【感想】関東大震災前後を描く映画『福田村事件』(森達也)は、社会が孕む「思考停止」と「差別問題」を抉る(出演:井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、ピエール瀧、コムアイ)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「福田村事件」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

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この記事の3つの要点

  • 「関東大震災直後に朝鮮人と間違われて殺された」という悲惨な出来事は、何故起こってしまったのか?
  • デマの広がり方やマスコミの体質など、あらゆる観点から「現代を生きる我々」に問題意識を突き付ける作品
  • 「『撮る者の主観』を排除できない」という森達也の「ドキュメンタリー観」が、本作『福田村事件』にも踏襲されている

個性的な俳優が個性的な役柄を演じ、それらの個性がラストの「狂乱」に向かって相互に高め合う構成が素晴らしかった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『福田村事件』(森達也監督)は、SNS時代だからこそ教訓にすべき「社会の残虐性」が凝縮された意欲作だ

公開直後に映画館で本作を観た際、満員だったことを覚えている。私が観た日はどうも、4回行われる上映のほぼすべてが満員だったようだ。私は普段、本作のような「実話を基にした作品」をよく観るのだが、そのような作品の場合は概ね、映画館の客入りは芳しくないことが多いような気がする。だから、何がどう話題になっているのかはよく分からないが、本作のような映画が適切に注目を集めていることは、とても良いことだと思う。

描かれているのは、本当にクソみたいな時代の話である。そして本作で映し出されるその「クソさ」は、そのまま現代にも通ずるはずだとも思う。特に、SNSが当たり前に存在する時代においては、映画『福田村事件』で描かれる状況以上の悲惨さが世界中のどこかで起こっているとさえ考えているのだ。

実話を基にした本作では、「根拠のない噂によって人が殺される」という、救いようのない事件が描かれる。そして私たちが生きる世界でも、自ら手を下すかどうかの違いだけで、「根拠のない噂によって人が亡くなる」という状況は常に存在しているはずだ。このように本作では、今まさに私たちが生きている世界の写し鏡のような状況が描かれていると言えるのである。

事実を基にした作品だが、恐らくそのほとんどは創作ではないかと思う

内容に触れる前にまず、この記事を書く上でのスタンスについて説明しておこう。それは、「本作がどこまで事実を基にしているのか」に関する私の解釈だ。

鑑賞後にウィキペディアをざっくり読んだのだが、「1923年の関東大震災直後に起こった『福田村事件』は長く表沙汰にならず、1980年頃からようやく調査が始まるようになった」みたいに書かれている。また本作のラストには、「9人の被害者遺族と6人の生存者は、その後もこの事件の詳細について語ることはなかった」と字幕が表記された。そう考えると、「実際に何が起こったのか」はあまりはっきり分かっていないと考えるのが自然だろう。

また、本作『福田村事件』では、「事件が起こった直後の現場に、千葉日日新聞の記者がいた」という設定になっている。ただ、この設定が事実なのかも、私には判断できない。しかし一方で、「現場に第三者的な立場の人間がいなかった」とした場合、事件はどのように表沙汰になっていったのだろうかという感じもする。となれば、新聞記者だったかどうかはともかく、事件そのものに関係していない第三者的な存在は誰かしらいたのかもしれないとも思う。

しかし仮にそうだとしても、分かることは「事件の際に何が起こったか」だけである。例えば、「事件以前の人間関係」についての記録など、恐らく存在していないだろう。そう考えると、本作で描かれる「事件が起こるまでの人間関係」や「事件に至るまでの経緯」は、ほぼ創作だと考えるのが自然ではないかと思う。

作中では、「戦没者の妻が不貞を働いていた」「朝鮮から戻ってきた夫婦が複雑な事情を抱えていた」などの描写がなされるのだが、仮に事件が起こった現場に新聞記者がいたとしても、そのような「関係者の状況」など知り得ないだろう。また、加害者側である福田村の住民は当然口を閉ざし続けるだろうし、被害者側である行商人の面々が仮に何か事件について話をしていたとしても、福田村の人間関係に詳しいはずがない

そんなわけで私は、「1923年9月6日に起こった事件以前の描写は、そのほとんどが創作である」と捉えている。これが私の前提だ。

もちろん、「創作だからダメだ」などと言いたいわけではない。むしろ、「ドキュメンタリーとして再構成することが不可能な出来事を、フィクションを取り込みながら後世に伝えていく」のは非常に重要なことだと思っている。ただ一方で、観る側のスタンスとしてはやはり、「大部分はフィクションである」という視点を失ってはいけないだろうとも考えているというわけだ。

「関東大震災直後に朝鮮人と間違われて殺されてしまった」という状況の背景的事実

さて、先程から「福田村事件」と表記している出来事は、ざっくり書くと、「千葉に薬の行商にやってきた香川の部落民が、関東大震災直後に朝鮮人と間違われて殺された」という事件だ。作中では、「どうしてそのようなことが起こってしまったのか」という観点から、事件以前の人間関係に遡って物語が積み上げられていくわけだが、やはりその理解のためには触れておくべきことがある。それは、「朝鮮人と間違われて」という部分に関するものだ。

毎年、関東大震災が発生した9月1日前後になると、関東大震災の歴史や防災などの特集がテレビで組まれる。そういう番組の中でよく報じられるので知っている人も多いと思うが、関東大震災の際には、「朝鮮人が『火をつけている』『井戸に毒を入れた』」などの流言飛語が飛び交っていたそうだ。本作にはこのような時代背景が盛り込まれていることをまず理解しておくべきだろう。

作中でももちろんそうした描写がなされる。震災直後に、朝鮮人の動向を不安がるような人々の姿が描かれるのだ。そのため人々は、「自衛のため」に朝鮮人を見つけ次第殺していたのである。朝鮮人かどうかの判定には、「15円50銭」が使われていた。朝鮮人はどうも「がぎぐげご」の発音が出来ないとかで、怪しい者を見つける度に「15円50銭と言ってみろ」と声を掛け、発音出来ない者を殺していたのだ。

本作中ではさらに、「朝鮮人憎し」という土壌が生まれていった背景について、主に2つの視点から描写が積み重ねられていた

1つは、「韓国併合以来、朝鮮人をいじめ抜いてきた」という、当時の日本人が抱いていた自覚である。朝鮮半島において日本人は、朝鮮人を騙して土地を奪い取ったり、彼らを低賃金で働かせ続けたりしてきた。そのため日本人の中には、「これだけいじめ抜いてきたのだから、関東大震災の混乱に乗じて復讐されてもおかしくない」のような疑心暗鬼が元々あったというのだ。そんなわけで、「やられる前にやり返す」という方向に思考が進んでいったのだろうと思われる。

そしてもう1つは、千葉日日新聞を舞台に展開される「メディアのあり方」に関する話だ。

結果的に事件現場に居合わせることになった女性記者が主軸となる描写なのだが、彼女は日々の仕事の中で上司から「ケツの文章を変えろ」と指示される。どういうことか。例えば強盗などが起こりその犯人がまだ判明していないような場合、当時は「朝鮮人や社会主義者がいずれ捕まるだろう」と記事を締め括るのが通例だったそうだ。つまり、「あたかも、朝鮮人や社会主義者が『悪』であるかのような印象操作」を新聞が当たり前のように行っていたのである。しかもこの点については「『お上』の意向を反映している」という示唆さえなされるのだ。

映画の中でこの女性記者は、上司の指示に毅然とした対応を取り、「新聞記者としてあるべき姿」を追い求めようとする。このシーンなどは特に、現代を生きる我々に直接的に向けられたメッセージではないかと私は感じた。

もし当時の新聞が、「お上」が指示する通りの「歪曲」に加担せず、「正しい事実のみを伝える」という本来の役割に注力していれば、関東大震災直後という不安定な状況下でも、市民が朝鮮人を敵視するような風潮は生まれなかったかもしれない。そしてこの指摘は、まさに現代に通用するものとも言えるだろう。ロシアや中国などのように報道機関があからさまに制約を受けている国もあるし、日本のように「忖度」みたいな形で情報が報じられない場合もあるが、いずれにせよ、マスコミが正しく機能しなければ、社会の中に何か構造的な欠陥が生まれてしまうように思う。

本作には、そのような指摘も込められているのである。

状況はむしろ、現代の方が酷いのではないだろうか

自然災害が起こるとデマが広まるのは、今も同じだ。むしろ、映像の加工技術や生成AIの登場などによって、状況は格段に悪化したと言えるだろう。また、SNSでは、かなり少数派の意見の持ち主でも、同じ主張をする人物を見つけやすいため、「皆が同じ考えを持っている」という錯覚を起こしやすい。だから、以前にも増して「極端な主張」が目に付きやすくなるし、もちろんデマだって多くなるだろう。

あるいは、様々な場面で指摘されることなので私が言及するまでもないのだが、特にSNSにおいては、「顔を晒して活動する者」と「ネットの奥深くから匿名で発言する者」の非対称性によって、誹謗中傷がかなり酷い状況になってしまっている有名人の自殺や、恐らく自殺だろうと思われる事態が度々報じられ、その度に私はかなり驚かされてしまうのだが、SNSによる「匿名性」が実現しなければこのような状況にはまずならなかったはずだ。「福田村事件」においては「やられる前にやり返す」という意識によって状況が悪化したわけだが、我々が生きる世界は「匿名性」のせいで、以前よりも遥かに悪い状況に陥っていると私は感じている。

またメディアに関しても、1923年と比べて良くなっているとはとても言えないだろう。森友問題やジャニー喜多川の性加害問題など様々な事件を経て放送局・新聞社も変わりつつあるのかもしれないが、やはりまだ「権力の顔色を伺う」みたいな状態からの脱却は難しいように思う。それに、以前読んだ『桶川ストーカー殺人事件』『殺人犯はそこにいる』(清水潔/新潮社)で記されているように、「マスコミが警察の主張を検証せずに鵜呑みにしたせいで状況が悪化した」「警察が都合の悪い事実を隠蔽した」という現実はまだまだ存在している。

あるいは、映画『テレビ、沈黙』で扱われていた「放送法の解釈変更」の話を取り上げても良いだろう。詳しくは以下の記事を読んでほしいが、「テレビ番組を締め付けたい」という政権側の意向に放送局側”が屈したのだろう”と受け取られるような行動を取ってきたのである。政権の求めに応じたかのように「物言うキャスター」を退陣させた様はまるで、「記者が見た事実ではなく、『内務省からの通達』という伝聞情報の方を信じる千葉日日新聞の上司」と重なるようだ。

映画『福田村事件』で描かれるのはマジでクソみたいな現実なわけだが、しかし「クソみたいな現実」と感じるのであれば、私たちが生きる世界も同じように捉えなければ辻褄が合わないだろう。ここまで触れてきた通り、恐らくあらゆる点で、現代は1923年と比べて悪化しているからだ。

本作を観た人がどのような感想を抱くのか分からないが、「こんなサイテーな現実があったなんて知らなかった」「昔はホントに酷かったんだ」みたいに受け取るだけではダメだと思う。我々は、事件からちょうど100年後の2023年に公開された本作を観て、私たちが生きる現実にも厳しい目を向けなければならないはずだ。恐らくそれこそが、本作を制作した者たちの強い願いに違いないと私は思う。

問題の本質をそもそも捉え間違えている

本作では「部落差別」も扱われる。殺された香川の行商人が、「部落出身の穢多」であると示唆されるのだ。そして「部落差別」もまた、現代に残る問題である。私は以前、『私のはなし 部落のはなし』というドキュメンタリー映画を観たことがあるのだが、その中では、令和になった現代においてもまだ「部落差別」が厳然と残っている現実が映し出されていた

差別の問題は常に難しさを孕んでいるが、本作では非常にシンプルな問いかけがなされていると言える。作中である人物が、「朝鮮人なら殺してもええんか」と口にするのだが、まさにこの点こそが問題の本質なのだと私は思う。差別や対立が顕在化している状況下では、すべての人がこの言葉を思い出すべきではないかとさえ感じた。

当たり前の話だが、そもそもどんな状況であれ「私刑」は許されない朝鮮人であるかどうかなど、本来的には関係ないのだ。ただ作中では、「お前たちは日本人なのか、それとも朝鮮人なのか」という問いのみに人々が執着していく。これは結局のところ、「朝鮮人なら殺してもいい」と判断しているのと同じであり、そもそも問題を履き違えているとしか思えない。

そしてこのような判断は、私たちが生きる社会にも散見されるだろう。

例えばだが、日本は未だに「同性婚」を認めていない。そして、同性婚に反対する意見の中には、「同性婚の場合、子どもを産まない」というものがある。しかし、この意見は問題の本質を捉えていると言えるだろうか

例えば世の中には、「異性婚だが、子どもは持たないと決めた夫婦(いわゆるDINKs)」もいる。そして、先程の「『子どもを産まない』からダメだ」という理屈を彼らにも当てはめるなら、「DINKsも許容すべきではない」という話になるはずだろう。もちろん、同性婚に反対している人がDINKsにも反対だというならまだ理解は出来る。しかし、「『子どもを産まない』から同性婚には反対だ。しかし、異性婚であれば『子どもを産まない』ことも許容する」と主張しているのであれば、私にはちょっと理解しがたいものに感じられる。

そして世の中には、そのような「矛盾」に気づかないまま「『子どもを産まない』から同性婚はダメだ」のような主張をしている人が多い気がするのだ。やはり「問題の本質を捉えきれていないから」だと考えていいだろう。まあ実際のところ、同性婚について話す場合はきっと、「問題の本質をはぐらかしたい」みたいな動機の方が強いのだろうとは思うが。

様々な場面で、「問題の本質はそこには無いだろ」と感じさせられる状況が生まれ得る自説を押し通すために都合の悪い部分を無視しているのか、あるいは本当に状況が上手く理解できていないのかは場合によって様々だろう。しかしいずれにせよ、個人的にはやはり、「本質を正しく捉えて議論したいものだ」と感じるところである。

「お国のため」と「はい、論破!」に共通する「思考停止」

本作では様々なことが描かれるのだが、「人々の思考停止」もまたとても印象深いものではないかと思う。

作中には、ある人物が次のようなことを口にして泣き崩れる場面がある。

自警団を作って守れと言ったのは、お前たち警察じゃないか。お上じゃないか。ワシはお国のため、村のために……

要するに、「自分たちは指示に従って行動しただけ、だから責任はない」という主張である。私には本当に、こんなことを口にする人間は「ろくでなし」としか感じられない。さらにこの人物は、恐らく本気で「お国のため、村のため」と考えて行動していたはずだ。その事実は私にとって、余計に厄介だとしか感じられない。

作中ではとにかく、様々な場面で「お国のため」という言葉が使われる。「そういう時代だったのだから仕方ない」と言えばその通りなのだが、聞けば聞くほどこのフレーズは「相手にも思考停止を強制するためのもの」にしか感じられない。「お国のため」という言葉は、ある意味では最強だろう。何故なら、その主張に反対する者がいれば「お前は非国民だ」と言って断罪できるのだ。「すべての反論を無条件で封じられる『最強の弁論』」と言ってもいいのではないかとさえ思う。

そして、「そんな『最強の弁論』を使わなければ他者を説得できなかったクズ野郎が、(在郷)軍人として威張り散らしていた」せいで「福田村事件」のような悲惨な状況が生まれてしまった、と言えるだろう。本当にどうしようもないなと思う。

さて、この点もまた、現代を生きる私たちが注意しなければならないポイントだと言える。というのも今の時代、「はい、論破!」みたいな言葉で相手の主張をぶった切る風潮が流行っているからだ。

「はい、論破!」などと相手に主張できるということは、「相手からの反論を一切受け付けないような主張をしている」ということであり、やはりそれは「最強の弁論」と見做すべきだろうと思う。しかし「最強の弁論」は普通、どこかがおかしいのだ。確かに理屈は通っているかもしれないし、仮想的な議論においては有効かもしれないが、大体の場合、現実世界では役に立たない単に「議論に勝つ」という目的のためにしか意味をなさないのが「最強の弁論」だと私は考えているのだ。そして結局のところそれは、「相手に現実世界での思考停止を矯正する主張」と大差ないのではないかと私は捉えているのである。

そういう意味で、「はい、論破!」と「お国のため」はほとんど同じ機能を持つ言葉だと思う。「はい、論破!」という言い方が仮に成立する状況があったとしても、それは決して「議論における勝利」を意味しない。そうではなく、「思考停止の強制」や「自身の思考停止状態」を示唆するものと捉えた方がいいだろう。

このような観点からも、本作『福田村事件』は、私たちが生きる社会そのものを映し出していると言えるのではないかと思う。もちろん、視覚的な状況だけ捉えれば、現代とはまるで異なる。作中の登場人物の多くは百姓だし、その中で軍人が威張り散らし、さらに「相手と闘う武器は竹槍」という前時代的な世界なのだ。しかし、そこで生きる人々の「頭の中」は、現代を生きる私たちと大きく変わりはしない。何なら、現代人の方が一層”イカれている”とさえ言えるかもしれないのだ。

本作はそういう物語として受け取られるべきだし、そういう作品として広く観られるべきだと思う。

映画『福田村事件』の内容紹介

本作中で最も中心的な出来事は、先述の通り1923年9月6日に起こったのだが、物語はその半年ほど前から始まる

香川県三豊郡に住む15人ほどの男女が、薬の行商のために故郷を発った。妊婦も子どもも引き連れての大移動だ。半年ほど掛けて関東周辺を回り、薬を売って生計の足しにするのである。彼らは部落出身であり、特に関西ではまったく相手にされない。そのため彼らはわざわざ関東まで足を延ばし、さらに、自分たちよりも立場が低い者、例えば病人などを騙してでも金を巻き上げなければならないのだ。親方である沼部新助は、そのような生き方をせざるを得ない現実に心苦しさを感じているが、しかし「生きていくには仕方ない」という覚悟で薬を売り続けているのである。

一方、千葉県東葛飾郡の野田町駅に、夫の遺骨を抱えた未亡人・咲江と朝鮮から引き上げてきた夫婦が降り立った。駅では千葉日日新聞の記者が、「英霊」として戻ってきた戦没者の遺族の写真を撮ろうと待ち構えている。そんな形で注目されることになった咲江は、村では「夫の出兵中に、渡し船の船頭・倉蔵と関係を持っていた」としても知られる存在だ。

同じ電車に乗っていた澤田智一は、妻の静子と共に、村では見ないようなハイカラな格好をしていた。朝鮮での教師の仕事を辞め、自身の出身である福田村へと戻り百姓をやるつもりでいるのだ。澤田には「村で教師の仕事をしてくれ」という話も舞い込むが、彼はもう教師はやらないと決めており、その後は日々慣れない畑仕事に精を出す生活を送っている。

駅では、学友の龍一と20年ぶりの再会となった。彼は世襲で福田村の村長に収まっており、盛んに「デモクラシー」について語る。また、同じく同窓の秀吉は「在郷軍人」の重鎮として威勢を張っていた。彼はこの事件において重要な役割を果たすことになる。

その後しばらくの間、福田村における様々な人間関係が描かれていく。咲江と倉蔵の関係性。在郷軍人に楯突く倉蔵。倉蔵の船によく乗り込む静子。静子からの夜の営みのアプローチを断る澤田。馬を育てる一家と、ある疑惑を抱き続ける元兵士。そしてそれらの合間に、千葉日日新聞の女性記者の奮闘も描かれる。上司に盾付き自身の信念を通そうとしたり、社会主義的な主張を持つ演劇人の取材に赴く様子などが映し出されるのだ。

そして9月1日。後に関東大震災と名付けられる大地震が発生する。既に福田村まで足を伸ばしていた行商人一行は、震災直後の殺気立った雰囲気を感じ取り、移動を諦めしばらく様子を見ることにした。そして9月6日、「朝鮮人から身を守るため」という名目で組織された自警団の解散が発表されたことで、行商人たちは利根川を渡るために動き始めるのだが……。

映画『福田村事件』の感想

本作には、その演技力も高く評価されているだろう「個性の強い役者」が多数出演している。そしてそんな役者が、これまた個性の強い役柄を見事に演じており、まずは何よりもその点が素晴らしかったと思う。さらに、その「個性の強さ」がお互いに邪魔をして打ち消し合うのではなく、「狂乱」と呼ぶしかないラストの展開に至るまで相互に高め合っていく感じがとても良かった。

「福田村事件」と呼ばれることになる出来事が作中で描かれるのは、かなり後半である。そして、「その時、各々が何故そのような行動を取ったのか」という背景が想像できるように、そこに至るまでの半年間の物語が描かれているというわけだ。冒頭で触れた通り、その部分は「ほぼ創作」なのだろうと思うが、しかし、誰が見たって「意味不明」でしかないだろうラストの展開に一定以上の説得力を与える役割をきちんと担えていたと思う。事件に至るまでの流れを描く「必要性」を強く感じさせられる構成だと言えるだろう。

ラストの「狂乱」の現場にはやはり、「お上の言うことは正しい」という感覚を持つ者の方が多くいたそのせいで「悲劇」が起こってしまったわけだ。しかし同時に、本作『福田村事件』における主要人物のほとんどが、なんらかの形で「はみ出し者」として描かれるため、全体的には彼ら「はみ出し者」視点で物語が展開することになる。そしてそのような描き方だからこそ余計に、「『お上の言うことは正しい』という価値観に染まっていない『良識ある者』が一定数いたところで、群集心理の前では無力である」というラストシーンの残酷さが、より一層浮き彫りにされると言えるだろう。そのような構成もとても良かったと思う。

本作は、これまでドキュメンタリー映画ばかり撮ってきた森達也が、恐らく初めて挑んだ劇映画である。本作はたぶん、そのような点でも話題になっているのではないかと思う。森達也のドキュメンタリー映画は何作も観ているが、そこには常に、「『撮る者の主観』をドキュメンタリーから排除することは不可能だ」という感覚が貫かれている。そして本作『福田村事件』もまた、「『誰が見るか』によって真実は変わり得る」という観点から構成されているはずで、そのような「森達也イズム」みたいなものを感じられる作品だった。

そのことを示唆するかのように、作中では様々な場面で「自分の目で見たか否か」が問われる。例えば、地震後に福田村に逃げてきた者たちが朝鮮人に関する噂を次々に口にする中、村長が「自分の目で見たのか」と問うたり、あるいは先程も触れたが、女性記者が上司に、「自分の目で見たことよりも、内務省の伝聞を優先すべきなのか」と迫ったりするのだ。このような描写に、「ドキュメンタリーを撮り続けてきた森達也が抱く問題意識」が含まれているように感じられた。

またそれとは別に、「見ているだけの者」に関する描写もある。この点については具体的に触れないことにするが、こちらも同じく森達也からのメッセージと捉えるべきだと思う。つまり本作は全体的に、「自分の目で確かめることが大事だ。そしてそれ以上に、見たら何か行動を起こすべきである」という主張が散りばめられた作品と言えるのではないだろうぁ。

最後に

100年前の出来事というと、どうしても「遠い過去の出来事」に感じられるはずだ。しかし本作は、そんな大昔の出来事を取り上げることで、「100年前よりも現代の方がもっとヤバいぞ」と突き付ける作品なのである。

私たちは本作を観て、「過去の悲惨さ」を受け取るだけでは不十分なのだと思う。本作のあちこちに埋め込まれた「鋭く尖ったメッセージ」を、観客それぞれが掘り起こして見つめ直さなければならないのだ。

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