【映画】『戦場記者』須賀川拓が、ニュースに乗らない中東・ウクライナの現実と報道の限界を切り取る

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:須賀川 拓, 監督:須賀川拓, プロデュース:大久保竜, プロデュース:松原由昌, プロデュース:津村有紀, プロデュース:石山成人, プロデュース:塩沢葉子

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

今どこで観れるのか?

公式HPの劇場情報を御覧ください

この記事の3つの要点

  • 取材者としての自身の立ち位置やスタンスに対する葛藤が様々に語られる
  • イスラエル軍がガザ地区の民間人を空爆した事件の取材から、両者の主張の食い違いを切り取っていく
  • ウクライナ侵攻やアフガニスタンの薬物中毒など、現地をコンスタントに取材し続けている須賀川拓だからこそ切り取れる現実が映し出されている

日本にいたら知り得ない現実を、危険に飛び込んで伝えてくれる存在は、とても貴重である

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

TBS所属の特派員・須賀川拓が中東の今を現地で切り取るドキュメンタリー映画『戦場記者』

TBS以外の日本のテレビ局に、須賀川拓のような「コンスタントに中東へ足を運び現地取材を行う日本人記者」がいるのかどうか私は知らない。いずれにせよ私は比較的TBSのニュースを見ることが多いので、彼を番組の中で目にする機会が度々ある。またTBSには、ドキュメンタリー系の映像を劇場公開用の映画にするプロジェクトがあるようで、こうして彼の姿を映画館で観ることになったというわけだ。

日本のテレビ局の場合は恐らく、「何かが起こったら、取材のために記者を送る」というスタンスが多いだろう。この記事を書いている今まさに、イスラエルとガザ地区が戦争状態に陥っている。そしてこのようなことが起こった場合に、その様子を伝えるための特派員を送るという感じなのだと思う。

しかし須賀川拓は、拠点こそロンドンだが、世界中が注目するような「何か」が起こっていない時でもコンスタントに中東へと出向き、現地取材を行っている。そしてそこで、「何か」ではない「中東の日常」を切り取っていくというわけだ。もちろん、「中東の日常」は、私たちにとっては「非日常」である。しかし「何か」が起こらなければ取材がなされないのだから、普通にしていたら、その「非日常」が私たちの元へ届くはずがない。そんな「中東の日常」を日々取材し続けているのが須賀川拓なのである。

映画『戦場記者』は、まさに今問題となっている「ハマス」や「ウクライナ侵攻」、「米軍撤退後のアフガニスタンにおける薬物中毒」など、様々な現実が取り上げられる作品だ。そのあまりの「非日常」には、やはり驚かされてしまうだろう。

「報じること」に対して須賀川拓が抱く葛藤

映画の中でどんな現実が描かれるのか書く前に、「報じる」という責務を負っている須賀川拓の葛藤にまずは触れたいと思う。映像から伝わる中東の現実の凄まじさにももちろん圧倒されるのだが、その現実を報じる彼の苦悩みたいなものにも惹かれる作品と言えるからだ。

さて、その前に少し紹介しておきたい本がある。『こうして世界は誤解する』(ヨリス・ライエンダイク)だ。同じく中東の特派員を務めていたオランダ人ジャーナリストが、「報道」全般についての自身の考えをまとめた作品である。

その本に書かれていた非常に印象的なエピソードを、私は映画を観ながら思い返していた。それは「狭い檻に入れられたシロクマ」についての話である。

自然界では広々とした環境で生きているシロクマを、身動きを取るのも難しい狭い檻に入れるとしよう。そのような状況に置かれたら、シロクマは当然、「自然の中で生きている時とはまるで異なる挙動」を示すはずだ。イライラしたり凶暴になったりするかもしれない。

さてここで、そんなシロクマの挙動を「檻」を映さないようにして(あるいはCGで檻を後から消すなどして)カメラに収め、多くの人に見せるとしよう。するとその映像を観た人は、「シロクマというのは、いつもこんな風にイライラしたり、凶暴な振る舞いをする生き物なんだ」と勘違いするはずだ。

まさにこのような状況こそ、ヨリス・ライエンダイクが中東での取材の際に感じていたことなのである。様々な事情から彼は、「中東の現実」を報じる際に、「檻」の存在を伝えることが出来なかった。まさにそれは、「檻を映さずにシロクマを撮影している」ような状況だと言えるし、そこに彼は「報道の限界」を感じていたというわけだ。

そして、同じような葛藤を須賀川拓も抱いているのではないかと、映画を観ながら私は感じた。

伝える側も、考えなきゃいけないじゃないですか。どうしたらいいんだろう、って。伝え続けてると、どうしてもマンネリ化する部分もある。でも、「伝えない」って選択肢はないわけじゃん。

彼がこれまでに最も取材に赴いた場所はガザ地区なのだという。まさについ先日、大規模な戦闘が始まった場所である。そして、ガザ地区は以前からずっとイスラエルと緊迫した状況にあったわけだが、そのような「緊迫した状況にあり続けている」という「状況の変化の無さ」こそが報道においては大きな問題になるのだそうだ。

例えば須賀川拓は、「ガザ地区で空爆がありました」というような報道を現地から行うことがある。しかし彼には、そのニュースの重要性や緊迫度が世界に届いているようには感じられない。「世の中はきっと、『またか』と思って終わってしまう」と考えているからだ。

確かに、ニュースの受け手である私の実感としても、「そうかもしれない」と認めざるを得ないところはある。あまりに情報が多すぎる世の中になったため、「新しく刺激的な情報」はいくらでも探せてしまうだろう。だから相対的に、「以前からずっと変わらず同じ状況が続いている」という情報は弱くなってしまうのだ。そのため、どちらかと言えば「同じ悪い状態がずっと続いている」という状況の方がより深刻なはずなのに、なかなかそれを報道に乗せることができなくなる。「変化」こそが「ニュース」なのであり、「変化の無い状態」は、たとえその「変化の無さ」こそが問題なのだとしても、耳目を集めることが難しくなるというわけだ。

須賀川拓がガザ地区で取材をする際、住民たちから最も強く感じるのは「忘れられることの恐怖」なのだという。彼はガザ地区に住むパレスチナ人に、かなり失礼な、あるいは核心を突くような質問もするというのだが、それでも何でも答えてくれるそうだ。やはり「忘れられること」が怖いらしく、直接的にそう口にする者もいるほどである。そういう姿を見ることで彼は、「自分もちゃんと応えないと」という気分にさせられると語っていた。

「自分のしていることに意味などあるのか?」という葛藤

須賀川拓は、また別の葛藤を抱いてもいる。

取材した人のことを助けられてんのかっていったら、出来てないわけじゃん。直接的には。しかもこれで金稼いでるっていうか、直接利益を得てるんじゃないにしても、自分の生業にしてるわけじゃん。
それって意味あんのかなって思うことはあるよ。

もちろん、「まったく意味がない」などとは思っていないだろう。彼は別の場面では、

本当に彼らを助けてあげられる人に、自分が見たことや聞いたことを伝えるのが自分の役割だ。

とも語っていた。それが出来る人は多くないのだから、非常に重要なことをやっていると考えていいはずだ。

しかし、無力感に苛まれてしまう気持ちも分からないではない。彼は「報道」という大義名分を掲げて、他人のプライバシーにズカズカと入り込んでいく。しかしその無遠慮な行動が、直接的に目の前の人を救うわけではない。その現実に、もどかしさを感じてしまうというわけだ。必要とされる役割であることは間違いないし、誰かがやらなければならないことでもある。しかし、自身の裡にある様々な感情をねじ伏せ、無理やり麻痺させているような彼の姿を見ると、複雑な感情を抱かされてしまった

1週間とか1ヶ月とか、取材に行ったとしても、結局はロンドンに戻ってくるわけじゃん。家族もいるし。当たり前だけど、自分の子どもと妻が何よりも最優先なわけだし。
偽善偽善ってよく言われるけど、偽善は偽善なんだって思う。聖人君子なわけじゃないし、世の中にはそういう、自分を犠牲にして人を助けられる人もいるけど、自分はそんな風にはなれないし。
だから、やれる範囲の中で出来ることをやるしかないなって。

世の中には本当に、自分のことを抛ってでも他人のために奮闘するような凄まじい人もいるし、そういう人のことはもちろん尊敬している。しかし当然のことながら、世の中そういう人ばかりではない。そして私は、「良いとされることを、最大限のレベルまでやらなければ評価されない」みたいな状況はおかしいと感じるのだ。それがたとえ不完全なものであろうとも、「良かれと思ってやっており、実際に何らかのプラスの影響を生み出している」のであれば、そのような行動はすべて評価されるべきだと考えている。

映画を観ていると、「危険地帯に赴いて取材を行うこと」の危険さを強く実感させられるだろうが、しかしそれ以上に、精神的な辛さといかに向き合うのかという葛藤の方を強く感じさせられた。報道に乗る乗らないはともかくとして、まずは「大変な任務」を遂行している須賀川拓という存在が的確に評価されてほしいと思う。

イスラエルとパレスチナの「空爆」を巡るすれ違い

映画の中で最も重点的に扱われるのが、イスラエルとパレスチナの紛争だ。まさに先日、これまでにない大規模な戦闘が起こり、世界中で大きく取り上げられたが、そのような状況はずっと長く続いてきたのである。

メインで描かれるのは、イスラエルの空爆が一般市民の住宅に命中し、10人の民間人が死亡した事件だ。軍事力で圧倒するイスラエル軍は、「世界一の人口密度」と評されるガザ地区にある軍事施設やハマスの要所を攻撃するために空爆を行っているのである。ハマスとは、イスラエルに対抗している組織のことだ。そしてこの「ハマス」こそ、問題の難しさの元凶と言っていい。

まずは次の点を押さえておこう。10人の民間人が死亡した空爆は、決してイスラエル軍による「誤爆」などではないのである。というのも、イスラエル軍が保有する兵器の精度はものすごく高いからだ。なんと「マンションの1室」だけを狙った空爆さえ可能だという。そう考えると、「周辺に軍事施設があるわけではない単なる住宅密集地を深夜2時に空爆したこと」を正当化するのはかなり困難と言えるだろう。

この点についてを確認するために、須賀川拓はイスラエル軍を直接取材する。彼らは、「空爆の前にドローンで民間人がいないことを確認し、さらに警告を発して民間人の退避を促した」と主張した。しかし、空爆で妻と4人の子どもを失ったアルハディディやその隣人は、「そんな警告は聞いていない」と言う。この点について改めてイスラエル軍に確認すると、「タイム・クリティカル・ターゲットだった可能性はある」と口にした。これは、警告を発すれば逃走の機会を与えることにもなってしまう標的に対して、警告なしで空爆を行うことを指す。ただし結局のところ、その空爆が「タイム・クリティカル・ターゲット」だったかどうかに関する明確な言及はなかった

イスラエル軍は、「いずれにしても、民間人を狙って攻撃した事実はない」と繰り返し主張する。対応しているのは恐らく広報官なのだと思うが、彼は「イスラエル軍が空爆したということは、そこにハマスがいたということであり、単にその事実を住民が知らなかっただけだろう」という主張を崩さなかった。しかし、空爆の被害者を受け入れた病院の医師は、「700人以上の怪我人が運ばれてきたが、軍服を着ている者は1人もいなかった」と語っている。イスラエル軍は、「不幸にもミスが起こる可能性もある」とは言うものの、10人の民間人が死亡した空爆については「ミスだった」とは認めず、「ハマスの軍人を狙った」という主張を最後まで変えなかったと思う。

さて、イスラエルとパレスチナの間のこの食い違いは一体どこから生まれるのか。その最大の要因が「ハマスとは一体誰のことを指すのか?」という認識の差にあるように私には感じられた。イスラエルの首相は、「ハマスは誰であっても殺す」と主張しており、軍も同じ考えである。しかしハマスの広報は、

ハマスとはガザ地区における社会運動のようなもので、軍事部門以外にも教育・慈善活動など幅広く活動している。

と主張していた。この主張が正しいとするなら、「何らかの形でハマスと関わっている人」はガザ地区にかなりいると考えていいだろう。

イスラエルは恐らく、「どんな任務に従事しているにせよ、ハマスであるなら攻撃対象だ」と考えている。一方ガザ地区では、「ハマスの中でも過激なことをしているのはごく一部であり、それ以外の者たちが空爆の被害に遭うことは許容出来ない」と考えているのだと思う。この食い違いが、両者の齟齬を生んでいるように私には感じられた。

また、ハマスの側にも責められるべき点はある。ハマスはイスラエルのテルアビブに向けて、無誘導弾を撃ち続けているのだ。無誘導弾は、その名の通り「誘導する機能」を持たないので、どこに着弾するか分からない。そのため「無誘導弾の使用」は、国際的には即「無差別殺人」とみなされるのだそうだ。ハマスはこの点を批判されることが多いという。

これについて、須賀川拓がハマスの広報に問い質した。すると、

「イスラエルが空爆を止めれば、こちらはすぐに砲撃を止める」とイスラエル側に伝えたが、拒否されたのだ。

と、自身の立場を擁護するようなことを口にする。さらに、無誘導弾のような技術力の低い兵器を使っている点についても、次のように反論していた

イスラエルがガザ地区の封鎖を解き、ガザ地区にも精密部品が入ってくれば、精度の高い攻撃が出来る兵器を作りますよ。その方が私たちとしても望ましい。

要するに、「イスラエルのせいで精密兵器を作れないのだから、無誘導弾を使うしかない」という主張である。それはちょっと無茶苦茶な主張に感じられたのだが、一方で、「確かにそう言いたくもなるよなぁ」という感覚にもなった。なかなか判断の難しい問題だ。

このように須賀川拓は、パレスチナ、イスラエル双方の主張を取り上げていく。しかし一般的には、ガザ地区で起こっている出来事に関して言えば、「イスラエルが絶対的に悪い」という報じられ方になることが多いそうだ。つい最近のハマスによるイスラエルへの攻撃はあまりにも酷かったため、さすがに今回は「ハマスを擁護出来ない」みたいな声も上がっているみたいだが、やはり基本的には、圧倒的な戦力を持つイスラエルが「弱い者いじめ」をしているような構図で捉えられてしまうということだろう。

須賀川拓も、「確かにイスラエルのオーバーキルは大いに問題だ」と言っているが、だからと言って「パレスチナに問題がない」と考えているわけではない。何せ彼はパレスチナの友人から、「ハマスは最悪だ」という文句を聞く機会が多いようなのだ。パレスチナのために闘っているとされるハマスだが、必ずしも住民から支持されているというわけではないようである。

須賀川拓は、「当事者同士ではもう解決できないと思う」と語っていた。確かにその通りかもしれない。私は以前、実在するパレスチナ・イスラエル混合楽団をモデルにした『クレッシェンド』という映画を観たことがあるのだが、その中でも、両者のあまりにも根深い対立が描かれていた。「世界で最も解決が難しい問題」と言われるのも納得という感じである。

ウクライナ侵攻の現実

続いて、世界中を震撼させたロシアによるウクライナ侵攻が取り上げられる。未だに終わりの見えない、酷い惨劇だ。ウクライナ侵攻は2022年2月に始まったが、本作では、須賀川拓が翌3月に現地入りした際の様子が映し出される。

その現実は、やはり凄まじいものだ。

彼は、数日前に激しい空爆が行われた場所で取材を行う。そしてカメラはそこで、「屋根にロケットが突き刺さった家」「敷地内が空爆された病院」「オスロ条約で使用が禁止されているクラスター爆弾が使用された住宅街」などを捉えていくのである。ちなみに、ロシアもウクライナもオスロ条約を批准していないため、両者の戦争においてクラスター爆弾が使用されても、国際法上の罪には当たらないそうだ。

また須賀川拓は、少し前までロシア軍に占拠されていたチョルノーブィリ原発にも向かう。100マイクロシーベルトを越えるとアラームが鳴るように設定した線量計を持って、「赤い森」と呼ばれる地帯を通り抜けるのだ。

「赤い森」は、チョルノーブィリ原発事故が起こった際に放射性物質を取り込み真っ赤になった針葉樹林を伐採し、そのまま地面に埋めた土地である。だから当然、線量はとても高い。さらにウクライナ侵攻においては、放射性物質に関する知識を持たされていないロシア兵が「赤い森」に派遣され、そこで塹壕を掘っていたことも明らかになった。ロシア兵が被爆したこと自体ももちろん問題だが、それだけではなく、塹壕を掘るための重機が出入りするなどして放射性物質が拡散されたことも問題なのである。

このような、日本にいてはなかなか知り得ない現実を拾い上げていくのだ。

アフガニスタンの凄まじい薬物依存の現実

日本では知り得ない現実と言えば、最後に扱われるアフガニスタンの薬物依存の問題も凄まじかった

アフガニスタンは、20年という過去最長となった戦争から手を引いたアメリカが軍を引き上げ、今ではタリバンが暫定政権を担っている。そしてそのアフガニスタンで今まさに、薬物中毒が蔓延しているというのだ。

須賀川拓が向かったのは、アフガニスタン市街のとある橋。その下になんと、とんでもない数のアフガニスタン人が暮らしているのだ。彼は取材のために橋の下に降りていくのだが、その信じがたい悪臭に悲鳴を上げる。何かを燃やす臭いに腐敗臭が混じったような感じだそうだ。まさにここで、安価だが粗悪なヘロイン、アヘン、覚醒剤が出回っており、無数の中毒者が横たわっている。正直なところ、死んでいるのかただ寝ているだけなのかも分からないような人たちで溢れているのだ。

イスラム教では、薬物の使用が禁止されているのだが、イスラム教を厳格に守らせるタリバンでさえ、橋の下の住民を完全に無視している。市も、住民への勧告や死体の回収を諦めてしまっているのだ。まさに、誰からも完全に見放された状態である。須賀川拓はこの状況を、

世界から見捨てられたアフガニスタンという国で、そのアフガニスタンからも見捨てられた者たちがこれだけたくさんいる。

と表現し、その凄まじい現実に圧倒されていた

そしてそのような現状を踏まえた上で、彼は日本を含めた西側諸国に次のような問いを投げかける

アフガニスタンに対する経済制裁は、果たして真っ当な論理によって行われていると言えるのだろうか?

西側諸国はアフガニスタンに対して経済制裁を続けている。「女性の権利の侵害」や「犯罪者の扱い」などが主な理由だ。確かにアフガニスタンでは、以前にも増して女性の権利が制約されており、須賀川拓はその現実も取材している。もちろんこれも、アフガニスタンにおける解決すべき問題だ。

ただ、橋の下で生きているのか死んでいるのか分からないような状態で存在している者たちを見て、「この状況は大いに誤りだ」と感じたのだろう。さらに、「結局のところ、アフガニスタンを見捨てた世界こそがこのような状況を作り出しているのではないか」と考えているのだと思う。

「女性の権利」ももちろん大事だ。しかしアフガニスタンでは今、薬物中毒によって多くの「命」が失われている。果たして、「女性の権利」を守らせるために「命」が奪われるような状況を作り出している経済制裁に、大義があると言えるのか? このように彼は、非常に難しい問いも突きつけるのである。

出演:須賀川 拓, 監督:須賀川拓, プロデュース:大久保竜, プロデュース:松原由昌, プロデュース:津村有紀, プロデュース:石山成人, プロデュース:塩沢葉子

最後に

映画の中で須賀川拓は、「戦場に行きたいわけではない」と語っていた。現場に出ること自体は好きだが、それは「そこに生きる人々の顔が見たいから」であり、戦場が見たいのではない、と。しかし一方で、前線に行かざるを得ないことも理解している。ニュースとして届けるためには、「日常が破壊され、人々が亡くなっている現状」こそを映し出す必要があるからだ。その辺りにも葛藤があるように見えた。

また、彼の話でもう1つ興味深かったのは、自身のリポーターとしての資質についての話だ。彼は「喋りすぎ」だと自覚しているという。だから、「今の時代で良かった」とも言っていた。5~6年前だったら、喋りすぎる彼の報道は地上波の限られた時間内では収まらず、使いにくいと判断されていただろうからだ。

しかし今は、テレビ以外にも様々な媒体が存在する。地上波の電波を狙う以外の戦略も存在するため、「喋りすぎ」という自身の資質を上手く活かせるようになったと自覚しているそうだ。また、テレビ以外の媒体が増えたことで露出の機会も多くなったし、また、「知らなかった現実を知ることが出来た」みたいなコメントが読めるようにもなった。テレビだけだとどうしても一方通行になりがちだ。しかし視聴者からの反応が見えるようになったため、それだけでもやりがいを感じられるみたいなことを話していた。

映画には、中東へ取材に行く前に、ロンドン支局内で荷物のパッキングを行う様子も映し出される。なるほどと感じたのは、応急処置のキットについての話。須賀川拓とカメラマン男性の両方のキットで、同じものが同じ場所に入っていなければならないのだという。何故なら、どちらかが怪我をし、相手のキットを使うことになった際、どこに何があるのかがすぐに分からなければ意味がないからだ。そのような繊細な準備を必要とする危険な取材だということを、改めて実感させられた。

非常に苦労の多い仕事だと言えるだろう。出来るだけ無理をしない範囲で、これからも世界の現実を伝え続けてほしいと思う。

次にオススメの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次