【価値】どうせ世の中つまらない。「レンタルなんもしない人」の本でお金・仕事・人間関係でも考えよう:『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。』

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

読む前は正直ナメてましたが、久々に脳が沸騰するほど興奮させられた、衝撃の一冊です

犀川後藤

あまりに感動して書きたいことが多いので、この記事は引用文含めて1万6000字を超えています

この記事の3つの要点

  • 「レンタルなんもしない人」についてほとんど何も知らないまま本書を読んだが、その斬新さにメチャクチャ驚かされた
  • それまで可視化されてこなかった新たな「需要」を喚起したことによる、お金・仕事・人間関係についての新たな捉え方
  • 「私が思いついて始めれば良かった」と感じたほど、「レンタルなんもしない人」の活動は私にも物凄く適性があると思う
犀川後藤

「レンタルなんもしない人」の存在と活動には賛否渦巻きますが、私はとても素晴らしいと感じています

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「レンタルなんもしない人」の発想と思考に脱帽。ナメてたけど、『<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。』はメチャクチャ面白い本だった

正直言って、本書『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと』のことは、ちょっとナメてました。現在では1万円の料金が掛かるそうですが、本書出版時点では「『何もしない自分』を0円で貸し出す」というスタイルを貫いていた「レンタルなんもしない人」。SNSを中心に大いに注目を集めたので、その話題に乗って出版されただけで、大した内容の本ではないだろうと思っていたのです。

いか

それでも読んでみたんだね

犀川後藤

やっぱ何かしら、自分の中に引っ掛かる部分があったんだろうなぁ

元々私は、「『レンタルなんもしない人』がネットで話題になっている」ということは特に知らず、書店員時代に彼のデビュー作『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』が出版されたことで、その存在を知りました。ちなみに、デビュー作の方は未読です。なので、この記事で紹介する『〈レンタルなんもしない人〉というサービスをはじめます。』を読み始めた時点ではほぼ何の情報も持っておらず、それこそ知っていたのは「『何もしない自分』を0円で貸し出す」ぐらいだったと思います。

著:レンタルなんもしない人
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しかし、そんな「なんだか分からない活動」を通じて、著者が様々なことについて非常に深く思考していることを、本書を読んで知りました。著者は本書の中で、「大体後付の理由だ」みたいなことを書いています。つまり、活動を始めた当初からあれこれ考えていたわけではないということです。しかしだとしても、前例のない活動によって、「存在するとは誰一人想像もしなかった『需要』」に気づいたという点は、非常に大きいと感じます。

「話題になった人の本を急造で出した」みたいな内容ではまったくなく、生き方を再考させられるような、そんな驚きに満ちた作品だと思いました。

「レンタルなんもしない人」の活動は、私が思いつき実行しても良かった

「レンタルなんもしない人」については、賛否両論が様々に存在することを知っているので、まずは私の立場を明確にしておきたいと思います。本書を読みながら、私がずっと感じていたのは、「この本、私が書いたんだっけ?」ということでした。つまり、「自分が書いたと錯覚するぐらい、私が元々持っているスタンスに近いと感じる内容だった」ということです。

いか

ホント、割と独自のスタンスで社会と対峙してるもんね

犀川後藤

正直なところ、誰かにそんな風に受け取ってもらえる機会があると凄く嬉しい

私がこれまでやってきたこと、やってはいないけどやりたいと思っていたこと、自分の見せ方、様々な場面での行動基準などなど、すべてとは言いませんが、私が生きる上で指針としてきたスタンスと、「レンタルなんもしない人」のそれは、非常に近いものがあると感じました。

一例を挙げるために、「レンタルなんもしない人」が「模倣者」(自身の活動を真似する者)に対して抱いていた感想を引用してみたいと思います。

新鮮味を感じていたが、一方で違和感も抱いていた。それをあえて言語化するなら「なんか、いいことしようとしてない?」みたいな感情だ。別の言い方をすれば、若干の偽善的な感じ、どこか押し付けがましいのだ。

後でも触れますが、「レンタルなんもしない人」は「『良い人』と思われること」にかなり抵抗します。「0円で引き受ける」ため、「良い人」だと思われがちだそうですが、彼にはそんなつもりはまったくありません。そしてその上で、「『レンタルなんもしない人』の活動を『タダで良いことをする』という風に受け取った『模倣者』」に対しては、なんとなく違和感を覚えてしまったというわけです。

いか

「良い人」に見られるの、嫌いだもんねぇ

犀川後藤

なんか、「気持ち悪い」って感じになっちゃうんだよなぁ

実際のところ私は、「レンタルなんもしない人」の活動ができるだろうと感じています。「できる」という書き方をしたのは、本書を読む限り、「レンタルなんもしない人」の活動にはある種の「適性」が必要そうだからです。そして私には、その適性があるような気がしています。見出しに「私が思いつき実行しても良かった」と書いたのはそういう意味です。自分にも「適性」があったのに、どうしてやらなかったんだろうという、一抹の「後悔」みたいなものも感じさせられました

ただ一点だけ、私にはどうにもならない「適性」があります。それについて触れている部分を引用してみましょう。

これといって、人に話せる特技も能力もない僕が「レンタルなんもしない人」というサービスに向いているのは、これはいわば外的な要因になるのだが、妻と子供がいることも非常に大きい。要するに、依頼者側としては「家庭を持っている人間なんだからおかしなことはしないはずだ」「きっとヤバイ人ではないのだろう」といった安心感が得られるようだ。実際にそういってくれる依頼者もいたし、僕自身も折に触れて「35歳、妻子持ち」という情報をツイートすることにしている。

確かに、「妻子持ち」という条件は、依頼するハードルを下げる1つの要素になるでしょう。私は妻も子もいないので、この条件だけはクリアできそうにありません。しかし、「妻子持ち」がよく「0円で依頼を引き受ける」なんていう活動が出来るものだ、とも感じます。私はネットの情報しか知らないのであまり踏み込みませんが、彼は奥さんと別居している、なんていう話もあるようです。その辺りのことは、「家族の形」の問題なので、他人がどうこう言うべきではないと思いますが、いずれにせよ、「かなり特殊な環境故に成立し得た活動」だとは言えるでしょうか。

いか

「貧困状態を強いてる」とか「暴力を振るってる」とかでない限り、本人同士がOKなら「家族」なんて別になんだっていいよね

犀川後藤

当人がSOSを発してるなら助けるべきだけど、最近は、外野が勝手に騒ぐことが多い気がしちゃう

それでは、そろそろ内容に触れることにしましょう。本書は副題にある通り、「お金」「仕事」「人間関係」についてそれぞれ思考を展開しています

お金」については、

「レンタルなんもしない人」を通して、僕はお金について、実にいろいろな価値観に触れた。

と。

仕事」については、

再三にわたり断っている通り、僕はボランティア精神というものを持ち合わせてはいない。けれど、この「レンタルなんもしない人」のサービスを通して、世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがあるのだということがわかった。

と。

そして「人間関係」については、

にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと。

という風に本書には書かれています。それぞれどういうことなのか、細かく見ていくことにしましょう

いか

さっきも書いた通り、大半が後付けの説明だとしても、ちゃんと思考を深めているところは素晴らしいね

犀川後藤

「ただ面白いから続けてる」でも別に全然いいけど、「普遍性を感じさせる価値」まで昇華してもらえるとより素敵だわ

「お金」を追い求めない方が、結果的にプラスになるのではないか

本書に書かれている中では、やはり「お金」に関する話が一番興味深かったです。例えば、「お金を取らない」という判断についてはこのように書いています(本書はあくまで、サービスを有料化する前に出版されたものであることを留意して下さい)。

先ほど、「レンタル料をもらおうと考えたこともあった」といったけれど、考えようとしてすぐにやめたので、実際はほぼ俎上にも載らなかった。たとえば「1時間あたり1000円」とか、具体的な数字を検討するところまでいかずに、ほとんど一瞬でやめた。
もともと僕は「時給」という概念があまり好きになれないというか、自分の時間とお金を交換してもらっているような感覚が率直にイヤだった。まるで自分が奴隷になった気がしてしまうのだ。

凄く分かるなぁ、という感じがしました。

また自分の話をしますが、私はこれまでまともに就職したことがなく、正社員だったこともありません。就職活動も転職活動も何もせず、あちこちフラフラと仕事は変わりながら、どうにかこうにか生き延びてきました。自分でも、まあよく生きているもんだという感じはします

いか

どこかの時点で人生が立ち行かなくなっても全然おかしくなかったもんね

犀川後藤

今もそのリスクは継続中って感じだけど

そんな私も昔から、「お金を稼ぐ」ということにさほど価値を見い出せずにいます。もちろん、「生活のためのお金は必要」ですし、「お金はあるに越したことはない」とも考えていますが、「お金を稼ぐ」のはあまり乗り気になれない、というか「つまらないなぁ」と感じてしまうのです。また、「お金」よりも「時間」の方が大事だとも考えているので、「時間とお金を交換するのが嫌」という感覚もあります。「時間」という貴重なものを差し出して、「お金」という貴重ではないものを得ているという感覚に、どうしてもなってしまうのです。たぶん著者も似たような感覚を持っているのでしょう。

また、こんな風にも書いています。

なにか行動を起こすときも、ふつうなら「お金」のことに思い至りやすい。しかし、だから新しいものがなかなか生まれないのでは、と思う。最上段にそれを掲げてしまうと、すごくつまらないことしかできないし、ストレスなく生きていくために求めていたはずが、かえってストレスを抱える要因になるという本末転倒を起こしかねない。だからお金はいったん脇に置く。すると、いまの活動に限っていえば、新しい面白さにつながっている。それはやがて、お金を生み得るものになるのではとも思う。依頼者から料金をもらってしまうとその流れは小さく完結してしまう、と本書の冒頭でいったのも、ここに関わっている。お金というわかりやすい価値尺度をいったん手放すことで、お金を介在させた既存のサービスにはない多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性が生まれるのではないか。

これは非常に現代的な感覚ではないかと思います。著者も私も1983年生まれで、いわゆる「Z世代」と呼ばれる年齢ではありません。ただ、著者のこの「お金のことをいったん脇に置く」というスタンスは、むしろZ世代の方が馴染みやすいのではないかと思います。あらゆるサービスが無料だし、また何か発表する場合も、自分の創作物を公開するツールが様々に揃っている環境においては、「まずは無料で世の中に出してみる」というスタンスの方が自然でしょう。というか、「お金を介さずに始めることで、最終的により多くのお金を手にできる可能性を広げる」と言ってもいいかもしれません。著者はそのようなことを考えて「0円」と決めたわけではないのですが、結果としてそのような効果があったのではないかと思います。

いか

しかも絶妙なのは、「0円であること」の理由が説明無しで伝わるってことだよね

犀川後藤

「何もしないから0円ですよ」っていうのは分かりやすいし、「無料なのはなんか怪しい」みたいな思考も回避できそう

僕が会社勤めしていたころは、「やりたいことではないけれど、お金のために働こう」と思ってみたこともあったが、それを継続するのは難しかった。そしてそのあと、一時的に仮想通貨を手にした。すぐに飽きて手放してしまったけれど、それまでは「お金=労働の対価」という価値観しかなかったところに、それ以外でもお金が発生するところがいっぱいあるんだ、ということを知った。その変遷があり、いまの「なんもしない人」に辿り着いている。お金がないとできないこともあるけれど、お金をあきらめたことでお金以外のものが手に入るようになったし、お金とは、結局のところ便利で使いやすツールにすぎないということもわかった。

「お金」は「客観的に比較可能な価値基準」の1つなので、どうしてもそれを追い求めてしまいたくなることもあるでしょう。ただ、あくまでもそれは「『価値基準の1つ』に過ぎない」わけです。私の場合は、「お金」という「価値基準」で”しか”物事を判断できない人にはなかなか興味を持てないし、そういう考え方が当然とされる世界はしんどく感じられます

著者も、そういう思考回路の人に捕まることが多かったようで、それを踏まえた上で「自身の活動」についてこのようなツイートをしたことがあるそうです。

人類の営みをすべて「飯の種」と捉えなければ気が済まない思考回路っぽい人には「自分はライター業をやっていて、今は取材に集中している段階と言える。交通費や諸経費の負担なしにいろんな経験ができるんだから、取材のやり方としてうまいでしょ」みたいに説明してます。

いか

この説明は絶妙だよね

犀川後藤

確かに、外形的にはまさにそのように受け取られる行為をしてるもんなぁ

これは別に著者の本意ではないのですが、しかしこんな風に説明することで、「『お金』という『価値基準』でしか物事を判断できない人」を上手く納得させられるというわけです。このような考え方もまた、「レンタルなんもしない人」という活動を通じた著者の「深い思考」によるものと言えるのかもしれません。

「仕事」として成立する、思いがけない需要を確認できた

本書における「仕事」の話は「需要」に関係します。「世の中にはこのような需要が存在する」ということが、「レンタルなんもしない人」の活動によって浮き彫りになったという点が非常に興味深いと感じるのです。

これまで「レンタルなんもしない人」が受けた依頼について、本書に載っている例をまずはいくつか挙げてみることにしましょう。

  • マラソンのゴール地点に立っていてほしい(ゴールに誰かいてくると思うと完走できそうな気がするので)
  • 「レンタルなんもしない人」との予定があることにして、ドタキャンしてほしい(その日招待されている結婚式に行きたくないので)
  • 女子大生になり切って、1日を満喫してほしい(「もう1人の自分がほしい」という女子大生からの依頼)
  • 自分が証人として出廷する裁判を傍聴してほしい
  • 朝6時に「体操着」とDMを送って欲しい(持っていくのを忘れないように)
  • 通りがかった人のフリをして、愛犬をめちゃくちゃ可愛がってほしい

いかがでしょうか? 「なんじゃそりゃ?」という依頼もありますが、理由も合わせて捉えると、「なるほど」と感じられるのではないでしょうか。

犀川後藤

「女子大生になりきって~」っていう依頼は、ちょっと凄いなぁって思った

いか

依頼人のクリエイティビティが高いって感じするね

面白いのは、「これまでこれらの『困りごと』はこれまで可視化されてこなかった」という点です。「マラソンのゴール地点に誰か立っててくれたらもうちょっと頑張れる気がするんだけどなぁ」と思っていても、それを引き受けてくれそうな人が周りにいなければ、「自分がこのような『需要』を抱えている」と口にすることさえないでしょう。つまり、「存在していたが見えない状態にあった」というわけです。

また、「レンタルなんもしない人」が引き受ける依頼の中には、「身近な人には頼みにくいこと」も多くあります。例えば、「証人として出廷する裁判を傍聴してほしい」というのは、なかなか自分の周りの人には頼みにくくないでしょうか? それが何の裁判であれ、「裁判」というだけで「なんか悪いことに関わっていたのか」みたいなイメージを与えかねないからです。また、「お金を払うほどではないかもしれないけれど、かと言ってタダでやってもらうのも忍びない」という絶妙なラインであるとも言えるでしょう。そういう点でも「需要」として認識されていなかったというわけです。

しかし、「レンタルなんもしない人」が登場したことで、「世の中にはこのような『需要』が存在する」ということに多くの人が気付かされました。これは非常に興味深いポイントだと感じます。既に可視化されている「需要」に対してサービスを提供するのはビジネスの王道でしょうが、「誰も望んでいたわけではないけれども、生み出されたら便利で手放せない」なんていうものも世の中にはたくさんあるはずです。例えば「携帯電話(スマートフォン)」はまさにそういう存在と言えるでしょう。本当かどうかは分かりませんが、「未来世界を描くSF作品に『携帯電話のようなもの』が登場したことはない」なんて話もあります。「口頭でのやり取り」だけであれば無線などが昔からあったわけですが、「携帯電話(スマートフォン)」のような機能を持つものは、フィクションの世界でさえも想定されていなかった可能性があるのです。

しかし私たちはもう、「携帯電話(スマートフォン)」の存在しない世界には戻れないでしょう。まさにこれは「可視化されていなかった『需要』」だと言っていいと思います。

いか

そもそも私は、「醤油」「味噌」「納豆」とかを最初に作った人も凄いなって思うけどね

犀川後藤

もっと言うなら、「人類で初めて火を熾した人」も凄いよなぁ

「可視化されない『需要』」は普通、それを解決する「何か」が登場して初めて気付かされるものでしょう。「携帯電話(スマートフォン)」が発売されたことで、初めて「それを必要としていた」と気づくようなものです。しかし「レンタルなんもしない人」の場合は、「0円で何もしません」という特殊な存在をアピールすることによって、その「可視化されない『需要』」を炙り出しました。これはなかなか特異な状況と言っていいでしょう。

また著者は、こんなふうにも書いています。

実際にスタートしてみると、僕に対する支払いが生じないぶん、あるいはタダで僕の時間を拘束しているという気遣いからか、知恵を絞ってレンタルされがいのある、ユニークな依頼をしてくる人も少なくなかった。

これも感覚として理解できるのではないかと思います。「タダでやってもらうのだから、少しでも興味を感じてもらえる、面白がってもらえるような依頼の方がいいだろう」と依頼側が考えることで、一層「普通なら可視化されない『需要』」が表に出る機会になっている、というわけです。

それがどんな商売であれサービスであれ、「需要」が存在しないものを扱ってもまったく無意味でしょう。しかし「需要があるかないか」はやってみなければ分からない部分も大きいはずです。だからこそ、「可視化されない『需要』」が炙り出される「レンタルなんもしない人」の活動は、「ビジネス的な観点」で捉えても非常に興味深いだろうと思います。

いか

全然話は違うけど、「カーシェアの車を個室として利用する」っていうのがちょっと問題になってたりするよね

犀川後藤

利用時間で料金が決まるみたいだから一応問題は無さそうだけど、とにかく「そんな需要があったのか」って感じだったわ

そして、この「『需要』を可視化する」という機能は、「無料」だからこそ実現したと著者は考えています。というのも、「無料」にすることで、「『なんもしない』ことの価値」がよりはっきり見えるようになるからです。

お金が介在すると、やりとりは単純にわかりやすくなるけれど、「なんもしない」ことそのものの実際の価値が見えにくくなるようにも思う。お金のほうに引っ張られて、軸足がずれていくような。だったらそういうスイッチはあらかじめ存在させない、つまり無料にするのが妥当なのだろうという結論にいたった。無料のサービスなら僕も開き直って「なんもしない」でいられるだろうし、依頼者側も「どうせタダだし」と、このサービスに多くを求めることはないんじゃないか。たとえ1000円でも報酬があったら、「自分はお客さんだ」という意識が生まれやすくなるだろう。

「レンタルなんもしない人」の活動における「需要」は、基本的に、「なんもしないこと」が炙り出しています。つまり、「なんもしないこと」に意味があるということになるはずです。しかし一般的には、「なんもしないこと」に価値があるとは思われていません。だから、「なんもしないこと」に値段をつけてしまうことで、「なんもしないこと」をし続けるのも「なんもしないこと」を享受するのも難しくなる可能性が生まれます。「お金をもらっているのになんもしなくていいのかな」とか「お金を払っているのになんもしてくれないのは嫌だな」という感覚が生まれる余地があるからです。一方、料金がタダであれば、双方が「なんもしないこと」を気兼ねなく諒解することが出来るでしょう。そしてそのことが「なんもしないこと」そのものの価値を明確にさせたというわけです。

犀川後藤

この指摘はすげぇ納得感があったなぁ

いか

確かに、「お金を払ったら何か見返りがほしい」みたいな気持ちはどうしても生まれちゃうもんね

「可視化されない『需要』」を捉える手段として、「0円でなんもしない」というやり方が実に適切であったことが理解できるだろうと思います。

さて、「仕事」に関する話として、「0円で行うことでボランティアだと思われる」という側面についても取り上げましょう。先程、「ボランティア精神は持っていない」という趣旨のツイートを引用しましたが、さらに著者は、

人のために善意でやってるわけではないので、ボランティア活動ではありません。お金を多めに渡されたらためらいなくもらったりしてますし、誰かお金持ちが大きな額を無条件に出資してくれないかなとかも思います。

という自身のかつてのツイートを引き合いに出して、こんな風に書いています。

ここは誤解してほしくないのだけれど、僕は無料だからといって、ボランティアでやっているつもりは一切ない。事実、誤解を避けるために過去に右のようなツイートをしたことがある。
別に好きでボランティア活動をしている人を貶めたり、否定したりする気はまったくない。だけど僕は、「ボランティア」という言葉からは、かなり純度の高い善意を期待されているという圧力みたいなものをすごく感じてしまう。だから仮にボランティアを謳っていたら、依頼の内容や顛末を報告するツイートもなるべく品行方正な感じで、いちいち美談にしなければならないような義務感を覚えていたんじゃないだろうか。
それらの期待を弾くために、「レンタルなんもしない人」をボランティアだと勘違いしていそうなツイートを見かけたら、積極的に否定して回っている。
むしろ、僕は自分が善人に見られることは極力避けたいと思っている。なぜなら自分はまったくもって善人ではないし、善人であることを期待されたくないから。だからお涙ちょうだい系だったり心温まる系だったりするツイート(結果的にそういう感じになった依頼の報告)が増えてしまうと「ヤバイ。これ善人っぽい」と思って、あえてネガティブだったり露悪的だったりするツイートをしてバランスをとったりしている。

この辺りの話は「人間関係」にも繋がってくる部分ですが、非常によく理解できました。

犀川後藤

私も、自分の見せ方を割と細かく調整することで、「どう見られたいか」をかなり意識的に整える意識は持ってる

いか

そういう話を誰かにしてみると、「そんなことしてるの!?」って驚かれたりするよね

著者は、そのような調整によって、

「レンタルなんもしない人」をレンタルする顧客層を、自分の想定する顧客層に近づけたいという意図もある。

みたいなことも考えているようで、これもまたとても良く理解できる話です。お金をもらってやっているならともかく、タダなのだから、「自分が面白い/興味深いと感じられるか」が一番重要な要素になるでしょう。であれば、「ボランティア」「良い人」だと思われて、それを期待するような人が集まってくるのは最悪でしかありません。そういう意味でも、著者の「調整」は非常に大事だと思うし、「無料でやっているが、これはボランティアではなく仕事である」というスタンスを示し続けることの重要さも感じさせられました。

「レンタルなんもしない人」として活動するからこその特殊な「人間関係」

「人間関係」についての話ではまず、私が昔からずっと考えてきたのとまったく同じ感覚について触れられている部分を抜き出してみたいと思います(引用中の「Aさん」は、ある依頼者のことです)。

世の中的には、名前が付いたほうが安心できる場合がほとんどではないかと思う。「友達」にせよ「恋人」にせよ「夫婦」にせよそうだろう。しかし一方で、関係が固定されてしまうと、それに伴う息苦しさも生じてくるんじゃないか。「友達だから、相談されたらなにかアドバイスしなきゃ」とか。つまりその関係に名前が付いてしまうと、付いた名前に見合うなにかをしなければならなくなるし、付いた名前に見合う期待を背負わされてしまう。だから、もしAさんと僕が「友達」だった場合、今後一切連絡を取らなくなったりしたらそれなりの気まずさは残るかもしれない。でも、別に「友達」じゃないからそんなことは気にしなくていいはずだ。

いか

「メッチャ分かる!」って感じの文章だよね

犀川後藤

これこそホント、私が書いたんじゃないかって思うような文章だった

私も昔からずっと、「名前の付かない関係がいい」と考えてきました。この話については、『君の膵臓をたべたい』『うみべの女の子』の記事に詳しく書いたので是非そちらを読んでください。

誰かとの関係性が生まれる場合には大抵、そこに何らかの「分かりやすい名前」がついてしまうものです。しかし、「レンタルなんもしない人」の場合そうはなりません。確かに、「これは仕事である」という著者のスタンスからすれば、「依頼主と請負人」という関係だと言えるかもしれませんが、しかし「金銭が発生していない」ので、その感覚は大分薄れるでしょう。そして、それ以外のどんな関係にもなかなか当てはまらないだろうと思います。だからこそ「身近な人には言いにくい依頼」も頼めるし、また「レンタルなんもしない人」も居心地の良さを感じていられるというわけです。

犀川後藤

「名前の付かない関係性」を何よりも望んでいる私にはメチャクチャ良いなって思った

いか

「名前の付かない関係性」って、ホント成立させるのが難しいからね

また、「レンタルなんもしない人」との関わりは、「そこそこ長く付き合った友達」のような感覚を与えるという指摘も、非常に興味深いと感じました。

こないだ依頼者が「友達ならこうやってとりとめもなく話したり沈黙が続いたりしても大丈夫な間柄になるまでには何年もの時間とその分のお金がかかる。でもなんもしない人を呼べばその時間をすっ飛ばせる」「今かなり贅沢な気分」と言ってて、このサービスには何らかのコストカット効果もあることを知った。

にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと。

この話は、私が普段コミュニケーションにおいて意識していることとも関係するので、少しその辺りにも触れてみたいと思います。

私には、「初対面感」という言葉で捉えている感覚があります。これは名前の通り、「初対面の人とコミュニケーションする時の感じ」ぐらいの意味です。「初対面の時にしがちな会話」や、「普段よりちょっとテンション高め」など、「『初対面の人』と関わる際にしてしまう振る舞い」は、割と誰にでも共通してあるのではないかと思っています。

そして私は、特に初対面の人と関わる場合は、「『初対面感』をいかに無くすか」を何よりも意識しているのです。

犀川後藤

これって、私にとっては昔から当たり前の感覚なんだけど、人に話すと驚かれることが多い

いか

大体「そんなこと考えたことなかった」って反応になるよね

初対面の相手と「初対面感」を出して関わってしまうと、「その『初対面感』をどのようにフェードアウトさせていくか」がかなり難しい問題として残ります。いつからタメ口に変えるか、ちょっと上げ目にしたテンションをいつ低くするかなど、「初対面感」を無くしていくのは結構難しいでしょう。先の引用中の、「友達ならこうやってとりとめもなく話したり沈黙が続いたりしても大丈夫な間柄になるまでには何年もの時間とその分のお金がかかる」というのはまさに、「『初対面感』を無くしていくのに労力が必要」と言い換えることが出来ると思います。

だから私は、最初の段階から「初対面感」が出ないようにかなり意識しています。特に、「初対面の時にしがちな会話はしない」と決めていて、定番の「休みの日に何してるんですか?」とかは絶対に聞きません。他にもあれこれ具体的な手段を細々とやっていますが、それらはすべて「『初対面感』が出ないような振る舞い」なのです。

犀川後藤

だから割と、初対面の人と喋るのって不得意じゃないし、っていうかむしろ楽しかったりする

いか

「初対面なのにここまで話してくれるんだ」って感覚になれることもあるよね

で、「レンタルなんもしない人」に対して抱く「そこそこ長く付き合った友達」という感覚はまさに、「レンタルなんもしない人」がなんもしないからこそ生み出されているのだと私は思います。「レンタルなんもしない人」は依頼中、「基本的な受け答えしかしない」のだそうです。まさにそのスタンスは、私が言う「『初対面感』を抱かせない振る舞い」だと言っていいでしょう。普通の人間関係では、「基本的な受け答えしかしない」、つまり「ほぼ沈黙でも成立する」ような状態になるまではかなり時間が掛かりますが、「レンタルなんもしない人」の場合は、「なんもしない」というスタンスによってそれが図らずも実現されているというわけです。

もちろん、著者も「(もちろん人によるだろうけれども)」と書いているように、すべての人にこの感覚が当てはまるわけではないでしょう。ただ今の時代は、「SNSやリアルで自分をどう見せるか」を考えるのに疲れを感じている人も多いはずです。私の感覚では、結構多くの人が、初対面の時点で「もう少し自分の見せ方を緩めたい」と感じているのではないかと思っています。そして、「レンタルなんもしない人」のこの指摘はまさに、そのような私のイメージを補強するものだと感じました。

犀川後藤

この話と関係するか分かんないけど、年下の友人女性とのLINE、絵文字もスタンプもほぼ無い

いか

「この人には良い風に見せる必要がない」って感じてくれてるとしたらありがたいよね

この辺りの感覚も、非常に興味深いと感じないでしょうか?

「レンタルなんもしない人」の活動に私が向いていると感じるいくつかの理由

この記事の冒頭で、「『レンタルなんもしない人』の活動は「私が思いつき実行していても良かった」と書きました。ここからは、私がそう感じたポイントについて触れていきたいと思います。

まずはメンタルの話。「レンタルなんもしない人」への依頼には、「重めの悩みを聞く」というものがあります。「レンタルなんもしない人」はただ聞くだけでアドバイスはしませんが、「相談」の場合、「誰かに聞いてもらう」ことが何より重要であり、アドバイスは求められていないことも多いでしょう。さらに、「レンタルなんもしない人」は、「今後関わりを持たない可能性の方が高い」という相当薄い関係性なので、身近な人にはとてもじゃないけど話せないようなヘビーな相談も出てくるわけです。

いか

理想的には、身近な人にこそ重めの相談が出来ると一番良いと思うけどね

犀川後藤

まあ、なかなかそうもいかないよなぁ

さて、そんな「重めの相談」について、著者はこんなことを書いています

「そういう重い話を聞くと、それに引きずられて精神的につらくならないですか?」
と、よく聞かれる。正直、僕としてはそういう感覚はまったくない。むしろ、あまりに頻繁に同じ質問をされるので「え、みんな重い話に引きずられて精神的につらくなってるの?」と逆に聞きたくなるくらいだ。
これをいうとちょっと人間性を疑われるかもしれないけれど、僕が依頼者の話を聞いているときはだいたい「これはツイッターに書いたら面白いな」とか「よっしゃ、いいネタが入った」とかそういうことを考えている。たぶん、自分は普通の人よりドライな性格をしているというか、他人の感情にあまり左右されないのだ。だから相手にシンクロすることもないし、この活動に向いているんだろうなと思う。

著者のこの感覚は、私もとても理解できます。完全に一致するくらい、同じような感覚を持っていると言っていいでしょう。私も、重めかどうかはともかく、人の悩みを聞く機会はそれなりにあるのですが、自分の感情は引きずられません「なんか凄く面白い話を聞いている」というワクワク感の方が強いくらいです。

犀川後藤

意識の片隅には、「あんまり真剣に聞かない方が、相手も話しやすいだろう」って感覚もちゃんとあるんだけど

いか

過剰に反応されると話しにくくなることって、往々にしてあるもんね

また、著者のこんな感覚も同じように共感できてしまいます

それに比べて僕は「趣味はなんですか?」と聞かれると答えに窮してしまうくらい、特定のなにかに対するこだわりがない。だけどその代わり、わりとなんでも面白がれる。

私も、「どうしてもこれがやりたい」みたいな対象がほとんどありません。それはある意味で「人生のつまらなさ」に繋がっているのですが、一方で、「だからこそなんでも面白がれる」というのは悪くないポイントだとも思っています。自分で率先して何かを探して状況を面白くしていくことはとても苦手ですが、誰かの関心や興味に乗っかって自分のテンションを上げていくことは結構得意だったりするのです。そういう意味でも、「レンタルなんもしない人」の活動に向いてるんだろうなぁと感じました。

また、「なんでも面白がれる」に繋がるだろう、こんなスタンスも興味深いと感じます。

いったい世の中でどれくらいの人が、自分らしさから延長線を引き、その先にやりたい仕事を思い描き、社会に貢献できているのだろう。なにもなければ、そこから自分の夢ややりたいことをひねり出しても、ロクなことにならないんじゃないか。それに対して「できない」「やりたくない」という拒否反応はほとんど直感に近い。言い換えるなら生理的な反応であって、それに従ったほうがある意味で正直な生き方につながると思う。

漫画『ONE PIECE』の主人公、モンキー・D・ルフィのセリフで「なにが嫌いかよりなにが好きかで自分を語れよ!!!」というのがある。
これは一般的には名言とされているけれど、僕はこのセリフがめちゃくちゃ嫌いだ。それこそ生理的にこういうことをいう人はダメだ。「なにが嫌いか」で自分を語ったっていいじゃないか。むしろ「なにが好きか」で自分語りをする人の話はどこか漠然としていてつまらないことが多いし、「好き」をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう。それよりも「なにが嫌いか」をはっきりいえる人のほうが、話が具体的で面白いし、たぶんその人は正直だ。あるいは誠実といってもいいんじゃないのか。

上記引用の「なにが嫌いかよりなにが好きかで自分を語れよ!!!」は、実際には『ツギハギ漂流作家』というマンガに出てくるものだそうです。

この辺りの感覚もとてもよく理解できます。そもそも「やりたいことがない」というのも問題なのですが、仮に「やりたいこと」があったとしても、「やりたくないことをやらない」方が自分の中の幸福度が上がるという感覚が私の中にはあります。「可能な限り『やりたくないこと』をやらずに済む環境の構築を目指し、その範囲内で何か楽しげなことを探す」というスタイルが、私には合っていると思っているのです。「レンタルなんもしない人」の活動は、「やりたくないと感じることは別に断ってもいい」という自由度がとても高いので、向いている気がしました。

いか

やりたくないことがメチャクチャ多いから、それをやらざるを得ない状況で感じるストレスが強いよね

犀川後藤

ストレスへの耐性がほぼゼロだから、「いかにストレスを回避するか」を考えなきゃいけない人生だったなぁ

そしてその上で、「レンタルなんもしない人」の活動は、「楽しげなことを探すのにも向いている」というわけです。

考えてみれば、ライターのしごとにしても趣味のブログにしても、やることがマンネリ化あるいはルーティン化してしまうことが問題だったのだが、それを回避するためにその都度新しい刺激なり変化なりを能動的に求めていくことが困難だった、というか自分には無理だったのだ。だから他人の力を借りて、受動的に刺激なり変化なりを楽しんでいられるいまの状況は、非常に楽だ。

人によっては、「初対面の人に会うこと」がストレスだと感じる人もいるかもしれませんが、著者同様、私にもその感覚はまったくありません

ツイッターであらかじめ依頼を受けてからとはいえ、見ず知らずの人に会いにいき、その人とある程度長い時間を共有しなければならないことに対して、僕自身は抵抗がなかったのか?
結論からいえば、なかった。(中略)
こういったその場限りのコミュニティにおける、各人の過去も未来も意に介さなくてよい、フラットで一時的な人間関係は、とても心地よく思えた。

こんな風に様々な要素を考え合わせると、私が有している様々な要素は、「レンタルなんもしない人」という生き方にとてもマッチするだろうと感じられたのです。ホントに、「どうして自分が思いついて始めなかったんだろうなぁ」と後悔にも似た感覚を抱かされました。

いか

二番煎じはちょっとダサい気がしちゃうから、同じことはやれないしね

犀川後藤

ただ、「レンタルなんもしない人」も、「プロ奢ラレヤー」の活動を参考にしたみたいに言ってるし、ちょっと捻れば何か出来るかもとは思う

最後に

本書は基本的に、「レンタルなんもしない人」として活動する著者が、自身のスタンスや、これまでしてきた思考などについてまとめた作品ですが、彼の活動の根底に関わっているかもしれない話も登場します。それが、兄と姉の話です。

僕には兄と姉がいる。正確には半分はいた、といえばいいのかもしれない。一番年長である僕の兄は、大学受験がうまくいかなかったことがきっかけで体調を崩してうつになり、以来、一度も社会で働くことなくいま40歳を迎えている。姉はというと、彼女は就職活動にずいぶん苦労したのだけれど望むような結果が得られず、それが心の大きな負担となって、自ら命を絶った。

姉の社会人としてのスペックは、彼女が受けた会社にとって求めるものではなかったけれど、僕自身にとっては姉はただ存在しているだけで価値があった。

いずれにしてもそれらに直面したとき、僕は学生だったけれど、自分の身内である兄や姉の価値というものが、世間的になんらかの目的によって歪められたり、損なわれていると感じた。

また、あくまでもWikipediaの情報ですが、姉だけでなく、兄も既に亡くなっているとのことです。

「レンタルなんもしない人」は、その存在や手法など様々な点で批判を浴びてきたと思いますが、それでも自身の生き様を崩さなかった背景には、社会の中に上手く溶け込むことができなかった兄・姉の存在が関係していたのかもしれません。私も、社会の片隅でギリギリ生きていますが、人生のどこかのタイミングで死んでいてもまったくおかしくない生き方をしてきたので、決して他人事ではないと感じました。

私は本当にいつも、「多様な価値観や生き方が許容されてほしい」と考えています。他人の自由や権利を大幅に侵害したり、誰かの生命や財産に多大な悪影響を及ぼすものでないなら、どんな人生も受け入れられるべきでしょう。皆が少しずつ「多少の迷惑」を飲み込むことで、どうにか全員が穏やかに生きていけないものだろうかと考えてしまいます。

「レンタルなんもしない人」の存在は、大げさにいえば、そのような道筋のきっかけを作るものと言っていいかもしれません。世の中にこれほど多様な価値観・生き方が存在するのだと、彼の活動を通じて可視化されたことは、大きな一歩と呼んでいいのではないかと感じます。

社会の中で「当たり前」とされている価値観に寄り添うことがどうしても出来ない人は世の中にたくさんいるでしょう。私もその1人です。そんな人にとって本書は、「存在の可能性」を広げるような内容と言っていいかもしれません。私にとっては久々に、脳が沸騰するような興奮を覚えながらの読書になりました。

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