【純真】ゲイが犯罪だった時代が舞台の映画『大いなる自由』は、刑務所内での極深な人間ドラマを描く

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「大いなる自由」公式HP

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この記事の3つの要点

  • 98%が刑務所内で展開される物語だが、刑務所外で描かれるラストシーンがとにかく衝撃的に素晴らしかった
  • 3つの時代の時系列をシャッフルして描き出す物語であり、「後の時代を先に描く構成」であるが故の驚きにも満ちている
  • 刑務所内における主人公2人の人間関係の描写が白眉

『静かに淡々と描かれる起伏の少ない物語だが、絶妙な展開も驚きのラストシーンもすべてが素敵な見応えのある作品

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ゲイが犯罪として取り締まられていた時代のドイツを描く映画『大いなる自由』は、タイトルが示す「皮肉」が絶妙な、とても素晴らしい物語だった

もの凄く良い映画だった。正直、観ようかどうしようか迷っていた映画で、どちらかと言えば観ない可能性の方が高かったと言っていい。しかし、公開最終週にギリギリで観てみたところ、ちょっと震えるほど素晴らしい映画で、本当に観て良かったと思う。こんな傑作を危うく見逃すところだった

良い意味で予想外だった展開と、素晴らしいの一言に尽きるラストシーン

映画『大いなる自由』は、全体の98%が刑務所内で展開される作品だ。そしてラストシーンで、少しだけ刑務所外のシーンが描かれる。私は正直、この刑務所外のシーンが始まった時、「刑務所内だけで物語を完結させても良かったのではないか」と思ってしまった。物語がどんな帰結を迎えるのかまったく想像出来ていなかったので、「この物語に『刑務所外』の要素を入れ込む必要があるのだろうか」と感じたのだ。

しかし、その感覚はまったくの誤りだった。この映画は、何よりもラストシーンが素晴らしすぎるからだ。このラストシーンを体感した後、物語全体を振り返ってみることで、なんというのか「とんでもない物語に触れた」という感覚になれるのではないかと思う。最近は、結末を曖昧にしたり、観客に委ねたり、「そんなところで終わるの?」という展開にしたりする映画が多い気がするが、「久々に震えるようなラストシーンに出会えた」と感じた。

また、タイトルになっている「大いなる自由」というフレーズもとても良い。98%が刑務所内で展開される映画なのだから、普通に考えれば「自由」とは程遠いと感じざるを得ないだろう。実際にその通りで、この物語には「自由」なんてものは無いに等しい。しかし、物語を最後まで追うことで、「大いなる自由」という言葉の意味が反転するような衝撃がもたらされる。原題(の英訳)も「Great Freedom」であり、「大いなる自由」は原題の直訳と言っていい。まさにこれしかなかったと感じさせられるタイトルだった

さて、ラストシーンについてはこれぐらいにして、もう少し全体の内容に触れることにしよう。まず私は、映画を観る前の時点で、「ゲイが法律で禁止されていた時代の物語」だということは理解していた。鑑賞前の時点ではこの程度の知識しかなかったが、鑑賞後に公式HPの記述を読んでさらに状況を理解したので、まずはその辺りの歴史的事実に触れておこう

ドイツでは、1871年から1994年まで、「ドイツ刑法175条」と呼ばれる法律が存在した。1994年という、かなり最近まで存在していたという事実にまずは驚かされるだろう。俗に「175条」と呼ばれていたこの法律は、「男性の同性愛を禁じる」ものだ。主人公の場合は、25年間の間に3回、合計で恐らく6年ほど刑務所に入れられていた。そのような時代の話である。ちなみに、女性の同性愛については、その存在さえ否定されていたこともあり、法律に明記されていなかったという。女性の同性愛が発覚した場合にどのような扱いになっていたのかは不明だが、少なくともこの「175条」は、男性のみを対象とした刑事罰というわけである。

さて、そんな「ゲイを規制する法律があった」という事実しか知らずに映画館に行ったので、観る前のなんとなくの予想では、もっと「175条」が前面に描かれるような内容になるのだろうと漠然とながらイメージしていたというわけだ。

しかしその予想は、良い意味で大きく外れたと言っていいだろう。

鑑賞中、しばらくの間、この映画が何を描こうとしているのかまったく分からなかった冒頭から中盤ぐらいまでは、175条を理由に収監されたゲイの男性の辛い境遇が描かれていくのだが、それらの描写がどこへ向かおうとしているのか、上手くイメージ出来なかったとのだ。しかし、中盤から後半に掛けて、徐々にその輪郭が明らかになっていき、そしてラストシーンで一気に立ち上がるという構成になっているのである。

175条は「主人公が置かれた境遇に否応なしに付きまとうもの」として描かれはするが、正直、それ以上でもそれ以下でもないという感じの扱われ方だった。より重要なのは、刑務所内での人間関係の方である。「175条によって収監された」という事実はもちろん、主人公の刑務所生活にも一定の影響を与えるのだが、175条が物語の中心になったりはしないというわけだ。

限られたセリフのみで描く、ほとんど起伏のない展開の物語なのだが、刑務所というかなり特異な環境の中で育まれる人間関係を静かに淡々と描き出す物語は、観る者を圧倒するのではないかと思う。

1945年、1957年、1968年の3つの時代を描く物語

映画では、3つの時代が描かれる。まずは、ざっくりと物語の設定を紹介しつつ、3つの時代がどのように描かれるのかにも触れておこう

最初に描かれるのは1968年である。この時点ではまだ観客には知る由もないが、主人公のハンスは175条を理由に3度目の逮捕と相成った。そして刑務所内で、ヴィクトールと再会を果たす。彼らが、「俺のことが待ち遠しかったか」「お前のナニがな」というやり取りをするため、観客はヴィクトールもゲイなのだろうと考えるが、しばらくするとそうではないことが明らかになる。そんなある日、ハンスは中庭でちょっとしたトラブルを起こしたことで、懲罰房行きを命じられてしまった。しかし、既に何度も懲罰房を経験しているハンスは、特段抵抗することもなく大人しく収監されていく。

続いて、時代は1945年に遡る。この年、ハンスとヴィクトールは初めて顔を合わせた。初の逮捕で勝手の分からないハンスと、既に刑務所生活が長かったヴィクトールとの邂逅である。その後、1957年へと時代が移っていく。そしてそれ以降は、1945年、1957年、1968年の描写が錯綜する形で物語が展開されるというわけだ。

それぞれの時代の描写の最初こそ、画面の上部に「1968年」「1945年」「1957年」と表記されるのだが、あくまで最初だけでその後は表記されはしない。つまり刑務所という、変化がなく、個性を発揮することも許容されない環境の中で、映し出される描写が3つのどの時代のものなのか観客自身で判断する必要があるというわけだ。しかし、登場人物の風貌や刑務所内の様子が時代ごとに変わるので、混乱することはないだろう。その辺りは、実に上手く作られていると言っていいと思う。

さて先程、「175条は物語の中心にはない」と書いたが、「ハンスがゲイであるという事実」は非常に重要な要素として扱われる。刑務所内の人間関係(当然、男しかいない)において、ハンスの性的嗜好は様々な意味で重要な役割を担うのだ。

そして映画『大いなる自由』においては、「ハンスがゲイであるからこそ展開される物語」がとにかく素晴らしかった。特に、1957年の描写を観た後で、改めて1968年の物語を思い返してみると、ハンスの「愛情の深さ」みたいなものが良く理解できると思う。最初に描かれる1968年の物語ではよく分からなかった点が、1957年の描写によって理解できるようになるのだ。そしてそれらから、ハンスの「こんな風に生きざるを得ない」という覚悟みたいなものも感じさせられるのである。この辺りの描写もとても良かった。

さて、この流れで1つある話に触れておこう。映画を観ている最中にはまったく気づかなかったのだが、感想を書くにあたって鑑賞中に書いたメモを読み返していた時にふと思いついたことである。確か1968年の話の中に、ハンスが聖書を真剣に見つめているシーンがあったはずだ。もしこれが、1957年の描写を踏まえなければ理解できない場面だとするなら、「『届くはずのない返信』を読んでいたシーン」なのではないだろうか。観ている時には重要な場面だと思わず気にも留めていなかったのだが、もし私の仮説の通りだとするならもの凄く良いシーンだと思う。私のこの記事を読んでくれている人の中で、まだ映画を観ていないという方がいれば、ちょっと注目していただきたい場面である。

この聖書のシーンに後から気づいたように、この物語には恐らく、私がまだまったく気づいていないような要素が様々にあるのだと思う。後の時代の話を先に描くという構成になっているため、どうしても見落としてしまうのだ。「物語全体の流れを理解した上でもう1度観たい」と考える人もきっといるんじゃないかと思う。

何よりも、ハンスとヴィクトールの関係が白眉

さて、『大いなる自由』においてはやはり、ハンスとヴィクトールの関係性の描写こそが白眉だと言っていいだろう。先程書いた通り、ヴィクトールはゲイではない。というかゲイを忌み嫌っているようで、1945年に初めてハンスと出会った時にもその感覚は溢れ出ていた。ハンスと同室に決まったヴィクトールが、「変態と同じ部屋なんか御免だ」と言ってハンスを追い出そうとするのだ。部屋の前のネームプレートには、受刑者の名前と共に収監理由となった法律の条文番号が書かれている。ハンスの場合は当然「175条」と掲示されているというわけだ。それを見てヴィクトールが激昂したのだから、当時「175条」という法律がどれほど広く知られていたのかが理解できるだろう。

そんなわけで、ハンスとヴィクトールの出会いは最悪だった。さらにその後も、決して関わる時間が長かったわけではない。

1945年こそ、同室だったこともあり、彼らが関わりを持つ時間は長かったと言えるが、1957年と1968年はそうではない。「相部屋である」という状況を除けば、刑務所内で他人とコミュニケーションが取れる機会は、中庭に出た時ぐらいだからだ。しかもヴィクトールは、「ハンスと一緒にいるところを他の奴に見られて、自分もゲイだと思われたら面倒だ」と考えているので、中庭でも積極的にハンスと関わろうとはしないのである。

普通に考えれば、この2人の時間は交わるはずがないのだ。

しかし、「ハンスがいつ入所してもそこに居続けるヴィクトール」と、「刑務所内でもゲイとしての愛を貫こうとするハンス」の2人は、様々な理由から意識的に、あるいは偶発的に関わりが深まっていき、結果として彼らは、なんとも表現しようのない関係性へと突き進んでいくことになる。

この関係が実に素晴らしい

まだこの映画を観ていない人で、「ゲイの映画かぁ」と躊躇している人がいるなら、その先入観を乗り越えて是非観てほしいと思う。確かに、「ハンスがゲイである」という事実は物語の根幹を成すが、しかしこの物語が描こうとしている本質はそこにはないからだ。本質は、タイトルにある通りまさに「自由」であり、彼らの関係を通じて「本当の自由とは何か?」と問いかけられることに意味があるのだと私は感じる。何を「自由」と感じ、どんな「自由」を求めたいのか。映画を観ながら深く考えさせられるだろうと思う。

その他、映画を観ての感想

印象的なシーンが非常に多い映画だったが、驚かされたのは「懲罰房」のシーンである。何故なら、主人公が懲罰房に入れられている間、画面は何も映らない真っ暗な状態が続くからだ。もちろん、タバコに火を付けたり、ドアの小窓が開けられて光が差し込んだりと、自然な流れの中で「光」が現れれば主人公の周囲も明るく灯される。しかし「光」が無ければ、潔く真っ暗なままなのだ。

このような場合、よくあるのは、暗い青色のような照明にして、主人公の表情を捉える演出だろう。しかしこの映画では、「光が存在しない場面では、何も映さない」というスタンスを徹底している。どんな意図でそのような演出にしているのかは分からないが、この描き方によって、ハンスの「頑固さ」みたいなものが一層強調されているように私には感じられた。

あと、これは私の勘違い(あるいは深読みのし過ぎ)の可能性はあるが、ほぼ全編がドイツ語で展開される物語において、私の記憶では1箇所だけ英語で発音されるセリフがあった。別に英語を聞き取れたわけではなく、字幕の日本語が<>付きだったのでそう判断したにすぎない。普通に考えれば、セリフを英語にしなければならない必然性はまったくないシーンである。それなのに英語になっていたということは、「ハンスには英語に聞こえた」という演出なのではないかと考えたのだ。

その英語のセリフが出てくるシーンについて詳しくは触れないが、ハンスにとってはまさに「自由」に直結する場面と言っていい。そして、まさにその「自由」が実現される瞬間だけ英語のセリフになっていたことが意図ある演出であるならば、映画『大いなる自由』における「自由」というテーマをより際立たせるものなのだろうと思う。まあこの点については、まったくの勘違いでしかない解釈かもしれないが。

説明的な描写が少ないこともあって、このようにあれこれと深読みしたくなる作品でもあると言える。「何を描こうとしているのかよく分からない」と感じさせる状況が、静かに淡々と展開されるため、「気づけていない要素があるはずだ」という感覚を捨てきれないのだ。

それにしても、刑務所内という、人間関係も設定もドラマ性も何もかもが制約され得る物語の中で、これほど深く思考を促すような展開を組み込めているのはとても素晴らしいことだと思う。さらにその物語を、役者たちが実に見事に演じていることもあり、とにかくグッと来る。派手さは無いが、意外なほどに見応えがある作品だと言っていいだろう。

最後に

「曲のイントロやギターソロは飛ばす」「映像は倍速で観る」といったタイパ的行動が当たり前になった現代においては、『大いなる自由』のような映画はなかなか受け入れられないかもしれない。展開は実に遅く、何が描かれようとしているのかはっきりせず、起伏がほとんどないまま進んでいくからだ。

しかし、まさにこの映画は、最後まで観ることで、それまでのすべての描写がもう一度立ち上がってくるような感覚が得られる作品なのである。こういう作品には、久しぶりに出会ったように思う。タイパ的な発想では取りこぼしてしまう傑作と言えるだろう。

今からは考えられないほどの差別的な時代にあって、その凄まじい現実をどのように生きたのか。その圧倒的リアリティを体感してほしい。

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