【あらすじ】有村架純が保護司を演じた映画『前科者』が抉る、罪を犯した者を待つ「更生」という現実

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:岸善幸, Writer:岸善幸, 出演:有村架純, 出演:森田剛, 出演:磯村勇斗, 出演:若葉竜也, 出演:マキタスポーツ, 出演:石橋静河, 出演:北村有起哉, 出演:宇野祥平, 出演:リリー・フランキー, 出演:木村多江

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 私は「自分のために行動する人」が好きで、だから、本作で描かれる保護司・阿川佳代の葛藤に考えさせられてしまった
  • 「強さ」ではなく「弱さ」でしか救えない状況は存在するし、「犯罪者の更生」にもそのような観点が取り入れられるべきだと思う
  • 「保護司っぽくない」と感じさせる阿川佳代の言動が、とても素敵に映った

何にせよ私は、「まず彼女自身が幸せになってほしい」と願わずにはいられなかった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『前科者』が描く「犯罪者の更生の現実」と、「有村架純演じる保護司の葛藤」に色々と考えさせられた

「自分のために行動する人」が好き

私は、「自分のために行動する人」のことが好きだ。しかし、これには少し説明が必要だろう。

決して、「自分勝手に生きている人」という意味ではない。そうではなく、「『誰かのため』と捉えられがちな行動を『自分のためにしている』と自覚している人」が好きなのである。意味が伝わるだろうか?

これは私の中では、弁護士や医師など「報酬を受け取る職業」の人にも当てはまる話なのだが、ちょっと軸がブレるように思うので、分かりやすいように「ボランティア」を例に挙げようボランティアは普通、「誰かのためにしている」とみなされると思うし、従事している当人もそういう認識で行っていることが多いだろう。しかし私は、とても勝手な意見だと理解しているのだが、正直、「誰かのためにしている」という感覚をあまり信じていない

もちろん世の中には、医師でありながらアフガニスタンで用水路建設に生涯を費やした中村哲のように、「どう見ても『誰かのため』としか言えないような生き方をしている人」もいる。だからそのすべてを否定したいわけではないのだが、一方で、そういう人は決して多くはないと考えてもいるのだ。これは別に「『誰かのため』という感覚を持つなら100じゃなきゃいけない」みたいな話ではない。誰もが0から100の割合のどの程度かで「誰かのため」という感覚を持っているだろうし、そこにグラデーションがあること自体は全然いい。ただやはり、「誰かのため」と”主張する”のであれば、そのレベルは「100に近いもの」であってほしいと思ってしまうし、そしてそういう人は決して多くはないと私は考えているのである。

だから、例えば70~80程度の「『誰かのため』という感覚」を持っているような場合に、「これは自分のためにやっているんだ」と自覚している人の方が好ましいと私は思っているのだ。私のこの感覚は伝わるだろうか?

ここには、「『あなたのためにやっている』という”圧”が苦手」という理由もある。

さて本作『前科者』では、出所した元犯罪者の更生に関わる保護司が描かれるのだが、まず1点、もしかしたら広くは知られていないかもしれない情報を提示しておくことにしよう。保護司が行うのは、「定期的に元犯罪者と面談する」というなかなかに大変な仕事だが、なんと無給のボランティアなのである。そして、もし私が元犯罪者で、保護司と関わらなければならなくなった場合に、「『あなたのためにやっている』という”圧”」を保護司から感じてしまったらしんどいなと思う。これは他の状況でも同じである。私は大体において、「『あなたのためにやっている』という”圧”」がすこぶる苦手なのだ。

だから私は、自分はそういう雰囲気を発しないように気を付けているつもりだし、さらに、「自分のためにやっている」という認識の方が優位な人と関わりたいとも考えているのである。

「弱さ」が誰かにとっての「救い」になることだってあるはずだ

本作『前科者』の中で、私が一番好きなシーンを紹介しよう。女性2人がコンビニの前で話をしている場面でのやりとりだ。1人は保護司の阿川佳代で、もう1人は、かつて彼女が保護司として担当した元犯罪者のみどりである。そして佳代がみどりに、「更生を手助けするなんて大口叩いてきたけど、私には何もできない」と弱音を吐くシーンがあるのだ。

佳代のそんな吐露を受けて、みどりは自身の子ども時代や刑務所時代の話を始める。彼女は子どもの頃、「親が男漁りに行く時は500円もらえる」という環境で生活していた。しかし、母親が1週間帰ってこないこともしばしばで、そんな時は、「私は世界一不幸な子どもだ」と考えていたそうだ。しかし刑務所に入って、「世の中は自分みたいな人間ばかりなのだ」と気付いたという。それに、罪を犯してから出会った人間は「弁護士」や「検事」のような”真っ当な人間”ばかりで、「世間を代表しています」と言わんばかりの顔で「これからは真面目に生きろ」みたいなことを言ってくる。でも、「あたしたちのような前科者がいるお陰で『世間の代表』みたいな顔が出来るんだろ」って思ってたし、だからあいつらの言葉なんか全然耳に入ってこなかった

そんな話を滔々と続けた後で、みどりは佳代にこんなことを言うのである。

でも、佳代ちゃんと会って考えが変わったんだ。私らみたいな人間以外にも、こんなに弱い人間がいるんだ、って。

さらに続けて、こんな風にも念押ししていた。

前科者に必要なのは保護司なんかじゃない。佳代ちゃんみたいな人だよ。

凄く良かったなと思う。

佳代は保護司としての自身のあり方に悩んでいる。というのも、彼女にはどうしても振りほどけない過去があり、その過去に導かれるようにして保護司になったという経緯があるからだ。もちろん彼女の中には、「前科を持つ者たちの更生に真摯に向き合いたい」という強い想いがある。しかしそれと同時に、彼女はどうも、「自分は自分のために保護司をしている」というある種の”後ろめたさ”みたいなものを感じているように見えるのだ。

そして彼女は、そのことに葛藤を抱いている「罪を犯してしまった人たちに寄り添いたい」という気持ちは決して嘘じゃない。しかし実際には、過去に囚われている自分自身のために保護司を続けているのだ。それが彼女には「中途半端」だと感じられているのだろうし、また、「そのせいで『取り返しのつかない事態』を引き寄せてしまったのではないか」とも考えているのである。

みどりは別に、佳代が抱えているそんな葛藤について具体的に理解しているわけではない。しかし、長い付き合いで感じるものがあったのだろう。「佳代ちゃんのその弱さが良いんだよ」という言葉で彼女の背中を押すのである。そのような感覚はよく理解できるなぁと思う。私も、犯罪者ほどではないにせよ、「社会の割と低い方」を生きてきた自覚がある。そしてだからこそ、「弱さ」によって相手を信頼できたり、自分を託せたりするのだ。「前科者に必要なのは佳代ちゃんみたいな人」というのは本当によく分かる。さらにこの言葉は、彼女を勇気づけるものでもあるが、同時に、現行制度の限界を示してもいると言えるだろう。

犯罪者だって「何かの被害者」である

また、「罪を犯してから出会うのは“真っ当な人間”ばかりだった」というみどりの“不満”も、凄く分かるなぁという感じがした。

私は以前、『プリズン・サークル』というドキュメンタリー映画を見たことがある。これは、島根県に実在する刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」に密着した作品で、「日本初の新たな取り組み」を行う刑務所として注目されているのだ。

その「新たな取り組み」は「TC」と呼ばれている。「Therapeutic Community」の略で、「治療共同体」と訳されることが多いようだ。元々は「薬物依存者や精神疾患患者が対話を通じて回復を目指す仕組み」として始まったそうだが、それを刑務所にも応用した形である。「島根あさひ社会復帰促進センター」では、「受刑者同士が様々な形で対話を行うことで更生に寄与すること」が期待されているのだという。

そして、そんな「TC」を映し出す映画の中で、特に印象的に感じられた場面がある。グループセラピーの最中に受刑者の1人が、「自分だって被害者だ」と口にするシーンだ。加害者であることはもちろん理解しているが、自分も「虐待の被害者」だったし、誰かがそのことを認めてくれないと「加害者としての立場」になんか立てない。そんな風に訴える者がいたのである。

「なるほど」という感じだった。確かにその通りかもしれない。そしてこの言葉は、本作『前科者』で描かれる状況にも当てはまると言えるのではないかと思う。

一応書いておくが、「自分も被害者だった」みたいな主張が通るはずのない犯罪者だってもちろんいるし、それまでの生い立ちなどにまったく関係ない身勝手極まりない犯罪も存在する。だから以下の話は、すべての犯罪者に当てはまるわけではない。ただ一方で、「そういう境遇にいなければ罪を犯さなかっただろう人」もいるわけで、私はそんな、映画『プリズン・サークル』や映画『前科者』で描かれるような犯罪者に言及しているのだと理解してほしい。

犯罪に手を染めてしまう人の中には、児童養護施設でいじめられていたとか、親から虐待を受けていたみたいなキツい環境の中で、さらに「誰にも助けを求められなかった」というタイプの人が多いように思う。もちろん、そういう境遇に生まれ育ってもら犯罪に走らない人だっているわけで、「100%境遇のせい」なんて主張は成り立つはずがない。ただ、「そういう境遇にいなければ罪を犯さなかっただろう」ぐらいのことは言ってもいいんじゃないかと思っている。

さて問題は、「根本的な原因を解消しないまま、すべての責任を『犯罪者』に押し付けたところで何も解決しない」ということではないだろうか。「罪を犯した」ことは確かなので、法に則って彼らを刑務所に隔離するのは当然である。しかし、塀の外にいる我々が、「罪を犯した奴が悪いんだから刑務所に入って反省しろ」みたいなスタンスのままでいたら、状況は何も改善されないだろう。なにせ、彼らが犯罪に走ってしまった根本的な原因は放置されたままなのだから。

本作でも、まさにそのような状況が描かれる。具体的には触れないが、本作で描かれる「犯罪」は、「塀の中よりも、外の方にこそ『問題』がある」ことを如実に示すものと言っていいと思う。だから私は、映画『プリズン・サークル』で取り上げられた受刑者が口にした「被害者と認めてもらえなかったら、加害者の自覚が持てない」という言葉に、共感させられてしまったのだ。

誤解されないように書いておくが、私は決して「犯罪者を無罪放免にすべき」などと主張しているのではない。法治国家に生きている以上、どんな理由があろうとも、「罪を犯した」という事実に対しては法が定める罰が与えられるべきだと思っている。しかしそれは、「事件をどう終結させるか」という話でしかない。個々の事件には被害者がいて、物理的・金銭的・精神的な被害が発生してしまう。そして「それらに対し法が裁定を下し、表面的に『事件は終わった』とみなす」というのが「罰則」の意味合いだと私は捉えているのだ。

となればやはり、「社会全体をどう導くか」という観点は薄いと考えるしかないだろう。

個々の事件ではなく、社会全体に焦点を当てるのなら、やはり「犯罪をいかに減らすか」が最大の課題になるはずだ。そして、そのためには「根本的な原因」を解消する他ないのだが、それは「犯罪者に罰を与える」というやり方では実現しない。場合によっては「逆効果」ですらあると言えるだろうい。そのことについて、私たちは深く考えなければならないはずだ。

直接的な被害者は、加害者を感情的に恨んで当然だと思うが、そうではない人は「処罰感情」に囚われすぎず、「どうしたら社会全体において犯罪を減らせるか」という方向に思考を切り替えるべきだと思う。もちろん、その方向性に沿った存在として「保護司」がいるのだとは思うが、誰もが保護司のように生きられるわけではない。しかしだとしても、出来ることが無いなんてことはないはずだ

というか、「罪を犯してしまうような環境を”維持している”」という意味で、我々は間接的に「犯罪者を生み出す社会」に加担していると理解すべきだろう。犯罪の少ない安全な社会を希求するのであれば、私たちはまず、「『犯罪に走ってしまうような環境』をいかにして減らせるか」という観点から犯罪者との関わりを考えるべきだと思う。これこそ”真っ当な人間”のやるべきことではないだろうか。

映画『前科者』の内容紹介

阿川佳代は、コンビニでのアルバイトの傍ら、犯罪者の更生を支援する保護司としても活動している。保護司は「非常勤の国家公務員」という扱いだが無報酬であり、完全なボランティアだ。出所した元受刑者と定期的に面談を行うのが主な役割で、その過程で大変な状況に巻き込まれることもある。彼女が自らそんな保護司になろうと決めたのには、今も引きずっている過去があるからだ。

さて、佳代は半年前から、仮釈放中の工藤誠という殺人犯を担当している仮釈放期間中は月に2度の定期報告が義務付けられており、佳代は彼との面談を自宅で行っていた。期間は6ヶ月その間何も問題がなければ晴れて出所できるという仕組みである。

工藤は自動車修理工場で働いていた。彼を雇い入れた社長もその腕前と人柄を買っていて、「仮釈放が終われば社員として迎え入れる」と言ってくれている。とても順調だ。そして工藤は、あと1回定期報告を済ませれば仮釈放が終わるというところまで来ている。本当に、もう少しなのだ

一方、彼女が住んでいる地域で凶悪事件が発生した交番勤務の警察官が襲われ、奪われた銃で撃たれてしまったのだ。幸い一命はとりとめたものの、銃は行方不明のまま。そしてその後、犯人が持ち去ったのだろう銃による犯罪が続いていた

警視庁の刑事である鈴木と滝本は、現場を回って情報を掴もうと奔走するのだが、そもそも被害者同士の繋がりがまったく見えず、捜査は難航する。しかし同一犯のものと目される事件の1つで、ついに物的証拠が取れた。そしてそこから、仮釈放中の工藤誠が捜査線上に浮かぶのだが……。

映画『前科者』の感想

もしも罪を犯してしまったとしたら、彼女のような保護司と関わりたい

本作『前科者』は、様々な形で「善悪」について考えさせる作品だ。「保護司」というのは決して馴染み深い存在ではなく、恐らくその存在自体を知らない人もいるのではないかと思う。本作はそんな「保護司」を中心にして、「正しい」と「間違い」の境界を絶妙に衝いてくるのである。

先述した通り、「法治国家に生きている限り『社会的な正しさ』は法が決する」と言っていいだろう。というか私たちは、「法が決めたことを『正しい』と受け入れて生きていかなければならない」のである。法そのものが誤っていることもあるが、それを是正する仕組みも存在はするし、だから私たちは、「とりあえずは『法の裁定に従って生きること』が求められている」と考えるべきなのだと思う。

しかし、「社会的な正しさ」だけがすべてではない。日常生活においては、そうではない「正しさ」の方が重要な場面も多いだろう。そして本作では、そんな様々な「正しさ」を複層的に描き出すことで、「何が正しいのか分からない」という困惑が積み上がっていくことになる。この点に関しては本作でも、何か分かりやすい結論が提示されるわけではない観る者に委ねられているというわけだ。

しかしそれはそれとして、佳代の振る舞いや決断からは、「これは正解の1つである」と感じさせるだけの力強さがあるようにも思う。彼女は、自身のある過去をきっかけとして保護司になった。そして、そんな個人的な起点を持つ彼女の生き方は、「これが私なりの正解だ」と突きつけるだけのパワー無しには成立し得ないということなのかもしれない。

保護司としての彼女のスタンスは、とても気持ちの良いものだ

本作は、冒頭からなかなか荒々しく始まっていく担当する元受刑者が仕事に行っていないと判明するのだ。佳代はすぐに元受刑者の家に向かうが、「あの職場は私に合っていない」と言い訳を口にするばかり。そこで彼女はある強硬手段を取り、元受刑者を説得する

その時に発した言葉がとても良かった

あなたは今崖っぷちなんです! このままだと、奈落の底に真っ逆さまです。そうなったらもう、助けてあげられなくなってしまいます。

保護司という役割に真摯に向き合っているからこそ、そんな言葉が口をついて出てきたのだろうなと思う。

あるいは、初めて工藤誠に会った時にも、こんな風に言っていた

頑張りすぎないで下さいね。大切なのは、「普通」だと思うんです。頑張りすぎてしまったら、それは「普通」ではありません。

保護司に直接会ったこともなければ、その仕事ぶりを目にする機会もないのであくまでも想像でしかないのだが、佳代が口にする言葉は「元受刑者と向き合う人のもの」っぽくない気がする。「罪を犯してから出会うのは“真っ当な人間”ばかりだった」という元受刑者の言葉を踏まえると、「一般的な保護司」もやはり、「現実は厳しいんだから、ガムシャラに頑張っていきましょう」みたいなことを言うんじゃないだろうか

そして、それはとてもしんどいだろうと思う。何故なら、「これまで頑張って来なかった」みたいに言われている気がするからだ。頑張って来たのにダメだった人もいるはずだし、色んな事情から頑張りたくても頑張れなかった人だってもいるだろう。だから、「普通でいい」と言ってもらえるのは、ホッとする。私も、万が一犯罪者になるようなことがあれば、阿川佳代のような保護司に出会いたいものだと思う。

阿川佳代にも幸せになってほしい

佳代はある場面でこんな風に口にする

法律や福祉だけではあなたを助けられない。それが現実です。

元受刑者の更生の現実を知らなくても、この点については容易に想像出来るだろう。しかし、「その最大のハードルが『犯罪者になったことのない私たち』にある」という事実は、あまり意識されないんじゃないかと思う。

本作には、ある人物が「殺人犯は人じゃないよ」と口にする場面がある。どうだろうか、口には出さないにしても、そんな風に感じている人は世の中に結構いるんじゃないだろうか。だからこれは、「世間の声」と言ってもいいのではないかと思う。そして、社会制度は「世間の声」が作ると言っても過言ではないのだから、当然、法律や福祉が「元犯罪者に優しいもの」になったりもしない。そのことに対しては「仕方ない」と思いつつも、同時に、「それで良いはずがない」とも感じる

佳代が先のセリフに続けて発する言葉からは、とても強い信念が感じられるんじゃないかと思う。また、実際の保護司が何にやりがいを感じているのか知らないが、佳代が別の場面で口にした「人が”生き返る”瞬間に立ち会えるのって凄い」という言葉は、彼女が「自分のため」に保護司を続けていると感じさせるものだった。そのようなことをすべてひっくるめると、「保護司としての彼女の存在」は社会にとって必要不可欠だと言えるだろう。

そしてだからこそ私は、「阿川佳代には『一般的な幸せ』もちゃんと目指してほしい」と感じた。もちろんこれは、単なるおせっかいである。彼女が「保護司としてのやりがい」によって十分な「幸せ」を感じているというのであれば、他人がとやかく言うようなことではないだろう。ただ、ある人物が「恋してる? セックスしてるか?」とぶっ込んでいて、そんな風に言いたくなる感じも分かる。彼女がどんな過去を抱えているにせよ、自分のことを蔑ろにしてまで保護司としての役割を続けるべきではないと私は思う。

彼女のお陰で救われる人は間違いなくいるはずだし、その事実は佳代にとっても非常に重要だろう。しかしそれ以上に、「佳代が救われること」の方が大事だし、そのためにもちゃんと自分の時間を使ってほしいと願わずにはいられなかった。

監督:岸善幸, Writer:岸善幸, 出演:有村架純, 出演:森田剛, 出演:磯村勇斗, 出演:若葉竜也, 出演:マキタスポーツ, 出演:石橋静河, 出演:北村有起哉, 出演:宇野祥平, 出演:リリー・フランキー, 出演:木村多江

最後に

最後に「どうでもいいこと」に触れてこの記事を終えよう

私は、特に日本の作品であればエンドロールはちゃんと見る派なのだが(さすがに外国語のエンドロールは辛いが)、本作のエンドロールに「石橋静河」の名前があって驚いた。というのも私には、本作に石橋静河が出てきた記憶がなかったからだ。いや、実は彼女は割と重要な役で出ており、単に私が気づかなかっただけである。しかし本当に、映画の最後まであの人物を演じていたのが石橋静河だとは気づかなかったので、本当に驚かされてしまった。

まあそれは本当にどうでもいい話なのだが、本作はとにかく、「元受刑者」と「保護司」との関係を丁寧に描き出すことによって、「社会にとっては何が正しいのか?」「個人にとっては何が正しいのか?」とを突きつける作品である。色々と考えさせられてしまった。

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