う。そして、その「市子の存在感」は、「市子が辿ってきた過去」から生み出されるのであり、その壮絶さを体感するために本作を観ると言っても過言ではないのだから、この記事で「市子の過去」に触れるわけにはいかないのである。

だからこの記事では、「市子の過去」そのものには一切触れない。もちろん、「大変な状況を経験してきた」と示唆するようなことは書くが、具体的なことは書かないつもりだ。

さてそうなると、映画『市子』の中身に触れる場合、もう1人の主人公・長谷川義則視点で書くしかないことになる。というのも彼は、3年間も市子と共に暮らしながら、市子についてほとんど何も知らなかったからだ。つまり、観客とほぼ同じ立ち位置の人物なのである。

そのためこの記事では、「長谷川義則には何が見えていたのか」という観点から、映画『市子』について触れていこうと思う。

映画『市子』の内容紹介

物語は、2015年8月13日に始まる。この日、市子が姿を消した

長谷川はいつものように仕事から戻ったのだが、部屋にいるはずの市子がいない。開け放たれたままのベランダには、市子の荷物が詰まったバッグが置かれている。事件の可能性もあるのかもしれない。しかし恐らく、何らかの理由でバッグを持ち出すことを諦め、自らベランダから出ていったのだろうと思われた。こうして、3年間共に暮らしていた時間が、唐突に終わってしまった

その前日のこと。給料日前で家計が苦しい2人は、「肉が少ないシチュー」を食べていた。そこで、「子どもの頃に好きだった食べ物」の話になる。長谷川は「肉」、そして市子は「味噌汁」と答えた。市子にとって味噌汁は「幸せの匂い」なのだそうだ。それを聞いた長谷川は、バッグからあるものを取り出す。婚姻届だ。ストレートに「結婚して下さい」と口にする長谷川に、市子は困惑の表情を浮かべつつも、泣きながら「嬉しい」と答えた

市子が失踪したのは、その翌日のことだったのである。

8月21日。長谷川の元に、後藤と名乗る刑事がやってきた。何故か、川辺市子のことを探しているのだという。「何らかの事件に関係している」ことまでは探れたものの、詳しいことは教えてもらえない。そんな中長谷川は、刑事から市子について色々聞かれるのだが、「お互いのこと、あんまり話したことがなくて」と答えることしかできなかった。一緒に住んではいたものの、市子の「これまでのこと」にあまり深入りしたことがなかったのだ。

お互いに収穫のない時間を過ごしつつ、刑事は、長谷川が撮影した市子の写真を見ながら、こんなことを口にした。「彼女、どうも存在せぇへんのですよ」。刑事は、なんとも不思議そうな顔をしていた。

長谷川は独自に市子のことを調べ始める。新聞配達の仕事をしていたと聞いたことがある長谷川は、市子のかつての職場を訪ね、そこで「当時同じ寮で暮らしていた、今パティシエをやっている女性」を紹介してもらった。そして、実際に彼女と会い、当時の市子の話を聞かせてもらう

こうして、後藤が自力では絶対にたどり着けないだろう情報を手に入れた長谷川は、それを手土産に刑事と交渉した自分が知っている情報を提供するので、市子のことを教えて下さい、と。

「もし自分が市子の立場だったらどうしただろうか」と考えさせられた

鑑賞中、頭の片隅にずっとあったのは、「もし市子と同じ立場にいたらどうしただろうか」という思考である。これは、「法を犯す決断をした市子を許容できるのか」という問いの裏返しであるとも言える。

本作を観て、「市子がやってきたことは、法律的にも倫理的にもアウトなのだから、到底許されるものではない」としか感じられない人は、ちょっと想像力に欠けるのではないかと私は思う。もちろんそれは、立場によっても変わる。後藤みたいに「法律を守らせることが責務」であるような人だとしたら、個人の見解はともかく、職業人としては「市子のやったことは許容できない」と判断すべきだし、それは当然のことだろう。ただそういうことは一旦脇に置いて、一個人の立場で市子を捉えた場合でも、「マズいことしてるんだからダメに決まってる」としか判断できないとしたら、それはまた問題であるように私には感じられるのだ。

長谷川の認識では、2015年8月13日に失踪した時点におけるの市子の年齢は28歳。そして、その28年間の人生を想像することは、とても難しい。本作では2015年の他に、2008年から2010年に掛けての話、つまり、市子が20歳を迎えてから数年間の出来事が多く描かれる。そして何よりも、そこに至るまでの20年間の市子の来歴をリアルにイメージするのはあまりに難しいはずだと思う。

しかし、この記事では具体的なことに触れないと決めたので実感してもらいにくいと思うが、本作を観れば、「市子のような存在は、世の中に一定数いてもおかしくない」と誰もが感じられるはずだ。もちろん、映画『市子』とまったく同じような状況になることはないだろうが、「市子が抱えている根本的な困難さ」を有する人はたくさんいるように思う。同じように、「川辺家が抱えていた困難さ」とまったく同じということはないにせよ、似たような苦しさに囚われている家庭が存在することも、容易に想像できるはずだ

だから私たちはまず、「”川辺市子”はフィクショナルな存在でも、誇張された人物でもない」と理解した上で本作を捉えるべきだと思う。そしてさらに、普通に生きていたらまず知る機会のない「”川辺市子”のような存在」について、映画を観たことをきっかけに色々と思考を巡らせてみた方がいいと考えているというわけだ。

それではここから、私がどのように思考したのかについて触れていくのだが、その前にまず1つ書いておきたいことがある。私は元から、「『生きたい』という強い欲求」に欠ける人間だ。だから、そんな私が市子のような立場に置かれたとしたら、結論は「人生に抵抗することを諦める」となってしまう。しかし、それではちょっと思考を巡らせる意味がないと思うので、「仮に自分が『生きたい』と強く願う人間だったら」という設定で想像してみることにする。

そして、そういう設定で考えた場合、私はやはり市子と同じような選択・決断をするのではないかと思えてしまうのだ。

その一番大きな理由は、「自分に非は無い」という感覚にあると言えるだろう。映画を観れば誰もが同じように受け取ると思うのだが、「市子が抱えている根本的な困難さ」にはそもそも、市子の関与は一切ない。もしも、「市子にも何か非があってそのような状況に置かれている」というのであればまた違う判断にもなるだろう。しかし実際には、まったくそんなことはないのである。市子は単に「そのような境遇に生まれてしまった」というだけであり、シンプルに「不運だった」としか言いようがない状態にいるのだ。

そして市子は、「不運だった」で片付けるにはあまりにも重いものを背負わされている。普通に考えて、このような状態には耐えられないと思うし、私だったら「やってられない」と思う。市子だって、当然そう感じていたはずだ。

このような感覚があるからこそ、私は、「法律や倫理を無視した市子の生き方もやむ無し」と考えてしまう市子のような境遇を背負った上で、さらに「他の人と同じように法律や倫理を遵守せよ」と言われるのは、私ならちょっと納得がいかないのだ

あなたは、どのように感じるだろうか?

市子が抱く、「誰かの庇護下で生きていたくはない」という”自由観”

さて市子は、「法律や倫理を無視した生き方」を選択する前に、もちろん「真っ当な道」を辿ろうと行動していた。ある支援団体の元を訪れていたことがあったのだ。彼女にとって、この酷い状況を脱する唯一の手段をサポートしてくれるのが、その支援団体だった。ルールを守った上で人生を帰るには、このルートしか無いと言っていいだろう。

しかし市子は、この支援団体の手を借りることを諦めてしまう。その点については、支援団体の職員も「理解できなくはない」と話していた。制度上どうしても経なければならない「ある手続き」に、市子は拒絶反応を示したのである。これは人によっては、「そんなことぐらいで、支援の手を振り払ってしまうのか」と感じるようなことだとは思う。しかし、物事の捉え方は人それぞれだ。特に、市子を含む「この種の支援団体に助けを求める人」のほとんどは、「自分には非が無い」という感覚を持っていると思う。だからこそ、余計にその「手続き」を許容し難いと感じてしまうのは分からないでもない。市子にとっては、「合法的に現状を脱すること」以上に、「その手続きを受け入れないこと」の方が遥かに大事だったというわけだ。

さて、支援団体のサポートを諦めるとなると、市子が手を伸ばせる選択肢はかなり限られることになる。「大きすぎる制約を受け入れたままどうにかして生き延びる」か、「ルールを無視してでも状況を脱する」かしかないだろう。

そして当然のことながら、「大きすぎる制約を受け入れたまま生きる」ことは相当の困難をもたらすことになる。映画を観れば、誰しもがそう理解できるはずだ。だからこそ、「ルールを無視してでも状況を脱する」という選択肢が現実的な可能性として浮上してくることも、仕方ないと思えてしまうのである。

そしてそんな市子は、どうにか生き延びるために他人を「利用する」しかなかった。「利用する」と括弧で括ったのは、市子の方にそのような意識があったかどうかはちょっと判然としないからだ。市子はとにかく現状を脱したかった。そして「そのためなら何でもしてやる」ぐらいに考えていたはずだ。そしてそこに「協力してくれそうな誰か」が現れたのなら、必死に助けてもらおうとするのは当然だろう。結果としてそれが「利用する」という形になってしまっただけにも思える。

作中のすべての描写について同じことが言えるが、「市子の本心」はずっと分からないままである。本作には、市子視点で描かれる描写はほぼ存在しないからだ。市子は常に、市子の周囲にいる誰かの視点で捉えられている。そしてそのため、「市子が何を考えてそのような言動・決断をしたのか」が、観客にはっきり伝わることはないというわけだ。

しかし、作中でかなり鮮明に示唆される市子の「感覚」もある。それは、「誰かの庇護下でしか生きられない人生なんかごめんだ」という想いだ。例えば本作では、ある人物が市子から明確に「拒絶」されるのだが、その理由もまさにこの点にあると私には感じられた。

市子がそのように考えてしまう理由は理解できる気がする。というのも、作中で描かれる限りにおいて、市子の人生はそのほとんどが「誰かの庇護下にあった」と言えるからだ。それは決して、「子どもは親の庇護下でしか生きられない」みたいな話ではない。市子が置かれている境遇においては、子どもだろうが大人だろうが関係なく、「誰かの庇護下」でなければ人生が成立しないのだ。「『川辺市子』という人物は、単体では存在し得ない」みたいに表現してもいいかもしれない。

市子は、多くの具体的な問題を抱えて生きざるを得ない「プロポーズされた翌日に失踪した」のも、まさにそんな「具体的な問題」の1つに直面したからだと言っていいだろう。しかし市子の場合、そのような個々の問題の解消以上に、「『誰かの庇護下』を抜け出したい」という想いの方が強かったのではないかと思う。だからこそ市子は、映画を観ていない人にはまったく伝わらない話だと思うが、「あらゆる不利益が生じることを理解した上で『川辺市子』として生きていく決断をする」のだ。そして同じ理由で市子には、「俺が守ったるから」という言葉がまったく響かないのである。

まさにこれこそが市子にとっての「自由」だと言えるだろうし、「そういう『自由』が得られないなら生きていても仕方ない」という感覚がかなり強いのではないかとも思う。だからこそ、市子の人生にとって恐らく最も幸せだっただろう3年間を、そしてその後も続いたかもしれない穏やかな時間をすべて捨て去ってでも、「市子が考える『自由』」を手に入れるための闘いに踏み出す決断をしたのだと私は受け取った。

自ら茨の道を選んでまで、彼女は「自身が信じる『自由』」を追い求めることにしたというわけだ。

「助けてあげたい」と思わせる市子の雰囲気を、杉咲花が絶妙に醸し出している

さて、本作には「市子の協力者」も登場する。市子の人生には様々なことが起こるわけだが、「協力者」無しにはまず乗り越えられなかっただろう状況もあった。そう考えると「協力者」は、かなり献身的に市子のサポートをしていると言っていいと思う。いや、正確には「したいと思っている」と表現すべきだろうか。市子の本心は誰にも分からないわけで、「協力者」の行動が市子にとって喜ばしいものなのか判断しようがないからだ。

そんな「協力者」については作中で、「ある示唆」がなされる。それは、「いくら『市子のためなら何でもするつもり』だとは言っても、さすがにそんな決断はしないだろう」と感じさせるような行動だ。「ある示唆」と書いているのは、その「協力者」がどういう経緯でそのような状況になったのかはっきりとは描かれないからである。しかし、「恐らくこうだろう」という推測は立つし、その推測通りだとしたら、「いくら献身的だとしても、さすがにそれはやりすぎだろう」と感じてしまうような状況なのだ。

ただ一方で、「そう思わせてしまうのが川辺市子なのだ」という感覚も同時に浮かんでくる。普通だったら絶対にあり得ない状況なのだが、「川辺市子だったらもしかしたら……」というわけだ。そして、そう感じさせるような雰囲気を、杉咲花が凄まじく絶妙に醸し出しており、その点にも圧倒されてしまったのである。そしてまさにこの点こそが、「杉咲花でなければ成立しないのではないか」と感じさせるポイントでもあるというわけだ。

映画『市子』の物語を成立させるためには、「何が何でもこの人のことを助けたい」と思わせるような雰囲気を市子が有していることは必須である。分かりやすく「魔性」という言葉を使うことにするが、市子がそんな「魔性的魅力」を有していなければあり得ないような状況が多々描かれるのだ。市子が「魔性的魅力」を持っているからこそ長谷川は彼女のことを探し続けるのだし、「協力者」もまたちょっとあり得ない形で市子の人生に関与することになるのである。

長谷川の場合は、「3年間一緒に住んでいた」という事実があるので、仮に市子が「魔性的魅力」を有していなかったとしても、彼の行動は妥当なものに映るかもしれない。しかし「協力者」の場合はそうではないだろう。というのも本作では、「『協力者』が市子に肩入れする」だけの特別な理由は描かれないからだ。「協力者」については、その動機が見えてこないとなかなか行動に説得力が生まれないように思うが、まさにそれが「市子の魔性」だと私は考えているのである。

だからこそ、市子は「魔性」を有していなければならないのだが、杉咲花はその難しい役柄を見事に演じていたと思う。この点が何よりも素晴らしいと感じられた。並の役者ではとてもじゃないが務まらないだろう。具体的に顔が浮かぶわけではないが、同世代の役者では数えるほどしか候補がいないんじゃないだろうか。とにかく杉咲花の演技が持つ「説得力」が凄まじかったし、市子役を杉咲花に託したことは大正解だなと思う。

市子のような人が近くにいたら、私はどんな振る舞いをするだろうか?

さて、杉咲花のそんな凄まじい演技を観ながら私は、「もしも目の前に『市子』が現れたら、自分はどんな風に関与するだろうか」と考えさせられた

私にとっても市子は「魔性的魅力」を持つ人物であり、もしも近くにいたら惹かれてしまうだろうなと思う。私は男女問わず、「底が知れない人」を好きになることが多い。そして市子は、まさに彼女が置かれた境遇ゆえに、誰にも「底」を見せられずにいるのだ。だからそんな市子が近くにいたら、きっと「関わりたい」と感じるだろうなと思っている。

しかしその一方で、「どこまで踏み込めるだろうか」とも考えてしまった。どういうことか。つまり、「市子にとって何が最善なのか」の判断で、私は恐らく迷ってしまうだろうと感じたのだ。

「協力者」は、あの凄まじい場面で躊躇なく決断した。「自分の手助けが市子のためになるはず」と、迷うこと無く判断出来たのだ。あるいは長谷川も、警察が市子のことを追っていると知った上で、市子が警察に捕まらないようにするための行動を取る。もちろん、そのような行動が市子のためになると判断しているからだろう。

しかし私は、この辺りの判断で揺れてしまうように思う。何故なら私の中には、「総合的に考えれば、市子は警察に捕まった方が良いのではないか」という感覚があるからだ。

具体的なことに触れずに説明するのは難しいが、市子の場合まず、「逮捕されること」で「支援団体のサポートを拒絶する理由」が無くなるように思う。となれば、「市子が抱えている根本的な困難さ」は解消に向かうはずだ。また、逮捕されることによって「世間の目」が厳しくなるのは確かだろうが、少なくとも長谷川だけは例外だと言えるだろう。彼はある時点で市子の過去を知り、それでも市子を追うと決めているわけで、市子が逮捕されたところで長谷川の気持ちが変わることはないと思う。さらに、市子が逮捕され裁判に掛けられたとして、そこには「情状酌量」の余地がありそうに感じられるし、通常より刑期は短くて済むのではないかという気もする。だから、市子の気持ちを考慮しなければ、「逮捕・収監され、出所後に長谷川と共に暮らす」というのが私には「最善」に思えてしまうのだ。

しかし同時に、「市子はそれを『最善』とは捉えないだろう」とも想像できてしまう。結局のところ、「『誰かの庇護下』を抜け出ること」には繋がらないからだ。あるいは、「自分は何も悪くないのだから、法なんかに裁かれたくない」みたいな気持ちもあるかもしれない。いずれにせよ、先の選択肢は「市子にとっての最善」にはなり得ないはずだ。

そして長谷川にしても「協力者」にしても、そのことが理解できているからこそ、「彼らが考える『市子にとっての最善』を実現する」という決断が出来るのだと思う。

「市子にとっての最善」は結局のところ、法律や倫理を踏みにじらなければ実現できないわけで、さすがに、そんなやり方に手を貸す決断を良い風には評価できないだろう。しかし同時に私は、長谷川や「協力者」のような判断が出来ることを羨ましくも感じてしまう私はきっと、「市子にとっての最善」の実現を手助けするのに躊躇してしまうと思うからだ。結局、何も出来ないまま終わってしまう気がする。

そしてそんな未来が想像できるからこそ私は、「最初から市子とは関わらない方が良いのではないか」と考えてしまうように思う。

「市子にとっての最善」はやはり「社会にとっての最悪」であり、共存することは不可能だ。また、「『市子にとっての最善』を優先すること」が本当に市子にとって最善と言えるのか、私には自信が持てない。そして、そういうことに揺るがずにいられる者だけが、市子にとっての「ヒーロー」になれるのだと思う。そう考えると私は、残念ながら「ヒーロー」にはなれなそうな気しかしないのである。

市子には「そうせずに済む道」など存在したのだろうか

本作中には印象的なシーンが多くあるのだが、その中でも私が最も複雑な感情を抱かされたのが、ある人物が「市子、ありがとうな」と口にする場面だ。ホントにこのシーンは、何をどう感じるべきなのかも分からないくらい、なんとも言いようがない状況だったなと思う。

そして、このシーンを観て私は、「市子がそうせずに済む道など存在していたのだろうか」と考えさせられた

本作を観ながら、思い出した文章がある。以前読んだ『そのうちなんとかなるだろう』(内田樹/マガジンハウス)に書かれていた次のような文章だ。

さあ、この先どちらの道を行ったらいいのかと悩むというのは、どちらの道もあまり「ぜひ採りたい選択肢」ではないからです。どちらかがはっきりと魅力的な選択肢だったら、迷うことはありません。迷うのは「右に行けばアナコンダがいます。左にゆくとアリゲーターがいます。どちらがいいですか?」というような場合です。そういう選択肢しか示されないということは、それよりだいぶ手前ですでに「入ってはいけないほうの分かれ道」に入ってしまったからです。
決断をくださなければいけない状況に立ち入ったというのは、いま悩むべき「問題」ではなくて、実はこれまでしてきたことの「答え」なのです。今はじめて遭遇した「問題」ではなく、これまでの失敗の積み重ねが出した「答え」なのです。
ですから「正しい決断」を下さねばならないとか「究極の選択」をしなければならないというのは、そういう状況に遭遇したというだけで、すでにかなり「後手に回っている」ということです。
決断や選択はしないに越したことはない。
ですから、「決断したり、選択したりすることを一生しないで済むように生きる」というのが武道家としての自戒になるわけです。

内田樹『そのうちなんとかなるだろう』

「なるほど」と感じられる文章ではないだろうか。何か「嫌な決断」をしなければならない時、普通はその状況自体が「解決すべき問題」に思えてしまうものだが、実際にはそうではない。「解決すべき問題」はもっとずっと手前にあったわけで、「それに対処してこなかった」という「答え」こそが現状だというわけだ。私はとても納得させられたし、今も折に触れて思い出す文章である。

しかし、この考えを市子に当てはめることは難しいだろう。市子が直面した状況が仮に、「今まで対処してこなかった『答え』」なのだとして、一体市子はどこまで人生を遡ればいいのだろうか? 遡れば、「解決すべき問題」に行き着くのだろうか?

恐らくそんなことはないはずだ。市子の人生は、どこまで過去を辿ろうが「こうすべきだった」となるような分岐点には到達しない。市子に非はないのだから当然だ。市子は常に「解決すべき問題」として現実に対処してきたのである。いや、「そうせざるを得なかった」と表現すべきだろうか。

新聞配達時代のあるエピソードも、とても示唆的だ。同僚の証言によると、市子の部屋には花が飾られていたという。「花、好きなん?」と聞くと、市子はこんな風に答えたそうだ。

うん。ちゃんと水あげへんと枯れるんが好き。

ここでもやはり、市子がどういう想いでこんな返答をしたのかはっきりとは分からないのだが、彼女の人生を理解した観客にはとても示唆的なセリフだと言えると思う。何らかの贖罪のつもりだったのか、あるいはかつての自分を忘れないためなのか、それとももっと別の何かなのか。1つだけ確実に言えることは、この時の市子の意識は、かつて「市子、ありがとうな」と言われた瞬間に飛んでいたはずだということである。

花を飾っているのは、自身の過去を常に思い出しては、「それでも私は前に進んでいく」と決意を奮い立たせるため。私は、そんな風に想像している。市子の「揺るがない信念」の象徴と言っていいのではないかと思う。

出演:杉咲花, 出演:若葉竜也, 出演:森永悠希, 出演:倉悠貴, 出演:中田青渚, 出演:石川瑠華, 出演:大浦千佳, 出演:渡辺大知, 出演:宇野祥平, 出演:中村ゆり, 監督:戸田彬弘, プロデュース:小西啓介, プロデュース:King-Guu, プロデュース:大和田廣樹, プロデュース:小池唯一, プロデュース:亀山暢央, Writer:上村奈帆, Writer:戸田彬弘

最後に

最後に、作品そのものとはまるで関係ない話を書こう。起用されている役者たちの「今泉力哉感」が強いという話である。

長谷川義則を演じた若葉竜也は、「今泉組」と言ってもいいくらい今泉作品の常連だ。また、中村ゆり、倉悠貴は映画『窓辺にて』に、中村青渚は映画『街の上で』に出演している。だから何ということはないのだが、今泉力哉作品が好きな私としては、役者的にもかなり惹かれる作品だったというわけだ。

また、決してメインの役柄ではないが、ある場面で登場した石川瑠華は映画『うみべの女の子』で観ていた人だし、渡辺大知も私が観る映画によく出てくる。とにかく杉咲花に圧倒された作品だったわけだが、他の役者も私好みのセレクトで、その点もとても良かった。

しかしホントに、「凄まじい作品を観た」という感覚がとても強かった。物語にも役者の演技にも、驚愕させられてしまった作品だ。

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