【天才】映画『笑いのカイブツ』のモデル「伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ」の狂気に共感させられた

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「笑いのカイブツ」公式HP
著:ツチヤ タカユキ
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • ツチヤタカユキが目指した世界は実は、彼が「勝ちたい!」と思えるような「正しい世界」ではなかった
  • 「面白い奴が勝つ」はずの世界でも結局、彼が最も不得意とする「人間関係」によって評価が定まってしまうことの残酷さ
  • 岡山天音の、まさに狂気が滲み出るような演技に圧倒されてしまった

個人的には、「才能を持つ人間」こそが当たり前のように評価される世の中であってほしいと思っている

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

伝説のハガキ職人・ツチヤタカユキの自伝を映画化!『笑いのカイブツ』は、狂気的才能をとことんまで濃密に描き出す衝撃作だ

私たちは「たまたま名前が残った天才」のことしか知らない

映画『笑いのカイブツ』は、「伝説のハガキ職人」として知られ、大喜利番組への投稿などを経て放送作家となるも、「才能」ではなく「社会」に屈する形で盛大に挫折していくツチヤタカユキという1人の男を描き出す物語だ。同名の自伝的小説が原作になっている。

そんなツチヤタカユキを観ていて感じたのは、「レオナルド・ダ・ヴィンチやソクラテス、バッハ、ミケランジェロなども皆、ツチヤタカユキみたいな奴だったんじゃないか」ということだ。つまり、「狂気的に創作と向き合っていた社会不適合者だったのではないか」みたいなことである。

ツチヤタカユキの名前が100年後、200年後も残っているのかは誰にも分からないだろう。ただ本作を観て、「いつの時代もツチヤタカユキのような人間はいて、その中で、レオナルド・ダ・ヴィンチのように名前が残るのはごく一部なのだろう」と感じたのである。名前が残った人物はもちろん凄いのだろうが、名前が残らなかったからと言って才能がなかったことにはならないだろう。何かちょっとした差、例えば「実家が裕福だった」「運良く理解者が近くにいた」みたいな要因に左右されるだけであって、「たまたま名前が残らなかった天才」もたくさんいるはずだ

そしてそうだとすれば、本作『笑いのカイブツ』で描かれるツチヤタカユキの物語は、「たまたま名前が残らなかった天才」の人生を想起させるとも言えるように思う。

以前、『犬王』というアニメ映画を観た。「犬王」とは室町時代の能楽師であり、後に観阿弥・世阿弥として知られるようになる能楽師と同時代を生きた人物でもある。恐らく多くの人は、観阿弥・世阿弥の名前は聞いたことがあるが、犬王のことは知らないはずだ。しかし僅かに残されている史料によれば、室町時代にはむしろ、犬王の方が圧倒的な人気を誇っていたのだという。ただ現在は、犬王が披露していた能楽は一切残っておらず、かろうじて名前が記録されているだけなのだそうだ。

また、以前読んだ『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・ カリエール/CCCメディアハウス)のことも思い出した。本作は、「紙の本」を主題にして縦横無尽に様々な話題が展開される作品なのだが、その中に次のような文章がある。

我々は今日なお、エウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスを読みますし、彼らをギリシャ三大悲劇詩人と見なしています。しかしアリストテレスは、悲劇について論じた「詩学」のなかで、当時の代表的な悲劇詩人たちの名前を列挙しながら、我らが三大悲劇詩人の誰についてもまったく触れていません。我々がうしなったものは、今日まで残ったものに比べて、より優れた、ギリシャ演劇を代表するものとしてよりふさわしいものだったのでしょうか。この先誰がこの疑念を晴らしてくれるのでしょう。

『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』(ウンベルト・エーコ、ジャン=クロード・ カリエール/CCCメディアハウス)

現代を生きる我々にとって、「ギリシャ三大悲劇詩人」と言えばエウリピデス、ソフォクレス、アイスキュロスである(らしい。私自身は詳しくない)。しかし、同時代を生きたであろうアリストテレスは自身の著作の中で、「悲劇詩人」の代表格として先の3人の名前を挙げていないというのだ。ここから次のような推定が可能になる。現代には名前が残っていないものの、我々が知っている「悲劇詩人」以上に優れた悲劇を描く詩人が存在していたのではないか、と。まさに「たまたま名前が残らなかった天才」の話と言えるだろう。

また、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』においてはネット社会についても論じられており、非常に興味深かった。詳しくは本作を読んでいただきたいが、大枠の主張としては「『紙の本』には『忘却』という機能があるからこそ価値がある」という話になる。ちょっと何を言っているのか分からないだろうが、短く説明するのは難しいので、ざっくりとでも知りたい方は、私が書いた紹介記事を読んでいただければと思う。

繰り返しになるが、ツチヤタカユキが後世まで知られる存在になるかどうかはまだ誰にも分からない。というか、同時代を生きる人間にそれを判断する術などないだろう。しかし本作『笑いのカイブツ』を観ると、「ツチヤタカユキぐらい圧倒的な才能を持つ人物でさえ、そもそも『評価される』という段階までたどり着けないことがある」のだと理解できるはずだし、また、「『社会性の無さ』が『圧倒的な才能』さえ上回ってマイナスをもたらすことがある」という現代的な問題としても受け取れるだろう。そしてそんなツチヤタカユキの人生を追うことで、「我々が知らないだけで、これまでにも『圧倒的な才能を持ちながら忘れ去られた者たち』が山ほどいたのではないか」という思考が誘発されるようにも思えるのだう。

するのもされるのも同様だが、「評価」の難しさを改めて感じさせられた作品である。

「正しい世界で生きたい」というツチヤタカユキの感覚に共感させられた

ツチヤタカユキがある場面で、魂を振り絞るようにして出した声で、次のようなことを言う場面がある。

やるだけやって燃え尽きたら、それまでじゃ。その先に何があんねん。
誰かが作った常識に、何で潰されなあかんねん。

この言葉もかなり私の心を撃ち抜いた。メチャクチャ分かるなと思う。特に、「誰かが作った常識に、何で潰されなあかんねん」という言葉にはグッときた。私もよく同じように感じるからだ。世の中のあらゆる場面で、「誰かが勝手に設定した『ストライクゾーン』から『外れている』というだけの理由で否定される」みたいな状況が繰り広げられているように思えてならないのである。

野球の「ストライクゾーン」の場合は、「その設定を許容する」という共通理解の元に成り立っているのだから問題はない。しかし、議論などの場面で意識させられる「ストライクゾーン」に対しては、「それって、お前が勝手にそう思ってるだけだよな」としか感じられない。だから、そんな「ストライクゾーン」から外れていると指摘されたところで、「だから何?」としか思えないのである。

さて、しかし先のセリフ以上にグッときたのが、次の言葉だ。

正しい世界で生きたいねん!
そして、そこで勝ちたいねん!

分かるなぁ」と感じてしまった。

話はちょっと飛ぶのだが、以前ツイッターのまとめで見かけた話を紹介したいと思う。元となるツイートをしたのは恐らく、飲食店の経営に何かしら関わる人で、身近にいる「『自分の店を持ちたい』と言っている若者」に言及する内容だった。大雑把に要約すると、次のようになる

「自分の店を持ちたい」と言っている若い人の何割かは、単に「オシャレな店のオーナーになりたい」だけだったりする。だから、料理そのものには全然興味がない。何なら、「出来合いの料理を出せば十分」ぐらいに考えているように思う。

先のまとめを最初から最後まですべて読んだわけではないので、誰がどういう意図でこのようなツイートをし、それがどのように受け取られたのかはよく分からない。もしかしたら本来の意図とは異なる捉え方をしているかもしれないが、しかし私はこのまとめを読んで「分かるなぁ」と感じてしまった

何でもかんでも原因をSNSに求めるのは良くないと思ってはいるが、とはいえやはり、InstagramやTikTokなどが大きな力を持つようになった時代においては、「見栄えさえ整っていればいい」みたいな発想になりがちだろう。SNS上の競争ももちろん熾烈だろうし、そこで勝つのも簡単ではないと分かった上で書くのだが、SNSはやはり「見栄えを整えた者勝ち」みたいな世界だと私には感じられてしまう。どれだけ「中身」が伴っていなくても、「見栄え」さえなんとかなっていれば土俵には上がれるし、なんなら「中身が伴ったもの」に勝ててしまったりすることだってあるだろう。逆に言えば、どれだけ「中身」がちゃんとしていようが、「見栄え」がダメなら見向きもされないはずだ。

そんなわけで私は、「『見栄えだけで評価されるような世界』には生きていたくないし、闘いたくないし、仮に闘って勝てるとしても勝ちたくない」と感じてしまう。私には、そういう世界は「正しい世界」には思えないのである。

ツチヤタカユキが抱いている感覚も、これに近いはずだと私は思う。彼には彼なりの「正しい世界」の感覚があり、そこに生きて闘って勝ちたいと考えている。そしてそうではない世界だとすれば、勝ち負け以前にそもそも「生きている価値などない」としか感じられないというわけだ。

メチャクチャ分かるぞ、ツチヤタカユキ。

ツチヤタカユキにとっての「正しい世界」とは?

では、ツチヤタカユキには一体何が「正しい世界」に感じられるのだろうか?

そのことがはっきりと説明される場面は存在しないが、観ていれば大体のところは理解できる。要するに、「『才能も無いのに偉ぶってる放送作家』が活躍している世界」が「間違った世界」であり、そうではない世界が「正しい世界」というわけだ。

さて正直なところ、今まで私は「放送作家」というのが何をする職業なのかちゃんとは知らなかったのだが、本作を観てようやく理解できたように思う。今まではなんとなく、「バラエティやラジオの台本を作る人」程度の認識だった。しかし本作を観てようやく、「芸人のネタを書く」のも放送作家の仕事なのだと認識できたのである。

私はこれまで、「すべての芸人は、自分でネタを書いている」と考えていた。しかし実際には、そうではない人もいるというわけだ。確かに、「『エンタの神様』というネタ番組では放送作家がネタを書いていた」みたいな話は聞いたことがある。ただ、それは例外的なことだと思っていたのである。要するに、「シンガーソングライターのような芸人もいるし、誰かが作詞作曲した歌を歌うみたいな芸人もいる」ということなのだろう。そしてツチヤタカユキは、そんな「芸人用のネタを書く放送作家」になることを目指して日々”修行”をしていたというわけだ。

しかし、紆余曲折を経ていざ放送作家の世界に足を踏み入れてみると、「お笑いをやっているようには見えない放送作家」がたくさん目に付くようになった。恐らくだが、要は「ネタを作りたい」のではなく「放送作家(業界人)になりたい」という人が多いということなのだと思う。まさに、「オシャレな店を持ちたいだけ」の話と同じと言えるだろう。

私は別に、「オシャレな店を持ちたいだけの若者」も、「放送作家(業界人)になりたいだけの人」も、別に悪いとは思わない。そういう生き方を本人が望んでいて、本人がそれで満足しているのであれば、他人がとやかく言うことではないだろう。

また本作では、「真剣にネタ作りをやりたいわけではない放送作家」の存在価値についても触れられていた。ツチヤタカユキは、「ベーコンズ」というお笑いコンビ(後で調べて知ったが、「ベーコンズ」のモデルはオードリーだそうだ)からラジオを通じて直接呼びかけられたことで彼らと共に働くことになるのだが、その「ベーコンズ」チームに氏家という男がいる。本人は「辞めたつもりはない」と言っていたが「元芸人」であり、「ベーコンズ」の放送作家をしている男だ。そしてその氏家について「ベーコンズ」の西寺(若林がモデルらしい)が、「あいつがいると、場が上手く回るんだよ」と評価する場面がある。

氏家は、ネタの制作はツチヤタカユキに全振りするなど、「ネタを作る」という意味では放送作家っぽくはない。しかし、氏家がチームの中にいることで、全体がとても軽妙に回っていくのである。これは、自ら「人間関係不得意」と語る社会不適合者であるツチヤタカユキには絶対に真似できない芸当だ。氏家のような人間は、みんなで何かを作るという時には、重宝される役回りであることは確かだと言える。

しかし、「面白い奴が勝つ」という価値観”のみ”で生きてきたツチヤタカユキにとっては、そんなこと関係ない。面白いことを何も考えない氏家はツチヤタカユキにとっては放送作家ではないし、同じ土俵にいるとも考えていないのだろう。しかし、「面白さ」では圧倒的であるはずのツチヤタカユキは、他の放送作家と比べて大きな評価を得ることが出来ずにいる。ツチヤタカユキからすれば「面白いことを考えているとは思えない放送作家」がのさばっているようにしか見えないのだ。

そのようにしてツチヤタカユキは、ここが「間違った世界」であると気づくことになった。だから、闘う気力も、勝とうする努力も失ってしまったのである。そして私は、そんな”不器用”なツチヤタカユキのことが、もの凄く理解できてしまったのだ。

もちろんツチヤタカユキにしても、「面白い奴が勝つ」という「ストライクゾーン」を勝手に設定して他人を評価しているわけで、自分を追い詰めてきた奴らと同じことをしていると言える。ただ、「マジョリティ」と「マイノリティ」とでは、同じことをしていても見え方がまったく異なるだろう。圧倒的な「マイノリティ」であるツチヤタカユキにとっては、「面白い奴が勝つ」という「ストライクゾーン」の設定はある意味で「生き抜くためのギリギリの思考」みたいなものであり、凄まじく切実なものなのだ。

そして、そういう切実さに、私はとても惹かれてしまったのである。

「演者」になれていたら、何かが違っていたのだろうか?

ツチヤタカユキの人生における困難さの本質は、結局のところ、「演者にはなれなかった」という点にあるのではないかと思う。面白いことを思いつくのであれば、漫才でもコントでも、「自分で生み出したものを自分で演る芸人」になればいい。しかしツチヤタカユキには、「演者」としての才能はなかった。だから、「思いついた面白いことを、誰かに演ってもらう」必要がある。それで放送作家を目指したわけだが、結局その世界では、ツチヤタカユキが最も有していない「コミュ力」が必要だったというわけだ。そんなわけで、「演者にはなれなかった」という事実こそが、ツチヤタカユキにとっての本質的な不幸と言えるのではないかと感じた。

しかしもしかしたらだが、ツチヤタカユキは少し出てくるのが早すぎただけなのかもしれない。というのも、以前何かで読んだ記憶があるのだが、一昔前と現在とでは「お笑い芸人を目指すタイプ」が変わってきているというのだ。

一昔前は、「クラスの人気者やお調子者がそのままお笑い芸人を目指す」みたいなことが普通だったと思う。「お笑いを突き詰めたい」みたいなことではなく、「人気者になりたい」という動機で芸人を目指したというわけだ。しかし、そういう「目立たがり屋」は今、YouTuberへと流れているのだという。

そのため、今お笑い芸人を目指すのは、「ガチで笑いを極めたい」みたいな人が多いそうなのだ。そしてそういう時代の方が、ツチヤタカユキの力が活かされるのではないかと感じたのである。ただ、「ガチで笑いを極めたい人」は自分でネタを作りたいと考えるだろうし、だとしたらむしろ今の方が需要が無かったりするのかもしれない。考えれば考えるほど、なかなか難しいものだなと思う。

ツチヤタカユキには「圧倒的な才能」があった。しかし残念ながら、「正しい世界」には巡り合えなかったのである。なんとも皮肉なものだ。そして「皮肉」と言えば、菅田将暉が演じた役の男が、「世間に対する違和感」を口にするツチヤタカユキに次のようなことを言う場面がとても印象的だった。

でも、お前が笑かそうと思ってるのは、その世間なんだろ。
地獄やなぁ。
でも俺は、お前にそこにおってほしいと思ってるわ。
地獄で生きろや。

「世間」に対してどうしようもない違和感を抱いてしまうツチヤタカユキはしかし、まさにその「世間」を笑わせたいと思って奮闘しているのだ。実に皮肉なものである。そして本作では、そんな人物の「絶望塗れの半生」を、岡山天音がその壮絶な演技で体現しているというわけだ。

映画『笑いのカイブツ』の内容紹介

ツチヤタカユキは、片手にタイマーを、そしてもう一方にはペンを持ち、凄まじい勢いで紙に何かを書いている。タイマーは5秒毎に音が鳴る設定鳴る度に何かを書く。彼は一体何をしているのか。実は、「5秒に1本ネタを考える」という”狂気的な修行”をしているのだ。家でも近所のフードコートでも、彼は同じことをしている。

何故そんなことをしているのか。それは、テレビの大喜利番組で「レジェンド」の称号を得るためである。彼は、生活のほぼすべてをそのために注ぎ込んでいた。仕事中もネタ作りばかりしているため、働き始めてもすぐにクビになってしまう。どこで働いても、まったく長続きしないのだ。

しかし念願叶って、ようやく「レジェンド」の称号を得ることが出来た。そこでツチヤタカユキは、お笑いの劇場に自らネタを持ち込み、それが認められ「構成作家見習い」として働くようになる。しかし結局そこは、「面白さ」よりも「コミュ力」が重視される世界だった。ツチヤタカユキは、極度に人間関係が不得手だったため、この世界にまったく馴染めなかったのである。劇場には1人だけ、ツチヤタカユキの才能を見込んで「ネタを書いてくれ」と頼んできたピン芸人がいたのだが、色んなことがあって結局、彼は劇場付きの構成作家見習いを辞めてしまう

その後ツチヤタカユキは、闘いの場を「ハガキ職人」に移した。ラジオにネタを投稿しまくったのだ。彼の投稿は圧倒的な採用回数を誇り、「伝説のハガキ職人」と評されるようになる。

そんなある日、驚くべきことが起こった。ツチヤタカユキがハガキを送り続けていたラジオ番組のパーソナリティを務めていたお笑い芸人・ベーコンズの西寺が、ツチヤタカユキが放送を聞いていることを期待して、なんと生放送中に「一緒にお笑いやろうぜ!」と呼びかけたのだ。ツチヤタカユキはその誘いに乗った。そして、大阪から東京に出て、再び構成作家見習いとして働くことになったのだが……。

映画『笑いのカイブツ』の感想

私は決してツチヤタカユキと比較できるような人間ではない。ただ、「同じベクトル上にはいる」、あるいは「ツチヤタカユキを100倍ぐらい希釈したら私になる」みたいな感覚があり、全編を通して共感させられてしまった。私も「社会不適合者」の自覚はあるし、また、決して「人間関係不得意」というわけではないのだが、ツチヤタカユキが抱いているのと似たような苛立ちを他人に対して感じてしまうことがあるのだ。ツチヤタカユキの「生きづらさ」はちょっと別格すぎるが、彼と同じような理由で「生きづらさ」を感じている人は、私だけではなくそれなりにいるのではないかと思う。

また、作中でツチヤタカユキも言っていたのだが、「何か始めたら3年は我慢しろ」とか「好きなことをやるためには嫌なことを我慢する時期も必要だ」みたいなよくある言説がどうにも納得出来ない。私の中にはとにかく、「嫌なことをしなければならないなら、好きなことを諦める」ぐらいの感覚があるのだ。ツチヤタカユキは「笑いのカイブツ」なので、「嫌なことはしたくないが、好きなことも諦めたくはない!」という感覚に支配されてしまうわけだが、それはそれとして、彼の生き方からはとにかく、「嫌なことはどうしても嫌なんだ!」という激しい想いが伝わってくるのである。

本作を観て私も、「やりたくないことはとにかくやりたくない」と改めて感じさせられた

私は正直、「『やりたくないことをやらない』ことで評価されなくても仕方ない」と思っているのだが、ツチヤタカユキの場合は、そんな壁さえもぶち破れるのではないかと思わせるような「圧倒的な才能」を持っている。つまり、「『やりたくないことをやらない』としても自ずと評価されてしまうのではないか」みたいに感じさせるというわけだ。しかしそれでも、結局壁は破れなかった。改めて、「社会」が突き付ける障壁の分厚さみたいなものを実感させられた思いである。

ちなみに、本作の制作にあたっては、「ツチヤタカユキの『圧倒的な才能』を表現する」のが難しかったのではないかと想像している。「大喜利の回答」であれば画面に表示出来るし、本作中にも実際「ツチヤタカユキによる大喜利の回答」が多数表示された(ちなみに後で知ったことだが、本作中に出てくる様々なネタは、映画に合わせてツチヤタカユキが書き下ろしたものだそうだ)。しかし「大喜利の回答」以外については、なかなかその面白さは伝わりにくいと言えるだろう。

作中では、「ツチヤタカユキが作ったネタをベーコンズが披露する場面」が映し出される。仲野太賀演じる西寺とその相方が、丸々1本ネタを披露するのだ。この場面だけは「視覚的にツチヤタカユキのネタの面白さが伝わる場面」と言えるが、それ以外に映像としてはなかなか見せようがない。この点は、映像化にあたって一番苦労した部分ではないかと感じた。

ちなみにだが、本作の漫才監修は、映画公開直前のM-1で優勝した令和ロマンが行っている。話題性という意味では、これ以上のものはなかなかないだろう。絶妙なタイミングだったなと思う。

演技について言えば、とにかく岡山天音が凄まじかったとしか言いようがない。ツチヤタカユキが実際にどのような人物なのか私はまったく知らないが、岡山天音が演じた通りなのだとすれば、マジでヤバすぎる「社会性が無い」なんて言葉では表し切れないないレベルであり、「このまま野垂れ死ぬんじゃないか」と感じさせるシーンが何度もあるくらいなのだ。「お笑い以外はどうでもいい」と言い放つほどであり、とにかく狂気的に過ぎる。そしてそんな人物を、岡山天音が全身全霊で演じているのが凄まじかった。「演技」だとは分かっていても、岡山天音の内側から狂気が滲み出ているような感覚があって、改めて「役者ってすげぇ」と感じさせられた。

また、本作では決して出番の多い役とは言えないものの、やはり菅田将暉も素晴らしかったなと思う。菅田将暉に関しては、出演作を観る度に圧倒させられる感じがあるのだが、本作でもやはり凄まじかった。作中のポイントポイントで、「こういう雰囲気の人っているよなぁ」というリアリティを絶妙に打ち出しており、やはりどんな役をやらせても圧倒的な存在感を醸し出す役者だなと思う。

また、お笑い芸人役としてネタ丸々1本やりきった仲野太賀と板橋駿谷もとにかく見事だった。役者はどんな役でも演じるものなのかもしれないが、それにしても「お笑い芸人」というのは格段にハードルが高いように思う。もちろん、本物の芸人が見たら色々と粗はあるだろうが、素人目には本物の芸人かと思うような雰囲気に感じられた。以前観たドラマ『だが、情熱はある』でも、南海キャンディーズとオードリーのネタを役者が完コピしていて驚かされたことを思い出す。役者は本当に凄いなと思う。

著:ツチヤ タカユキ
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最後に

ツチヤタカユキの物語にも、役者の演技にも、とにかく圧倒させられる作品だった

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