【思想】川口大三郎は何故、早稲田を牛耳る革マル派に殺された?映画『ゲバルトの杜』が映す真実

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 早稲田大学は何故「革マル派」に牛耳られ、川口大三郎は何故大学構内で死ななければならなかったのか?
  • 同じグループの分裂によって生じた「革マル派」「中核派」の争いは、「内ゲバ」というあまりにも不毛な状況を生んだ
  • 川口大三郎の死を契機に、それまで「革マル派」の暴力に怯えていた一般学生が奮起し、大学自治の奪還を目指す機運が高まった

「あの時代はイカれていた」なんて理解で終わらせずに、「同時代を生きていたら自分もこうだったかも」と受け取るべきだと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』は、大学内でリンチの末に殺された川口大三郎の死を起点に、「革マル派が早稲田大学を牛耳っていた歴史」を追うドキュメンタリー映画である

非常に面白い作品だった。いや、正直なところ、「映画としてよく出来ている」というほどではないのだが、私にはとにかく、扱われている題材が非常に興味深く感じられたのだ。

ただ私は、本作で描かれている事柄についての知識がほぼない「革マル派」「中核派」「内ゲバ」といった単語を耳にしたことはあるものの、それらが何なのか知らなかったし、正直、映画を観終えた今もちゃんと説明できる自信はあまりない。そもそも「右(派)とか左(派)みたいな話」がよく分からないし、また、以前観た映画『三島由紀夫 vs 東大全共闘』で扱われていた「全共闘」も近い時代の話なのだが、こちらも理解できているとは言い難い状況だ。

とにかく、この辺りの基本知識が私には欠けているので、作中にもよく分からない描写はあったし、だから、この記事にも「正しくない記述」があるんじゃないかと思っていたりもする。そうであった場合、単に「私の知識不足」によるものだと理解してほしい

本作『ゲバルトの杜』で扱われる事件と、その特異な構成について

私は慶應義塾大学と早稲田大学の両方に受かり、特に理由もなく慶應義塾大学に進学した人間だ。それもあって(と書くのが正しいのかよく分からないが)、私は早稲田大学のことはよく知らない。どれぐらい知らないかというと、本作で描かれている出来事は「早稲田大学文学部キャンパス」で起こっていたそうなのだが、「文学部はキャンパスが別」ということも本作で初めて知った。調べてみると「文学部」があるのは「戸山キャンパス」で、本部と呼ばれる「早稲田キャンパス」から徒歩5分ぐらいのところにあるのだという。慶應義塾大学のように「文学部は2年から駅さえ違うキャンパスに通う」みたいな感じではないようだ。ただ、本作ではある人物が、「文学部のキャンパスを一歩出たら、そこは平和な世界なんだから」みたいなことを口にしており、そのたった5分の距離を隔てて「戸山キャンパス」と「早稲田キャンパス」は別世界だったのだろうなとも思う。

では、そんな「文学部キャンパス」で何が起こったのかについて、まずは本作における中心的な出来事から触れていくことにしよう。早稲田大学に通っていた川口大三郎という学生が、1972年11月に大学内でリンチの末に殺されてしまったのだ。これだけでもう、ちょっと信じがたい話だろう。そして、そんな凶行を実行に移したのが、当時早稲田大学を牛耳っていた「革マル派」である。「革マル派」については追々説明していくことにしよう。そして、この事件を受けて、それまで革マル派の振る舞いに怯えていた一般学生が奮起し、「革マル派排除」へと乗り出すことになる。そしてこの動きによって早稲田大学はようやく「左翼の支配を受けない自治」を取り戻した、のだと思う。「のだと思う」と書いたのは、本作では「その後」についてはあまり深く触れられないからだ。あくまでも、「発端となった川口大三郎の死」と「一般学生を含めたその後の動き」を丁寧に追っていく作品なのである。

それにしても、「本当にこんな時代があったんだろうか?」と感じてしまうような出来事ではないだろうか? 私にはちょっと信じられなかった。「全共闘の時代に大学生が大学内で籠城していた」みたいな歴史は知識として知っていたが、それはあくまでも「警察」などの国家権力と闘うためであって、川口大三郎の死はまた全然違う状況にある。あるいは、「『あさま山荘事件』ではメンバーが仲間内で殺し合った」みたいな事実も知ってはいたが、それと同じようなことが大学の中で行われていたことに驚かされてしまった

さて、そんな「異様な時代」を描き出す本作は、構成も少し変わっている。全体としてはドキュメンタリー映画なのだが、一部「劇映画パート」が混じるという構成になっているのだ。テレビ番組ではよくある「再現VTR」みたいな感じだが、映画では結構珍しいように思う。

本作ではまず、「1人の大学生が学内で殺されるに至った背景」についての説明がなされていく。これは要するに、「事件が起こった1972年当時、早稲田大学は革マル派に牛耳られていた」という話に集約されると言っていいだろう。教授でさえ革マル派に対抗できなかったそうで、何故そんな「イカれた状況」になってしまったのかという経緯がまずは語られるのだ。

そしてしばらくして、劇映画パートが始まる。このパートの監督を務めたのは、早稲田大学出身で劇作家の鴻上尚史だ。再現しているのは、事件当日に川口大三郎が連れ去られるところから亡くなるまでである。彼はキャンパス内で「討論しよう」と言われ、革マル派が占拠していた教室に無理やり連れて行かれてしまう。そしてそこで彼は「拷問」を受けた。川口大三郎はどうやら、革マル派と敵対する「中核派」のスパイだと疑われてしまったようなのである。そして、長く厳しいリンチの末に彼が命を落としてしまうまでの「狂気」を描き出していくというわけだ。

そしてそれ以降は、川口大三郎と親交のあった人物や、彼の死をきっかけに巻き起こった様々な運動に関わった人物などが登場し、彼らの語りから「あの時早稲田大学で何が起こっていたのか?」を明らかにする、という構成になっている。まったく知らなかった出来事ばかりであり、非常に興味深く感じられた。

「早稲田大学が革マル派に牛耳られていた理由」と「革命的暴力」について

ではまず、「早稲田大学は何故革マル派に牛耳られていたのか?」についての話から触れていくことにしよう。

1969年4月17日、革マル派の拠点だった早稲田大学を全共闘が占拠した。そしてこの事態は同年9月3日、機動隊の動員によって強制的に終わりを迎えることになる。本作ではその後の動きについて、「革マル派は、大学当局の後ろ盾を得て全共闘を締め出し、当局を支配した」と説明された。これ以上詳しくは触れられなかったが、恐らく、「『全共闘を締め出すこと』を最優先にするために革マル派に権限を与えたが、そのせいで革マル派が学内で力を持ち、大学当局も呑み込まれていった」ということなのだろうと思う。それにしても、たかが学生の集団に大学当局が支配されてしまうという状況は正直なかなか想像しにくい。現代的な感覚では、「そういう時代だった」と受け取るしかないだろう。

さて、革マル派による支配は想像を絶するものがあった。例えば、劇映画パートで描かれていたことだが、川口大三郎がリンチを受けている間、大学教員が何度か、彼が軟禁されていた部屋の前まで来ている。川口大三郎の友人たちから「革マル派に連れ去られた」と報告を受けたからで、普通であれば教員は教室内を確認しなければならないだろう。しかし彼らは、教室の前で門番のように立ちはだかっている革マル派の学生にちょっと声を掛けただけで退散してしまうのだ。

その様子を見て川口大三郎の友人らは「どうして中に入らないんですか!」と訴えるのだが、教員は「(革マル派が支配している)自治会に教員が入れるとでも?」みたいな返答をする私はこのシーンに「えっ!?」と感じてしまった現代の感覚からすれば考えられないし、恐らくだが、早稲田大学のような状況ではなかった大学に通う当時の学生だって「えっ!?」と感じたんじゃないかと思う。私にはそれぐらい異様な状況に思えるのだが、当時はそれが出来ないぐらい革マル派の力が強かったということなのだろう。作中ではある人物が、大学と革マル派の関係について「癒着」という言葉を使っていたので、「利害の一致」という別の理由もあったのかもしれないが、本作を観る限りにおいては「革マル派が暴力によって、教員を含む大学を支配していた」という風にしか見えなかったし、そんな現実に驚かされてしまったのである。

さて、その「暴力」についてだが、当時は「革命的暴力」という言葉がよく使われていたそうだ。これは、「革命を実現するための暴力」といったような意味合いであり、左翼の連中は、「マルクス・レーニン主義に貫かれている限り、どんな暴力も『正しい暴力』である」みたいな主張をしていたという。そしてこのような感覚をベースにして、「暴力行為によって状況を打破する」という考えが正当化されていたのである。

この点に関しては、作中に登場した内田樹の話がとても興味深かった。彼は決して、本作で扱われる出来事に直接関係しているわけではない。ただ、同時代を生きた人であり、さらに、川口大三郎の事件後に起こったある内ゲバで殺された東大生・金築寛の友人だったこともあり、「当時の状況を肌感覚で知っている人」として話をしていたのである。

内田樹は何かのタイミングで、ある左翼的な集団(内田樹は名前も口にしていたが、メモし切れなかった)と行動を共にする機会があったそうで、その時の出来事について話をしていた。まず驚きだったのは、地下鉄での移動の際に内田樹が切符を買おうとしたら、「買う必要はない」と言われた話である。その理屈は、「鉄道会社はブルジョワ企業であり、彼らを打倒するために我々は活動しているんだ」というものだった。内田樹はもう切符を買っていたのでそれで改札を出たが、他の者たちは堂々とキセルで改札を抜けたという。

さらに、目的の駅に着いた後で彼らは、駅の傍にあったおでん屋を襲撃し、勝手におでんを食べ始めたそうだ。100歩譲って「鉄道会社はブルジョワ企業だから」という理屈は通るかもしれないが、おでん屋んはそうはいかないだろう。しかし彼らは、平然とおでんを食べ続けていたという。

そして内田樹の話で最も印象的だったのが、「そんな振る舞いをしている連中も、学内で会えば、どちらかと言えばおとなしい普通の学生だった」という話である。つまり内田樹は、「左翼的な集団として活動している彼らの姿」が普段とあまりに違うことにもビックリしたというわけだ。「『理屈さえ通れば暴力的なことも平然とやれてしまえる人間』が一定数いるという事実」に、内田樹はとにかく驚かされたと話していた。

そんな話を知ると、「ヤバい奴らだった」と即断するのも躊躇われるんじゃないかと思う。もし同じ時代を生きていたら私も、「当たり前のようにおでん屋を襲撃するような人間」だったかもしれないのだ。なので「時代が異常だった」と捉えておくしかないのだと思う。そしてそんな時代だったが故に、早稲田大学は革マル派に牛耳られ、暴力が日常茶飯事となり、川口大三郎がリンチで殺されてしまったのである。本当に、イカれてるなと感じた。

川口大三郎は何故「スパイ」と見做されてしまったのか?

川口大三郎は「内ゲバで殺された」のだが、まずは「内ゲバ」について説明しておこう。これは「内部ゲバルト」の略で、「ゲバルト」はドイツ語で「威力、暴力」を意味する。「内部」というのは要するに「同じグループ内」という理解でいいだろう。つまり「内ゲバ」は「同一陣営内での暴力」のことを指しているというわけだ。

川口大三郎は決して「革マル派」に属していたわけではないのだが、早稲田大学を「革マル派」が支配している状況下では、「革マル派」のメンバーは恐らく、「早稲田大学の学生は皆、『革マル派』寄りであるべき」と考えていたのではないかと思う。そしてそういう中にあって川口大三郎は「中核派のスパイ」と見做され、それ故にリンチを受けてしまったのである。

さてそもそもだが、「革マル派」と「中核派」は元々同じグループだった。1963年4月に分裂したのだが、その後も両者は、『共産主義者』というまったく同じタイトルの機関誌を発行し続けたという。また、「中核派」の拠点が池袋にあったことから、「革マル派」は「中核派」のことを「ブクロ」と呼んでいたそうだ。

では、この2派にはどんな違いがあるのだろうか? この点については、池上彰が説明している。それは「劇映画パートに出演する役者への講義」という形で行われていた。鴻上尚史が池上彰に、「日本左翼史」に関する講義を頼んだのだ。私の理解が合っているかは心許ないが、池上彰の説明は以下のようなものだったと思う。

「中核派」は基本的に、「機動隊とはガンガン衝突して闘おう!」みたいなスタンスだったそうだ。もちろんそれによって逮捕者が出るし、そうなれば構成員が減ってしまうことにもなる。しかし彼らは、「そうやって派手に衝突することによって、新たな参加者が増えてくれればいい」みたいに考えていたのだという。

しかし「革マル派」は、そのような「中核派」のスタンスを「何をバカなことを」という風に見ていたそうだ。「革マル派」にとって大事だったのは「組織化して参加者を増やすこと」であり、それ故に「大学の自治会を支配する」みたいな方向に進んでいったというわけだ。

このように「革マル派」と「中核派」では、活動のスタンスがまったく異なり、その違いについては、作中に登場する佐藤優もまた別の形で指摘していた。そして彼の説明によって、「川口大三郎がスパイと見做された理由」の一端が理解できるのではないかと思う。

「中核派」は比較的、「初見の人間にもヘルメットを被らせ、積極的に活動に参加させる」みたいな雰囲気があったそうだ。しかし「革マル派」は全然違った。彼らは主要な活動に参加させる前に、かなり慎重に人を見極めていたはずだというのだ。そのため「革マル派」では「ヘルメットを被るような活動」に参加するまでには時間が掛かる。そしてこの違いが悲劇を生んだのではないかと佐藤優は指摘していた。

川口大三郎が「中核派」の集会に出入りしていたことは明らかになっている。「中核派」のスタンスを踏まえれば恐らく、川口大三郎も「ヘルメットを被るような活動」に関わっていたのだと思う。これは「中核派」の感覚では「初見の人間にもやらせること」でしかないが、「革マル派」からすれば「信頼を得た人にしかさせないこと」である。そのため、「『川口大三郎は中核派から信頼を得た人物だ』と革マル派は判断し、それ故に彼は『スパイ』と見做されてしまったのではないか」と佐藤優は語っていた。

ちなみに、川口大三郎の同級生は後に、当時「中核派」のキャップだった人物を訪ね、その際に聞いた話を文章にまとめている。本作中でその文章が読み上げられたのだが、キャップだったというその人物は「どうして川口大三郎が『中核派』のスパイと見做されたのかよく分からない」と話していたそうだ。もちろん、このキャップの証言が正しい保証はないわけだが、彼が言うには、「中核派」と川口大三郎の間には特段深い繋がりはなかったそうである。

さらに、「中核派」と川口大三郎の関わりについて、また別の角度から語る人物も出てきた。その人物は、「川口大三郎はある意味は、自分のせいで『中核派』と関わりを持ってしまった」と後悔していたのである。

彼は川口大三郎と同じ2年J組だった同級生で、以前から「部落差別」などに関心を持ち、様々な活動に関わっていたそうだ。そんな話を川口大三郎にしたことがあったのだが、その時点ではまだ、彼は「部落差別」について何も知らなかったという。彼の話を聞いて、「日本にそんな差別が存在すること」憤った川口大三郎は、その後「狭山事件」と関わりを持つようになる。部落出身の人物が殺人罪で逮捕されたのだが、本人は無実を訴えているという事件で、その支援のための活動に関わり始めたのだ。そしてこの「狭山事件」に「中核派」も関係していたのである。その同級生は元々、「法廷闘争によって救い出そう」という話を仲間内でしていたのだが、川口大三郎は次第に「中核派」の考えに染まり、「獄中からの奪還」という考えに傾倒していったという。

そんなわけでこの同級生は、「川口大三郎に部落差別の話をしなければ、彼はきっと死なずに済んだ」と後悔しているのである。もちろん、そんな話は「たられば」でしかない。しかし、そんな後悔を抱いてしまう彼の気持ちも分からないではないし、なんともやるせない話だなと思う。

「川口大三郎の死」がもたらした、その後の混迷について

川口大三郎は早稲田大学内で殺されたのだが、リンチの実行犯は発覚を恐れ、彼の遺体を東大医学部附属病院前に放置している。その後実行犯は逮捕されたわけだが、作中では「『国際反戦デー』の日に実行犯が捕まった」と説明があった。調べてみると「国際反戦デー」は10月21日であり、つまり逮捕までに1年近く掛かっていることになる。

さらに、作中では恐らく言及されなかったように思うのだが、公式HPには次のような記述があった

11月9日昼過ぎ、革マル派が声明を発表し「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。

つまり、事件の翌日には既に、「『革マル派』の内ゲバによって川口大三郎が死亡した」という事実は明らかにされていたというわけだ。だとすると余計、実行犯の逮捕に1年近く掛かったことが不思議に思えてくる。しかしよく考えてみれば、当時は防犯カメラもほとんどなかっただろうし、また、「革マル派」の拠点に匿ってもらうことも出来たわけで、そういうことが重なって捜査が難航したということなのだと思う。

さて、そんな事件の推移とは別に、早稲田大学でも大きな変化が起きていた。これまで「革マル派」の暴力に怯えるしかなかった一般学生が立ち上がり、「(「革マル派」に牛耳られた)早稲田大学から自治会を取り戻す」という機運が高まっていったのである。本作『ゲバルトの杜』は、『彼は早稲田で死んだ』というノンフィクションを原案に作られた映画なのだが、その著者・樋田毅は、文学部の新自治会委員長に就任した人物だ。そしてここから早稲田では、「革マル派」「新自治会」「行動委員会」という三つ巴で事態が展開して行くのである。

「行動委員会」は、「『革マル派』から大学自治を取り戻そう」という動きに合わせて作られた「新自治会」は「非暴力によって『革マル派』から自治を取り戻す」というスタンスでいたのだが、「それはさすがに無理だろう」と考えた人たちが集まって出来たのが「行動委員会」である。「革マル派」は凄まじく暴力的だった。そのため、「対抗するには『自衛のための暴力』を有する必要がある」と考えた人たちが集まったのだ。「新自治会」と「行動委員会」は、「『革マル派』から自治を取り戻す」という目的こそ共通していたものの、そのやり方に相違があったため、この2者もまた対立を避けられなかったのである。

「行動委員会」の実力行使はなかなか凄まじかった。例えば彼らは、理工学部で講義中だった学長を“拉致”し、そのまま団交(団体交渉)に持ち込もうとしたことがある。本作には、この“拉致”に実際に関わった人物も登場するのだが、「“拉致”というほどではなく、もっと軽いノリだった」「川口大三郎の死に責任を持つべき人物が表に出てこないのだから、これぐらいの暴力は許されて当然だと思った」みたいなことを口にしていた。私は個人的に、その感覚にはちょっと賛同できなかったし、だから「新自治会」が「行動委員会」のやり方に批判的だったのも理解できるなと思う。

とはいえ、非暴力を主張し続けた「新自治会」も揺れていた。なんと委員長・樋田毅が「革マル派」から襲撃を受け、全治1ヶ月という重症を負ってしまったのだ。そしてそんな事態に陥ったことで、彼が入院している間に「もはや暴力に打って出るしかないのではないか」という意見が出るほど、混迷を極めていたのである。

その後、「引っ越し作業中だった東大生が『革マル派』に殺された事件」についての言及が始まり、当時まさに事件現場にいたという人物がその時のことについて語っていた。このように、早稲田大学内に限らず社会全体で「内ゲバ」が横行し、多数の死者が出てしまっていたのだ。本作では「内ゲバによる死者数」が表示されたのだが、

  • 「中核派」が殺した「革マル派」のメンバー:48人
  • 「社青同解放派」が殺した「革マル派」のメンバー:23人
  • 「革マル派」が殺した「中核派・社青同解放派」のメンバー:15人

という感じだったようである。しかしこう並べてみると、本作でメインに扱われているのは確かに「早稲田大学を牛耳っていた『革マル派』」なのだが、それ以上に「中核派」や「社青同解放派」による殺人の方が多い。お互いに酷かったということだろう。作中のある人物は「『内ゲバ』は不毛でしかなかった」と語っていたが、本当にその通りだなと思う。

本作は、そんな凄まじい時代を様々な証言者の声によって明らかにするドキュメンタリー映画である。

最後に

さて、こんな殺し合いをしていた彼らにとって、「革命」とは一体何だったのだろうか?

この点に関しては、作中に興味深い場面があった。劇映画パートに出演していた唯一の女性役者が池上彰に、「彼らにとって、『革命』はどれぐらいリアルなものだったんですか?」と質問していたのだ。その中で彼女は、「彼らは日々『膝の皿を割っていた』わけで、それが『革命』に繋がると考えていたってことですよね」と口にしていて、私も「確かにな」と感じてしまった

彼女の質問に、池上彰がどう答えたのかは分からない。答える場面は映し出されなかったからだ。ただ確かに、「『内ゲバ』と称して誰かの膝を割ること」と「革命」は普通結びつかないだろう。当時の若者には、そこに「リアルな繋がり」が感じられていたというなら、その感覚を理解したいと思うし、「そんな感覚が無いまま日々誰かの膝を割っていた」というのであれば、それはやはりあまりにも狂気的だと感じる。

本作で扱われるのはそんな信じがたい時代の話であり、正直なところ「同じ国で起こった出来事」とは思えなかった。しかし、「そういう時代が確かに存在したこと」もまた事実なのだ。だからこそ私たちは、どうにかして「そんなイカれた時代に逆戻りしない」ように生きていかなければならないのである。

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