【考察】映画『哀愁しんでれら』から、「正しい」より「間違ってはいない」を選んでしまう人生を考える

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:土屋太鳳, 出演:田中圭, 出演:COCO, 出演:石橋凌, Writer:渡部亮平, 監督:渡部亮平
¥400 (2022/12/10 18:45時点 | Amazon調べ)
いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「幸せ」になることの難しさを改めて実感させられる物語だと言っていいでしょう

犀川後藤

難しいけれど、「理想」を捨てられれば「幸せ」にたどり着きやすいのだと思います

この記事の3つの要点

  • 夢や希望といった「理想」を持つからこそ「現実とのギャップ」が生まれ、「幸せ」を感じられなくなってしまう
  • 「正しい」と「間違ってはいない」に対する感覚が異なる3人が家族になろうとしたことで生まれてしまった歪み
  • 主人公の小春は、一体どんな選択をすれば「どん詰まり」に行き着かず穏やかに生きられたのだろうか?
犀川後藤

最低最悪のラストは言語道断だが、そこに至るまでの過程では様々なことをリアルに考えさせる物語だと思う

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

決して「不正解」なわけではない選択の果てに「どん詰まりの不幸」へと行き着いてしまう家族を描く映画『哀愁しんでれら』の恐ろしさ

なかなか凄まじい映画でした。色んな意味でざわざわさせられる作品だと言っていいでしょう。

いか

観る前からヤバそうな雰囲気を感じてはいたけどね

犀川後藤

思ってるよりヤバかったからびっくりしたわ

さて、この映画を観た誰もが、「ラストの展開が常軌を逸している」ことに共感してくれるだろうと思います。しかしそれ以外の部分については、観る人によって「ヤバさ」の捉え方が異なるでしょう。その辺りのことについて、触れていきたいと思います。

「幸せになりたい」という想いこそが、「幸せ」を遠ざける要因になってはいないだろうか?

女の子は誰でも、漠然とした不安を抱えている。私は、幸せになれるのだろうか。

主人公の小春は、こんな風に考えています。何を「幸せ」と捉えるかは人それぞれ違うわけですが、誰もが「自分なりの『幸せ』」を目指して生きていることだけは間違いないはずです。だからこそ、「自分は『幸せ』になれるのか?」という不安を抱えることになります。

いか

「どうだったら『幸せ』だと思えるか?」については結構考えたよね

犀川後藤

今は大体分かってるけど、それが上手く捉えられない時期は、結構苦労したなぁ

映画の冒頭で、なかなか面白いことを言う人物が出てきました。「幸せになるための絶対の方程式がある。それは『夢も希望も全部手放すこと』だ」という話です。

身も蓋もありませんが、「なるほど、一理ある」と感じました。夢や希望といった「理想」を持つ場合、必ず「現実とのギャップ」が生まれることになります。だから結果として「幸せ」を感じられなくなるわけです。一方、「理想」がなければ「現実とのギャップ」もなくなります。その状態を「幸せ」と感じる人もきっといるでしょう。

しかし、私たちはなかなか「理想」を捨てることが出来ません。「幸せになりたい」と思ってしまうのです。そしてもしかしたら、その気持ちこそが「幸せ」を遠ざけているのかもしれないと思ったりします。

犀川後藤

私は割と、この「『理想』を捨てる」っていうスタンスで生きられる気がするんだよなぁ

いか

結局それが一番ラクっていうか、穏やかっていうか、そんな感じするよね

主人公の小春は、ある出来事をきっかけに、傍目にはとても羨ましがられる境遇へと大転換しました。小春のいる環境を「幸せの理想」だと感じる人も世の中にはたくさんいるでしょうし、「羨ましい」という感覚になったりもするかもしれません。

ただ、小春自身は決してそうは思えずにいます。というのも、小春にとっての「幸せ」は、「良い母親になること」だからです。彼女には、母親に棄てられた過去があります。また、児童相談所の職員として働く中で、育児放棄をする母親をたくさん見てきました。そういうこともあって彼女は、「何があっても完璧な母親でいること」が「理想」だと考えています。そしてそれ故に、誰からも羨ましがられるだろう自身の境遇を「幸せ」だと感じられずにいるわけです。

彼女がもし、「そこそこの母親でいいや」と思える人だったとしたら、もっと違った人生になっていたかもしれません。「幸せ」の基準が少し違っていれば、彼女は「幸せだと感じられる人生」を生きていけたはずです。しかし実際には、「良い母親でになること」が「幸せ」の基準である以上、小春はなかなか「幸せ」にたどり着けずにいるのです。

こういう状況を私は、「『幸せになりたい』という想いが『幸せ』を遠ざけている」と捉えています。

いか

ただ、だからといって、「世間的な幸せ」に無理やり合わせたって、上手くいくはずもないしね

犀川後藤

そう、この話、難しいんだよなぁ

また、「『良い母親』とは何か?」という問題も出てくるでしょう。

少なくとも小春の場合は、「『良い母親』のモデルとなる人物」はいないはずです。母親は小春を棄てて出ていってしまったし、職場でも育児放棄する母親ばかりを見ています。つまり彼女は、「ダメな例」のことは知っているけれども、「良い例」を知っているわけではないのです。

このような状況で、「『良い母親』になろうと努力する」ことはかなり辛いでしょう。何故なら、「自分が知っている『ダメな例』をすべて回避する」以外の指針が存在しないはずだからです。

いか

つまり、「減点方式」で自己採点しちゃうってことだよね

犀川後藤

「加点はなし。「ダメな例」を回避できなければ減点」っていう地獄の採点にならざるを得ないよなぁ

小春も大変ですが、今の時代は小春とは違った意味で「『良い母親』になろうと努力すること」が難しい時代だと言えるかもしれません。SNSなどで様々な人が「自身の子育ての良い部分」だけを見せつけるからです。小春とは違って、「良い例」ばかりが溢れていると言ってもいいでしょう。この場合も、「自分が知っている『良い例』に倣わなければ」と考え、やはり自己採点が厳しくなってしまうのではないかと思います。

「理想」を捨てることはなかなか難しいとはいえ、『哀愁しんでれら』を観て改めて、「『理想』に固執してしまうことが産む『不幸』」みたいなものを強く感じさせられました。

「不幸ではない」「間違ってはいない」という判断が積もり積もった人生の帰結

この映画が興味深いのは、「幸せ」と「不幸せではない」が、そして「正しい」と「間違ってはいない」が絶妙に混同されていく点にあると思っています。

犀川後藤

こういう「言葉の感覚」がズレる人とはちょっと関わりたくないんだよなぁ

いか

ナチュラルに、「正しい」と「間違ってはいない」とほぼ同義に捉えてる人っているからね

小春と、夫である大悟は、映画のラストでとんでもないことをやらかすのですが、彼らは決して最初から間違っていたわけではありません。どちらも「正しい」スタートラインに立っていました。そしてそれ以降も、出来るだけ「正しい」選択肢を選んできたはずです。しかし次第に、「間違ってはいない」選択肢が紛れ込んできます。そして、現実が歪曲していく中で、さらに「間違ってはいない」選択肢を選び続けることで、彼らは「明らかな間違い」に行き着いてしまうのです。

「幸せ」についても同じだと言えるでしょう。どちらも「幸せ」だと感じる地点にいるわけですが、次第に「不幸せではない」という感覚が忍び寄ってきます。そして、「不幸せではない」という環境に少しずつ慣れていってしまい、その状況があたかも「幸せ」なのだと錯覚させられてしまうのです。

いか

結構気をつけてないと、こういうことって日常の中でも普通に起こりそうだよね

犀川後藤

特に、「今の自分の現状を認めたくない」みたいな感覚が強いと余計にそうなっちゃうだろうなぁ

またこの映画では、「正しい」「間違ってはいない」に対する小春・大悟の感覚の違いも浮き彫りになっていると感じます。

小春は「正しい」を積極的に選び、「間違ってはいない」を積極的に遠ざけるタイプだと感じました。これは割と一般的な感覚だと言えるでしょう。一方の大悟は、「正しい」と「間違ってはいない」の境界が非常に曖昧な人物なのだと思います。もしかしたら、その境界が存在しないのかもしれません。大悟は基本的に「良い人」に見られる、「好印象」を与えるタイプだと思います。しかし、時々「あれ?」という違和感を抱かせもするのです。具体的には、小春の妹に勉強を教えている場面や、学校を訪問した際の振る舞いなどが印象的でした。そして、恐らくその「違和感」は、「『正しい』つもりで『間違ってはいない』ことをしている」から生まれているのだろうと思います。

そして、そんな父親を持つからでしょうか、娘のヒカリはもっと凄まじいと言えます。「正しい」と「間違ってはいない」の境界どころか、「正しい」と「間違っている」の境界も曖昧であるように感じられるのです。

いか

ヒカリのような子どもには、どんな風に接するのが「正解」なんだろうね

犀川後藤

小春も悩んだだろうし、難しいよなぁ

「間違ってはいない」を積極的に回避しようとする小春。「間違ってはいない」を「正しい」と同一視する大悟。そして「正しい」と「間違っている」の区別すら曖昧なヒカリ。この3人が家族になろうとしているのだから、そりゃあ色んなことが歪むのも当然だと感じました。

そして、日常の中で歪みが発生すれば、立場の弱い小春が割を食わざるを得ないわけで、結局、大悟とヒカリの世界に小春が飲み込まれていってしまいます。「ささやかな幸せ」を望んでいた1人の女性の行き着く先としては、なんとも寂しいものがあると感じました。

映画『哀愁しんでれら』の内容紹介

児童相談所で働く小春は、自転車屋を営む父、受験を間近に控えた妹、そして病気がちな祖父の4人で暮らしている。母は、小春が10歳の頃に家を出てしまった。理由は、未だに分からない。母に苛立ちを覚えることもあるし、仕事も大変だが、それでも慎ましい日々にささやかな幸せを見出しながら暮らしている

しかしそんなある日、最悪の一日がやってきた。風呂場で祖父が倒れた後、小春の一家にまるでドミノ倒しのようにして立て続けに不幸が襲いかかったのだ。喪失感を抱えながら近くに住む彼氏の家へ向かうが、なんと職場の先輩女性とセックスをしている最中だった。泣きっ面に蜂とはこのことだ。

踏んだり蹴ったりの最低な夜。肩を落としながら歩いていると、踏切で横たわる男性を発見した。小春は急いで駆け寄り、その男性を救助し、介抱する。後でお礼をさせてほしいと言われて受け取った名刺には、開業医の院長と書かれていた。大悟は、8歳の娘を男手一つで育てる大金持ちだったのだ。

小春は、大悟から誘われた食事の席で娘のヒカリとも仲良くなった。そのことも後押しとなって、2人は結婚を決意する。最悪だった夜が一転、「玉の輿」という最高の人生をもたらす夜になったわけだが……。

映画『哀愁しんでれら』の感想

タイトルに「しんでれら」とあるように、冒頭では「小春が玉の輿に乗る過程」が描かれるのですが、リアリティを感じさせないほどスピーディーに展開していきます。それも当然で、この映画は、「シンデレラのようなストーリーのその後」に焦点を当てる物語であり、だから「シンデレラストーリー」そのものはさらっと描写されるのです。この辺りのテンポの良さは、観客を冒頭から物語に引き込むポイントとして重要だと感じました。

物語的には、結婚してからが本番です。そして、『哀愁しんでれら』で描かれる結婚後の状況は、誰にとっても無関係とは言えないものだろうと感じました。もちろん、「小春の結婚相手が大金持ちである」という点はかなり特殊な状況なのですが、これはあくまでも「状況を誇張して描き出すための要素」に過ぎないでしょう。重要なのは、「結局他人のことは理解できないという事実」「どうだったら『幸せ』なのかという価値観の差異」であり、この点は誰であっても関係するのではないかと思います。

いか

自分事として引き寄せてイメージするのがなかなか難しい物語ではあるけどね

犀川後藤

でも、対岸の火事みたいに考えてると、結局自分も同じ「間違い」を犯したりしそうだなって思う

さて、映画を観た観客は恐らく、「小春はどうすべきだったのか」と考えてしまうだろうと思います。

何度も書いているように、映画のラストは最低最悪であり、弁解の余地なく小春も大悟も悪いです。しかし、一旦そのことは脇において、「小春には状況を打開するために打てる手があっただろうか」と考えてみましょう。もちろん、後から振り返ればいくらでも、「あそこで小春は別の選択をすべきだった」と言えるとは思います。ただ、未来予知ができるわけではないのだから、そう簡単な話ではありません。また、観客の立場からは、小春がいない場面で大悟やヒカリが何をしているのかも知ることができます。しかし小春は、彼女が見聞きした事柄だけで様々な決断をしなければならないのです。だとすれば、ラストの展開以外の小春の決断や行動は「仕方ないもの」だと感じられるし、むしろ、小春は結構頑張ったとさえ言えるのではないかと思います。

そしてだからこそ、悲劇的な結末が一層残念に感じられるというわけです。

誰のどんな人生であれ、どこかには必ず「正解のルート」が存在していてほしいし、その「正解のルート」を選び取る余地が残っていてほしいとも思っています。そういう「祈り」みたいなものを抱きながら映画を観ていました。

いか

「幸せ」じゃなくても、せめて「不幸せではない」ぐらいの人生が、誰にとっても標準装備であってほしいって思う

犀川後藤

「不幸せではない」が最低ラインで、そこから頑張れば「幸せ」にたどり着ける、みたいな社会がいいよなぁ、ホント

出演:土屋太鳳, 出演:田中圭, 出演:COCO, 出演:石橋凌, Writer:渡部亮平, 監督:渡部亮平
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最後に

劇中には、「子どもの親になること」に関する言及がいくつかあり、印象に残りました。

大悟の母親は、

母親になることと母親であることは違う。

と小春に忠告します。これは自戒を込めた言葉であるようです。観客は、小春の奮闘を通じて、この言葉をより強く実感させられることでしょう。

一方、「良い母親になる」という気持ちを強く持ちすぎている小春に対して、父がこんな言葉を掛ける場面があります。

俺だって、お前のことはよく知らん。でも、俺はお前の父親だ。

なるほど、これもまた一理あるだろうと思います。

私は結婚もしていないし子どももいませんが、こういう物語に触れることで改めて「子どもを育てるって大変だなぁ」と感じさせられました

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