【実話】映画『あんのこと』(入江悠)は、最低の母親に人生を壊された少女の更生と絶望を描く(主演:河合優実、佐藤二朗、稲垣吾郎)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:入江悠, Writer:入江悠, 出演:河合優実, 出演:佐藤二朗, 出演:稲垣吾郎, 出演:河井青葉, 出演:広岡由里子, 出演:早見あかり

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 子育てに向いていない親からは、公権力がさっさと親権を奪い取るべきだし、それが当たり前の世の中になってほしいなと思う
  • 主人公の杏が置かれているあまりに絶望的な状況と、そんな杏を見事に存在させた河合優実の圧倒的な演技力
  • 「この『悪』は『必要悪』なのか?」という、答えるのが実に難しい問いが突きつけられる作品でもある

杏のような人は、今も日本中、いや世界中のどこかにいるはずだし、そんな現実は本当にクソだなと感じてしまう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

河合優実主演の映画『あんのこと』は、クソみたいな母親に人生を奪われた少女の絶望を深く深く描き出す

やってられないよなぁ、こんなの。ホントに、そんな言葉しか出てこないあまりにも絶望的で、あまりにも酷すぎる現実である。そしてなんと、実話をベースにしているのだそうだ。

子どもを育てる気がない親の親権は速やかに剥奪出来るようにすべきだと思う

本作は、主人公の杏を中心に、彼女の更生を手助けしようとする者たちを描き出す物語なのだが、まず私はどうしても、杏の母親に思考が向いてしまうどうしてこんな母親が野放しにされているのだろうか、と。

欧米の映画を観ていると、「血の繋がった親よりも強い権限を持つ公権力が子どもの保護に動く」みたいな描写が結構ある。以前観た映画『システムクラッシャー』でもそんなシーンがあった。ちょっとしたことでかんしゃくを起こし共同生活を上手く送れない少女の物語であり、「虐待」みたいな話ではないのだが、それでも、日本ならまず「民事不介入」とされるだろう案件に、警察が関わってくるのである。物語の舞台はドイツなのだが、ドイツに限らず欧米には一般的にこういう仕組みがある印象だ。以前何かで知ったが、日本と違い欧米では「社会全体で子どもを育てる」という意識が強いようで、だからそんな制度が存在しているのだろうなと思う。

また、ネットでざっくり調べただけだが、「虐待・ネグレクトを原因とする親権剥奪」の事例に関するデータが存在する。日本では年間20件程度だが、イギリスでは年間2~5万件も発生しているそうだ。「子どもを育てるのに不適格だ」と判断された親から子どもを引き剥がすなんてことが、当たり前のように行われているのである。

イギリスよりも2倍ぐらい人口が多い日本では、同じようなケースがイギリスの2倍ぐらい存在してもおかしくないはずだ。つまり、年間4~10万件ぐらいは「親権剥奪」の事例があっても不思議じゃないことになる。もちろん「児童相談所での一時保護」などの対策は行われているだろう。しかし個人的には、公権力がもっと強い権限を持って事態に当たるべきだと思っている。杏の場合だって、「親権剥奪」が行われていればすぐに解決したはずだし、そうであれば、その後のすべての不幸も起こらなかったはずだ。

日本は安心・安全の国で、それは確かにその通りだと思うのだが、こういう綻びみたいなものが目に付くと、「欧米は出来てるんだからどうにかしろよ」と感じられてしまう。良い部分ももちろん色々あるが、この点に関してはホントに、クソみたいな国だなと思っている。

本作では、多々羅という少し変わった刑事が杏の更生に寄り添っていく役所では生活保護の申請を認めない職員を怒鳴りつけ「20日間働いて5万円しか給料を支払わない福祉施設」には「労基に駆け込んでもいいんだぞ」と脅す。刑事として真っ当かは何とも言えないが、少なくとも杏の視点からすれば、多々羅のそういう振る舞いは心強いし、助けにもなるだろうと思う。

ただ当たり前の話だが、「多々羅みたいな刑事がいてくれて良かったね」なんて話で終わっていいわけがない。やはり根本的な部分をなんとかしなければ話にならないのだ。「親としての適性が無い人間」なんか、いくらでもいるだろう。そして私は、そういう奴らからどんどん子どもを奪い取っていくべきだと考えている。日本は「子どもは家庭で育てるものだ」という感覚が強い社会で、それ故に「血縁」が最も重視されるわけだが、そういう社会構造を変えていかないと何も解決しないと思う。

本作には様々な形で「苛立たしい人・状況」が登場するそれら1つ1つももちろん問題なのだが、そのほとんどが、「杏の母親」という唯一の根本原因から生み出されていると言えるのだ。個々の問題に対処することも大事だが、何よりも「根本原因を叩き潰す」という発想が必要だと思うし、多くの人がそのように認識すべきだと改めて実感させられた。

「河合優実」という特異な役者と、主人公が置かれた絶望的な状況

本作『あんのこと』においてはやはり、何よりも杏を演じた河合優実の演技が凄まじいと思う。

私が河合優実を最初にちゃんと”認識”したのは、映画『少女は卒業しない』だった。彼女が世間一般に広く知られるようになったのは、ドラマ『不適切にもほどがある!』だったと思うが、そんな風に河合優実を目にする機会が増えて最初に思い出したのが『少女は卒業しない』だったのである。

しかし実はそれ以前にも、私が観ていた様々な映画に出演していたようだ。ざっと調べただけでも、『由宇子の天秤』『PLAN75』『ある男』などに出ていたらしい。特に『由宇子の天秤』は、「なるほど、あの子が河合優実だったのか」と思い出せるぐらい、印象的な役どころだった。

2019年にデビューし、2022年には8本の映画に出演していたというから、近年稀に見るスピードで駆け上がっている女優と言っていいのではないかと思う。さて、普段私はこのような外的情報にはほとんど興味を持たない。ただ、河合優実のこの驚異的な売れ方は、「彼女と一緒に仕事がしたい」と思う人が多くいるからこそなのだと思うし、それは「彼女にしか持ち得ない『何か』がある」ことの傍証なのだろうとも感じる。

そして、まさにその「何か」が全面に押し出されているのが本作ではないかと思う。

彼女が演じる主人公の杏は、薬物中毒から抜け出すために、刑事の勧めでグループホームに参加する自身の経験を語りながら「今日も薬物に手を出さずに済んだ」と喜び合い、その後ヨガで少し身体を動かす、といった集まりだ。そしてその中で彼女が、これまでの自身の来歴について皆に語る場面がある。

小学生の頃には既に万引きの常習犯で、それが学校にバレたことで不登校になった。4年生を最後に学校には通っていないため、難しい漢字は今も読めないし、簡単な計算さえ苦手だ。12歳の時には”ウリ”をやらされた。相手はなんと、母親が紹介した男である。16歳の時にヤクザみたいな男にシャブを打たれ、そのまま止めるきっかけがないままズルズルと使い続けてしまった。そしてあるきっかけで警察に捕まり、多々羅と出会い、グループホームにやってきたというわけだ。

杏は捕まったことをきっかけに、母親によって踏みにじられ続けてきた人生を立て直そうと奮闘する“ウリ”もシャブも自らの意思でやっていたわけではないし、さらに、後半のある驚きの展開における彼女の様子からも、「母親さえまともだったら、普通の平凡な人生を歩んでいただろう」と感じられた。まだまだ全然やり直せるはずだ。

また、毒親からどうにか逃れた彼女が多々羅に「介護施設で働きたい」と相談する場面がある。稲垣吾郎演じる記者が「どうして介護施設じゃなきゃダメなんですか?」と多々羅に聞くと、「ばあさんの介護が出来るようになりたいんだとよ」と返していた。多々羅はさらに「仕事を選べるような立場じゃないだろうに」とも言っていたが、いずれにしても杏の優しさが滲み出ている場面だと言えるだろう。

さらに彼女は、日本語を学ぶ外国人に混じって小学校の勉強から学び直そうともしていた。その歩みは決して早いとは言えない。しかし彼女は、彼女に出来る最大限の努力をして、自分が生きなければならない社会と向き合おうとするのである。

しかしそんな彼女の努力を、母親がぶち壊していくというわけだ。マジでやってられないなと思う。

河合優実の不思議な存在感

河合優実は、そんな杏が抱えているだろう絶望的なやるせなさを見事に演じていた。凄いものだと思う。そもそも「演じている」なんて雰囲気を感じさせないわけだが(まあそれは、役者として最低限必要とされる能力だとは思うが)、河合優実はどことなく「『大昔から役者やってました』みたいな佇まいでそこにいる」みたいな感じがするのだ。まずはその圧倒的な存在感が、杏という役柄を成立させていたような気がする。

そしてその一方で、彼女が持つ「無記名性」みたいなものも重要だったように思う。本作『あんのこと』が公開されていた当時は、確かに『不適切にもほどがある!』で大ブレイクしたと言われてはいたものの、まだまだ「みんなが知っている俳優」という感じではなかったはずだ。そして、そんな彼女が持っていた「無記名性」が、杏の「どこの誰というわけではない、しかし、どこかには必ずいる女性」という雰囲気を強めていたように思う。

本作は、脚本も書いている監督の入江悠が、新聞の三面記事から着想を得て生み出した物語なのだそうだ。監督が関係者などに話を聞きにいったのかは知らないが、それはともかく、監督にとっても杏は「どこの誰なのか分からない存在」として関わりが始まったはずである。そしてそんな杏のような人は日本中あらゆるところにいるに違いない。そんなわけで、「誰もが知る存在」になる前の河合優実が持っていた「無記名性」が、杏をよりリアルな存在に見せていたこともプラスに働いているんじゃないかと思う。

そういう、自分の努力だけではどうにもならない要素までも味方につけた河合優実は、まさに杏を演じるのに最適な人物だったと言えるだろう。私は基本的に、監督や役者で観る映画を決めたりはしないが、本作『あんのこと』を観て、「河合優実が出ているならなるべく観よう」と決めた。それぐらい、実に興味深い存在なのである。

佐藤二朗の凄まじさ

さて、演技の話で言えば、佐藤二朗も凄かったなと思う。ホント凄いな、この人。彼が演じた多々羅という刑事はなかなかトリッキーな役柄で、しかも本作は、佐藤二朗がよく出ているコメディタッチの作品ではなくかなりリアリティを追求する物語なので、「トリッキーだが実在するかもしれない」と思わせる人物として演じる必要があるのだ。そのバランスはメチャクチャ難しかったんじゃないかと思う。

まず最初の取り調べのシーンからぶっ飛んでいたのだが、しかし同時に「なるほどなぁ」とも感じさせられた。多々羅がどんなやり方をしたのかは是非観てほしいのだが、結果としてそのお陰で杏は自白するのである。ムチャクチャではあるが、しかし、多々羅の行動で自白を決めた杏の気持ちも分からないではない「普通の大人じゃない」と伝わったことで喋りやすくなったのだろう。というのも、勝手な想像に過ぎないが、杏は「『普通の大人』みたいなことを言うヤツ」を嫌悪しているような気がするからだ。

本作には基本的に回想シーンはないので、「杏がどのような人生を歩んできたのか」が映像で提示されることはない。しかし恐らく「大人に裏切られることの連続だった」だろうし、さらにそういう大人たちは、「さも自分が『普通の大人』であるかのように装って杏を諭そうとした」のではないかと思う。

だから杏は、「分かったようなことを口にする大人」のことが嫌いなはずだし、だとすれば私も凄く共感できる。ってか、メチャクチャ腹が立つ

私はよく「大人になるとどうして子どもの頃のことを忘れてしまうのか?」と感じる。多くの大人は、「子どもの頃に親や先生に言われて嫌だと感じた経験」をしてきていると思う。しかし大人になると皆、そういう言動を平気でするようになるのだ。もちろん、そんな言葉は子どもには届かないかつての自分が嫌悪した言葉なのだから、届くはずがないじゃないか。

そしてそれ故に、多々羅の振る舞いは実に興味深いあまりにもハチャメチャであり、とても「普通の大人」とは思えないのだが、だからこそその言動は「本心」な感じがする杏もそう感じたからこそ多々羅に心を開いたのだろう。その感じは観ていて私も凄く共感できた。

そして佐藤二朗は、そんな「意図があってトリッキーな振る舞いをしている」みたいな絶妙さを醸し出していたわけで、本当に適任だったなと思う。本作は多々羅の存在がリアルに見えないと成立しないので、佐藤二朗の貢献度はかなり高いと言えるだろう。なんとなく「コメディ系の役者」だと思ってしまっているが、役者として本当に凄いのだなと改めて実感させられた

本作で描かれる「悪」を、あなたは「必要悪」として許容できるだろうか?

本作『あんのこと』についてはもう1点、是非書いておきたいことがあるのだが、しかしこれは後半に入ってから明らかになる展開なので具体的には触れないことにしよう。

問題となるのは、「この『悪』は『必要悪』だろうか?」である。これは正直、とても難しい問題だと感じた。

いや、その問いに答えること自体は決して難しくはない。私は明確に「『必要悪』などと捉えるべきではない」と考えているからだ。この状況を「必要悪」だなんて呼んでいいはずがない。そんなことは当たり前の話である。

しかし、そこから先どう考えればいいかが分からない。「じゃあどうしたらいいのか?」という問いに対する答えが見つからないのだ。これは本当に難しい問題だなと思う。

具体例には触れないので説明が難しいのだが、「この『悪』は『必要悪』だろうか?」という問いが一応成立し得るのは、それが「人助け」になっていることは間違いないからだ。そしてさらに、「その『人助け』を実現する環境を維持し続けることの難しさ」も理解できる「善意」だけでこの環境を存続させることは、まず不可能だろう。

そしてだからこそ「あんなこと」になってしまったのだと思う(今書いていて初めて気付いたが、『あんのこと』というタイトルは「あんなこと」と掛けていたりするのだろうか?)。もちろん、それ自体は許容されるべきものではないし、激しく否定する。しかしそうだとすれば、「『善意』だけでこの環境を維持すべき」と主張していることになるようにも思う。それもまた不本意だ。「あんなこと」でも「善意だけ」でもない形でこのような環境が存在すべきだと思うのだが、それには行政などの介入が不可欠だろうし、なかなか個人でどうにか出来る状況ではない行政を動かすことももちろん大事だが、それを実現させるまでの間も支援を必要とする人に手が差し伸べられるべきだろう。それをどう成り立たせるべきだろうか。本当に難しいなと思う。

さて、ちょっと違う話をするが、私が生まれ育った地元にはこんな話がある。確か学校の授業か何かで習ったような気がするんだけど、どうだっただろう。

私の地元には川があり、今はそうでもないのだが、かつてはかなり荒々しい流れだったようだ。そしてそれ故に、度々洪水が発生したという。何度も堤防を作ったのだが、洪水の度に破壊され、被害は拡大するばかり。今ほど技術が発達していなかった頃のことで(江戸時代とかの話かな、たぶん)、堤防もなかなか頑丈なものが作れなかったのだと思う。

そんな中、「人柱を立てる」という話が持ち上がった。「人柱」と聞いてもピンと来ない人が多いかもしれないが、これは「川が氾濫するのは神さまが怒っているからで、その怒りを鎮めるために人間を生贄として捧げよう」という、なかなかムチャクチャな発想である。自ら名乗り出たのだったか、あるいは誰かが指名したのだったか忘れてしまったが、ある坊さんが生きたまま地面に埋められ「人柱」となり、そのお陰で無事に洪水に耐えられる堤防の建設が完了した、みたいな話だった。

さて、これが実話かどうかは分からないし(ただ、「人柱を立てた」みたいな事例は全国各地で実際にあったと思う)、そもそも非論理的な話なので本作と同列に語るのは難しいのだが、ただもし仮に「『人柱』を立てれば確実に堤防が完成する」のだとしたら、「人柱を立てること」を「必要悪」だと感じられるだろうか? 本作で問われているのは、まさにそのような状況なのだと思う。

あるいは、もう少し現実的な話で言えば、以前観た映画『アイ・イン・ザ・スカイ』を挙げてもいいだろう。この映画では、「テロリストのアジトを空爆すると、その家の前でパンを売っている少女も命を落とすかもしれない」という状況が描かれている。つまり、「『極悪なテロリストを一掃する』という大義のために、『何の罪もない少女1人を犠牲にする』ことを許容できるか?」と問われているのだ。

私はやはり、「そうであってはならない」と思っている。どれだけ多くの人が救われようとも、そのために1人(あるいは少数)が多大な犠牲を負うことを当然のように許容してはいけないはずだ。というように、ここまでの判断は明快に出来るのだが、「じゃあどうすればいいわけ?」と聞かれると沈黙せざるを得ない対案の提示は難しい。それでも、「対案が提示できないなら黙ってろ」なんて声に負けることなく、「これを『必要悪』だと認めるべきじゃない!」と声を大にして主張すべきだとは思う。

そんな難しい問いが突きつけられる作品でもあるのだ。

監督:入江悠, Writer:入江悠, 出演:河合優実, 出演:佐藤二朗, 出演:稲垣吾郎, 出演:河井青葉, 出演:広岡由里子, 出演:早見あかり

最後に

私はやはり、何にせよまずは「世の中から狂った親を退場させる仕組み」を実装すべきだと感じてしまった。イカれた親がイカれた子育てをする状況が野放しにされている現状は、やはりちょっと許容できない。そしてその上で、希望を持って社会と関わろうと奮闘する杏のような人が、最低限の穏やかさと共に生きていける世の中であってほしいとも思う。

あとはとにかく、河合優実と佐藤二朗の凄まじさに圧倒させられる作品だった。

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