【衝撃】『殺人犯はそこにいる』が実話だとは。真犯人・ルパンを野放しにした警察・司法を信じられるか?

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

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この本をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • これほど衝撃的で、これほど読みやすいノンフィクションは、恐らく他にはない
  • 「連続殺人事件を立証する」ために、「『足利事件』の冤罪を証明する」という超絶離れ業をやってのける
  • 権力やマスコミと、私たちはどう関わっていくべきなのか

この作品で描かれる現実を知っているのと知らないのとでは、社会の見え方が大きく変わるだろうと思います

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「読みやすさ」「衝撃度」という点で、本作『殺人犯はそこにいる』を超えるノンフィクションは存在しないだろう。「殺人事件の真犯人を警察が見逃す」という信じがたい実話

本書『殺人犯はそこにいる』は、2020年10月放送開始のドラマ『エルピス―希望、あるいは災い―』(カンテレ制作、フジテレビ系列)の参考文献としても話題の1冊です。

「文庫X」として広まった『殺人犯はそこにいる』の凄まじさ

本書を読んだ時、事件のことも著者のことも作品のこともほとんど何も知らなかった。『殺人犯はそこにいる』というタイトルになんとなく聞き覚えがあったくらいだ。私は文庫で読んだが、単行本が発売された際話題になった記憶がかすかに残っていたのである。本書で扱われる「足利事件」も、なんとなく聞き覚えはあった。その犯人として逮捕されていた人物が釈放された、というニュースに触れた程度の記憶はあったのだが、まさかそれを実現させたのが本書の著者だったとは驚きだ。著者についても、まったく知らなかった。「桶川ストーカー殺人事件」で「警察の闇」を暴き、後に「ストーカー規制法」制定のきっかけを作った人物なのだが、『殺人犯はそこにいる』の前著である『桶川ストーカー殺人事件 遺言』のことも私はまったく知らなかったのである。

そんな、何も知らない状態で本書を読んだ。そして、その凄まじさに圧倒されてしまった

本の面白さを評価する言葉として「ページを捲る手が止まらない」という表現がある。私はこれをずっと「ただの誇張した表現」だと考えていた。かなりたくさん本を読んできたが、私自身は、そんな経験をしたことがなかったからだ。

しかし本書を読んでいる時は、文字通り「ページを捲る手が止まらない」という状態だった。「面白い」と評していいのか悩む作品ではあるが、とにかく「続きが知りたくて仕方ない」という感覚になることは間違いない。

さらに、本書は「ノンフィクション」というジャンルの本でありながら、とにかく恐ろしいほどに読みやすい。私は普段からノンフィクションを結構読むので、「ノンフィクションは読みにくい」みたいに感じることはないのだが、やはり、読書家でも小説を中心に読んでいる人の場合は、ノンフィクションは手が出にくいと感じるようだ。

しかし本書は、そんなノンフィクションに対して苦手意識を持つ人でも”絶対に読める”と断言したくなるほど文章が読みやすい。そのことは、後にこの作品が「文庫X」として世の中に広く届いたことでも証明できるだろう。

「文庫X」に対しての感想を読むと、「『文庫X』で初めてノンフィクションを読んだ」という人が結構いる。そして、そういう人たちもまた、この作品を大絶賛しているのだ。私としても、この作品がより多くの人の手に届いてくれたことがなんだか嬉しい。

本書で描かれるのは、著者が「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と名づけた“未解決事件”だ。著者はなんと、自らの取材により“真犯人”を突き止め、警察に伝えている。しかし、本書で指摘されているある理由から、その犯人は逮捕されていない。

こう聞くと、「自分には関係のない話だ」と感じる人もいるかもしれない。関東に住んでいるわけでもないし、その”真犯人”が逮捕されていなくても自分の生活には影響はない、と。

しかし、本書を読めば理解できるが、決してそういう問題ではない。本書が突きつけるのは、「私たちが、どんな『脆弱な足場』の上に生きているか」という現実なのだ。著者が「ルパン」と名づけたその”真犯人”が逮捕されない理由は、日本国民全員に関係があると断言していい。そしてその理由を含め、本書で示される「脆弱な足場」を知っているかどうかは、私たちの今後の人生に間違いなく影響を及ぼすと言っていいはずだ。

内容についてはこれから触れていくが、まず、本書で描かれる事件の発端・経緯・結論が凝縮された文章を引用しておこう。この文章を読むだけでも、本書の凄まじさがある程度理解できるはずだ。

ここまで読めばおわかりいただけただろうか。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」が葬られたということを。
五人の少女が姿を消したというのに、この国の司法は無実の男性を十七年半も獄中に投じ、真犯人を野放しにしたのだ。報道で疑念を呈した。獄中に投じられた菅家さん自身が、被害者家族が、解決を訴えた。何人もの国会議員が問題を糺した。国家公安委員長が捜査すると言った。総理大臣が指示した。犯人のDNA型は何度でも鑑定すればよい。時効の壁など打ち破れる。そのことはすでに示した。にもかかわらず、事件は闇に消えようとしている。

「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と「足利事件」の関係性、そして著者の無謀な挑戦

まず初めに、本書で扱われる「北関東連続幼女誘拐殺人事件」について、著者がどのようなスタンスで取材に臨んだのかも含めて、その概要に触れておこうと思う。

週刊誌記者として「桶川ストーカー殺人事件」の取材を行った著者の清水潔は、日本テレビへと籍を移して、改めて事件報道に携わる。そんな清水潔が”見つけた”のが、栃木県と群馬県の県境で起こった5件の幼女誘拐殺人事件だ。非常に狭い範囲内で短期間に発生しており、「同一犯による連続誘拐事件」と考えるのが自然に思われた

しかし、「同じ人物が5件の幼女誘拐殺人事件を起こしたかもしれない」という話は、一顧だにされていない。その理由は非常に明白であり、ここに「足利事件」が関係してくるのである。

しかし……だ。
私が立てた仮説は、実を言えば致命的な欠陥を抱えていた。
私は最初からそれに気がつきつつ、あえて無視を決め込んで調査を続けていたのだ。私のようなバッタ記者でも気づく五件もの連続重大事件を、警察や他のマスコミが知らぬはずもなかろうし、気づけば黙ってもいないだろう。なぜこれまで騒がれなかったのかといえば、そこには決定的な理由が存在していたからだ。
すなわち、事件のうち一件はすでに「犯人」が逮捕され、「解決済み」なのである。

つまりこういうことだ。著者が”見つけた”5件の連続誘拐事件の内の1つは既に解決済み、そしてその犯人は他の事件の犯人ではあり得ない、だから同一犯による犯行であるはずがない、と認識されているのである。その解決済みの事件こそ「足利事件」であり、菅家利和という人物が逮捕され、無期懲役が確定して収監されていた。

普通に考えれば、この事実を前にして「5件の誘拐殺人事件は同一犯による犯行だ」と主張するのは無理がある。著者自身ももちろんそう考えていた。

仮にだ。あくまで仮にだが、万が一、いや100万が一でも、菅家さんが冤罪だったら……。
それが記者にとって危険な「妄想」であることは百も承知だった。私だってこの道は長い。冤罪など滅多やたらに無いことは知っている。刑事事件における日本の有罪率はなんと、九九・八パーセントである。しかも今回、証拠は「自供」と「DNA型鑑定」という豪華セットだ。まともな記者なら目も向けたくない大地雷原であろう。

「自供」と「DNA型鑑定」が揃っている事件で、菅家利和が冤罪の可能性などほぼあり得ない。そして、「足利事件」が菅家利和の犯行で決着しているなら、著者の主張する「北関東連続幼女誘拐殺人事件」が成り立つはずもない。この時点で普通は、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という仮説の方を諦めるだろう

しかし著者は諦めなかった

それには必要なことがある――菅家さんをこの事件からまず「排除」することだ。「北関東連続幼女誘拐殺人事件」にとって獄中にいる菅家さんの存在は「邪魔」なのだ。事態がややこしくなるだけだ。彼が有罪になったばかりに、他の四件までもが放置される事態に立ち至った。彼の冤罪が証明されない限り、捜査機関は真犯人捜しに動かないだろう。
これを修正する方法は、菅家さんの冤罪を証明することしかない。あるいは、少女たちが夢で迫ったように、捜査機関を出し抜いて先に真犯人に辿り着くか。
まあいい。両方やればいい。

それでも私が本書で描こうとしたのは、冤罪が証明された「足利事件」は終着駅などではなく、本来はスタートラインだったということだ。司法が葬ろうとする「北関東連続幼女誘拐殺人事件」という知られざる事件と、その陰で封じ込められようとしている「真犯人」、そしてある「爆弾」について暴くことだ。

著者は、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の存在を証明するために、なんと菅家利和の冤罪の証明に取り掛かったのだ。そして、清水潔の奮闘により、「自供」と「DNA型鑑定」が揃った事件で冤罪を証明し、獄中から菅家利和を解放することに成功する。17年半も獄中にいた菅家利和はなんと、「再審裁判」が開かれる前に釈放されるという、前代未聞の展開を迎えることになった。確かに私の記憶の中にも、「足利事件」の冤罪が証明されたテレビニュースのことがなんとなく残っている。当時、相当大きく取り上げられたはずだ。

清水潔は、「普通なら絶対に開かない扉」を何枚も何枚も強引にこじ開ける、凄まじい取材を見せたのである。

菅家さんを“犯人”としたプロの「捜査」に疑問を呈するならば、彼らを上回る「取材」をしなければダメだ。

どんな資料も鵜呑みにしない。警察や検察の調書や冒頭陳述は被告人を殺人犯として破綻がないように書かれている。報道は報道で、司法からの情報を元にしている。弁護人は弁護人で被告人を弁護するために資料を作成している。
私は記者だ。誰かの利害のために取材したり書いたりはしない。事実を基準にしなければならない。青臭い言い方をすれば、「真実」だけが私に必要なものだ。対立する見解があるときは双方の言い分を聞け、とはこれまたこの稼業を始めた時に叩き込まれた教えだ。

そしてそんな取材の過程で、菅家利和の冤罪を証明することなど”大したことない”と感じるほど衝撃的な事実が明らかになる。それが、著者が「爆弾」と書いている「信じがたい真実」だ。この「爆弾」は、私たちも決して無縁ではない。是非「自分ごと」として読んでほしい。

さて本書を読めば、「著者が本書執筆前に壮絶な取材をした」ということが読者には伝わるはずだ。そして、それを念頭に置くと苛立ちを覚えてしまうだろう記述が本書にはある。菅家利和の弁護団に対して、

なぜ日本テレビにだけ便宜を図るのか。

真顔で抗議した民放記者がいたというのだ。日本テレビに所属する清水潔が奮闘したお陰で菅家利和の冤罪が証明されたのだから、当然、日本テレビとの関わりは深くなるだろう。それを「便宜を図る」という言葉で表現する記者がいるという事実は、ちょっと私には理解できない

この記事の後半では「マスコミそのもの」についても触れるが、何にせよマスコミがきちんと「矜持」を持って取材に臨んでくれなければ、世の中の「真実」は炙り出されない。清水潔のようなスタンスが今のマスコミからは薄れてしまっているのだろうし、そのことに怖さを感じてもしまった。

DNA型という「爆弾」と、「公権力の横暴さ」

著者がその壮絶な取材で明らかにした最も重大な事実は、菅家利和が「有罪」と判定した決め手の1つとして紹介した「DNA型鑑定」にある。著者はなんと、この科学的手法に「不備」を見出したのだ。本書の中で唯一、この「DNA型」に関する説明だけが「難しさ」を感じさせる箇所かもしれない。しかし著者は、非常に易しく説明してくれているので頑張って読んでほしい。

「足利事件」は実は、「DNA型鑑定」が重要な証拠として採用された初めての事件だった。そして「足利事件」以降、この「DNA型鑑定」は強力な証拠として認められるようになっていく。つまり、「DNA型鑑定」を決め手として裁判が結審した事件が過去に多数存在するというわけだ。この点が、非常に重要なポイントなのである。

結果として著者は、そんな展開になるとは思いもせずに「パンドラの箱」に手を突っ込んでしまうことになった。なぜなら、「足利事件における『DNA型鑑定』に疑義を呈する」ということは、それ以降に行われた多くの裁判結果にも問題が生じる可能性が生まれるからだ。

そしてこれこそが、「ルパン」が逮捕されない理由だと著者は考えているのである。

警察も検察も、いったんは事件の連続性を認めながら、その後捜査を開始しもしなければ、あたかも事件そのものが存在しないかのように振る舞う理由――。
「北関東連続幼女誘拐殺人事件」はこのまま消え去る運命なのだろうか。

つまり、本書で著者が示しているのは、「北関東で起こったある事件の真相」なんかではなく、「司法制度そのものや警察による捜査の欠陥」なのである。全国民に関係すると書いた理由が分かっていただけるだろう。

さて、正しい理解のために書いておく必要があると思うが、本書で問題視される「DNA型鑑定」と、現在一般的になっている「DNA型鑑定」は別物だ。「かつて行われていた手法に問題があった」と理解してもらえばいいだろう。

菅家利和の冤罪の証明から始まったこの「爆弾」の顛末については、是非本書を読んでほしい。ここでは、「『DNA型鑑定の不備』が明らかにされることで、『DNA型鑑定が重要な証拠として提出されたすべての裁判』の正当性が揺らいでしまう」という点を改めて強調するに留めておこう。

国としては、なんとしてでもそんな事態に陥りたくはないはずだ。それを避けるためなのだろう、警察は保身のために嘘や欺瞞で事実を覆い隠そうとする。そして、そんな「隠蔽した真実」を暴き出したのが清水潔であり、本書にその経緯が綴られているというわけだ。

著者は、「桶川ストーカー殺人事件」の取材を振り返って、こんな風に書いている

あのとき私は、警察が自己防衛のためにどれほどの嘘をつくのかということを知った。警察から流れる危うげな情報にマスコミがいかに操作されるか、その現実を思い知った。そうやって司法とマスコミが作り上げた壁は、ものすごく厚く、堅い。一介の記者など本当に無力だ。その片鱗を伝えるためだけに、私はあの時、本を一冊書く羽目になったのだ。

「桶川ストーカー殺人事件」では、警察は殺害された被害女性から度々相談を受けていた。そして事件発生後警察は、マスコミを通じた”情報操作”を行うことで、「被害者が殺されてしまったことに警察の非は無い」と示そうと躍起にになったのだ。その過程でなんと、「事件全体の構図」を歪めることまでやってのけた

そして同じことを「足利事件」でも、そして「北関東連続幼女誘拐殺人事件」でも行っている。清水潔は、「足利事件」の冤罪を証明したことで、「北関東連続幼女誘拐殺人事件」を捜査する上での障害を排除した。しかし警察は動かない。だから著者は、自らの取材で真犯人を探し出そうと動き、「ルパン」に行き着いた。しかしそれでも警察は動かない。警察は、5件の連続誘拐事件に関連性を認める発言をしているものの、5件を同一犯の犯行だとした上での捜査は、本書執筆時点では行われていないという。

やはりそこには、著者が掘り出してしまった「爆弾」が関係しているのだろう

著者は本書を通じて様々な警鐘を鳴らしているが、その1つが、

恐ろしいことだと私は改めて思った。公権力と大きなメディアがくっつけば、こうも言いたい放題のことが世の中に蔓延していくのかと。

という文章に集約されている。

マスコミについては後で触れるとして、まずは「公権力」の話から始めよう

私たちは、「森友学園問題」「加計学園問題」など、「公権力が有している権力を不当に利用し、都合の悪い事実を隠蔽・歪曲した(と推察される)事例」に日々触れている。恐らくその多くは、「意図的に権力を行使した事例」であり、どうあってもそれらは糾弾されなければならないと思う。事実を明らかにし、適切に責任が取られることで、健全な形で「公権力」が存在できる社会になるべきだし、そうなるように私たち自身も意識して行動しなければならない。

しかし、本書で取り上げられる「DNA型鑑定」の問題は状況が異なる決して「意図的」なものではないからだ。「その当時は想定できなかった不備」であり、客観的には「仕方ない」と判断される出来事だと思う。

清水潔も、そんなスタンスを明確に打ち出している

本書は、様々な形で命に関わる人達に対し、そんな私の一方的な想いを記したものだ。批判や個人の責任追及が本書の目的などではないことは、ここできっぱりと断っておく。
人は誰でもミスをする。私だってもちろんそうだ。誤りは正せばよい。原因を突き止め、再発を防止することに全力を尽くせばいい。

確かにその通りだ。私もミスをするし、ミスをしない人間などいない。「ミスをした」という事実だけを取り上げて批判する風潮がどんどん強くなっていると感じるが、著者と同じように、私もそんなことに意味はないと考えている。重要なのは「再発防止」であり、「同じ過ちを繰り返さない」という共通理解の元で人々が協力することだと思う

しかし「北関東連続幼女誘拐殺人事件」において、警察は「隠蔽」を選んでしまった

だが、隠蔽しては是正できない。過ちが繰り返されるだけだ。

その一方で、「公権力」をむやみに批判することも意味はないと私は思う。警察・司法・政治などどんな世界にも、国家や市民のために全力で身を捧げている人がいるはずだ。そういう人たちまで丸ごと引っくるめて非難することはむしろ逆効果だろう。

ただ本書を読むとやはり、私たちが関心を向けることによって「公権力」に歯止めをかけることが非常に重要なのだと理解させられる。清水潔のような奮闘は誰にでもできるものじゃない。私は絶対に無理だ。しかし、「事実を知って、『関心を持っているぞ』という視線を向けること」ぐらいは誰にでもできると思う。

「『公権力』は、自らの保身のためなら、連続殺人犯(と思しき人物)を野放しにするという決断もしかねない」というのが、著者の推論も交えた本書の結論だ。私たちは、このような現実を理解した上で日々を過ごさなければならない。

その覚悟を突きつける作品でもあるのだ。

私たちが正しく事実を理解することの大事さと困難さ

本書では、「足利事件」の冤罪証明の過程が描かれるのだが、よく知られた冤罪事件である「免田事件」も併せて取り上げられる。そしてその中で紹介される、「免田事件」で逮捕され死刑判決を受けた免田栄さんと関わった時の著者の経験が、「私たちが正しく事実を理解することの大事さ」を実感させてくれるはずだ。少し長いが引用しよう。

八三年に免田さんを取材した時のことが、忘れられない。
脳裏に、今も焼きついているその表情。
熊本市内で夕食を一緒に取り、帰路タクシーを拾った。後部座席で車窓に目をやっていた免田さんが、ふと思い出したように前方に顔を向けるとこう言った。
「あんた、免田って人、どう思うね?」
尋ねた相手は運転手だった。当時熊本で「免田事件」を知らない人はいない。免田さんは続けた。
「あの人は、本当は殺ってるかね、それとも無実かね?」
ハンドルを握る運転手は、暗い後部座席の顔が見えない。まさか本人が自分の車に載っているとは微塵も思わなかったのだろう。
「あぁ、免田さんね。あん人は、本当は犯人でしょう。なんもない人が、逮捕なんかされんとですよ。まさか、死刑判決なんか出んとでしょう。今回は一応、無罪になったけど……知り合いのお巡りさんも言ってたと」笑ってハンドルを廻した。
「そうね……」免田さんは、視線を膝に落とした。
人は、ここまで寂しい表情をするものなのか。

「司法の世界」と「市民の世界」が異なるのは当然だ。しかしそれでも私たちは、「自分の直感に逆らうのだとしても司法の世界で『真実』と定まったことを『真実』として受け入れる姿勢」を持たなければならないと思う。もちろん、その姿勢が「冤罪」を生むことにも繋がり得るわけで、諸刃の剣ではある。だからこそ、「『誤り』が正される仕組み」も同時に存在すべきなのだ。清水潔の取材はその最高峰と言っていいだろうが、本来はこのような“遠回り”をせずとも、「誤り」が正されるべきだろう。

いずれにしても、「私たちが関心を持ち、正しく理解すること」が何よりも重要だということに変わりはない。

もちろん、世の中のすべての「問題」に関心を持つことなど不可能だ。ただ、「私たちはその『問題』に関心を持っている」と広く理解されることで、その「問題」に関する情報が自然と世の中に流れ込んでくることになる。いつの時代も、「より多くの人が関心を持つ情報」がメディアで取り上げられるのだし、当たり前だが、それがどれだけ公益に関わるものだとしても、私たちが関心を示さなければ情報として届きはしない。

つまり、「『私たちの関心』こそが『公権力に対する監視』になる」と言っていいだろう。これはとても重要な理解だと私は思っている。

さてその上で、「メディアからの情報をどう捉えるか」についても考えなければならない

清水潔が指摘する「マスコミの問題」についてはこの後で具体的に書いていくが、ここではまず、より全体的な難しさに触れておこうと思う。以前読んだ『こうして世界は誤解する』に書かれていた、「メディアがどれほど『現実』を正しく伝えられないか」に関する指摘だ。簡単に主張を要約しておくと、「『動物園にいる動物』と『野生の動物』は違う」ということになる。

上の記事でも書いた通り、『こうして世界は誤解する』の著者は「メディアで切り取られる現実」と「実際に目で見る現実」のギャップに驚かされたという。情報発信側が「意図的に誤認させよう」という意思を持っていなかったとしても、「メディア」というものが持つ特性により、現実が歪曲されて伝わってしまうというのだ。

それは、こんな風にイメージすると理解しやすいだろう。私たちは、なかなか野生の動物を見る機会がない。だから動物園に行って、その姿を知ろうとする。しかし当然だが、「動物園にいる動物」と「野生の動物」の振る舞いはまったく違う。「動物園」という狭い環境にいるが故の違いもあるだろうし、あるいは、来園客の多くが昼間やってくるのだから、夜行性の動物の印象も野生とはまた大きく変わることになるだろう。

メディアの役割も似たようなところがある「事実そのもの」をそのままの形で見せることは難しい。だからそれを、「見せやすい、届けやすい形」に加工して流す。しかしそれは「動物園に動物を運んでくる」ような行為であり、「野生のままの動物の姿(事実そのもの)」ではなくなってしまうというわけだ。

それが日常的ではない現実であればあるほど、情報を得るために私たちはメディアの力を借りる必要がある。しかし、メディアからの情報をそのまま受け取ることは決して適切ではない。私たちはそのことを正しく理解した上で「情報」に接しなければならないのである。

『殺人犯はそこにいる』で著者が指摘する「マスコミの問題」は、「無自覚な悪意」から生まれるものだとも言えるし、今説明した「『動物園にいる動物』と『野生の動物』は違う」という問題と直接的に重なりはしない。しかしいずれにしても、「メディアからの情報の受け取り方に気をつけなければならない」という教訓は同じだ。著者が鳴らす警鐘を、きちんと受け取るべきだと感じさせられる。

自身もマスコミに属する清水潔が指摘する「マスコミの問題点」

著者は、「取材記者」としての自身のスタンスについてこんな風に書いている

そもそも報道とは何のために存在するのか――。
この事件の取材にあたりながら、私はずっと自分に問うてきた。
職業記者にとって、取材し報じることは当然、仕事だ。ならば給料に見合ったことをやればよい、という考え方もあるだろう。だが、私の考えはちょっと違う。(中略)
権力や肩書き付きの怒声など、放っておいても響き渡る。だが、小さな声は違う。国家や世間へは届かない。その架け橋になることこそが報道の使命なのかもしれない、と。

そう、清水潔はひたすら「小さな声」に耳を傾けることに終止するのだ。

そして何より、「一番小さな声を聞け」――。それは私の第一の取材ルールであり、言い方を換えれば「縛り」とすら言えるものだ。この事件ならそれは四歳で殺害された真実ちゃんの声であり、その代弁ができるのは親しかいない。

一昔前の事件取材では、「報道被害」という言葉が生まれるほど、加害者側だけではなく被害者側への取材も苛烈だった。現代では「コンプライアンス」の名の下にだいぶ状況は変わっているだろう。しかしそうなのだとして、被害者側が抱く「マスコミへの不信感」も同じように減じているかと言えば、そんなはずはないと思う。

それでも著者は、罵倒されることを承知で、「小さな声」を拾うために被害者家族にアプローチする。「小さな声」を拾うことこそが、清水潔にとっての「矜持」だからだ。

そんな著者にとって「マスコミによる報道」は、違和感をもたらすものでしかない

人様に指摘されるまでもなく、被害者の家族は自分の犯したミスを悔み続けている。娘を、誰よりもかわいい娘を、パチンコ店に連れていってしまったことを悩み、涙を流し、生きてきた。日々の生活の中で”パチンコ“という言葉に触れるだけで、どれほど傷ついてきたことか。そんな人達をさらに追い込み、「私達とは関係ない」などと人々を安心させるために報道はあるのだろうか。

その通りだ。それが「悪意を持った人物による犯行」なのだとすれば、被害者側のミスに言及するような報道は無意味でしかない。被害者側に非があるケースもゼロではないだろうが、大体の場合、被害者側の振る舞いに関係なく事件は起こってしまうはずだからだ。

そんな著者が考える「報道」の価値は明快である

私は思う。
事件、事故報道の存在意義など一つしかない。
被害者を実名で取り上げ、遺族の悲しみを招いてまで報道を行う意義は、これぐらいしかないのではないか。
再発防止だ。
少女たちが消えるようなことが二度とあってはならない。
だからこそ真相を究明する必要があるのではないか。

本当にそうだと思う。被害者側に「苦痛」を強いてまで事件の全貌を明らかにしようとする行為が正当化される唯一の理由は、「再発防止」しかないはずだ。この点が正しく認識されていないように感じられる報道には違和感しか覚えないし、「間違っている」とさえ感じてしまう。

そして、マスコミを内部から見ている著者の目にも、マスコミの多くが「再発防止」「真相究明」など目指していないように映るのだ。今のマスコミの仕事は、「お上」である警察の発表を垂れ流すことでしかない。事件事故の報道においては、「『お上』が担保してくれた情報でなければ報じられない」という空気がマスコミに蔓延しているというのだ。

それ故に、「お上」を敵に回すような報道をするメディアはほとんどない

そもそも、刑事事件の冤罪の可能性を報じる記者や大手メディアは少ない。特に確定した判決に噛みつく記者となればなおのこと。「国」と真正面からぶつかる報道となるからだろう。容疑者を逮捕する警察。起訴する検察。判決が出ていれば裁判所。そのいずれかと、あるいはそのすべてと対峙することとなってしまう。

つまり逆に言えば、「マスコミに流れる情報」は「お上(警察)が流したいと考える情報」に過ぎないということだ。それは、お上(警察)が何かを隠蔽したいと意図するなら、簡単に実現できてしまうということでもある。マスコミに、「権力側に加担する意図」があるかどうかは関係ない。マスコミを取り巻く様々な環境・構造が、必然的に権力側に有利な状況を生み出してしまっているのである。

そもそも、それがどんな情報であれ、無批判に受け取ることは危険だ。さらにその上で、「構造的に、マスコミの情報には『権力側の隠蔽』が入り込み得る」と理解しておくことは、情報の受け手として非常に大事だろうと思う。

本書が事件ノンフィクションでありながら、事件の「本記」に加えて、事件の「側面」や「その後」、「記者自身の行動」にもページを割いたのは、日々流れているニュースの裏側には、実は多くの情報が埋没していることを知ってもらいたかったからだった。

清水潔の取材は、個別の事件に着目することで始まったのだが、その奮闘が、より包括的で大きな問題を炙り出すことにも繋がった私たちがどのような「現実」の中で生きているのか、その一端を窺わせてくれる作品だ

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最後に

偉そうなことを言うつもりなど毛頭ない。山ほど失敗してきた私だ。ただ愚直にやるしか私には方法がないのだ。権力もない、金もない、ただマスコミの端っこに食らいついているだけのおっさんができることなど、そう多くはない。

この言葉は、「日本テレビの社員」としてではなく、週刊誌記者時代の立場を踏まえたものだと捉えるべきだろう。「桶川ストーカー殺人事件」の際は、記者クラブに入れなかったため、警察からの情報を入手出来ずにいた。そんな制約の中で、社会を動かす調査報道をやってのけたのだ。日本テレビに移ってからも、「現場百遍」という言葉ではぬるいくらい足をすり減らし、地道な取材を徹底して続けた

そんな著者が、「もう本を出版する以外に残された手段がない」と言うほどの状況に置かれている。あらゆる手を尽くしたものの、それでも警察・司法は動かなかった。だから後は私たち市民に託すしかないというわけだ。私たちが関心を強く抱けばきっと、権力側も折れるしかなくなるだろう。そこまでいっても何も変わらないなら、「法治国家・日本」そのものを諦めるしかないと思う。

本書は、清水潔から私たちに託されたバトンのようなものだ

私たちにできることはなんだろうか

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