【不安】環境活動家グレタを追う映画。「たったひとりのストライキ」から国連スピーチまでの奮闘と激変:映画『グレタ ひとりぼっちの挑戦』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:グレタ・トゥーンベリ, 出演:スヴァンテ・トゥーンベリ, 出演:アントニオ・グテーレス, 出演:エマニュエル・マクロン, 監督:ネイサン・グロスマン, プロデュース:セシリア・ナッセン
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 気候変動に対する「不安・恐怖」から、グレタは行動を起こさざるを得なかった
  • 「自分の主張を聞いてくれるなら、私自身のことなどどうでもいい」というスタンスが真っ直ぐ貫かれている
  • そのあまりに重い責任に、逃げたい気持ちを抱いていることも告白する

スウェーデン議会前でたった1人ストライキを行っている時から追い続けた、グレタの「実像」

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

環境活動家グレタ・トゥーンベリの印象が、映画『グレタ ひとりぼっちの挑戦』を観て大きく変わった

私はグレタのことを「怒りの人」なのだとずっと思っていた

その存在を知った時から、私はグレタ・トゥーンベリのことを「凄い人だ」と思っていた。しかしその一方で、「少し怖い」とも感じていたのだ。その理由は、彼女のことを「怒りの人」だと捉えていたからである。

環境活動家グレタについて思い浮かべる時、真っ先にイメージされるのは「How dare you(よくもそんなことを)」と険しい表情で口にしている場面だ。そしてその印象が強いために、私はグレタのことを、「気候変動に対して何の行動も起こそうとしない社会や政府に『怒り』を感じて立ち上がった人」というイメージで捉えていた。これが、私が抱いていた「怒りの人」という印象の中心にある。

しかしこの映画を観て、それが誤りだと気づいた。グレタは「不安の人」だったのだ。そして、そのことに私は少し安心した

私がグレタに「少し怖い」という印象を抱いていたのは、「正義感から怒っている」と捉えていたからだ。つまり、グレタに対する「怒りの人」というイメージは、「正義の人」とイコールだったのである。

そして私は、「正義の人」を怖いと感じてしまうことが多い

誤解しないでほしいが、私は「正義のために闘う人」のことを純粋に凄いと感じるし、尊敬もしている。グレタのこともずっと「凄い人だ」と感じていた。しかし同時に、「正義の人」に対しては、「どうしてこの人は『正義』のためにそこまで自分を犠牲に出来てしまうのだろう」とも感じてしまうのだ。これは私の勝手な捉え方であり、闘っている本人は「何かを犠牲にしている」なんていう意識を持っていないかもしれない。しかし私は、「『正義』のために無理をしている」とどうしても感じてしまうし、「なんでそんなことが出来るのだろう」という、尊敬半分、怖さ半分という感覚になってしまう。「畏敬」という表現が最も近いだろうか。

もちろん、別に理由があろうがなかろうが「正義のために闘う」という行為は素晴らしいし、どんどん頑張ってほしい。「正義のために闘う人」を否定したり貶めたりする意図は一切ない。ただ、私個人の勝手な感覚として、「『正義』のための行動に、何か背景があると納得感を得やすい」とも思っている。「東日本大震災の被災者が反原発の運動を行う」などは分かりやすい例だろう。繰り返すが、別に私は「東日本大震災の被災者でなければ、反原発の運動をすべきではない」などと主張したいわけではまったくない。ただ、「正義のために闘う理由」が分かりやすく存在する方が、個人的に納得感を覚えやすい、というだけの話だ。

グレタに対しても当初は、「無条件に『正義』のために闘う人」というイメージを抱いていて、それが「少し怖い」という私の印象に繋がっていたのである。

しかし映画を見て、そうではないということが分かった。彼女には、切実な理由があったのだ。

学校で、ある映画を観た。飢餓に苦しむホッキョクグマや洪水、干ばつ、ハリケーンなどの問題が扱われていた。
すぐに行動を変えるべきだと科学者は言った。
それで私は塞ぎ込んでしまった。不安が押し寄せてきた。食べることを止め、餓死しそうになった。
それが何年も続いた。

彼女にとって「世界の気候変動」は、自分の精神を圧迫するほどの切実な問題だったのである。

それはこんな風にイメージできるかもしれない。自分の家の隣に、今にも倒壊しそうなビルが建っていることを想像してほしい。ちょっと強風が吹くだけで建物全体が揺れ、日常的に瓦礫のようなものが降ってくる。建築の専門家も、「一刻も早く解体しなければ何が起こるか分からない」と警鐘を鳴らしている。そんな状況をイメージすればグレタの不安を理解しやすいのではないかと思う。

もしそんなビルの隣で生活をしていたら、「塞ぎ込んでしまった。不安が押し寄せてきた。食べることを止め、餓死しそうになった。」という感覚に陥るのも当然だろう。彼女にとって「世界の気候変動」はそのような存在だったというわけだ。そしてそんな「不安」から、彼女は声を上げる決断をしたのである。

幼い頃からグレタは、家中の電気を消し、コンセントを抜いていたという。両親には、「エネルギーを節約するためだ」とはっきり語っていたそうだ。両親はそんなグレタに対して、「そんなことをしなくても問題はない」「きちんと対策が取られているから心配はいらない」と説明していた

しかしむしろ、そのことが彼女の「不安」を増大させてしまう

そしてそんな言葉に、恐怖を覚えました。状況が改善していると思い込んでいるんです。

グレタからすれば、「両親が今にも崩れそうなビルの隣で、何の心配も抱かずに平然と生活している」ように見えたのだろうし、そのこと自体に「恐怖」を覚えたのだと思う。

彼女の中には、このような「不安」「恐怖」が幼い頃から渦巻いていた。これこそが、彼女の行動原理の「核」というわけだ

これまで私は、「彼女の行動原理の『核』」が何なのか分からずにいたのだが、映画の冒頭でグレタが抱いていた「不安」が明らかにされることもあり、すぐに印象が変化した。そして、その変化のお陰で、それ以降のグレタの言動も、迷いなくスッと理解できるようになったのである。

注目を集めるようになってからも、「グレタが『届いてほしい』と願う主張」はブレない

こういうことを言うべきではないと思ってはいるのだが、どうしても「正義の人」に対しては、「『正義』を貫くこと自体に酔っているのかもしれない」という見方をゼロにすることが難しい。つまりそれは、「何らかの形で『称賛』されること」が「『正義』の目的」になっているのかもしれない、という邪推でもある。そんな風に考えてしまう自分に嫌悪感を抱くこともあるが、やはりその感覚は決してゼロにはならない。別にそれが動機なのだとしても、結果的に「正義」が実現するのなら何の問題もないとは思っている。ただ私の中に、「なんかなぁ……」というモヤモヤした感覚が残ってしまうのもまた事実だ。

しかし、グレタが「不安の人」なのだと理解できたことで、上述のような感覚を一切捨て去ることができた。グレタの言動も、その捉え方を補強する。

私の活動は、皆さんとの自撮りや褒められるためのものではありません。

彼女ははっきりと、このように主張する。世界中で知られる存在となったグレタは、公の場に出ると、一緒に写真を撮ることを求められたり、あからさまに称賛されたりする機会が増えた。しかしそんなこと、彼女にとってはどうでもいい。グレタからすれば、「この崩れそうなビルをなんとかしてくださいよ!」という訴えに耳を傾けてほしいだけなのだ。しかし大人は、今にも倒壊しそうなビルが揺れている状態で、自撮りを求めたり意味のない褒め言葉を口にしたりする。グレタが失望するのも無理はない。

彼女の主張は、本当にシンプルで一貫している

デモの参加人数が重要なわけではない。重要なのは、温室効果ガスの排出量を減らすこと。

たった1人から始まったグレタの行動によって、世界中で数万人規模の気候変動デモが行われるようになった。たった1人の、まだ「少女」と呼ぶべき存在がもたらした影響力としては、過去類を見ないほどではないかと感じたりもする。しかしグレタは、「デモにどれだけ多くの人が参加したか」などということに興味を示さない。それは目的ではなく、あくまでも手段に過ぎないからだ。目的は「温室効果ガスの排出量を減らすこと」だ。そして、それが実現できていないのであれば、何の意味もないと感じているのである。

彼女はとにかく、様々な場面で、「大人の無理解さ」に対する憤りを表明する

(環境に関する国際会議に私が)なんのために招かれたのか理解できません。

要人たちは、注目を集めることで、気にしているフリをしたがっているだけなのではないか。

「あなたの活動は素晴らしい」「私も見習う」
みなさんそう言います。
でも、何もしません。

きらびやかな宮殿やお城に招かれると、居心地の悪さを感じます。
みんなが役柄を演じるゲームに興じているよう。偽りの世界です。

どれも彼女の「怒り」が滲み出る言葉だろう。メディアで切り取られるグレタが「怒りの人」に見えてしまうのは、「私の話を、”本当の意味で”誰も聞こうとはしない」という苛立ちが強く出てしまうからなのだと感じた。彼女は、

私の言葉が通じていないように感じます。

と発言しているし、ある会議では、

マイクはオンですか?

皮肉を口にさえする。これは、「マイクの電源が入っていないから、私の言葉が届いていないのですか?」という「怒り」の表明なのだ。

映画を観ると、このようなグレタの「行動原理の『核』」がはっきりと理解できる。彼女はとにかく、「現状認識を変更し、対策を打ってほしい。それ以外のことはどうでもいい」と主張し続けているのだ。その徹底したスタンスには脱帽させられる。

滲み出る知性の高さ

グレタはアスペルガー症候群なのだそうだ。だから、1つのことに集中し続けても飽きることがないし、興味を抱いた事柄は正確に記憶できる。彼女の父親が、

娘は、世界の政治家の97%よりも正確に気候の問題を理解している。

と語っているほどだ。

グレタも「勉強オタク」と自ら口にする。中学校の卒業式では学年トップの成績を取った1人として表彰されていたし、たった1人でストライキを始めた際には、自ら作成した「ファクトシート」を配っていた。娘がストライキを始める際、当初父親は「手伝わない」と宣言していたそうだ。グレタは大人の力を借りずに自ら情報収集をし、地球が置かれている現状を捉えたのである

ある会議で彼女は、

私の発言は無視しても構いません。私は15歳のただの学生に過ぎないからです。
しかし、科学は無視できません。

と語っていた。「グレタ・トゥーンベリ」という存在がどのように捉えられているかを正しく理解した上で、自らの”主張内容”をどうやったら聞いてもらえるのか考えていることが伝わるだろう。「勉強」という意味だけではない知性の高さを感じさせられた場面である。

アメリカで行われる気候変動サミットに、イギリスからヨットで向かう場面でも似たようなことを感じた。彼女はかねてから「飛行機は使わない」と宣言している。大量の二酸化炭素を排出するからだ。しかしヨットでの移動は、数週間にも及ぶ過酷なものとなる。アスペルガー症候群である彼女は、日常の習慣を逸脱することをそもそも嫌うため、そういう意味でもこの航海はかなり厳しい。それが分かっていながら、グレタは敢えてヨットでの移動を決断するのだ。

映画では、メディアからの「グレタの行動は単なるパフォーマンスに過ぎない」という批判の声も取り上げられていた。確かに、そう見られてしまうのも無理はない。そのような声も意識してのことだろう、グレタに「何故ヨットで移動するのか」と問う場面が映し出される。そこでグレタがこのように答えていたのが印象的だった。

持続可能な社会には程遠いことを示すためです。

この返答からも、彼女の知性を感じる。グレタ自身も当然、ヨットで移動するという行動が「パフォーマンス」と受け取られることを理解していたはずだ。ただでさえ辛い航海は、アスペルガー症候群である彼女にとってはさらに辛いものになるということも。そしてそれらを十分理解した上で、それでも、自分が伝えるべきだと感じたメッセージをどうにか届けるために、その厳しい決断をしているのである。カッコいいと思う。

彼女は、

「できることは全部やった」と将来思えるように、できることはなんでもやる。

決意を語っていた。凄まじいとしか言葉が出ない。

「逃げたい」という想いも吐露する

彼女は事ある毎に、「自分の主張に目を向けてほしい」と語る。それはある意味で、「私自身には注目しないでほしい」という気持ちの裏返しだとも感じた。

あまりに重大な責任を負っています。
私はこんなの望んでいない。
荷が重すぎる。
気が休まらない。
重要性も守るべきことも分かっています。
でも、責任が重すぎます。

私も含め、誰もが安易に「グレタは凄い」と口にするし、彼女を「救世主」のように扱う。しかしグレタ自身はそんなこと望んではいない。彼女は単に、「世界の気候変動」に対処したいだけなのだ。

しかしそのために、「グレタ・トゥーンベリ」というある種の”虚像”を利用することもまた、有効な手段なのだと理解している。知性の高さゆえの判断だが、同時にそれは、彼女自身の首を締めることにも繋がっているのだ。

おしゃべりや交流することは好きじゃありません。時々黙りこくってしまうのは、単に話せないからです。
繰り返し行う日課が好きです。

アスペルガー症候群である彼女は、本来的には表舞台に立ちたいと願うタイプの人間ではない。しかし、否応なしにそうせざるを得なかったことで、結果的に「場面緘黙症」が克服されたり、「他人と食事をすること」が出来るようにもなった。悪い変化ばかりではないというわけだ。しかしそれでも、「グレタ・トゥーンベリ」という”虚像”を背負うことは、あまりに酷だと感じた

みんなが、アスペルガーの性質を持っていたらと、気候変動に関してはそう感じます。

と、現状に対する理解が及ばない多くの人々に対して、彼女はそう感じている。そして、そんな世界をどうにかするために、彼女は動き続けるしかないと考えているのだ。

外に出ない方が良いと言われることもありますが、私は気にしません。
活動を止めて生じる結果の方が怖いからです。

映画では、父親が「応急処置講習」を受ける場面も映し出されるグレタに脅迫状が届くようになったからだ。何が起こってもおかしくないため、最悪を想定して準備をしているのである。「外に出ない方が良い」というのは、まさにそういう状況を指しているわけだが、しかしグレタは、じっとしている方が不安だからと動き続けてしまう。やはり彼女は「不安の人」なのである。

たった1人でストライキを始めてから、世界がグレタに賛同して動くまでの流れ

映画を観て驚いたのは、まだグレタが何者でもない、世界に知られるような存在ではなかった頃から既にカメラが回っていたということだ。彼女は2018年8月に、スウェーデン議会の前で「たった1人のストライキ」をスタートさせた。その時の様子が、映像で残っている。詳しい事情は分からない。父親が記録として撮影していたのかもしれないし、グレタの祖父や母親はどうも有名な俳優・歌手だそうなので、「有名人の娘が何かやっている」ということで記録が残っている可能性もあるだろう。いずれにせよ、「世界的に有名な環境活動家グレタ」になる以前から、彼女の活動が記録されているというわけだ。

グレタは、選挙までの3週間、毎日議会の前でストライキを続けた。賛同する若者が一緒に座り込みをしてくれることもあったが、残念ながら選挙では「気候変動」が争点となることはなく、気候変動への対策を打ち出していた「緑の党」は大敗を喫してしまう

その後グレタは、「未来のための金曜日(FFF)」と呼ばれる毎週金曜日のストライキをスタートさせた。そしてこのFFFをきっかけにして少しずつ支持者が広がっていき、グレタの気候変動に対するストライキ運動は、世界的なデモ活動へと展開していくことになる。2019年9月には、全世界で700万人がデモに参加、史上最大の気候ストライキとなった

こんな風にしてグレタは、たった1人の行動をきっかけにして、世界を動かす環境活動家へと駆け上がっていったのだ。

そんな彼女がメディアなどで取り上げられる際、何らかの対立構造と共に映し出されることも多い。「トランプ元大統領とツイッター上で応酬をした」というような報道も幾度か目にしたことがある。しかしグレタ自身は、「世界を分断させたいわけではない」とはっきり明言していた

私は、世界を白と黒に分断したいのではありません。気候問題に白黒つけたいだけなのです。

しかし小狡い大人は、「グレタ・トゥーンベリ」という存在を巧みに利用しながら、ある種の「分断」を煽り立てる。その結果、中心にいるグレタが「分断の根源」であるように受け取られてしまう

ここまでで繰り返しているように、グレタの主張はとてもシンプルだ

未来の世代は現状に手を出せません。

今手を打たなければ遅い」というわけだ。大人は、現状を先送りしようとする。そのツケを払わされるのは、「未来の世代」であるグレタたちだ。そうなってからでは、もう打つ手はない。

グレタの必死さは、若い世代には伝わっていると思う。しかし、彼らが政治の中心を担うまで、気候変動は待ってくれない。私も年齢的には、グレタから「なんとかしろ」と言われる側の世代だ。だからせめて、「関心を持ち続ける」という意識だけは捨てるまいと思っている。

グレタの真摯な訴えに、世界は正しく反応するべきだろう

出演:グレタ・トゥーンベリ, 出演:スヴァンテ・トゥーンベリ, 出演:アントニオ・グテーレス, 出演:エマニュエル・マクロン, 監督:ネイサン・グロスマン, プロデュース:セシリア・ナッセン
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最後に

私がこの映画を観たのは公開日翌日だったが、映画館はガラガラだった

別に、「この映画を観るかどうか」と「気候変動に関心を抱いているかどうか」が相関するわけではない。当たり前のことだ。しかしやはり、ガラガラの映画館は、気候変動への関心の低さを示しているように感じられてしまった

グレタの必死の訴えを、私たちは自分事として受け取らなければならない。私たちのすぐ横で、崩れそうなビルがゆらゆら揺れている。そんな危機感を皆が共有しなければならないのだと感じた。

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