【あらすじ】原爆を作った人の後悔・葛藤を描く映画『オッペンハイマー』のための予習と評価(クリストファー・ノーラン監督)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:Christopher Nolan, プロデュース:Emma Thomas, プロデュース:Charles Roven, プロデュース:Christopher Nolan, Writer:Christopher Nolan, 出演:Cillian Murphy, 出演:Emily Blunt, 出演:Matt Damon, 出演:Rami Malek, 出演:Kenneth Branagh, 出演:Robert Downey Jr., 出演:Florence Pugh, 出演:Josh Hartnett, 出演:Casey Affleck
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この記事の3つの要点

  • 決して難解な作品ではないが、まったくの知識ゼロで観ると混乱するかもしれないので、事前にある程度予習しておくことをオススメする
  • 「『原爆開発』は避けがたかったが、『日本への投下』は許容できない」という私の感覚について
  • 「共産主義との関わり」を丁寧に深く掘り下げることで、オッペンハイマーという人物の複雑さを明らかにしようとする物語

これまでのクリストファー・ノーラン作品とは大分趣の異なる作品だが、やはり観て良かったと感じさせられた

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『オッペンハイマー』(クリストファー・ノーラン監督)は知識無しではちょっと難しい映画だ。予習をしてから観た方がいい

なかなか難しい映画だった。これは決して「難解」という意味ではない。物語の構造としては「1人の人間の苦悩を描き出す」という作品であり、そういう意味ではシンプルな映画である。ただ、「きちんと鑑賞するには知識が要る」という意味で、ハードルがあるように感じられた。

というわけでこの記事ではまず、「鑑賞前に知っておいても良いだろう知識」についてまとめておくことにする。

ちなみに、私自身のことについて少し触れておこう。私は元々科学(特に物理学)が好きで、原子爆弾の技術の根幹を成す「量子力学」についても、一般書に書かれているレベルの知識程度ではあるがそれなりに知ってはいる。また科学の知識だけではなく、科学史に関する本も好きなので、科学史を彩った科学者についてもそれなりには詳しい。特にアインシュタインが絡むものについてはよく読んでおり、そのため「マンハッタン計画」周辺の話は結構知っていると思う(アインシュタインは「マンハッタン計画」そのものには関わらなかったが、より重要な形で関係している)。その辺りの知識をまとめたkindle本も出版しているので、以下にリンクした記事を見て興味があれば是非読んでみてほしい。

そして本作『オッペンハイマー』は、「オッペンハイマーの人物像」「マンハッタン計画」などに関する知識があまりない人には、ついていくのがちょっと難しい作品かもしれない。そういう意味で、あらかじめ知識を入れておくことは重要だと思う。

鑑賞前に知っておいても良いだろう知識について

本作では主に2人の人物に焦点が当てられる。1人はもちろんオッペンハイマーだが、もう1人はストローズという人物だ。私は本作鑑賞時点で、このストローズという人物のことを知らなかった。確かに、「オッペンハイマー」の物語を描き出す上で対比的な存在だとは思ったが、科学史においてはさほど重要な人物ではないはずだ。

ストローズについては後で紹介するとして、本作はこの2人の人物の物語が並行して描かれる構成になっている。オッペンハイマーは「保安聴聞会で尋問を受けている様子」が、そしてストローズは「閣僚として招聘するかを決める公聴会に出席している様子」が映し出されるのだ。オッペンハイマーの保安聴聞会の様子はカラーで、そしてストローズの公聴会の様子はモノクロで描かれるということを理解しておけば、混乱することはないだろう。

また、保安聴聞会・公聴会の様子に加えて、保安聴聞会・公聴会中に彼らが過去のことを回想するシーンも挟み込まれる。そしてその中で、「アメリカでは数少ない量子力学の理論物理学者だったオッペンハイマーが、マンハッタン計画のリーダーに就いてから戦後の混乱に巻き込まれるまでの物語」を描き出していくというわけだ。

では、ストローズとは一体何者なのか。彼は原子力委員会の委員長を務めた人物であり、また、戦後にオッペンハイマーをプリンストン高等研究所(アインシュタインの晩年の所属先としても知られる)の所長として迎え入れた人物でもある。そしてオッペンハイマーは戦後、原子力委員会の諮問委員会議長を務めており、原子力委員会に意見する立場にいた。もちろん、その時の委員長はストローズである。ここを直接の接点に、両者の対立が描かれるというわけだ。

では、オッペンハイマーとストローズは一体何で対立していたのだろうか。それは「水爆の開発」である。私は本作を観る前の時点で、「オッペンハイマーは戦後、水爆の開発に反対した」という事実だけは知っていたのだが、詳しい事情は理解していなかった。本作ではオッペンハイマーとストローズがある会議の場で直接的に対立する場面が描かれている。そしてその描写によれば、「水爆開発を推進すべきと考えるストローズ」に対し、オッペンハイマーは「アメリカが開発に着手したらソ連も追随せざるを得なくなる」という理由で反対していたようだ。

そしてそのような背景もあり、聴聞会・公聴会が開かれているのである。「聴聞会・公聴会が何故開かれたのか」については、映画の後半で詳しく明らかにされる部分もあるため、この記事ではこれ以上触れないことにするが、映画を観る上ではとりあえず、「オッペンハイマーとストローズの対立のせいで聴聞会・公聴会が開かれた」ぐらいに捉えておけば十分だろう。

では、それぞれの会において、一体何が議題とされているのだろうか?

まず、ストローズの公聴会の方から説明していこう。この公聴会は基本的に、「閣僚を任命するための形式的なもの」でしかない。映画の早い段階で、そのことは示唆される。「ちゃんとした形式を踏んで任命した」という事実を作るための会であり、普通は荒れるようなことはない。側近がストローズにそのように伝えているのだ。しかし実際には、ストローズは公聴会でオッペンハイマーとの関わりについてかなり突っ込んだ質問を受ける「形式的」とはちょっと言えないような展開になっていくというわけだ。

そこには1つ大きな理由があった。「戦後、オッペンハイマーに『共産主義者』というレッテルが貼られたこと」だ。「マンハッタン計画」に関する本を読むと、このような「赤狩り」の話が出てくる。本作で描かれるのも、登場人物の1人が「”ちょっと赤い”だけでも、すぐに大学を追われた」と語っていたぐらい、「共産主義者」との関わりが厳しく指摘される時代だったのだ。そして、オッペンハイマーに「共産主義者」の疑いが掛けられたため、プリンストン高等研究所の所長に彼を任命したストローズにも、同じような疑いが向けられたのである。

それでは、もう一方のオッペンハイマーの聴聞会では何が問われているのだろうか。もちろんそれは、「『共産主義者』か否か」である。しかし、この聴聞会には一応表向きの目的が用意されていた。それは「アクセス権の更新の可否」である。機密情報へのアクセス権の更新を審議するという名目であり、「共産主義者」であれば当然更新は出来ない。そのため「『共産主義者』か否か」が執拗に問われているというわけだ。そしてこの聴聞会にはオッペンハイマーだけではなく、彼の周辺にいる人物も多数呼ばれている。そして彼らからも話を聞くことで、オッペンハイマーの疑惑について判定しようというわけだ。

鑑賞前にこの辺りの情報を知っておけば、あまり混乱することなく作品を観られるのではないかと思う。逆に言えば、このようなことを知らずに観に行くと、「聴聞会・公聴会で何が行われているのか」を理解することはかなり難しくなるだろう。

一方、「回想シーン」を観るにあたって、難しいことは特に何もないはずだ。確かに、時折「物理学の専門用語」が出てくるが、それらについて知っている必要はない。物語を把握する上であらかじめ知っておくべき科学知識は、私が観る限り無かったように思う。なので、理解できない単語が出てきたとしても、「物理学者のリアルな日常を描いているシーンなのだろう」ぐらいに捉えておけば十分である。科学知識で言えばやはり、圧倒的に映画『TENET』の方がハードルが高かった。あの作品こそ、「量子力学」の知識無しにはまったく理解不能だと思う。

「原爆開発に着手したことは仕方なかった」と私は考えている

本作は、「オッペンハイマーとストローズの対立」や「オッペンハイマーの原爆開発との関わり方」などを描き出すことによって、「世界を一変させる兵器を作り出してしまった男の苦悩」を描き出す物語である。本作はまず、そのような「個人史」として受け取られるべき作品だと思う。しかし「唯一の被爆国」である日本に生まれ育った人間としてはやはり、「原子爆弾の開発・投下に関する是非」について考えないわけにはいかないだろう。そこでしばらく、この点に関する私自身の考え方について触れておこうと思う。

まず大前提として、「“現代”を生きる“日本人”の私」の観点からすれば、当然「原爆投下は誤りだった」という思考になる。“現代”“日本人”を強調したが、まずは“日本人”の方から説明しよう。詳しくは知らないが、アメリカでは日本への原爆投下について、「戦争終結が早まり、余計な犠牲者を出さずに済んだ」という解釈が存在するようだ。この解釈を支持する人がどれぐらいの割合なのか分からないが、アメリカの視点に立てばそのように見えるということなのだろう。しかしやはり“日本人”としては、そのような理屈をどれだけ示されたところで「なるほど、だったら原爆投下は妥当でしたよね」とはならないはずだ。このような点を“日本人”として強調したつもりである。

それでは、もう一方の”現代”の方に移ろう。この話は原爆投下に限るものではないのだが、私はその対象が何であれ、「”同時代”にその是非を判断すること」は難しいと考えている。作中では何度か、「歴史に裁かれるぞ」という主旨のセリフが出てくるのだが、まさにその通りだろう。中曽根康弘元総理が「政治家とは歴史という名の法廷で裁かれる被告である」という言葉を残したそうだが、まさに「政治家の判断によって決する事象」は概ね、「それを行った時点では是非の判断が不可能」であると考えるべきではないかと私は思っている。

「原爆投下」から見て「未来」を生きる私からすれば明確に「誤り」であると言えるが、しかし”同時代”の人にとっても同じ判断になるとは限らない。私は常に、そのような意識を持って物事の是非を捉えようと意識しているのだ。

そのためまずは、「”同時代”の人にとって『原爆開発』とはどのような意味を持っていたのか」について説明することにしよう。本作でもその点については多少触れられており、さらに私がこれまで読んできた本の知識を加える形で状況を整理したいと思う。

オッペンハイマーがマンハッタン計画のリーダーに就いたばかりの頃、物理学者で友人のラビから、「私はここには来ない」と告げられる場面がある。「ここ」とは、マンハッタン計画を遂行する場所として選ばれたロスアラモスのことだ。そして、ラビはさらに続けて、「物理学300年の歴史が爆弾なのか」と、原爆開発のリーダーを引き受けたオッペンハイマーを止めようとするような発言をする。

それに対してオッペンハイマーは次のように返したのだ。

分からない。そんな兵器を私たちが預かってよいかなど。
でも、ナチスではいけない。

そう、アメリカの原爆開発は、この点を抜きに考えることは出来ない。後で触れるが、アインシュタインもまさにこの点を懸念して、原爆開発を大統領に進言する手紙を書いたのだ(ここにも色々な歴史があるのだが、本筋とは関係ないので省略する。興味がある方は、冒頭で紹介した私のkindle本を読んでほしい)。

当時は「ナチスドイツ」こそが世界の脅威だった。ヒトラーを筆頭にした「何をするか分からない狂気的な集団」と目されていたのである。では、そんなナチスドイツが世界で初めて原子爆弾を開発してしまったらどうなるのだろうか? 当時この問題に懸念を抱いていたすべての人間は、「ナチスドイツなら、原子爆弾を使って世界を終焉に叩き込むだろう」と考えていたはずだ。オッペンハイマーの「ナチスではいけない」という発言には、このような背景があったのである。

また、「ナチスドイツが原子爆弾を先に開発するかもしれない」という懸念は、かなり現実的なものでもあった。というのも、先述した通り原子爆弾の根幹を成すのは「量子力学」なのだが、量子力学はまさにドイツで花開いた学術分野なのである。当時のドイツにはハイゼンベルグ、プランク、ボルン、ゾンマーフェルトなど、量子力学の創設・発展に重要な寄与を果たした理論物理学者がたくさんいた。まさにドイツこそ、量子力学の最先端の地だったのである。

かたやアメリカには、量子力学を研究する理論物理学者はほとんど存在しなかった。そして「そのような状況を、オッペンハイマーが変えた」と言えるだろう。彼が大学内で量子力学の講座を立ち上げた際、生徒はたった1人という状態だった。そこから少しずつ勢力を拡大していき、アメリカでも量子力学の研究が盛んになっていったというわけだ。

しかしそんな状態であれば、ドイツとの差は歴然としていたはずである。ある場面でオッペンハイマーは、「ドイツは2年先を進んでいる」と語っていた。それが事実だったかどうかはともかく、アメリカ(あるいはオッペンハイマー)がそのように捉えていたのだとすれば、当然「ナチスドイツが先に原子爆弾を開発してもおかしくない」と思うだろう。そしてだからこそアメリカの科学者たちは、「原子爆弾を”作らなければならない”」と考えていたのである。これが”同時代”の認識というわけだ。

ちなみに余談だが、戦後明らかになったところによると、ドイツの原爆開発はまったく進んでいなかったという。ヒトラーが「半年で成果の出る研究」しか認めなかったからである。つまり、「ナチスドイツが先に原子爆弾を開発するかもしれない」というのは単なる幻想でしかなかったというわけだ。しかしそうだとしても、アメリカの科学者を責めるのは酷というものだろう。当時の彼らにとっては、間違いなく「現実的な脅威」だったのだから。

またそもそもだが、マンハッタン計画が始動したきっかけは、「アインシュタインがルーズベルト大統領に宛てて書いた手紙」である。そしてそこにも、「ナチスドイツよりも先に原子爆弾を開発すべき」と書かれていた。そのため、オッペンハイマーが「原爆の父」と呼ばれるのに対して、アインシュタインは「原爆の祖父」と称されている。ただしアインシュタインは、ドイツから亡命した科学者だったため、マンハッタン計画そのものには呼ばれなかった。

ちなみに、アインシュタインの名誉のために付け加えておくと、彼は戦後「ラッセル=アインシュタイン宣言」を取りまとめている。これは「原爆開発には参加しない」という考えに賛同した科学者たちによる宣言だ。アインシュタインは、日本へ原爆が投下されたことを知り、間接的にとはいえ重大な形で原爆開発に関わってしまったことを生涯後悔したと言われている。

さて話を戻そう。アメリカによる原爆開発は「ナチスドイツへの恐怖」に追い立てられたものだった。ここで、少し「歴史のif」を想像してみたいと思う。仮にたったの1年で原子爆弾の開発が出来たのだとしよう。この時点ではまだ、ナチスドイツは世界の脅威だった。となれば、アメリカは恐らく、完成させた原子爆弾をドイツに投下したのではないだろうか。そうすれば、「ナチスドイツによる原爆開発の阻止」と「戦争の終結」を同時に実現できる。そして恐らく、日本には原子爆弾は投下されなかったはずだ。“日本人”の視点からすれば、このように歴史が進行していたらとても良かったと言えるだろう(ドイツが犠牲になることを良しとしているわけでは決してないのだが)。

しかし実際にはそのようにはならなかった

「日本への原爆投下」については、正しかったとは思えない

原爆開発には、莫大なコストが費やされている。20億ドル以上の資金と3年の歳月、そして4000人もの科学者の協力が必要だったのだ。そして、「開発に3年も掛かった」という点が、日本の命運を決したと言えるだろう。何故なら、アメリカが原子爆弾を開発した時点で既に、ヒトラーは自殺していたからだ。開発に着手した時とは異なり、ナチスドイツは現実的な脅威ではなくなっていたのである。

さて、これも仮定の話でしかないが、もしも、ヒトラーが自殺した時点で原爆開発にまったく見通しが立っていなかったとしたら、恐らくその時点で開発は中止されていたはずだ。ナチスドイツが自滅したのであれば、大金を費やしてまで開発する必要性がないからである。しかし実に不幸なことに、その時点で原子爆弾はほぼ完成していた

となれば、「作ってしまった原子爆弾をどうするか」が議論されるのは当然と言えるだろう。作中でも、この点について描かれている。マンハッタン計画に関わる科学者たちはヒトラーの死を受けて話し合いを行い、その中である人物が、「今や、人類最大の脅威は敵ではなく私たちになった」との認識を示していた人類史上類を見ない兵器を開発した自分たちこそが、世界における最大の脅威になってしまったというわけだ。これ以上の言及はなかったが、もちろんそのような発言をした科学者は、「マンハッタン計画の凍結」を考えていただろう。これ以上、どこにも進みようがないからだ。

しかし、その議論を聞いていたオッペンハイマーは、「確かにヒトラーは死んだ。でも日本がいる」と発言した。現代を生きる私たちにはなかなか想像が及ばないところではあるが、当時の日本は、さすがにナチスドイツ並とはいかないはずだが、比肩するぐらいの脅威として見られていたというわけだ。だからオッペンハイマーは、原子爆弾を日本に投下すべきだという考えを示すのである。

しかし当然、「投下をどう正当化する?」と疑問が呈された。それに対してオッペンハイマーは、次のように答えている。

我々は未来のことを想像し、脅威を感じれば行動を変える。
しかし、実際に使いその威力を理解するまでは、人々は恐れないだろう。
そのために投下する。
人類の平和を確実なものにするのだ。

この発言をより理解しやすくするために、オッペンハイマーが別の場面でした発言にも触れておこう。聴聞会において、「原爆投下の是非を決する会議でどのような助言を行ったのか」と問われ、次のように答えたのだ。

一度使えば、核戦争、いや、恐らくすべての戦争のことを考えもしなくなるだろう。

なんとなく発言の趣旨は理解できるだろうが、私なりにまとめておこう。オッペンハイマーは、「原子爆弾はそのあまりの威力ゆえ、『原子爆弾が存在する世の中では二度と戦争など起こせない』と感じさせるだけの力がある」と認識していた。しかし同時に、「一度も使わなければ、原子爆弾にそのような力があることを知り得ないだろう」とも考えていたのである。だから、「『恒久的な平和』を実現するためには、一度は原子爆弾を使わなければならない」というわけだ。これが、当時オッペンハイマーが考えていたことである。

ではこのような観点から、「日本への原爆投下」に関する是非について改めて考えてみたいと思う。

まず先程同様、”現代”の視点で考えてみよう。残念なことに私たちは、「戦争が放棄された、『恒久的な平和』が実現された世の中」には生きていない。内戦だけではなく、ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナ・イスラエルの軍事衝突などの国家間の戦争も絶えないし、北朝鮮がミサイル技術を進化させて世界を挑発してもいる。オッペンハイマーが理想としていたような「誰も戦争のことを考えなくなる世界」は結局のところ実現しなかったのだ。そのような意味で、”現代”の視点からは「日本への原爆投下」は誤りだったと判断できる

では”同時代”の視点ではどのように判断されるだろうか。ここからはあくまでも私の個人的な感覚になるが、”同時代”の視点からも「日本への原爆投下」は踏みとどまるべきだったと考えている。この点について理解してもらうために、有名な「トロッコ問題」を例に挙げよう

知っている人も多いと思うが、「トロッコ問題」とは哲学の世界でよく引き合いに出される話である。詳しくはネットで調べてほしいが、要するに「5人を助けるために、1人を殺すことは許されるのか?」という倫理の問題だ。この「トロッコ問題」においては状況的に、「5人死ぬ」か「1人死ぬ」のどちらかしか選択肢がないため、「その2択しかないなら『1人死ぬ』を選ぶしかない」みたいな思考になってしまう。個人的には、その2択しかないなら、「1人死ぬ」を選ばざるを得ないと感じる。

そこで問題となるのは、「『日本への原爆投下』は『トロッコ問題』と同じ状況だったのか」という点だ。オッペンハイマーはきっと、次のような2択を考えていたはずだ。「日本に投下し短期的には多くの犠牲を出すが、長期的には犠牲を少なく出来る」か、「日本に投下しないことで短期的には犠牲を出さずに済むが、長期的には犠牲が多くなる」かである。本当にこの2択しか存在しなかったのであれば、「日本への原爆投下」もやむを得ないと考えられるかもしれない。しかし私には、選択肢がこの2つしか存在しなかったとは思えないのである。「恒久的な平和」を獲得する方法は他にもあったはずだ。「日本に投下せず、さらに長期的にも犠牲を少なくする」道だってあっただろうし、やはりその可能性を探るべきだったのではないかと考えてしまうのだ。

しかし一方で、作中では「恒久的な平和を目指す」とは別の話も指摘されていた。原爆投下の直前の会議の中である人物が、「諜報員によると、日本はいかなる状況でも降伏しない」と発言するのだ。日本は「ハラキリ」「バンザイアタック」と、他の国の人には(というか、現代を生きる我々にも)理解しがたい国民性で戦争を戦っていたのであり、ナチスドイツとはまた違った形で「狂気的」と考えられていたのだろう。日本という国についてあまり知られていなかったわけで、「まともな話が通じる相手ではない」という前提で日本が捉えられていたのではないかと思う。

そして、当時のアメリカにとって日本が「狂気」に満ちた国に見えていたのだとすれば、”アメリカ人”の理屈では「日本への原爆投下」は正しかったと言えるのかもしれない。もちろん、”日本人”の私はその判断を許容しないが、私もやはり「ハラキリ」「バンザイアタック」は「狂気的」だと感じるし、私が当時を生きるアメリカ人だったとしたら、「日本への原爆投下」も仕方ないと感じていた可能性もあるのではないかと思う。

長くなったが、これが原爆開発・投下に関する「基本的な知識」と「私の感覚」である。もちろんこの辺りの捉え方は人によって異なるだろう。いずれにせよ、立場の違いによって見ているものが変わるため、理解し合うことは相当難しいのだと思う。

オッペンハイマーが抱く様々な葛藤が描かれていく

さて、ここからはまた作品の話に戻すことにしよう。

前半では主に、「オッペンハイマーはどのような形で共産主義と関わっていたのか」が丁寧に描かれていく。戦後はアメリカだけではなく、日本を含め世界中で「共産主義」が問題視され、それが冷戦や全共闘に繋がっていったわけだが、正直なところ私にはその辺りの感覚はピンとこない。なので、本作で描かれる「共産主義への嫌悪感」についても共感しにくいわけだが、この点については生きてきた時代が違うのだから仕方ないだろう。とにかく、聴聞会に出席しているオッペンハイマーは、そんな「共産主義への苛烈な嫌悪感」がむき出しになった時代を生きていたのである。

さて、本作を観る限りにおいては、オッペンハイマーは共産党に入党したこともないし、自身のことを共産主義者だと認識したこともないようだ。本作では少なくとも、そのように描かれている。しかし彼の周囲には共産主義に関わる人物が結構いた。そのせいで、戦後に共産主義者だと疑われることになったのである。弟は共産党に入っていたことがあるし、かつての恋人で結婚後も不倫関係にあった人物もまた共産党員だったのだ。

では、何故オッペンハイマーの周囲には共産主義者がたくさんいたのだろうか。その理由は、オッペンハイマーが「学内に労働組合を作ろう」と動き始めたことと関係があるようだ。正直私には「労働組合を作ること」と「共産主義」の関係が上手く理解できないのだが、恐らく当時はその2つが密接に結びついていたのだろう。オッペンハイマーは共産主義とは関係なく、単に「大学にも労働組合が必要だ」と考えて活動していたに過ぎないのだが、共産主義との関係を懸念する人物からその動きを度々封じられてしまう。ある時など、「国家プロジェクトに参加できなくなるぞ」と忠告を受けさえしたのだ。

そのようなことがあり、オッペンハイマーは学内での活動は避けるようになった。そしてその後、「FAECT」という集会と関わりを持つようになっていったようだ。シェル社という企業の労働組合のような集会として描かれていたと思う。そして恐らくだが、この「FAECT」が共産主義と何らかの関わりを持っていたのだろう。そのため「FAECT」には共産主義者が多く関わっていたというわけだ。オッペンハイマーは労働組合に関心があったわけだが、そのような事情から、彼は共産主義者と関わりを持つようになっていったのである。

さて、これもやはりその時代を知らない私にはなかなか上手く理解できなかったポイントなのだが、戦前・戦中と戦後では「共産主義者との関わり」に対する反応も大きく違っていたようだ。確かにオッペンハイマーは、「学内での労働組合の設立」に妨害を受けていたが、一方で、マンハッタン計画のリーダーに選出されてもいる。作中ではオッペンハイマーが、「『左翼との関係が核計画への参加を妨げることはない』と告げられた」と語る場面もあった。「オッペンハイマーは共産主義者と関わっている」という事実は恐らく知られていたことだったのだろうが、それでも、その事実が「マンハッタン計画のリーダー選び」には影響を与えなかったというわけだ。もちろんこれは、「共産主義者との関わりを知ってもなお、オッペンハイマーの力量の方を買った」と見ることも出来るわけだが。いずれにせよ、戦後と比べれば、戦前・戦中における「共産主義者との関わり」はさほど問題視されなかったということなのだろう。

しかし戦後、「赤狩り」の嵐が吹き荒れ、オッペンハイマーは改めて共産主義者との関わりについて追及を受けることになった。ここには、作中でも少しだけ言及されるが、「マンハッタン計画に関わった科学者の中に、ソ連のスパイがいた」という事実も関係していただろう。つまり、もしもオッペンハイマーが共産主義者だとしたら、「ソ連のスパイを意図的にメンバーに加えたのではないか?」とも疑えるのである。このような観点からもオッペンハイマーは追及されていたというわけだ。

このように本作では、「原子爆弾を生み出した人物」を「共産主義との関わり」という観点からも描き出し、より多面的に捉えようとするのである。

さて、本作の監督であるクリストファー・ノーランは、インタビューなどで作品について聞かれても、「鑑賞の可能性を狭めたくない」という理由であまり答えない。そして、そのようなスタンスの人物らしく、オッペンハイマーのことも「分かりやすい人物」とは描かないのである。本作を観ても、「オッペンハイマーがどのような人物だったのか」、あるいは「クリストファー・ノーランがオッペンハイマーをどのような人物として描こうとしたのか」についてはよく分からないんじゃないかと思う。少なくとも、シンプルに要約出来るような形では捉えられないだろう。そして、それでいいのだと私は思う。本作の良さは、「複雑な人間を、『複雑な人間である』という形で提示していること」にあると感じるからだ。そして、本作においてその「複雑さ」は「共産主義との関わり」によって描かれているというわけだ。

さてそういう意味で言えば、「原爆開発における葛藤」は、本作において最も理解しやすい部分と言えるだろう。特に物語の後半、実際日本に原子爆弾が投下されたことを知った後のオッペンハイマーの葛藤は、想像しやすいだろうと思う。もちろん、この点に関しても決して安易な描かれ方がなされているわけではないのだが、「凄まじいものを生み出してしまった」と考えているオッペンハイマーの内心については、我々一般人でも理解しやすいのではないだろうか。

また原爆開発に関して言えば、トルーマン大統領との面会シーンも印象的だった。オッペンハイマーは大統領に「私の手は血塗られたように感じます」と口にするのだが、それに対して大統領が凄まじい返答をするのだ。この記事では、その返答には具体的には触れないことにするが、なかなか凄いことを言うものだなと感じさせられた。この描写もまた、違った形からオッペンハイマーの苦悩を描き出すものと言えるだろう。

「世界を破壊する」という言葉に込められた意外な背景

さて記事の最後に、作中の随所で登場する「世界を破壊する」という言葉について言及しておくことにしよう。

もちろんこの言葉の表向きの意味は、本作を観ていなくたって想像できるはずだ。原子爆弾は、まさに世界を一変させるような破壊力を持つ兵器なのである。そのため、個人で成し遂げた偉業ではないとはいえ、その計画を主導したオッペンハイマーが「世界を破壊した」と捉えられることは理解できるだろうと思う。

しかし、この「世界を破壊する」という言葉には実は、もっと実際的な意味があったのである。本作を観て、その事実を初めて知った。

最初にその言及がなされるのは、マンハッタン計画始動直後のことである。テラーという物理学者が話し合いの場で、「ヤバい計算結果が出た」と口にする場面があるのだ。計算によって、「原子爆弾を爆発させることで、大気に引火する」という可能性が導き出されたというのである。つまり、「原子爆弾をどこに投下するにせよ、爆発と同時に大気が燃え、それによって世界が一斉に火に包まれるかもしれない」というわけだ。

この計算は後に、「テラーの仮定に重大な誤りがあった」と判明し撤回される。しかしその撤回は「ほぼ」だった。「ほぼ可能性はゼロ」、つまり「まったく可能性が無いわけではない」という状態だったのだ。

そしてこの「大気に引火する」という話は、原子爆弾を試験的に爆発させる「トリニティ実験」の直前に再び登場する。ある科学者が、「『大気に引火する』かどうかの賭け」を行っていたのだ。その様子を観ていた軍人が「あれは何をしているんだ?」とオッペンハイマーに聞き、彼は軍人に「当初そのような計算結果が存在したのだ」という話をするのである。

その話を聞いた軍人は、「だったらどうしてあんな賭けをしているんだ?」と問い返す。オッペンハイマーは「その計算は撤回された」と説明したため、軍人は「それだと賭けは成り立たないじゃないか」と考えたのだ。それに対してオッペンハイマーは「ブラックジョークだよ」と返すのだが、さらに軍人から「可能性は?」と聞かれたため、彼は「ほぼゼロだ」と答えるのである。

これに対して軍人が「ほぼ?」と問うと、オッペンハイマーは「理論に何を求める?」と聞き返した。それに対して軍人が「ゼロがいい」と答えるのである。このやり取りは「科学に関わる者」と「そうではない者」の間にある深い溝を描写しているように私には感じられた。未知のものについて、「可能性は絶対に無い」などと答えることは、科学的に正しい態度とは言えない。しかし、「科学」の何たるかをあまり知らない人には、そのような態度は好ましくないものに見えてしまうというわけだ。このような溝については、コロナワクチンを始め、今も世界中の様々な場面で散見される

さて話を戻すと、このようなやり取りを受けてのことだろう、原子爆弾に引火する直前、軍人がオッペンハイマーに「世界を壊すな」と口にする場面があるのだ。「ほぼゼロ」だとはいえ、「大気に引火して世界が破壊される可能性」も存在していたという話は初めて知ったし、個人的にはとても興味深い話に感じられた。人類はこのようにして、未知のものを乗り越えてきたというわけだ。

監督:Christopher Nolan, プロデュース:Emma Thomas, プロデュース:Charles Roven, プロデュース:Christopher Nolan, Writer:Christopher Nolan, 出演:Cillian Murphy, 出演:Emily Blunt, 出演:Matt Damon, 出演:Rami Malek, 出演:Kenneth Branagh, 出演:Robert Downey Jr., 出演:Florence Pugh, 出演:Josh Hartnett, 出演:Casey Affleck
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最後に

ストローズに関してはほとんど言及しなかったが、全体的に「小物感」が漂うような描写になっていたと思う。少なくとも、ストローズは「分かりやすい人物」と言っていいだろう。しかし先程も触れた通りだが、オッペンハイマーはとにかくなかなか理解しがたいし、そのような感覚は映画の最後まで続く。人間を単純に捉えようとはしないクリストファー・ノーランらしさが貫かれていると言えるだろう。本作で示される「オッペンハイマーの複雑さ」は、観る度に受け取り方が変わるかもしれないとさえ感じた。

クリストファー・ノーラン作品としては珍しく「個人史」を扱った映画であり、これまでの作品とは大分趣きが異なる。さらに、なかなかとっつきにくい題材・人物が扱われているわけで、さらっと観られる映画でもないのだが、とにかく「観て良かった」と感じられる作品だった。改めてクリストファー・ノーランの凄さが感じられた1作だ。

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