【驚嘆】映画『TAR/ター』のリディア・ターと、彼女を演じたケイト・ブランシェットの凄まじさ

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:ケイト・ブランシェット, 出演:ノエミ・メルラン, 出演:ニーナ・ホス, 出演:ソフィー・カウアー, 出演:マーク・ストロング, 出演:ジュリアン・グローヴァー, 出演:アラン・コーデュナー, Writer:トッド・フィールド, 監督:トッド・フィールド, プロデュース:トッド・フィールド, プロデュース:アレクサンドラ・ミルチャン, プロデュース:スコット・ランバート
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「リディア・ター」という、数々の偉業を打ち立ててきた天才が有する凄まじい複雑性
  • 「天才で居続けること」がもたらす狂気と、静かにしかし着実に崩れ始める「完璧な世界」
  • レズビアンを公言しているターを取り巻く人間関係の描写も実に興味深い

専門的だが門外漢でも興味を持てる音楽の話に惹かれ、ケイト・ブランシェットの凄まじい役作りに圧倒される作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

天才女性指揮者リディア・ターを複雑に描き出す映画『TAR/ター』は、芸術の高みに上り詰めるための狂気に満ち溢れている

凄まじい引力を持つ映画だった。物語は、リディア・ターという女性指揮者を中心に展開されるのだが、彼女が放つ「何か」がかなり強烈で、その「何か」に引き寄せられるようにして最後までスクリーンに釘付けにされた、という感じだったのである。

リディア・ターの多層性、複雑性

しかし、映画を最後まで観ても、「分かった」という感覚には達しなかった。正直なところ、この映画が何を描き出そうとしているのか、今も私はちゃんと掴みきれていない。物語の焦点がどこに当たっていたのかが、上手く捉えきれなかったのだ。

もちろん、焦点は常に「リディア・ター」に当たっている。しかしそれは、あくまでも「縦軸」と捉えるべきだろう。映画『TAR/ター』には、何か「横軸」に相当するものもあったはずだ。しかし、それが何なのかが分からない。あまりにも、「縦軸」であるリディア・ターの存在感が強すぎて、他のすべてがぼやけてしまうような感じもあった。

さてしかしながら、彼女の「存在感」はパッと見では分かりづらい。というのも、最初の内ターは、物腰の柔らかい穏やかな人物として描かれていくからだ。

私は、主演のケイト・ブランシェットが有名な女優だということさえも知らずにこの映画を観た。後で『TAR/ター』に関するネット記事を読んで、「凄まじい役作りをする役者」であるとようやく認識したぐらいだ。今作でも、ピアノと指揮をプロフェッショナルから本格的に学び、劇中のすべての演奏シーンを代役なしで演じきっているという。役作りのために、アメリカ英語とドイツ語をマスターしたというから、その努力は凄まじいものがあると言えるだろう。

例によって、この映画を観ようと思ったのは、劇場で流れる予告映像がきっかけだったのだが、そこには「狂気的」といった類のコメントが並んでいた記憶がある。とにかく、「リディア・ターはクレイジーな人物である」という点を強調した予告だったのだ。だから映画が始まってしばらくの間、勝手にイメージしていた感じと大分違っていて、まずその点に驚かされてしまった。

映画の冒頭では、ターがトークイベントの場でインタビューアーの質問に答える姿が映し出される。そのイベントの始めに、ターの経歴が紹介されるのだが、それは音楽に無知な私でもその凄さがなんとなく分かるぐらい豪華なものだ。彼女は、カーティス音楽院、ハーバード大学、ウィーン大学を卒業し、世界の名だたるオーケストラで指揮棒を振るってきた。また、「エミー賞」「グラミー賞」「オスカー賞」「トニー賞」という4大エンタメ賞をすべて受賞した、「EGOT」と呼ばれる世界に15人しかいないレジェントの1人でもある。さらに、音楽研究のために、とある部族の集落で5年間生活を共にした経験さえあるのだ。そして現在は、世界最高峰のオーケストラの1つであるドイツのベルリン・フィルで、女性初の首席指揮者の立場にいる。「現代音楽における最も重要な人物の1人」と紹介されるのも当然だろう。

そして、そのような輝かしい経歴を持つ人物にしては意外なほど、実に穏やかな佇まいの人物でもあるのだ。もちろん彼女の場合、ただ座ってインタビューに答えているだけでも、自信やオーラのようなものが滲み出ている。しかし決してそれは、「威圧」のような印象を与えはしないのだ。

その背景の1つに、ターが女性であるという事実が関係しているのではないかと思う。

クラシック音楽では指揮者のことを「マエストロ」と呼ぶのだが、トークイベントの中で、この「マエストロ」という言葉が「男性名詞」であることが指摘される。この点についてどう思うか問われたターは、「女性名詞である『マエストラ』に変えるのも変だ」と返すのだが、このやり取りは明らかに、「指揮者は圧倒的に男性が占めていること」「その中で、リディア・ターという女性があまりに凄まじい活躍をしていること」を示していると言えるだろう。そしてここからは私の勝手な想像になるが、やはり圧倒的な男社会である指揮者の世界で生き残るためには、自分の「見せ方」を絶妙に調整し続けなければならなかったのだと思う。

そのため私は、冒頭からしばらくの間、彼女の「存在感」や「狂気」に気づけなかったのだろう。

ターは度々、何か薬を飲んでいる。何の薬かは分からないものの、恐らく彼女の「不調」の原因は、「自身がいる、クラシック音楽の世界そのもの」であるはずだ。圧倒的な男社会の中で、圧倒的な経歴を歩み続けるためには、一般的な「マエストロ」以上の凄まじい重圧に耐え続けなければならなかったのだろうし、そのことが彼女を少しずつ蝕んできたのだと思う。

物語は、「リディア・ター」という、冒頭では「あまりに完璧な装い」で登場した人物の「完璧さ」が、少しずつ剥がれ落ちていくという形で展開していく「完璧さが剥がれて落ちていくこと」は、彼女にとって屈辱的な状況と言っていいし、その事実がさらに彼女を追い詰めていくことになる。明らかに負のスパイラルに陥った「天才」が、世間のイメージする「リディア・ター」であり続けるために狂気に飲み込まれていき、そのことによって、彼女自身の内側に元々あった「暴虐性」みたいなものが露わになっていく過程に目が離せなくなる作品なのだ。

物語における、2人のキーパーソン

劇中では、展開に応じてキーパーソンは変化していくわけだが、冒頭からしばらくの間特に関わりが深い重要人物を2人紹介しておこう。

1人は、ターが所属する楽団のコンサートマスターであるシャロンだ。ターはレズビアンであることを公表しており、シャロンはそのパートナーでもある。彼女たちは恐らく、法的に婚姻関係が認められているのではないかと推察される。というのも2人は、恐らく養子だろう女の子を育てているからだ。仕事でも日常生活でも重要なパートナーであり、お互いにとってかけがえのない存在なのである。

そしてもう1人は、指揮者志望のフランチェスカだ。彼女はターの付き人のような役割を担う女性で、スケジュール管理など仕事のサポートを行っている。しかし、それだけではない。ターは、シャロンというパートナーがいながら、フランチェスカに対しても、仕事仲間以上の感情を抱いているように思える。そしてそれは、フランチェスカの方も同じようだ。恐らくシャロンには、この2人の関係性について何か思うところがあるはずだが、ターに直接そのことを問いただすことはない

前半は特に、この3人の関係性が中心となって物語が展開していく。ある意味でそれは、「崩壊前の日常」と言っていいだろう。リディア・ターという女性の現在地をきちんと描き出すからこそ、その後の変化に意味が生じるというわけだ。

そしてだからこそ、前半では、「リディア・ターが、『音楽』に対してどのような価値観を抱いているか」について描かれることが多い。最高峰の世界で日々闘っているターの日常は、もちろん「音楽」に彩られているからだ。

リディア・ターの「音楽論」、そして劇中で描かれる「音の異変」

特に、音楽に対する彼女の価値観が直接的に垣間見えるのが、冒頭のトークイベントのシーンである。彼女は質問に対して、過去の偉大な指揮者や作曲家の名前を出しながら、かなり専門的な話を展開していく。その中でも印象的だったのが、ベートーヴェンとマーラーの話だ。

ターがインタビューアーから、「指揮者は『人間メトロノーム』と呼ばれることもある」と、少し批判的な意見をぶつけられるシーンがあった。これに対してターは、「それは確かに一面では真実だ」と前置きした上で、ベートーヴェンの『運命』の話を始めるのである。

さて、これから書くことは本作の受け売りであり、そして私は音楽について詳しくないので、何か間違いがあれば私の理解力を疑ってほしい

まず、『運命』の最初の1音は「無音」なのだという。だからこそ「時計を動かす人間が必要だ」とターは語るのだ。これはつまり、「『指揮者』の最も重要な役割は『時間を操ること』だ」という主張である。指揮者にとっては何よりも「時間」こそが大事なのであり、その「時間」をいかにコントロールするかが求められている、と彼女は語るのだ。この点にこそ、指揮者の価値があると言いたいのだろう。

また、ターはマーラーを敬愛していることを公言している。そして、彼女は今まさに、マーラーの交響曲第5番の録音を控えているところなのだ。それは、彼女が所属するベルリン・フィルで唯一録音を果たせていない曲でもある。第5番の録音を終えれば、ターの新たな偉業として刻まれることは間違いない。そして、そのことが彼女にとって大きなプレッシャーになっていたのだと、後に判明することになる。

さて、そんなマーラーはかなり謎めいた作曲家らしいのだが、その中でも第5番は群を抜いて謎なのだそうだ。曲を読み解くためのヒントは唯一、「表紙に書かれた、新妻アルマへの献辞」だけだという。だからこそ、「『マーラーとアルマの結婚生活』を知ることこそが、第5番を読み解くヒントになる」のだそうだ。クラシック音楽の世界のことは私には分からないが、そんな門外漢でも、なかなかに奇妙な主張であるように感じられた。

あるいは、彼女の音楽論が炸裂した次のようなシーンもある。ターが講師を務めるジュリアード音楽院での講義の場面だ。ここでもかなり専門的なやり取りが展開されるのだが、見解の相違からターはある生徒と議論を始める。その議論をざっくり要約すれば、「作曲者の人柄と、その人物が作曲した曲は、関連付けて受け取るべきか?」となるだろう。作曲者の人柄を無視することは出来ないと主張する生徒に対して、ターは「曲そのものの良し悪しの方が大事だ」という立場を明確に打ち出す。そして生徒との議論の中でターは、次のように主張するのである。

指揮者は、作曲家に奉仕するものよ。聴衆と神の前に立って、自分を消し去るの。

これは普通に捉えれば、単に「指揮者の心得」について語ったものでしかないだろう。しかし、彼女がこう口にした場面を後から振り返ってみると、「そうでなければならない」と自らに言い聞かせていたようにも感じられる。というのもターは、その後様々な状況に直面することで、「作曲家に奉仕する」みたいな余裕をどんどんと失っていくことになるからだ。そのような予感を、この講義の時点で抱いていたのではないかと思う。「完璧な世界」を崩壊させないように、自らを奮い立たせる必要がある。そんな自己暗示のようなセリフだったのかもしれない。

さて、物語が展開していくにつれ、ターの周囲は「音楽」とは無関係の話題で騒がしくなっていき、同時に彼女自身の穏やかさも失われていく。そして、そのような「崩壊」に比例するかのように、ターの部屋で様々な「異変」が起こるようになる。しかし、この描写が一体なんだったのか、私には上手く掴めなかった。単に「穏やかではいられなくなったターが、周囲の様々な事柄に一層過敏になっていった」ということなら分かりやすいのだが、果たしてそれだけの描写だったのだろうか

「異変」の1つに「異音」があるが、これについては映画のある場面で関係しそうな言及がなされていた。ある人物から、「雑音への感度こそが作曲には重要だ」みたいな話をされるのだ。そのアドバイス(としてターが受け取ったのかは不明だが)が何か関係すると思うのだが、ただ残念ながら、私には上手く捉えきれなかった。

私にもう少し理解力があれば、もっと面白く受け取れる映画だっただろうなとも思う。

出演:ケイト・ブランシェット, 出演:ノエミ・メルラン, 出演:ニーナ・ホス, 出演:ソフィー・カウアー, 出演:マーク・ストロング, 出演:ジュリアン・グローヴァー, 出演:アラン・コーデュナー, Writer:トッド・フィールド, 監督:トッド・フィールド, プロデュース:トッド・フィールド, プロデュース:アレクサンドラ・ミルチャン, プロデュース:スコット・ランバート
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最後に

冒頭でも書いた通り、様々な事柄が描かれる作品なのだが、全体的には「理解できたとは言い難い」という感覚で終わった。別にこれは「悪い印象」というわけではない。最後の最後まで「よく分からなさ」によって感情を刺激し続ける雰囲気はとても良かったし、「天才と狂気は紙一重」という、凡人にはなかなか覗けない世界を体感させてくれる映画でもあったからだ。

とにかくリディア・ターの引力がもの凄く強く、彼女の存在感だけで最後まで観させられてしまったと言ってもいいぐらいである。私は割と、「『天才であることの不自由さ』をすべて引き受けてでも、『天才』として生きてみたい」と考えてしまう人間なのだが、その気持ちを少し躊躇させるぐらいには狂気に満ち満ちた、凄まじい作品だった。

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