【あらすじ】映画『アンダーカレント』(今泉力哉)は、失踪をテーマに「分かり合えなさ」を描く

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:真木よう子, 出演:井浦新, 出演:江口のりこ, 出演:永山瑛太, 出演:リリー・フランキー, 監督:今泉力也
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いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

他者のことを本当の意味で理解することなど、誰にも出来ないと思う

犀川後藤

しかしそうだとしても私は、「『他者のホントウ』を知れた」という実感を追い求め続けたい

この記事の3つの要点

  • 「誰かが望む自分」を提示し続ける生き方しか出来なかったある人物に、私は強く共感させられてしまった
  • 私たちは安易に、他者のことを「理解できた」などと考えがちだが、実際にはそんなことは不可能だと思う
  • 本作は、「『他者のホントウ』を知れた」という感覚を与えてくれる、珍しいフィクションでもある
犀川後藤

今泉力哉作品らしい「繊細さ」に溢れた映画であり、何が起こるわけでもないのに強く惹きつけられた

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『アンダーカレント』(今泉力哉監督)は、「他者を理解することの困難さ」を改めて実感させてくれる物語だ

私がこれまでに観た今泉力哉作品は、『窓辺にて』『ちひろさん』『街の上で』の3作で、本作『アンダーカレント』は4作目となります。そして映画『アンダーカレント』は、私がこれまでに観た今泉力哉作品の中で「最も何かが起こる物語」でした。先に挙げた3作は、本当に「特別なことが何も起こらない物語」だったので、そういう意味で本作は、私が観た他の今泉力哉作品とは少し毛色が違うように思います。

ただそれも、あくまでも「他の今泉力哉作品と比べた場合」の話であり、映画『アンダーカレント』も別に、特段これといって何が起こるわけでもありません。ただ、「慰安旅行の最中夫に蒸発された妻」が主人公であり、そのようなミステリ的な設定によって、他の作品と比べれば「何か起こっている」という感じになるのでしょう。まあ正直、その程度の意味合いです。

いか

しかしホント、今泉力哉作品って、「特に何も起こらないのにメチャクチャ面白い」よね

犀川後藤

観る度にいつも、この点が凄まじいなって思う

さてもう1点、他の今泉力哉作品との違いに触れておきましょう。『窓辺にて』『ちひろさん』『街の上で』の3作の場合、私はメインの登場人物に強く共感しました。『窓辺にて』であれば稲垣吾郎が演じた役に、『ちひろさん』なら有村架純が演じた役に、そして『街の上で』では若葉竜也が演じた役が女子大生と続ける会話に、とにかく凄まじく共感させられたのです。

しかし、本作『アンダーカレント』は少し違いました

私が最も共感させられた話

本作において最も共感させられた人物が誰なのかについては触れないでおくことにします。私は、その人物の経験や感覚について書きたいのですが、「誰が」という情報とセットでそれに触れるのは、私の中の基準ではちょっと「ネタバレし過ぎている」と感じるからです。なので、誰がどのような状況で語った話なのかは説明しないまま、その内容だけ書きたいと思います。

いか

「内容にどこまで踏み込むか」の判断には毎回悩むよね

犀川後藤

常に、私なりの基準に沿って「ネタバレ」を回避しているつもりだけど、それでも「書きすぎ」って感じる人もいるだろうしなぁ

私が最も共感したのは、ある人物の次のようなセリフです。

なんて言ってもらいたいかが分かるんだ。で、それを与えることが出来る。

恐らく、映画を観たほとんどの人は、このセリフに共感したりしないでしょう。少なくとも作中では、「そうであるはずだ」という見え方になる演出がなされている気がします。しかし私は、このセリフを聞いて「分かるなー」と感じてしまいました

犀川後藤

でももしかしたらだけど、若い世代には共感できるって人が結構いるのかもなって気はしてる

いか

ただ、仮にそうだとしても、「望んでそう振る舞ってる」って人は多くないかもね

その人物は、自身のその「特異なスタンス」を上手く活かして、「『誰かが望む自分』であり続けるために、自身の振る舞いを調整する」みたいな生き方をしてきたわけです。そして私もまた、20代前半ぐらいまではそういう感じで生きてきました。何故なら、そんな風に振る舞っている方が「楽」だったからです。

正直私には、子どもの頃の記憶が全然無いのですが、たぶん小学生ぐらいの時点で既に、「周囲からどう見られているか」「それにどう自分の振る舞いを合わせていくか」みたいなことを考えていたように思います。相手が親でも先生でもクラスメイトでも、「きっとこんな風にしてほしいんだろうなぁ」みたいなことはいつだって容易に理解できたし、私自身は「こうしたい!」みたいな欲求に乏しい人間だったので、「求められているならそう振る舞えばいいか」ぐらいの感覚で、自分の言動を決めていたはずです。

いか

こんな風に言語化すると、すげぇ嫌なヤツって感じするけどね

犀川後藤

でもたぶん、嫌なヤツとは見られてなかったと思うんだよなぁ

というか私はそもそも、「誰だってそういうことが察知できるはずだ」と考えていたような気もします。だから、自分が何か特別なことをしているとは考えていなかったのでしょう。しかし成長するにつれて徐々に、「特に男は、そういう能力に欠けているようだ」と気づき始めます女性は割と一般的に、「場の空気を読んで、『望まれているだろう自分』を演出する」みたいな振る舞いを子どもの頃から意識している印象がありますが、男はどうもそうでないようでした。そしてそういうことに気づき始めたことで、「自分のスタンスはちょっと周りと違うようだ」と感じられるようになったのだと思います。

このように私は、「周りがそう望んでいるならそれでいいか」みたいな主体性を欠く生き方を割とナチュラルに続けていた記憶があるのですが、段々とそのような振る舞いがしんどく感じられるようになっていったのでしょう。それで大学生の頃ぐらいにかなり意識的に自分の生き方のスタンスを総入れ替えして、今では昔とは真逆、つまり「『周りからの見られ方』に影響されないスタンス」で過ごすようになりました。何なら今では、「『周りからの見られ方』をそもそも変質させるように振る舞う」なんて意識も持っているつもりです。まあ、上手くいっているのかは分かりませんが。

いか

こういう話を通じそうな人に話してみると、「そんなこと考えてるの?」みたいに驚かれるよね

犀川後藤

特に私は、「そんな仔細な思考によって導き出された行動をしているようには見えない」みたいだから余計そうなんだと思う

そんなわけで、今の私のスタンスとは異なるのですが、しかしやはり、「なんて言ってもらいたいかが分かるし、それを与えることも出来る」というこの人物の感覚は今も私の中に残っているし、だからこそとても共感させられたというわけです。

「他者のホントウ」を知ることに、私は特に関心がある

自分がこのようなスタンスで生きてきたことも関係しているのでしょう、私は昔から「他者のホントウ」を知ることに強く関心を抱いてきました。いや、もう少し正確に表記すると、「『他者のホントウ』を知れたという実感を得ること」に私は関心があるのです。

いか

結局のところ、それが「その人のホントウ」なのかなんて判断しようがないからね

犀川後藤

でも、そういう実感が得られることは時々あって、「こういう瞬間を求めて他者と関わってるんだよなぁ」っていつも思う

そんなわけで私は、映画のかなり早い段階で主人公の関口かなえが口にするこんな実感にも、かなり共感できてしまいました

もちろん、「夫がいなくなった」っていう事実も辛かったけど、今何が一番辛いかって、「彼にとって私は本当の気持ちを話せる相手じゃなかったんだ」ってこと。ずっと一緒にいたのになぁ、って考えちゃう。

分かるなーと思います。もし私が彼女と同じように、「長く関わりを持った人が突然目の前からいなくなってしまう」という経験をしたとすれば、きっと同じように感じるでしょう。「いなくなってしまった」という事実ももちろん残念なわけですが、それ以上に、「私には話せなかったんだなぁ」みたいな方に気持ちが持っていかれるだろうなと思います。

いか

想像するだけで嫌だよねぇ

犀川後藤

だから私自身はなるべく、「こいつには何でも話せる」と思ってもらえるような振る舞いを心がけてるつもり

作中には、失踪した夫を探すために雇われた探偵が出てくるのですが、彼がかなえに対してこんな風に聞く場面があります。

人を分かるってどういうことですか?

確かにその指摘はもっともでしょう。「他者のことを完全に理解できた」なんて状態に達することはまずあり得ないし、もしそう思っている人がいるなら、「そんなのは錯覚でしかない」と感じてしまいます。

そしてだとすれば、「『他者のホントウ』を知れたという実感を得ること」だって大差ないと感じる人はいるでしょう。しかし私には時々、こう表現するしかないような感覚に囚われることがあるのです。もちろんそれだって、単なる錯覚に過ぎないかもしれません。ただ、それも理解した上で、「これが錯覚だとしたら何を信じたらいいんだろう?」ぐらいの強さで、そのような実感が得られることがあるのです。

犀川後藤

ただ自分で書いてても、その違いを上手く説明できないっていうか、難しいなぁって思う

いか

普通に考えて「それ、何が違うの?」ってなるよね

まあ、ちょっとよく分からないかもしれませんが、ともかく私はこれからも「他者のホントウ」を知りたいし、そこに近づけるような存在でありたいとも思っています。「生きる気力」に乏しい私には正直、もはやそれぐらいしか「生きる気力」が湧くことがないのです

今泉力哉作品は、「『他者のホントウ』を知れたという実感」を与えてくれる特異さがある

そして私はこのような点、つまり「『他者のホントウ』を知れたという実感が得られる」という意味で、今泉力哉作品に惹かれているのだと思います。そんな風に感じさせてくれる作品はそう多くはありません。

いか

今泉力哉って、「人間の関係性や性質を、一段高いレベルで捉えている」みたいな印象だよね

犀川後藤

私は「解像度が高い」って言葉をよく使うんだけど、今泉力哉作品はまさに「解像度が高い」なって思う

私たちは普段、日常生活において、「この人は本当のことを話しているのだろうか?」と感じつつコミュニケーションを取っているはずです。誰かの「発言」を言葉通りにそのまま受け取ることは少ないのではないでしょうか。「嘘をついているかもしれない」「全部が嘘ではないにせよ、ちょっとごまかしがあるのではないか?」「なんとなく本当のことを言っていないような気がする」みたいなことを考えつつ、他者とやり取りすることの方が多いだろうと思います。

しかし一方で、映画でも小説でも何でもいいですが、そのような創作物に触れる際は、「登場人物が口にしたことは、嘘偽り無く本心である」という受け取り方をしているのではないでしょうか。もちろん、ミステリや恋愛ものであれば、「本当のことを口にしていないかもしれない」と疑ってかかることもあるでしょうが、普通は、例えば主人公が「パンダが好き」と発言すれば、観客(なり読者なり)は「そうか、主人公はパンダが好きなんだな」と素直に受け取るはずです。

ただ、「厳密にはその発言が『本心』である保証などどこにも無い」と考えるのが自然でしょう。我々の日常と同様、フィクションの中の登場人物だって、「本心を言っていないかもしれない」のです。しかし私たちは、なかなかそのようには考えません

いか

小説家の森博嗣が何かのエッセイで同じようなことを書いていたはずだよね

犀川後藤

それを読んで「確かにそうだなぁ」と気付かされたところもある

さて、今泉力哉作品はこの点において特異だと感じます。まず、登場人物のセリフが少ないことも関係しているとは思いますが、今泉作品では「何を考えているのかよく分からない人物」がメインで描かれることが多いです。特に最近は、創作物等に対して「共感」を求める傾向が強いと思うので、「何を考えているのかよく分からない人物」をメインに描くことはリスキーと言えるでしょう。それでも、今泉力哉は敢えてそのような方向に物語を展開させていっているように感じます。

さて、「何を考えているのかよく分からない人物」に対しては普通、「本心を口にしている」みたいな感覚にはならないことが多いはずです。だからこそ観客は、最初からずっと「本心を言っていないかもしれない」と疑いの目を向けることになるでしょう。そして、観客がそのようなスタンスで物語を追うことで、本心っぽい何かに触れた時に「『ホントウ』を知れた気がする」という感覚になれるのだと思います。

犀川後藤

しかし、他の今泉力哉作品では、こういうことを考えはしなかったなぁ

いか

映画『アンダーカレント』全体に通底する「人を理解するとは?」っていうテーマあっての実感なのかもね

こういう部分もまた、今泉力哉作品に惹かれるポイントなのだろうと、本作を観て感じました。

映画『アンダーカレント』の内容紹介

関口かなえは、家業である銭湯「月之湯」を長い間閉めていた夫の悟がある日突然蒸発してしまったからだ。銭湯組合の皆で行った旅行の最中、お土産屋さんに寄ったのを最後に、その後の消息がまったく掴めないのである。その日から銭湯はずっと閉めっぱなしだった。しかし失踪から1年が経ち、いつまでもこうしてはいられないと再開を決めたのだ。

再開当初こそ、昔から番台を手伝ってくれていたパートの女性と2人で回していたものの、やはり男手が足りないのはシンプルに大きな負担だった。そんなある日、「月之湯」に隣接するかなえの自宅に、1人の男性が訪ねてくる。銭湯組合から紹介されたらしい堀というその男性は、ここで働きたいとやってきたのだ。住み込みの仕事だと思い込んでいたこともあり、かなえは彼を自宅の一角に住まわすことにした。アパートが見つかるまでの急場しのぎだ。堀は実に無口だったが、仕事ぶりはとても熱心で、未だに薪で風呂を焚く「月之湯」にとっては得難い戦力となった。

別のある日のこと、かなえはスーパーで大学時代の友人・よう子とばったり遭遇する。よう子とはそのままお茶をすることになったのだが、同じゼミにいた悟の話になったため、かなえはまだ伝えていなかった蒸発の話を彼女に伝えた。するとしばらくしてよう子から連絡があり、夫の友人に探偵がいるからと紹介してくれたのだ。やってきた探偵は実に胡散臭い人物だったが、色んな事情からかなえはお金を払う必要がないとのことで、まずは3ヶ月間、夫の調査をお願いすることにした。

そんなかなえには、時々見る夢がある池の近くで、誰かに首を締められている夢だ。かなえは、所要で堀さんと一緒に車で遠出することになった帰り道、その夢の話をするのだが……。

映画『アンダーカレント』の感想

冒頭でも書いたように、他の作品と比べれば「何かが起こる」とはいえ、やはり全体的には「これと言って特別なことが起こるわけではない作品」と言っていいでしょう。それなのに「惹きつけられてしまう」という感覚がやはり強く、観る度に今泉力哉作品の不思議さを実感させられます

犀川後藤

「ジェットコースターのように起伏の激しい物語」ももちろん好きだけど、やっぱり、「何が起こるわけでもないのに惹きつけられる作品」には凄さを感じちゃう

いか

ホントに、作品のどの要素に自分が魅了されてるのか、捉えにくいんだよね

本作はマンガを原作とする作品ですが、映像化したことで1点残念なポイントが生まれてしまったと思います。悟を演じたのが永山瑛太だったので、「悟の失踪に関して、何らかの展開が待っている」と冒頭の時点ではっきり確定してしまうことです。この点は正直、物語が後半に入るまで明らかにならない方がいいと私は感じるのですが、映像作品の場合はどうしたって避けがたいでしょう。

私は北欧や中東で制作された映画を観たりもしますが、そのような作品の場合、役者のことを誰一人として知らないので、「誰が重要な役を担う人物なのか」が分からないまま観ることになります。しかし、特に日本・韓国・アメリカの映画の場合、私でも知っているような有名な役者が出てくると、「その人物が物語に大きく関わる」ことが明確になってしまうのです。この辺りのことは映像メディアの避けがたい欠点だと常々感じています。

いか

もちろん、小説(紙の本)だって、「残りのページ数によってある程度展開が想像出来る」みたいな欠点はあるしね

犀川後藤

クリエイターは常に、そいういう「制約・欠点」がある中でどう物語を紡ぎ出すのかを考えないといけないわけだ

あと、本当にどうでもいいことなのですが、「かなえの友人であるよう子を演じたのが江口のりこ」だということにしばらく気づかなかった自分に驚きました。もちろん江口のりこという女優のことは知っているし、顔も認識していたわけですが、何故か「よう子」とは結びつかなかったのです。中盤を過ぎたぐらいで突然、「あれ? もしかして江口のりこか?」と気付き、その瞬間に、「そういえば、『映画『アンダーカレント』に、真木よう子の親友・江口のりこが出演する』みたいなネット記事を読んだな」という記憶が蘇りました。

江口のりこは「嫌味で厳しい役」を演じている印象が私の中では強かったので、そのことも恐らく関係しているでしょう。本作中の「よう子」はとても物腰の柔らかい雰囲気の女性で、なんとなく私がイメージする「江口のりこ」と結びつかなかったのだと思います。しかし、「主役を演じているのが『真木よう子』で、その『親友』である江口のりこが、『友人』役の『よう子』を演じる」というのもまた、ややこしい話だなと感じました。

いか

ホント、どうでもいい話だね

犀川後藤

自分でもそう思う

最後に

「今泉力哉作品」と捉えると、私はやはり『窓辺にて』『ちひろさん』『街の上で』の方が好きなのですが、いち映画としてはやはり素敵な作品だと感じます。ホント良い映画を作りますね、今泉力哉は

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