はじめに
この記事で取り上げる映画
この記事の3つの要点
- 正直言って『エヴァンゲリオン』にはまったく詳しくなく、本記事も決して「考察」がメインになるような内容ではない
- テレビシリーズはほぼ観たことがなく、マンガやゲームにも触れていないので、基本的には「新劇場版」の感想が中心である
- 『エヴァンゲリオン』全体に関する感想と、「『シト新生』『Air/まごころを、君に』+新劇場版4作品」の感想をまとめた
自己紹介記事


日本アニメ史上圧倒的な存在感を放つ『エヴァンゲリオン』シリーズ、その劇場版の感想を一気にまとめて放出する
この記事を書いたのは「月1エヴァ」という企画が終わった直後である。毎月1作品、1週間限定で6作品を劇場上映するという企画だ。それで、「もしかしたら、『エヴァンゲリオン』を劇場で観る最後の機会かもしれないな」と思ったので、これまで散発的に書いてきた感想をかき集め、それらをベースに新たな記事を書いてみることにした。

私はそもそもアニメをそんなに観ていないし、詳しくもない。また、『エヴァンゲリオン』は好きだが、考察出来るほど詳しい知見を持っているわけでもないので、本記事はあくまでも「感想」程度の文章である。とはいえ、小説や映画などあらゆる「創作物」の中でもこれほど印象深く心を掴まれた作品はなかなかないし、思うところは色々とあるので、気になる方は読んでもらえると嬉しい。

また『シン・エヴァンゲリオン』に関しては、一度観た後、考察動画を一通り漁ってから再度鑑賞したこともあり、「考察動画で指摘されていたことを踏まえた上での、かなりネタバレ的な感想」を書いている。『エヴァンゲリオン』についてはもはやネタバレもクソもないと思ってはいるのだが、あまり詳しく内容・解釈に触れたくないという方は読まない方がいいかもしれない。
「月1エヴァ」恒例のコメントまとめ
「月1エヴァ」では上映が始まる前に、作品の関係者(主に声優)による3~5分程度の音声コメントが流れた。というわけで、まずは6作品分の音声コメントの気になった点についてまとめて記載してみたいと思う。

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』(鶴巻和哉)
『シト新生』のコメントは『REBIRTH』の監督を務めた鶴巻和哉。『エヴァンゲリオン』には『DEATH』とか『REBIRTH』とか色々あって、それがどう『シト新生』と関係しているのかについては、ネットで調べたことを元に次の「新旧劇場版を観る以前の、私の『エヴァンゲリオン』との関わり方」にまとめた。ただその辺りがややこしくなっているのには「制作の遅れ」という問題があったようだ。コメントの中で鶴巻和哉が「その節はご迷惑をお掛けしました」と言っていた。元々は「TV版の1~24話の総集編に、25話・26話のリメイク版を合わせた形で劇場公開する予定だった」らしいのだが、制作が遅れたため予定が変更され、想定していなかった形になっていったようだ。
で、鶴巻和哉のコメントで私がちょっと意外に感じれたのが、『REBIRTH』の主題歌である『魂のルフラン』についての話である。『魂のルフラン』はカラオケで歌ったりするのでもちろん知っているのだが、鶴巻和哉によると『魂のルフラン』はエヴァシリーズでは『REBIRTH』内でしか流れないというのだ。
「確かに、カラオケで『魂のルフラン』を歌う時に流れるエヴァの本編っぽい映像に見覚えがないんだよなぁ」と思っていたので、まずは「なるほど、それでか」と納得した。しかし同時に、「だったら、私は一体いつ『魂のルフラン』を『当然知ってる』と思うぐらい耳にしたのだろう」とも感じたのだ。

私はそもそも、昔から音楽を聴く習慣がまったくなかったので、テレビや有線で流れる曲しか音楽に触れる機会がない。なので可能性が高いのはテレビだが、恐らく『REBIRTH』はテレビ放送されなかっただろうし、されていたとしてもたぶん私は観ていないと思う。「『エヴァンゲリオン』がバラエティ番組などで扱われる際にバックミュージックとして『魂のルフラン』が流れていた」みたいなことはあったかもしれないが、そういう場合は普通『残酷な天使のテーゼ』が選ばれるだろう。敢えて『魂のルフラン』をセレクトする理由はないはずだ。
それでも私は、『魂のルフラン』を自然と歌えるぐらいには知っているし、それは私ぐらいの世代なら多くの人がそうなんじゃないかと思う。一方で、『魂のルフラン』が『REBIRTH』内でしか使われていないのであれば、「どのようにして『魂のルフラン』は『皆が知っている曲』になったのか?」が謎ではないだろうか。鶴巻和哉のコメントを聞きながら、そんなことを考えたりしていた。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(緒方恵美)
『Air/まごころを、君に』のコメントは、碇シンジ役の緒方恵美。彼女もまた、鶴巻和哉と同様に「劇場版の制作が遅れて申し訳ない」と謝罪から始めていた。で、さらにもう1つ謝罪していたことがある。小さいお子様向けに、「冒頭のシーン、ごめんなさい」と言っていたのだ。私は以前『Air/まごころを、君に』を観たことがあったのに、彼女が何を言っているのか全然ピンと来なかったのだが、その後始まった本編を観て理解した。緒方恵美曰く、「アフレコ台本を受け取った時はショックだった」そうだ。

また印象的だったのが、「配信のシステムがなかったから、舞台挨拶はロケバスを借りてあちこち回った」という話。今はライブビューイングがあるから、メイン会場の様子を配信で流せばいいが、当時はそんなこと出来なかったので、「新宿だけで8回、あと池袋・秋葉原・渋谷などあちこち回った」みたいな感じだったそうだ。このエピソードからは、「ライブビューイングのシステムが無い時代から現在までずっと人気であり続けている」という凄さが感じられるなと思う。

さらに、「碇シンジを演じる上で大変だったこと」として、「シンジ君というのは『14歳の自分のもう1つの記憶』だから、公開直後は封印してしまった」みたいな話も印象的だった。そもそも彼女は自分自身の記憶を封印しているらしく(過去に何か辛いことがあったのだろう)、さらにそこに「シンジ君の記憶」が積み上がり、自分の記憶と混ざり合うことでしんどさが増幅されたということなのだろう。そのため、演じた後に封印せざるを得なかったというわけだ。
彼女は「随分時間が経った今振り返ってみると、『頑張ってたんだな』ととても感慨深い」とも言っていて、それはつまり、「演じていた時とは捉え方が大分変わった」みたいなことなんじゃないかなと思う。『エヴァンゲリオン』は「演じる側」にも大きなダメージを与え得る作品という気がするし、彼女の話はその一端とも言えるのだろう。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(林原めぐみ)
『序』のコメントは、綾波レイ役の林原めぐみ。それで冒頭でも書いた通り、私は全然アニメに触れることがなく、だから「どの声をどの声優が担当しているか」みたいなことにもさほど興味はない。そんなわけで私は、彼女のコメントで初めて、林原めぐみが「碇ユイ」「初号機」「ヴンダー」「ペンペン」の声を担当していることを知った。
で、この時の林原めぐみのコメントについては、「映画冒頭でなんか凄いネタバレされた」みたいな意見がネットに上がっていたのをチラッと目にした記憶がある。まあ確かに、「『月1エヴァ』で初めて『エヴァンゲリオン』に触れる」みたいな人もいるだろうし、そういう人からすれば「知りたくなかった」みたいに感じる話かもしれない。この辺りは難しいなと思う。個人的には冒頭でも書いた通り、「『エヴァンゲリオン』にはもうネタバレもクソもない」と考えているが、そう思わない人がいるのも分かるし、とはいえ「全方位的に配慮するのなんか無理だよなー」と感じたりもする。この話もまた、恐ろしく長期的に熱狂が続いているが故の難しさと言えるかもしれない。

というわけでこの記事ではあまりネタバレを気にしないことにするが、「綾波レイ=碇ユイ」であり、さらに「初号機には碇ユイが取り込まれている」「ヴンダーは初号機がベースになっている」ので、そのすべての声を担当することになったということのようだ。しかし、そういう繋がりがあるとはいえ、「綾波レイ」と「初号機」「ヴンダー」を同じ声優が担当しているというのも不思議な話だなと思う(というかそもそも「ヴンダーの声って何だよ」って感じもするが)。
また林原めぐみは「ヴンダーの声」について、「SEのような音を録りに行っていた」みたいな話をしていた。正直観ていてもどの音のことを言っているのかよく分からなかったが、「ヴンダーが動く時の機械音・動作音」みたいなことなのだろう。さらに面白かったのが、「アスカとマリがヴンダーに点火する際の音」を収録した時の話。庵野秀明からは「その時の何かの声」ぐらいの指示しかなく、手探りでやったという。「『チャッカマンで火を点けられそうになった時の何か』とか言われてどうします?」みたいに当時のことを振り返っていた。
あとペンペンの声を担当することになったのはたまたまだったようだ。飲み会の席で「誰かやりたい人ー?」みたいな話があってそれで決まったと言っていた。こういうエピソードも面白いなと思う。

彼女は、「10年ぶりに『エヴァンゲリオン』をやることになり、『ちゃんとレイちゃんになれるだろうか?』と心配だった」と言っていた。しかし、「シンジやアスカ、ミサトの声を聞いたら、すぐにレイに戻れた」のだそうだ。「キャラクターに声を吹き込む」みたいな感覚は私にはもちろんさっぱり理解できないが、「10年前の自分に戻らないといけない」みたいな話であれば「絶対無理」だと感じるし、だから声優ってホントに凄いことをしてるよなと思う。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(宮村優子)
『破』のコメントは、式波・アスカ・ラングレーを演じた宮村優子。彼女は「『破』はテレビ版前半の学園モノの楽しさが詰まっているから、劇場版で一番好き」「惣流じゃなくて式波になっててビックリした」みたいなことを言っていた。
また、個人的に一番興味深かったのは「『劇場版にアスカは出ないんじゃないか』と思っていた」という話。『序』にアスカは出てこない。だから『序』に参加した声優から「次会おうね」みたいに言われた際に、「もしかしたら劇場版にアスカは出ないんじゃないか」と考えていたという。当時はまだ「世界線」という言葉が一般的ではなかったようだが、宮村優子は「テレビ版とは違う世界線の物語になるのではないか?」みたいに思っていたそうなのだ。まあ、アスカはちゃんと出てきたが、彼女の予想自体は結果的に合っていたと言えるだろう。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(坂本真綾、石田彰)
『Q』のコメントは、真希波・マリ・イラストリアスを演じた坂本真綾と、渚カヲル役の石田彰。
マリは劇場版で新たに登場したキャラクターなこともあり、坂本真綾は「『破』からエヴァに参加したから、私は他の方々と違って15年ぐらいの関わり」「今も、『皆さんが作った歴史の中に”混ぜてもらっている”』という感覚がある」みたいなことを言っていた。また、彼女の話で一番印象的だったのが、マリとしての初めてのアフレコを行った日のこと。「『死ぬ時に思い出すだろうな』というぐらい印象的」だと話していた。どうも相当緊張していたようだ。

石田彰は、「2年、3年、9年というスパンで公開された劇場版を、こうやって一気にまとめて観られるのは良い機会だと思う」と言っていて、それは本当にその通りだなという感じがする。「数年間待たされた上で待望の上映!」というのも良かったけど(しかし、新型コロナの影響で2度延期された『シン・エヴァンゲリオン』はさすがに待ち遠しかった)、「月1エヴァ」の企画で間を置かずに観ると、より一層「意味不明で狂気的」という印象が強まるし、良い鑑賞体験だったなと思う。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(三石琴乃、緒方恵美)
『シン・エヴァンゲリオン』のコメントは、ミサトを演じた三石琴乃と、碇シンジ役の緒方恵美。三石琴乃は、「みんながほっこり笑っているから」という理由で『破』が一番好きだと話していた。
緒方恵美は『Air/まごころを、君に』に続いて2度目の登場。彼女曰く、「エヴァではあまり演技らしい演技をしておらず、『自分が14歳だったら』という気持ちで臨んでいた」らしいのだが、「まさか30年も続けているとは思わず、『大人の自分』と『14歳の自分』を両方ともキープするのが難しいこともあった」みたいに話していた。自分が年齢を重ねれば重ねるほど「14歳」からはどんどん遠ざかっていくわけで、その中で「永遠に14歳であり続ける碇シンジ」を演じるのは確かに難しかっただろうなと思う。

また彼女は、「身内がこんなことを言うのもなんだけど、まさかこんなにキレイに完結するなんて思わなかった」とも話していた。私はテレビ版をあまりちゃんと観れていないのだが、ただテレビ版の最終話をベースに作られた『Air/まごころを、君に』と比較すれば、確かに「完結感」はあるかもしれないなと思う。まあでも、「キレイに」と言えるほど完結しているのかは何とも分からないなぁ。私には(そして多くのごく一般的な人には)『エヴァンゲリオン』は難しすぎる。
新旧劇場版を観る以前の、私の『エヴァンゲリオン』との関わり方
さてここで少し、私が『エヴァンゲリオン』とどのように関わってきたのかに触れておこうと思う。私は、「新劇場版」と呼ばれるものはすべて観ているし、その他「映画館で上映された作品」は鑑賞したと思うのだが、「テレビ版」は基本的にほぼ触れていない。
私の不確かな記憶では、私が中学生ぐらいの頃、夕方のテレビで『エヴァンゲリオン』が放送されていたはずだ。私は校区内でかなり家が遠い方で、だから「学校から急いで帰るとギリギリ放送に間に合う」みたいな感じだったと思う。その当時の自分が「どうしても『エヴァンゲリオン』を観たい」なんて風に考えていたのかはまったく記憶にないが、とにかくテレビ版は飛び飛びで観ていたはずだ。

しかし、私が中学生の頃ということは30年以上も前である。当時「アニメ」はまだ今ほど市民権を得ていなかっただろうし、となれば当然『エヴァンゲリオン』も「子ども向け」という想定で作られていたのだと思うが、「子ども向け」というにはあまりに無理のある作品ではないかと思う。よくもまあ、あの時代にこんなアニメをテレビで流せたものである。

で、そういう状態だったから、自分がいつどのようにして『エヴァンゲリオン』に惹かれたのか、正直まったく記憶にない。結局未だにテレビ版をすべて観たことはないし、新劇場版を観る前の時点ではに旧劇場版(『Air/まごころを、君に』)に触れたこともなかったんじゃないかと思う。とにかく、「いつの間にか『エヴァンゲリオン』に惹かられていた」という印象が強いのだ。まあそれは、私と同じように「テレビ版を観たことがないのにエヴァが好き」だという人の多くに共通する感覚じゃないかという気もするが。
さて、『序』から始まる新劇場版4作品はそれぞれ、公開後すぐ観に行った。『序』の公開が2007年だそうで、私は24歳ぐらい。私が映画館でバリバリ映画を観るようになったのは32歳頃のことであり、『序』の公開当時は映画を観る習慣はまったくなかった(私は「レンタルショップで借りて映画を観る」ということを人生で一度もしたことがなく、この時期は基本的にまったく映画を観ていなかったのだ)。だから、「どうして『序』を観ようと思ったのか」は本当に謎だ。自分でも不思議である。

ちなみに、新劇場版に関しては、「封切り直後」「『シン・エヴァンゲリオン』公開直前の再上映」「月1エヴァ」のタイミングで3回ずつ観ていると思う。また、いわゆる「旧劇場版」もその間に何度か観た。私の鑑賞記録によると、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE)² / Air / まごころを、君に』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』をそれぞれ1回ずつ観ているようだ。
さて、「旧劇場版」の話はとてもややこしいので、ネットで調べた知識を踏まえて整理しておこうと思う。
まずはそもそも、テレビ版の「1話〜24話」「第25話」「第26話」が存在する。そして、「テレビ版の1話〜24話」の総集編が『DEATH』、「テレビ版の第25話」をベースに作られたのが『Air』、「テレビ版の第26話」をベースに作られたのが『まごころを、君に』ということらしい。また、『REBIRTH』は「テレビ版の第25話のリメイクの前半」と説明されている。恐らくだが、「『Air』の制作が間に合わなかったので、完成している前半部分だけを『REBIRTH』として切り離して公開した」みたいなことなんじゃないだろうか。そして、そんな『DEATH』と『REBIRTH』をまとめたものが『シト新生』みたいである。さらに『DEATH』には再修正版が存在し、それが『DEATH (TRUE)²』なのだそうだ。

というわけで、『シト新生』と『Air/まごころを、君に』を観れば、「テレビで放送された内容と劇場公開された25・26話の内容が概ね網羅できる」ということなのだろう。いやはやなんともややこしいなと思う。
『エヴァンゲリオン』シリーズ全体に対する感想
それでは、旧劇場版・新劇場版それぞれの物語に触れる前に、まずはしばらくエヴァシリーズ全体の感想に触れておくことにしよう。
さっぱり意味が分からないのに面白い
エヴァシリーズを観る度に感じることだが、とにかくさっぱり意味が分からない。何せ本シリーズにおいては、「使徒と呼ばれる怪物がNERV本部を攻める理由」さえ録に説明されないのだ(ただこの辺りのことはもしかしたら、テレビ版ではちゃんと説明されるのかもしれない)。だから観ている側は、「エヴァに乗った少年少女がどうして戦ってるのかさえまったく理解できない」みたいな状態に置かれてしまう。これははっきり言って、ちょっと凄まじい状況ではないかと思う。

また、作品の根幹を成すはずの「人類補完計画」についても断片的な情報が与えられるだけで大して説明されないし、だからそれが一体何を指すのか観ていてもよく分からない。だから観客は、「NERVが何と闘っているのかも、碇ゲンドウの目論見もさっぱり理解できない」みたいなことになるのだ。「ロボットアニメなのに『戦う理由』が分からない」「メインとなる組織の目的が不明」だなんて、ちょっと物語として成立していないような印象にさえなるだろう。

にも拘らず、エヴァシリーズはとにかく面白い。状況がさっぱり理解できないのに、それでもグイグイ惹きつけられてしまうのだ。この点はやはり凄まじく特異的だなと感じるし、また、エヴァシリーズが時代を経てもまったく古びない理由の1つだろうとも思う。
さて、「全然理解できないのに面白い」のには、大きく2つの側面がある気がしている。1つは、「主人公である碇シンジが、観客と同じレベルで何も分かっていない」という点だ。彼は「父親がNERVのトップである碇ゲンドウ」だという、恐らくほぼそれだけの理由でNERVに呼ばれ、エヴァに乗せられている。しかも、父親に対する複雑な感情があったり、「エヴァに乗って戦いたくなんかない」という気持ちを抱いていたりするが故に、作中世界について詳しいことを積極的に知ろうともしないのだ。だから碇シンジはほとんどずっと「何も知らないまま振り回される存在」として登場するし、だから観客も、「主人公が分かってないんだったらしょうがないよね」みたいな気分で作品に触れられるんじゃないかと思う。

ただその一方で、碇シンジはいつの間にか「自分が何をすべきか誰よりも悟っている」みたいな状態になったりするので、それで観客は一気に置き去りにされてしまいもする。変化の過程は描かれているものの、正直「えっ、いつの間に?」って感じだし、だから、なんか唐突に「置いていかれてしまった!」みたいになるのだ。とはいえ、この時点では既に作品の世界観に囚われているので、それ以降は「もう訳解んないまま観続けるしかないよね」的な感じになっていくのだと思う。
そしてもう1つが、「理解は出来ないが、恐らく精緻な設定が存在しているんだろう」と思わせてくれる点である。「描写は最小限だが、説明していないだけで、きっと膨大な設定が背後に存在しているんだろう」という雰囲気が感じられるのだ。「観た人全員に分かるように作られてはいないが、ある程度きちんとヒントは散りばめられており、分かる人にはちゃんと分かる」みたいな印象が強いなと思う。
これが仮に、「展開も状況も設定も、ただただ意味不明」という感覚の方が強ければそう面白く思えない気もするが、『エヴァンゲリオン』の場合は、「自力では理解出来なくても、分かっている人はいるだろうし、だからこの世界について深堀り出来るはずだ」みたいな直感を観ながら得られる感じがある。そう思わせてくれるからこそ、多くの人は「今はまったく分からないが、きっとそれなりに理解できるはずだ」と感じられるのだろうし、また考察できる側の人は「メッチャ腕が鳴るぜ!」みたいな感覚になれるのだと思う。

そして制作側も当然、「物語の設定・展開だけで惹きつけるのは無理がある」と理解しているのだろう、エヴァシリーズは「作品の本質的な部分」以外の要素で「分かりやすい魅力」を伝えようとしている。「ミサトさんとの共同生活」や「綾波レイと衝撃の邂逅をするシーン」、「様々なタイプを取り揃えた魅力的な女性キャラクター」など、「物語を展開させる上で別に必然性があるわけじゃない要素」によってポップな雰囲気が醸し出されているというわけだ。そういう表層的な部分で分かりやすく観客を惹きつけつつ、「全然理解できないけど、メチャクチャ深い何かが潜んでいることだけは分かる」みたいな設定・展開を盛り込むことでより深みに引きずり込んでいく、みたいな構成になっているのだと思う。
ジブリ映画などでも同じだと思うが、「分からないけど分かりたいし、分かりたいから何度でも観たくなる」みたいに感じさせられるんじゃないかと思うし、あるいは、「何度も観た人たちによる考察によって、作品の解釈が一層広がる」みたいなこともあるはずだ。またさらに言えば、『エヴァンゲリオン』を生み出した庵野秀明はまだ生きている。彼が作品のすべてを語ることは生涯なさそうな気もするが、とはいえまだ生きてるんだから、「本人の口からすべてが説明される」なんて可能性も決してゼロではないだろう。可能性は限りなく低いが、そんな「if」も併せて「考察しがいのある物語」と言えるなんじゃないかと思う。
私はホントに全然分かってなくて、考察動画を死ぬほど観た時期もあるが、それでも物語の世界観のほとんどを理解できていない気がする。「使徒が攻めてくる理由」とか「人類補完計画の目的」とかはなんとなく分かってるつもりだが、「ゼーレって何だっけ?」とか「渚カヲルって何者?」みたいなことはさっぱりだ。もちろん、作中で碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、加持リョウジ辺りが喋っていることは、大体理解できない。

そしてさらに、「新劇場版」はテレビシリーズとは別物と言っていいぐらいまったく違う物語なのである。その事実もやはり凄まじいなと思う。何せ『Q』では、「NERVに対抗する組織として葛城ミサトらがWILLEという組織を立ち上げていた」なんて展開になるわけで「どゆこと?」ってなもんである。観客が全然理解しきれていない物語を解体し再構築しているわけで、「訳の解らないさ」が一層増していると言っていいだろう。

ただ、凄いなと思うのは、そんなバラバラになるぐらいに再構築された物語からも「エヴァ感」みたいなものが全然失われていないということだ。以前何かで、「庵野が作ったものがエヴァになる」みたいな表現を目にしたことがあるのだが、確かにそれはその通りだろう。ただそれはそれとして、『エヴァンゲリオン』においてはその世界観があまりにも強固なので、表面の部分の展開・設定をどれだけ変えても根幹の部分は揺るがないのだと思う。そしてその事実は、「作品の外側に乱立するあらゆる考察を含めて『エヴァンゲリオン』である」という印象にも繋がるし、だからこそ「『エヴァンゲリオン』は永遠に完成しない」と言える気もする。
ちなみに、先日エヴァ新作の情報が発表されたが、庵野秀明は制作に関わらないようだ。「庵野が作ったものがエヴァになる」のかそうではないのか、この新作で確かめられるのかもしれない。
ホントに、とんでもない作品を生み出したものだなと思う。

「人類補完計画」の異様さ
さて、『エヴァンゲリオン』の世界にはその根幹に「人類補完計画」と呼ばれるものが存在する。私の理解が合っているか自信はないが、「『NERVはゼーレの目的を遂行するための組織』なのだが、NERVのトップである碇ゲンドウはそんなNERVをある意味で私物化し、ゼーレの目的とは異なる『人類補完計画』を秘密裏に進めている」という設定だと思う。そもそも私には「ゼーレの目的」が何なのかよく分かっていないのだが、碇ゲンドウはゼーレに従うフリをしつつ、実際には自らの計画のために動いているというわけだ。
「じゃあ『人類補完計画』って何だよ」という話になると思うが、これはホントに、少なくとも新劇場版を観ている限りはまったく説明されない。私は正直、考察動画を観なければさっぱり理解出来なかったが、どうやら「完全な単体としての生物の進化を目指す」という計画らしい。要するに、「人類(だけじゃなくすべての生命っぽいが)を1つの生物としてまとめて(還元して)しまおう」みたいなことのようだ。

もう少し詳しく書くと、『エヴァンゲリオン』はそもそも「『アダム(から生まれた者)』と『リリス(から生まれた者)』という2つの存在の争いの物語」であるらしい。この話はややこしいので詳しいことは各自調べてほしいのだが、ざっとまとめると以下のようになる。
かつて宇宙のどこかににある種族がいた。彼らは自分たちが住む星が失われることを知ってしまい、新たな居住先となる星を探索するためいくつかのグループに分かれることにする。そしてその際に、個々の肉体を失い互いに溶け合って、「生命の根源」の姿まで戻して1つの単一の存在になったのだ(恐らく、移住先の星を見つけるのに長い時間が掛かると想定されたからだろう)。さらに、グループ毎に「生命の種」と呼ばれる「再び肉体を与えるための存在」を有していた。この存在のお陰で、移住先が見つかったら個々が再び肉体を取り戻せるというわけだ。
そして、そのグループの内2つが地球に辿り着く。それぞれ「アダム」「リリス」という「生命の種」を有しており、先に地球に辿り着いた「アダム」が「生命の根源」として溶け合った者たちに肉体を与えた。これが「使徒」と呼ばれる存在だ。しかし何故か彼らは目覚めることなく眠りについたという。
その後「リリス」が地球へとやってきて、引き連れて来た者たちに肉体を与えた。つまり、アダムや使徒を除く「地球上に存在するすべての生命」は「リリス」由来というわけだ。もちろん人類も同様であり、さらに、「リリスが生み出した生命の最終形態」であるとして人類は「リリン」と呼ばれている。
そして、「NERVがアダムを囚えて地下深くに幽閉しているが故に、使徒はアダム奪還のためにNERV本部を襲い、その駆除のためにエヴァに乗った少年少女たちが戦わされている」というのが『エヴァンゲリオン』の基本設定なのだ。

これらの設定から、「『使徒』も『人類』も元々同じ種族だったのだが、別々のグループとして地球に辿り着いたことで争いが生まれている」「『使徒』も『リリン(人類)を含めた地球上のすべての生命』もそれぞれ、元々は『生命の根源』という1つの大きな塊として存在していた」ということが理解できるだろう。そして「人類補完計画」とは要するに、「『人類を含めた地球上のすべての生命』を『生命の根源』に戻そう」という計画なのである。

では、碇ゲンドウはどうしてそんなことを考えているのか。そこには、彼の妻である碇ユイへの想いも関係してくるのだが(そう、彼は私情のために世界中を巻き込もうとしているのだ)、一旦それは置いておこう。基本的な発想は、「アダムから生まれた使徒は互いに争わないのに、リリスから生まれた人類は争ってばかりいる。そしてその理由は、他者と考えが違うからだ」という点にあるようだ。
さて、その考えは普通に理解できるが、しかしここから「人類補完計画」という発想に至るにはかなりの飛躍が存在する。要するに、「『他者と考えが違う』ことが原因で争いが起こるなら、そもそも『他者の存在』なんか無くしてしまえばいいじゃないか」という考えが根底にあるのだ。で、「皆が1つになる(『生命の根源』に戻る)」のであれば「『他者』は存在しない」と言えるだろう。碇ゲンドウはこのような世界を目指しているというわけだ。

まあムチャクチャな話だろう。そしてそんなムチャクチャな話に人類全体を巻き込もうとしているのが碇ゲンドウなのだ。なかなかの狂気である。またそもそもだが、何も知らずに『エヴァンゲリオン』に触れていると、「なんか分かんないけどNERVが攻撃されてて、それを守ろうとエヴァが頑張ってるから応援しよう!」みたいになるかもしれないが、実は「使徒がNERV本部を攻撃しているのは、自分たちのルーツであるアダムを奪還するため」だし、「NERVはゼーレの本来の目的遂行を逸脱して、碇ゲンドウの個人的なプロジェクトである『人類補完計画』を進めようとしている」わけで、「いやいや、NERVも碇ゲンドウも激ヤバじゃん」と感じられるはずだ。表面的な捉え方と深く理解した時の捉え方では印象が真逆になるというのがなかなか凄まじいなと思う。
それで面白いのが、『エヴァンゲリオン』の世界においては「人類補完計画」はほとんど周知されていないらしいということだ。碇ゲンドウや冬月コウゾウなどごく一部の人間しかそもそも知らないんじゃないだろうか。マリはどうやら理解しているようだが(『シン・エヴァンゲリオン』で描かれている感じだと、彼女は碇ゲンドウらと昔から関わりがあるらしい)、ミサトを始めとするNERV職員は基本的に知らないようだし(ネットで調べると、リツコは若干知っていたんじゃないかと書かれていた)、エヴァパイロットも当然知らないはずである。
つまり、作品の根幹に「人類補完計画」が横たわっているのに、登場人物のほとんどがその存在を知らず、「人類補完計画」とは関係なく行動しているというわけだ。

にも拘らず、「人類補完計画」はエヴァシリーズにおいて「主人公たちの物語」とリンクする。碇シンジを始めとする登場人物たちの「他者との葛藤」を描く物語が、「人類補完計画」の「他者が存在するから争いが起こる」という話と響き合うのだ。碇ゲンドウ視点で語るなら、息子である碇シンジとの関わりや、エヴァパイロット同士の関係性など様々な人間関係を知ることで、「やっぱり人間は争ってばかりだから、溶け合って1つになった方がいい」みたいな考えが強固になっていったという側面もあるのかもしれない。
一方、主人公たちの視点で言えば、碇シンジに顕著だが、「他者との関係性における葛藤に対して、かなり痛々しく自分自身を曝け出す」みたいな展開になっていく。本作では、登場人物たちの鬱々とした内面描写や、お互いの心を削り合うような関わり方がかなり色濃く描かれるのだが、それによって「『他者』が存在することによる複雑さ」が浮き彫りにされる。そしてまさにその点が、表立っては描かれない「人類補完計画」の目的と共鳴することになるのだ。この辺りの設定は本当に絶妙だなと思う。

さらに言えば、「ロボットアニメのよくある設定」としか思っていなかった「ATフィールド」もこの話と絡んでくる。使徒やエヴァが攻撃をブロックするための「バリア」的な存在として描かれる「ATフィールド」は、実は「『他者』との間に存在する『心の壁』」みたいなニュアンスも含んでいるのだ。人類を始めとする生命の場合は、「肉体そのもの」が「ATフィールド」、つまり「他者を寄せ付けないための壁」であり、つまり「人類補完計画」とは、「そんなATフィールドをみんなが取っ払って1つに溶け合えたら幸せじゃない?」みたいな発想なのである。

「ロボットアニメ」や「青春物語」でよくある設定・描写が「人類補完計画」という狂気の計画とまさに”補完”するような関係にあるという設定は見事だし、物語としての調和が凄いなと思う。そしてこういう捉え方をすることで、「碇シンジと渚カヲルが行っていたピアノの連弾」や「エヴァ13号機のダブルエントリーシステム」なども何となく意味を捉えやすくなる気がするだろう(私はちゃんと説明できるほど理解できてはいないが)。こういう描写もまた、「知れば知るほど知りたくなる/観たくなる要素」として機能しているなと思う。
エヴァパイロットたちの特異性、そして「世界を救う者たち」が持つ「個人的な動機」
『エヴァンゲリオン』の世界でかなり特異的なのが「エヴァパイロット」の存在だろう。「運命を仕組まれた子どもたち」と呼ばれることもある彼らは、14歳のまま年を取らない。私は、綾波レイや式波・アスカ・ラングレーが年を取らない理由は理解できているが(レイだけではなく、『シン・エヴァンゲリオン』ではアスカもクローンであることが判明するのだ)、碇シンジが年を取らないのは何でなんだろう? また、レイやアスカはクローンであるが故に「感情をあらかじめプログラムされていた」という話になるし、シンジはクローンではないが、感情や行動をかなりコントロールされていただろうから、そういう意味で「運命を仕組まれた」という表現になっているのだと思う。
さて、真希波・マリ・イラストリアス(彼女もまた謎の存在だ)を含めたエヴァパイロットたちは、広く言えば「世界を救う」みたいな役割を持っているわけだが、しかしそんな彼らの行動原理はかなり「個人的な動機」によって成り立っている。いわゆる「セカイ系」というやつで、恐らく『エヴァンゲリオン』の登場によって生み出された概念じゃないかなと思う(違うかもしれないが)。「個人の葛藤や絶望が、そのまま世界の行く末に直結する」みたいな世界観は、普通に考えれば相当狂気的に感じられるはずだが、しかし『エヴァンゲリオン』では、それを比較的自然に見せる要素が組み込まれているように思う。

それが、「シンクロ」という設定である。
私はアニメや特撮などに触れる機会が少ないのであくまでも想像でしかないが、「世界を救うために戦う」みたいな物語の場合、基本的に「誰でも戦闘に参加できる」んじゃないかと思う。例えばロボットアニメにしても、「操縦技術さえあれば、誰だってロボットに乗れる」というのが一般的な設定じゃないだろうか。そしてだからこそ、ロボットに乗る者には「戦う理由」が必要になる。「何故ロボットに乗ってまで世界を救おうとするのか?」に対する明確な理由が無ければ成立しない気がするのだ。
しかしエヴァはそうではない。「シンクロする人物」しか搭乗出来ないからだ(「シンクロ」というのは「エヴァと波長が合うかどうか」みたいな話である)。いくら操縦技術があっても、「シンクロ率」が低ければ乗れない。そして碇シンジ、綾波レイ、式波・アスカ・ラングレーなどのエヴァパイロットは、(状況にもよるが)エヴァとのシンクロ率が高いのである。

それで、ここで大事になってくるのが、「エヴァパイロットに『戦う理由』は必要ない」という点だろう。一般的なロボットアニメの場合は「戦う理由」を必要とするが、『エヴァンゲリオン』では「『エヴァとシンクロする者』に戦う資格がある」というだけのことであり、パイロット自身は「戦う理由」を持っていなくても別にいいのだ。
その一方で、エヴァパイロットたちにはそれぞれ「エヴァに乗る(乗らなければならない)理由」がある。碇シンジは「父親に認められるため」、アスカは「そこだけが自分の居場所だと考えているから」、綾波レイは「碇ゲンドウからの命令」みたいな理由だろう。どれも「世界を救う」みたいな話とはかけ離れたとても”個人的”な動機である。
つまりこういうことだ。エヴァパイロットたちは「エヴァとのシンクロ率が高い」が故に「エヴァに乗らざるを得ない」のだが、それとは別に「エヴァに乗らなければならない動機」も有している。その「動機」は実に個人的なものだ。しかし、「エヴァに乗る」ことは「世界を救う」ことに直結するため、結果として「エヴァパイロットが抱く『個人的な葛藤』」が「世界を救うこと」とリンクしてしまうのである。この設定は本当に絶妙だなと思う。というのも、このような「歪な構造」が存在することによって、観客は「世界観が理解できないまま『世界を救う物語』を追う」という体験が出来るからだ。

パイロットが「戦う理由」を持っている必要がある場合、その「戦う理由」を理解させるために、物語の世界観自体を観客に適切に伝えなければならないだろう。しかし『エヴァンゲリオン』では、パイロットたちが「戦う理由」を有している必要がない。そのため、物語の世界観が必ずしも伝わっていなくてもよくなるのだ。そしてその上で、「パイロット個人の葛藤」が「世界を救うこと」とリンクするため、「エヴァパイロットたちの個人的な悩みや苦しみ」に触れることで、同時に「世界を救う物語」そのものも追いかけられるのだと思う。

『エヴァンゲリオン』では、「使徒と戦う」という果てしない非日常と、「エヴァパイロットたちが通う高校での日々や学校外での彼らの交流」という穏やかな日常がシームレスに描かれるのだが、そこに違和感を抱かせないのはやはり、「個人の葛藤=世界を救う」という、普通には成り立たない等式が成立しているからだろう。そしてそこには、「『シンクロ』という設定によって『戦う理由』が必要なくなった」という物語上の発明があるわけで、ホントによく出来てるよなぁと思う。
それで、エヴァパイロットの中でもやはり、主人公である碇シンジはかなり特異的な存在だと言えるだろう。アスカのように「他者を基本的に拒絶する」とか、綾波レイのように「命令があるから存在していられる」みたいな生き方も、それはそれで「葛藤」をもたらすものではあるが、碇シンジは「父親との確執」というかなり普遍的な葛藤を背負わされている。そういう意味では全然特異的ではないのだが、やはり「『世界を救うための行動』を含めた碇シンジの全言動が、『父親に認められるため』という動機に支配されすぎている」という点が異様に映るんじゃないかと思う。

また父親とは関係ない状況でも、綾波レイの存在にかなり執着したり、渚カヲルの説得に流されてしまったりと、やはり碇シンジは「個人的な動機」だけで動いている。それはある意味でとてもリアルで現実的なのかもしれないが、「アニメの主人公」としては、特に『エヴァンゲリオン』がテレビ放送されていた頃には異様だったはずだ。そして、そんな「個人的な動機」でしか行動できない人物(まあこれは碇ゲンドウも同じだが)が世界の命運を握ってしまうわけで、やっぱりその異様さはかなりのものがあるなと思う。
また、既に少し触れたことではあるが、碇シンジの特異性としては「主人公なのに何も知らない」という点が挙げられるだろう。ただ、この点に関してはさらに、「『何も知らない登場人物』としての存在意義が与えられていない」ことも異様に感じさせるポイントなのだと思う。
碇シンジは、彼が対峙している世界について何も知らず、そして確かに、そのような存在であるが故に、観ている側も「どうせ分からないよね」という気分になれたりもする。しかし、そのような「何も知らない登場人物」は普通、「周囲の人から色々と説明されることで、観客に設定・世界観を理解させる」みたいな役割を担うことにもなるはずだ。しかし彼にとっては、「周りから説明されることがほぼすべて意味不明」なのである。つまり、本来なら「何も知らない登場人物」が果たすべきだろう役割をまったく担えていないというわけだ。

碇シンジは作中で何度も「◯◯の言っていることが全然分からないよ」みたいなことを口にする。彼の周りにいる人間は、何かを彼に伝えようとしてくれるのだが(理解させる気があるようには思えないが)、しかしその説明は彼には(そして観客にも)まったく意味が分からないのだ。個人的にはこの点もかなり特異的ではないかと思う。
このように本作では、まずそもそも「エヴァパイロット」たちがかなり特異な存在として描かれ、そしてその中でも主人公である碇シンジがより特異的な立ち位置を与えられている。このような構成もまた、『エヴァンゲリオン』という作品を狂気的にしている要素ではないかと思う。
「孤独」を強烈に描き出す物語
『エヴァンゲリオン』は全体として、とても強く「孤独」を意識させる物語だと言えるだろう。

まず、少し触れたことではあるが、エヴァパイロットたちは様々な「孤独」を抱えている。碇シンジは「父親に認められない」という想いを、アスカは「自分はずっと独りだ」という想いを抱いているし、綾波レイは「存在そのものが孤独」みたいな存在だ。さらに言えば、「14歳のまま永遠に年を取らない」という彼らの有り様が、「人類一般から否応なしに断絶させられてしまう」みたいな状況を生みもするだろう。
またこれも既に触れたことだが、「ATフィールド」は実は「心の壁」のことであり、碇ゲンドウ的世界観で言うなら、「人間は肉体を持っているからこそ『孤独』を感じるんだ」みたいにも表現できるように思う。まあそれは極端にせよ、人は誰もが何らかの形で「他者を寄せ付けないための壁」を持っているはずだし、それが他者との関わりにおいて障壁となる。そのことを、「ATフィールド」の存在によって可視化させ「孤独」を描いている点も実に興味深い。

あるいは、シンジ君から「自分は命を張ってるのに、ミサトさんたちは安全な場所で指示してるだけじゃないか」みたいに言われたミサトがある事実を明かす場面がある。NERV本部には「ある条件によって発動する自爆装置」が仕掛けられており、職員全員が「最悪の事態に陥れば命を失う」という覚悟を持って働いていることが明らかになるのだ。エヴァパイロットたちは「エヴァとシンクロしている」という理由で乗らざるを得ないのだが、NERV職員は別にそうではない。NERVで働く以外の人生だって選べたはずである。しかし彼らはそういう生活を捨ててNERVで働いているのだ。これもまた「孤独」「断絶」を意識させる要素だろう。

さらに、エヴァやNERVに関わらない者たちも孤独や断絶とは無関係ではいられない。例えば、『エヴァンゲリオン』の世界においては「インパクト」と呼ばれる謎の現象が起こる。「発動条件」や「『インパクト』が起こるとどうなるのか」などはちょっとよく分かっていないのだが、ざっくり「世界規模の大災害」ぐらいの認識でいいだろう。そして、「インパクト」が起こると多数の人が死ぬ(「死ぬ」という表現で合ってるのかは不明だが)ため、多くの人が大事な人を喪ったり関係性を断絶させられたりするのだ。
また『シン・エヴァンゲリオン』では、「ニアサー(ニアサードインパクト)」を生き延びた者たちが「第3村」と呼ばれる場所で肩を寄せ合って生きる姿が描かれる。作中で描かれる「第3村」の雰囲気は凄く良さそうに見えるが、医師として働く鈴原トウジが「最初は大変だったし、人に言えないこともやった」みたいに話す場面もあった。大切な人を喪い、さらに世界がどう変貌していくのかまるで分からない不安の中で疑心暗鬼にならざるを得なかったのだろうし、やはりそこには「孤独」が横たわっていたはずだと思う。
さらに『シン・エヴァンゲリオン』では、「碇ゲンドウが抱える孤独」がかなり直接的に描かれており、この点もまた印象的だった。碇ゲンドウはそれまでずっと、「自らが望む狂気的な計画のためにすべてをなぎ倒していく」というイカれた存在として描かれてきたはずで、そしてその印象は、『シン・エヴァンゲリオン』を観終えた後も決して変わったわけではない。ただ、碇ゲンドウが息子に語った過去の出来事や葛藤からは「孤独に蝕まれてきた人生」みたいなものが垣間見えたし、少しだけ碇ゲンドウの印象が揺らいだのも事実である。

「孤独」というのは誰もが抱え得る普遍的な感情であり、だからアニメ作品で描かれていること自体に違和感はない。ただ、「ロボットアニメ」という「ガワ」だけで判断すると見えてこないような様々な種類の「孤独」が『エヴァンゲリオン』には内包されていて、その点はとても印象的だった。そして、そんな「孤独」が作中のあらゆる描写に散りばめられているからこそ、『エヴァンゲリオン』という作品はある種の「普遍性」を獲得していると言えるのではないかとも思う。
その他『エヴァンゲリオン』に関するあれこれ
『エヴァンゲリオン』を観ていて常に感じるのは、「私たちの中には『エヴァンゲリオン』の音楽が染み込んでいるよな」ということだ。「危機的状況になり始めたことを伝える音楽」や「次回予告で流れる音楽」など、作中の音楽(劇伴)がとにかく印象的で、映像がないまま音楽だけ聴いていても、私たちの内側にある「エヴァンゲリオン受容体」みたいなものが即座に反応するんじゃないかと思う。何だか分からないが勝手にテンションが上がってしまうし、そんな風に「身体の反応」みたいな形で『エヴァンゲリオン』を体感できるのも凄いことだなと感じる。
また、『今日の日はさようなら』や『翼をください』みたいな、「誰でも知っているが、(ロボット)アニメではまず使わないだろう曲」を当たり前のように使用しているところも斬新だなと思う。普通に考えればミスマッチになりそうなのに、「ずっと続いていた緊迫感を少し緩ませる」みたいな役割があるからだろう、何故かスッと受け入れられる感じがある。さらに、曲調などから「壮大さ」「荘厳さ」みたいなものが感じられるため、それによってそのシーン全体の格調が高まっているような印象にさえなるように思う。間違いなく「違和感」をもたらすようなセレクトなのだが、色んな要素が噛み合うことで、最終的には「調和している」という雰囲気になるのが不思議だしさすがだなと感じる。

さらに、これはスタジオジブリの作品に対しても思うことなのだが、『エヴァンゲリオン』からは「1人の天才が圧倒的な世界を生み出している」という凄まじさが感じられる点も凄いなと思う。

昔何かで読んだのだが、欧米ではピクサーなどのように「大勢のクリエイターが意見を出し合って脚本や演出を練り上げ、1つの作品を生み出す」みたいなスタイルが主流なのだそうだ。そのプロセスは凄まじく洗練されており、太刀打ちできるようなものではないという。一方、日本の宮崎駿や庵野秀明のように、「個人の想像力・創造力によって凄まじい世界観を生み出す」みたいなやり方は欧米には真似できない。そして『エヴァンゲリオン』は、まさにその真髄を凝縮したような作品だと言っていいと思う。
もちろん、『エヴァンゲリオン』にしたって庵野秀明が1人で作り上げたわけではないが、とはいえ庵野秀明の存在がなければ生まれなかったことは間違いないだろう。また既に触れた通り、「庵野秀明が作ればエヴァンゲリオンになる」みたいな話を耳にしたことがある。確かにその通りだろう。「エヴァっぽい作品」は生み出せるかもしれないが、『エヴァンゲリオン』ほど深く構築された作品はそうそう生み出せないように思う。それは、「テレビ版・旧劇場版」と「新劇場版」がまったく異なる物語になっていることからも実感できる。その中心に庵野秀明がいるからこそ、『エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』になるというわけだ(だからこそ、新作がどうなるか楽しみでもある)。

私は『エヴァンゲリオン』の物語に触れる度に、そのような「個人が生み出した圧倒的な狂気」を実感させられるし、さらに、そんな物語を母語で体感できることもまた幸せだなと思っている。私は日本のアニメ史・サブカルチャー史に詳しくないし、だから『エヴァンゲリオン』がその中でどのような位置を占めるのかも分からない。ただ、『エヴァンゲリオン』が生み出した“土壌”の豊穣さは、碇シンジが感じた「土の匂い」のように何かを喚起し、刺激し、そして新たな“土壌”になっていくのだと思う。
『エヴァンゲリオン』というのは、「凄まじい文化に触れているのだな」と強く実感させられるとんでもない作品なのである。
それぞれの作品ごとの感想
ではここからは、作品ごとの感想に触れていくことにしよう。

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生』
先述した通り『シト新生』は、「テレビ版の1~24話の総集編である『DEATH』」と「テレビ版の25話をベースに作るはずだった『Air』が完成しなかったので、その前半部分だけをまとめた『REBIRTH』」で構成されている。まあそんなわけで、そもそも大前提として「これだけ観てもなんのこっちゃ分からない作品」と捉えておくべきだろう。基本的には「テレビ版を観ていた人向けの作品」だと思う。
なにせ、『シト新生』は99分の作品なのに、そこに「24話までの総集編」を詰め込んでいるわけで、初見の人に理解できるはずがない。私は、新劇場版をそれなりに観てから本作『シト新生』に触れたので何となく追えはしたが、「『エヴァンゲリオン』を観るのは初めてです」みたいな人には最初から最後まで何が何だか分からないと思う。
のだけど、「それでも面白いと感じられるんじゃないか?」と思わせるところに『エヴァンゲリオン』の凄さがある。エヴァシリーズについては、本編を一切観たことがない人でも「印象的な劇伴をバッグにした圧倒的なテンポ」「黒地に白抜きのインパクトのある文字表記」などはイメージ出来るんじゃないかと思う。また「哲学的なやり取り」「バトルシーンの凄さ」「ちょっとエロいシーンや、絶妙にグロいシーン」などなど、視覚・聴覚的に観る者を魅了する要素にも溢れている。そしてそんな作品を観ることは、「洋楽を聴く」みたいな体験に似ていたりするんじゃないかと思う。

洋楽を聴く場合、大体の人が歌詞の意味を理解していないだろう。しかしそれでも「この曲良いな」と感じられるはずだ。それと同じように、「24話を圧縮した超高速展開」という圧倒的ちんぷんかんぷんにも「良いな」と感じられる余地があると思う。まあ、そう思えないとしても、「100分で『エヴァンゲリオン』のエッセンスを取り入れられる」と考えれば、入門的にも良いのではないだろうか。少なくとも、いきなり新劇場版4作品を観ようとするよりハードルが低いことだけは間違いない。
恐らくそういう理由もあって、「月1エヴァ」では『シト新生』の上映も行われたんじゃないかと思う。単体の作品としての評価は少し難しいように思うが、「『エヴァンゲリオン』に触れるきっかけ」としてはうってつけだと言っていいだろう。

『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』
こちらも先述した通り、「テレビ版の25話をベースにした『Air』」と「テレビ版の26話をベースにした『まごころを、君に』」で構成された作品だ。要するに、「テレビ版の最終回を劇場公開する」という、最近のアニメでは割とあるパターンだと言っていいだろう(『エヴァンゲリオン』以前にもそういうスタイルは存在したんだろうか?)。

さて、私は本作を観る前の時点で、「『Air/まごころを、君に』はテレビ版の最終回をベースにした作品」だと知っていたので、そのまま観ても恐らく理解できないだろうと思い、普段は絶対にそんなことしないのだが、あらかじめネットでネタバレや考察をざっくり読んでから観た。そしてそのお陰もあってなんとなく理解できはしたが、何の情報も入れずに観ていたら恐らくさっぱり理解できなかっただろう。新劇場版に対しても同じことを思うが、「こういう物語を自力で理解できる人になりたかったな」と『エヴァンゲリオン』に触れる度に感じる。きっと何回観ても、自力では「それなりの解釈」にすら辿り着かないだろうなぁ。
というわけで、「『人類補完計画』に関係しているのだろう設定・展開」はまあさっぱり分からなかった。しかし『エヴァンゲリオン』が凄いのは、「エヴァパイロットたちの鬱々とした話」だけ追っていても十分に面白いということだ。いや、これももちろん人によるだろう。恐らく、「なんでこいつらこんなウダウダしてるんだ?」とイライラしちゃう人もいるんじゃないかと思う。『エヴァンゲリオン』って「ネアカには全然理解できないんじゃないか」という気がするが、さすがにそれは偏見にすぎるだろうか。
あとやっぱり驚かされるのは、「主人公である碇シンジがほぼ何もしないこと」だ。新劇場版でも、特に『シン・エヴァンゲリオン』でその傾向が強いのだが、『Air/まごころを、君に』でも、ただ黙って座っていたり、嫌だ嫌だと駄々をこねたりしながら、とにかく何もしない。エヴァに乗ってさえ、何もしなかったりするのだ。ホントに、よくもまあそんな物語を成り立たせられるものだなと思う。

というわけで、訳解らなさすぎて内容にはあまり触れられないのでそれ以外の部分について書くことにしよう。まず、メチャクチャ印象的だったのが終わり方である。本作『Air/まごころを、君に』は実に印象的なセリフで終わるのだ。「終わる」というのは、「そこからエンドロールが始まる」みたいな意味ではない。上映自体が終わるのだ。だから、エンドロールは物語の中盤(『Air』と『まごころを、君に』の間)にある。本作のこの「エンドロールを中盤に配し、超絶印象的なセリフで終わる」という構成はメチャクチャインパクトがあって良かったなと思う。
あと、私は割とエンドロールをちゃんと観ているのだが、その中に「友情編集」という表記があってとても気になった。「友情出演」というのはよく聞くが、「友情編集」って何だろうか。こういう意味不明なものが視界に入ったりもするので、日本語の場合はエンドロールを割とよく見るようにしている。
またエンドロールの話でもう1つ。「協力:昭島市立拝島保育園」という表記があり、「どゆこと?」となった。ネットで調べてみたところ、どうやら「作中で流れる『むすんでひらいて』をここの園児が歌っている」ということのようだ。凄い「協力」があったものだなと思う。こういうエピソードも面白い。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』
まず『序』を観た時、「どうして『エヴァンゲリオン』じゃなくて『ヱヴァンゲリヲン』という表記なのだろう?」と感じたのだが、結局その時は調べずに放置していた。この記事を書くにあたって改めて調べてみると、「元々テレビ版のタイトルを『新世紀ヱヴァンゲリヲン』にしたかったが、旧字体の使用や『ヲ』の用法が正しくないことなどからテレビ局からNOが出た」「映画を作る上でその制約はなくなったし、テレビ版とは違うという意味も込めて『ヱヴァンゲリヲン』という表記にした」ということらしい。でも『シン・エヴァンゲリオン』は『エヴァンゲリオン』表記なんだよなぁ。なんでやねん。
それで、新劇場版の最初の作品である『序』は、その後の『破』『Q』『シン・エヴァンゲリオン』の物語を踏まえると「メチャクチャ分かりやすいエンタメアニメ」だなと改めて感じる。もちろん、『エヴァンゲリオン』に一切触れたことがない人が観たら「は?」となるだろうが、その後の意味不明な展開を知った上で観れば「なんて分かりやすいんだ」と感動するんじゃないかと思う。

もちろん、「使徒って何?」「どうしてNERVを襲うの?」みたいな説明はなされないので、「ストーリー展開の根本の部分が意味不明」という状態は続く。ただ、「複雑な感情を抱いている父親との再会」「何故かパイロットに選ばれた少年の葛藤」「謎の少女とのミステリアスな関わり」「中学の同級生との『ザ・青春』的なやり取り」「無謀ではあるが非現実的とまでは言い切れない『ヤシマ作戦』」などなど、物語的に分かりやすいフックが色々と用意されている。そして、そういう要素で観客を惹きつけつつ、どんどんと「理解不能な世界観」へと引きずり込んでいき、その過程で碇シンジら登場人物たちに感情移入させられてしまう、みたいな展開はやはり見事だなと思う。

さらに、「ウダウダしている碇シンジ」がある意味で展開を主導するような形で、「NERV本部で働く者たちの覚悟」「綾波レイが有する神秘性」「父・ゲンドウの狂気」「ミサトさんの有能さ」などが浮かび上がる構成も上手い。「ウダウダしている碇シンジ」という中心軸がシンプルで追いやすいので、「メチャクチャ分かりにくい世界観の物語」にあって、登場人物たちの動きは見えやすくなっているなと思う。
あと、これは私が綾波レイのことも好きなだけだとは思うが、綾波レイとのやり取りはやっぱり惹かれてしまうなぁ。「じゃあ寝てたら」「さよなら」「笑えばいいと思うよ」みたいなセリフにはグッと来る。
また、これは私が年を取ったということなのだろうが、碇シンジと同級生2人(鈴原トウジ、相田ケンスケ)とのやり取りで少し泣いてしまったりした。20代の頃に初めて本作を観た時にはたぶんそんなところでは泣かなかったと思うので、これはシンプルに年を取って涙もろくなったということだと思う。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
『破』も、新劇場版の中ではまだ穏やかな方である。ストーリー展開的には大分よく分からなくなってくるものの、「学園モノ」っぽい雰囲気のシーンもあって、そういうポップな場面はやはり楽しい。そしてそこでは、嫉妬・恋心・友情みたいな人間臭い感情が色々と描かれていて惹きつけられる。特に、「運命を仕組まれた子どもたち」と「そんな子どもたちに未来を託すしかない大人たち」という対比が、「人間臭い要素」をより印象的に見せているように思う。手法としては「『余命半年』みたいな人物を主人公にする」のと同じだと思うが、作品全体の設定強度がまったく異なるので、「余命半年的な物語」のような印象にはならない。
で、本作でもやっぱり綾波レイがいいよなぁ。「綾波レイと言えば」な「ポカポカする」も『破』で出てくるし、なんと料理さえするようになるのだ。リツコさんは綾波レイの変化に対して「あり得ない」と言っていたくらいである。まあ確かにその通りだろう。とはいえ、彼女の変化が碇ゲンドウの計画の中でどのような位置づけになっているのか、その辺りのことはやはりよく分からないのだが。いずれにせよ、綾波レイというキャラクターはやはり印象深いなと思う。
また『破』から新たに登場したのが真希波・マリ・イラストリアス。彼女もまた実に魅力的なのだが、同時にかなり謎の存在でもある。冒頭で、加持リョウジが口にした「大人の都合に子どもを巻き込むのは気が引けるなぁ」と呼応するように、彼女は「子どもの都合に大人を巻き込むのは気が引けるなぁ」と言っており、何か明確な目的を持つ人物なのだと思うが、私にはイマイチよく分からない。また、彼女は誰かから指示を受けているようで、つまり組織に属しているのだと思うが、それは一体何なんだろう。さらに、『シン・エヴァンゲリオン』まで観ると、以前の彼女は碇ゲンドウ側の人間だったようだし、だから余計に謎である。まあ何にせよ印象深い存在で、特に個人的には「ビーストモード」になった時の狂気的な感じがいいなと思う。

で、『破』では、碇ゲンドウと冬月コウゾウの「意味深な会話」が結構多かったかな。もちろん、何の話をしているのか私には理解できなかった。新劇場版につては、もうこの辺りから「物語そのものを理解すること」を諦めていたと言っていいだろう。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
それまでの『エヴァンゲリオン』とはまったく違うストーリーになっていて驚かされた
『Q』の鑑賞時にはかなり驚かされた。というのも、『序』『破』とは全然違う物語になっていたからだ。
ここには2つの側面がある。まず「月1エヴァ」では、『Q』本編の前に短編2作の上映があった。『EVANGELION:3.0(-46h)劇場版』と『EVANGELION:3.0(-120min.)』である。「短編が上映される」というのは何となく知っていたものの、「本編の最後に流れるのかな?」みたいに漠然と想像していたこともあり、私は冒頭からという想定をしていなかった。そのため、「あれ? 私の知ってる『Q』じゃない」みたいな感覚になった、というのが1つ。

そしてもう1つ、こちらの方がより本質的なのだが、「『序』『破』から繋がってる物語だとはとても思えない」という感覚である。私は正直、『Q』を初めて観た時、「『破』の後、何か1つすっ飛ばしちゃったか?」と感じたぐらいだ。それぐらい、『破』と連続している物語だとは思えなかったのである。

何せ、いきなり「WILLE」なんて組織が出てきて、しかも「NERV」と対立しているというのだ。もうこの時点で意味が分からない。それに、どうやら『破』から14年も経過しているみたいだし、「ヴンダー」なんていう新たな存在が出てくるし、なんか世界は終わっちゃってるっぽいし。しかも、葛城ミサトを含め、登場人物のほとんどが碇シンジにキレ倒してる。まあ物語を追っていくと「そりゃそうか」という感じになりはするが、とにかく疑問符が山ほど浮かぶ場面が冒頭からドドドっと展開されるので、脳内がハテナで飽和状態になってしまうのだ。
ホント、よくもまあここまでまったく違う物語に解体できるものだなと感心させられた。

「個人の物語」が成立し得ないほど世界は激変してしまった
『序』や『破』では、「理解不能な大きな物語」の中に「エヴァパイロット個人の物語」が適切な配分で配置されることで、「『分かる』と『分からない』のバランス」が良い具合に取れていたような気がする。しかし『Q』にはもはや「個人の物語」が成立する余地などなくなってしまった。「個人の物語」を含めたすべてのストーリーが「『大きな物語』における不可分な要素」として取り込まれてしまっているような感じで、それ故に「分からなさ」が一層増しているのではないかと思う。
もちろん、「個人の物語」が描かれていないわけではない。碇シンジを起点とした「葛城ミサトとの関係」「式波・アスカ・ラングレーとの関係」「渚カヲルとの関係」「アヤナミレイとの関係」などはちゃんと展開される。ただ、確かにそれらは「個人の物語」なのだが、彼らがいる世界ではもはや、「個人の事情」が「個人の物語」として成立するような余地など存在しないのだ。作中でアスカが「もうそんなことに反応してるヒマなんてないのよ、この世界は」と言っていたが、このセリフはそんな状況を端的に表現したものに感じられた。
エヴァパイロットは「運命を仕組まれた子どもたち」であり、彼らがいる世界の中で必然性のある役割を背負わされている。しかし、『序』や『破』の中ではまだ、彼らは「そんな役割から逃避する自由」や「生き方を選ぶ余白」みたいなものを有していたように思う。『Q』と比べれば世界はまだ穏やかさを保っており、「個人」という領域を侵食されずに済んでいたからだ。しかし『Q』の世界では、それまでとは何もかもが激変してしまっており、だからこそもはや「個人の物語」が成り立たない(というか、意味を成さない)状態になっている。そして、『破』から一気にそのような状況に変わってしまったことに、とにかく驚かされてしまったというわけだ。

さらに、「『破』のラストシーンから『Q』の冒頭に至るまでに、碇シンジは14年間も眠ったままだった」という状況も「分からなさ」に拍車をかける要素になっている。『Q』の物語は観客を完全に置き去りにしていくが、それは碇シンジにしても同じだ。彼も、自分が眠っていた間のことは何も分からない。そして、その間のことを誰も教えてくれないのだ(後に渚カヲルが伝えるのだが)。ある意味で観客は、碇シンジと同等の困惑を抱きながら『Q』の世界を彷徨うことになるわけで、そりゃあ分からなくて当然だよなという感じにはなる。
渚カヲルの謎、碇シンジの暴走、綾波レイの消失
『Q』では渚カヲルがかなり重要な存在になるのだが、結局「渚カヲルは何者なのか?」という点は全然分からなかった。宇宙でも、碇シンジが防護服を着ている場面でも生身の身体のままでいるから「ただの人間じゃない」ってことは分かるけど、じゃあ何なんだろう? 本人は自分のことを「使徒」だと言っていたが、うーん、だとしたら渚カヲルが碇シンジに協力的なのは何故なんだろうなぁ。いや、別に協力的なわけじゃなくて、碇シンジを上手く利用してたりするのだろうか?(そんなことはなさそうだけど)
ちなみに、『シン・エヴァンゲリオン』では唐突に「渚司令」という表現が出てきた。ネットで調べると、この点に関しては、後に行われた舞台挨拶の中で「NERVの司令」だという設定が明かされたそうだ。「碇シンジが眠っていた14年間の間に碇ゲンドウと冬月コウゾウがNERV内で失脚し、代わりに渚カヲルが司令になった」のだという。ふむ、まあそれはそれでよく分からない話ではあるのだが。

また『Q』では、碇シンジの暴走がなかなか酷い。いや、新劇場版全体で言えば『破』の碇シンジの方がヤバかったのかもだけど、『Q』でもなかなかだ。なにせ、カヲル君に「ダメだ!」って言われてるのに槍抜いちゃうんだもんなぁ。いやいや、ダメだって言ってるやん。もちろん、「ストーリーの展開上、碇シンジにそう行動させないといけない」って背景はあるんだろうけど、そういう作劇上の事情はまあともかく、「碇シンジ、暴れすぎやで」と思う。そりゃあ、DSSチョーカーも付けられちゃうよなぁ。
あとは綾波レイか。碇シンジの記憶では「『破』の時に綾波レイを助けた」わけだが、目の前にいる「綾波レイの形をした少女」はどうも自分が知っている綾波レイではない。で、『Q』で碇シンジは冬月コウゾウから「綾波レイは碇ユイのクローンだ」と教えられる。恐らくこの時初めてその事実を知ったのだろう碇シンジは、ようやく「自分が助けた少女(綾波レイ)と、目の前にいる少女(アヤナミレイ)が別人である」と悟ったのだと思う。

ただ、「じゃあ綾波レイはいなくなってた(肉体や魂が失われて)しまったのか」というと、それもイマイチよく分からない。きっとこの辺りにも色んな考察が存在するのだろう。個人的に1つ感じることは、「碇シンジが『破』の時点で『綾波レイ=クローン』だと知っていたらニアサーは起こらなかったんじゃないか」ということ。ニアサーは、「碇シンジが初号機から綾波レイを助けようとして起こった」ので、クローンだと知っていたらもしかしたら「助ける」という行動を取らなかったかもなぁ、と。まあ彼なら、クローンだと知っていても助けたかもしれないが。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
『シン・エヴァンゲリオン』に関しては、公開直後に観に行った後、考察動画を見漁りまくってから再び観に行った。そういう鑑賞はたぶん、映画『TENET』以来だと思う。しかしホント、公開直後なのによくもまああれほど考察できるものだと感心させられた。というわけで、『シン・エヴァンゲリオン』の感想に関しては特に、考察動画からの知識も多く含まれている。
『シン・エヴァンゲリオン』ももちろん意味不明な物語だったが、ただ、それまで触れてきた『エヴァンゲリオン』と比べると「ちゃんと情報を提示してくれている感」が強く感じられた。特に、碇ゲンドウが滔々と語り始めて以降はよりその感覚が強くなったように思う。それまでの『エヴァンゲリオン』が「受け取るべき情報が何かも分からないから整理のしようもない」という感じだとしたら、『シン・エヴァンゲリオン』は「受け取れそうな情報が山ほどあるからこそ整理できない」みたいに感じだろうか。そういう意味で、今までよりもずっと”親切”だったと言えるかもしれない。
ちなみに、「月1エヴァ」で鑑賞した『シン・エヴァンゲリオン』では、冒頭で『序』『破』『Q』のざっくりした復習みたいな映像が流れた。私の記憶では、以前観たバージョンにはなかったような気がするのだが、どうだろうか。

『シン・エヴァンゲリオン』を観終えて感じた「圧倒的な喪失感」
内容について触れる前に、まずは『シン・エヴァンゲリオン』を観て私が強く感じた感覚に触れておきたいと思う。それは「圧倒的な喪失感」だ。そしてこの感覚は、本作の公開がまさにコロナ禍中だったことにも関係していると言えるだろう。
私はそもそもだが、あまり物事に執着しないタイプだと思う。というか、「執着しないようにしている」という表現の方が正確だろうか。だから「喪失感」を抱くような機会はあまりない。そんなこともあって、『シン・エヴァンゲリオン』を観終えて「あぁ、『エヴァンゲリオン』は本当に終わってしまうんだな」みたいな感覚になった自分が凄く意外だった。本当に、人生で久々に感じた「喪失感」じゃないかと思う。
私は映画でも小説でも何でも、「シリーズが続いていくもの」があまり好きではない。だから、というわけではないのだが、マンガも読まないしアニメも観ないしゲームもやらない。小説も、よほどのことがない限りシリーズ物には手を出さないようにしている。なので、『シン・エヴァンゲリオン』を観て感じた「喪失感」が、「シリーズの終了時に常に抱かされるもの」なのか、あるいは「『エヴァンゲリオン』だからこそ感じられたもの」なのかはよく分かっていない。ただ、なんとなく主観的には後者であるような気がしている。

さらに私は、『シン・エヴァンゲリオン』が結果的にコロナ禍中に公開されたことにも思いを馳せてしまう。コロナ禍では、目に見えない謎の脅威によって人と人との関わりが大幅に制限されていた。まさに、「全世界が同時に強烈な『孤独』に支配されていた」と言っていいだろう。人類史において、「『世界中の誰もが孤独を感じているだろう』と世界中の誰もが想像できる状況」になったことなどなかったのではないかと思う。
そして前述した通り、『エヴァンゲリオン』は「孤独」を描き出す物語でもある。「ATフィールド」や「人類補完計画」、あるいは「エヴァパイロットたちの葛藤」などが「孤独」を浮き彫りにしていくのだ。そしてそれ故に、「そんな『エヴァンゲリオン』を、世界中が否応なしに『孤独』に侵されているタイミングで鑑賞する」という状況は、結果として『エヴァンゲリオン』という作品が持つ力強さをより一層印象付けたように感じられたのである。
このように考えると、鑑賞後に抱いた「喪失感」には、「劇場で感じられていた観客同士の『無意識の一体感』みたいなものから離脱しなければならない寂しさ」も含まれていたのかもしれないとも思う。

SNSはある意味で「『孤独』を見えにくくしている」とも言えるだろう。「いつでも誰とでも繋がれその存在が感じられる」という状況では、他者の「孤独」は捉えにくいように私には感じられている。だから私たちは普段、「目の前にいるあの人はきっと孤独だろう」みたいに感じる機会が少ないんじゃないかと思う。

しかしコロナ禍というのは、「目の前にいるあの人”も”きっと『孤独』だろう」と誰もが感じられるような世の中だった。もちろん、『シン・エヴァンゲリオン』を観るために劇場に足を運んだ人たちも「孤独」だっただろう。つまり、「コロナ禍において『シン・エヴァンゲリオン』が上映されていた劇場」は「『誰もが孤独である』とお互いが感じ合っている空間」だったと言っていいと思う。そして、そのような空間で「孤独」を強烈に感じさせる作品を共に観るのだから、より一体感は高まるだろう。
さらに、私と同じく公開直後に『シン・エヴァンゲリオン』を観に行った人は、「2度の公開延期を乗り越えて、今日この日を長い間待ちわびた同志」みたいな感覚を抱いていたようにも思う。そしてそれ故に、「無意識の一体感」はより強まったのだろう。少なくとも私は、劇場にいた「これまで会ったこともないし、恐らく今後も会わないだろう人たち」と、「今この一瞬だけは『仲間』である」みたいな感覚を確かに感じていたと思う。

そしてそのような場から、155分後には去らなければならない。そんな「寂しさ」も乗っかって、「喪失感」として強く意識されたのかもしれないと思う。本当に、日常的に感じることのない不可思議な感覚に襲われたし、その事実が私に、「やっぱり自分は『エヴァンゲリオン』が好きなんだな」と改めて実感させもした。
もちろん、コロナ禍という特殊な環境下ではない鑑賞であっても『シン・エヴァンゲリオン』(というか『エヴァンゲリオン』)の価値は変わらなかっただろう。誰もが知るエンタメ作品が「孤独」と真正面から向き合ってくれているからだ。
私は何でもSNSのせいにしがちなのだが、SNSは人との距離を縮めた一方で、遠ざけもしたと思っている。「他人の人生の上澄み」ばかりが可視化されることで、誰もが「あの人と比べたら私は……」という感覚を抱かされてしまうし、自己肯定感が下がりやすくもなっていく。さらに、「繋がりやすくなった」が故に「安易に繋がろうとすべきではない」みたいな”配慮”が生まれている印象さえある。「SNSの便利さ故に、人との距離の詰め方がむしろ難しくなった」みたいに感じている人も結構いるんじゃないかと思う。
そんなわけで、以前にも増して誰もが「孤独を抱きやすい世の中」を生きていると思うのだが、その一方で、やはり孤独だとはなかなか口にしづらい。「誰だって孤独なんだよ」みたいな冷笑が返ってくることを恐れている人もいるだろうし、あるいは、「孤独の平均値」が上がっている社会では、「自分が感じている『孤独』を低く見積もりがち」みたいな感覚の人もいるかもしれないと思う。

そういう中にあって『エヴァンゲリオン』では、碇シンジを始めとした様々な登場人物たちが、時に素直に、時に葛藤を抱きながら自らの「孤独」を吐露していく。その姿はやはり、「自分の心の叫びを代弁してくれている」みたいに捉えられるのではないかと思う。「孤独」を描く物語は多いだろうが、「全世代の誰もが知っている作品」は限られるし、『エヴァンゲリオン』はまさにそのような作品の1つと言っていいだろう。そういう点でも非常に価値があるように思う。
また、2度の延期を余儀なくされた『シン・エヴァンゲリオン』だが、なんとその公開から10日後に、「65年ぶりに新たな死海文書が発見された」というニュースが出た。「死海文書」は「聖書の原型」とも呼ばれるもので、『エヴァンゲリオン』内でも繰り返し言及される。何というか、あまりにもなタイミングではないだろうか。「コロナ禍中の公開だったからこそ、観客同士の『無意識の一体感』が高まった」という点も含め、「『シン・エヴァンゲリオン』は、作品自らが公開時期を選び取ったのではないか?」というアホみたいな考えを抱かされてしまったぐらいだ。ホント、様々な意味で「伝説的」と言っていい作品だなと思う。
『シン・エヴァンゲリオン』では、「登場人物」だけではなく「制作陣」「ファン」の解放も目指している
さてここからは、考察動画を見漁って知った情報を踏まえつつ色々と書いていこうと思うが、まず「なるほど、そんな視点もあるのか」と感じた話から始めよう。それが「『シン・エヴァンゲリオン』は『登場人物』の解放に留まらず、『制作陣』や『ファン』の解放も目指した作品だ」という考えである。ホント、凄い考察をするものだなと思う。もちろん、それが庵野秀明の意図通りのものなのかは分からないが、「なるほどな」と感じさせられたことは確かである。

そもそもだが、新劇場版の制作陣は『序・破・Q』と『シン・エヴァンゲリオン』とでは体制がガラリと入れ替わっているという(よくそんなところまでチェックしているものだなと思う)。もちろん、そこには何か別の意図があるのかもしれないが、「『エヴァンゲリオン』の制作陣の解放」という視点で捉えるとメチャクチャ見事にハマるだろう。

また、これはよく指摘されていることだと思うが、「碇シンジや碇ゲンドウには庵野秀明自身が強く投影されている」という話がある。となれば、『シン・エヴァンゲリオン』(だけではないが)で繰り広げられていた様々な闘いや葛藤は、より広い視点で捉えれば「『エヴァンゲリオン』という作品と向き合わざるを得なかった庵野秀明自身のもの」でもあり、そして「それが『シン・エヴァンゲリオン』という作品で終わった」という捉え方も凄く納得できるなと思う。
さらに「ファンの解放」という意味ではこんな指摘もあった。これまでの『エヴァンゲリオン』では、登場人物や物語に関して曖昧な部分が多く、そして良かれ悪しかれ、それが様々な考察を生み出す要因にもなっている。それで、この点を「悪しかれ」側から捉えるなら、「延々と考察し続ける」という状況は「ファンが『エヴァンゲリオン』という作品に囚われ続けている」とも言えるだろう。

しかし、『シン・エヴァンゲリオン』で提示された物語によって、「『これまで未解決とされてきた様々な謎や疑問』に公式が一定の回答を与えている」と捉えられるという(もちろん、私は自力ではとてもそこまでの感覚には辿り着けないが)。そしてこれは見方を変えれば、「ファンを『エヴァンゲリオン』から解放している」とも言えるだろう。もちろん、あまりにも奥深い作品だし、さらにファン一人ひとりの想いが30年弱の年月分積もり積もっているわけで、議論や考察自体が無くなることはないと思う。しかし、「まったくの五里霧中」という状態から、「手がかり、足がかりがたくさん見えてきた」という状況にはなっているのだろうし、それはこれまでの『エヴァンゲリオン』との関わり方を変えるものではないかという気がする。「庵野よ、俺たちに『答え』を教えてくれ!」みたいな渇望が終わり、「庵野よ、俺たちが自分なりの『答え』を導き出せる状況を作り出してくれてありがとう!」という感謝に転換されたとも言えるだろうし、それを「『エヴァンゲリオン』という作品に囚われ続けていたファンの解放」と捉えることも自然なように思う。
このように、「登場人物一人ひとりを解放していくだけではなく、『エヴァパイロット』以上に『エヴァの呪縛』に囚われていたと言ってもいいかもしれない『制作陣』『ファン』の解放をも目指す」というのが『シン・エヴァンゲリオン』の目標だと捉えるなら、その役割を完璧に果たしたと言えるのではないかと思う。このようなメタ的な視点からも面白い見方が出来る作品というわけだ。
「反復・繰り返し」「円環」を示唆するキーワード
『シン・エヴァンゲリオン』では、タイトルに「反復」「繰り返し」を示唆するキーワードが既に含まれている。1つは『シン・エヴァンゲリオン新劇場版』という表記の後に付いている「:||」という音楽記号。これは「一度だけ決められた場所に戻って繰り返す」という意味なのだそうだ。そしてもう1つが副題の「THRICE UPON A TIME」。これは、J・P・ホーガンというSF作家の小説のタイトル(邦題は『未来からのホットライン』)である。そのストーリーは、「過去にメッセージを送れる機械を使うことで、物語が3回繰り返される」という内容のようだ。このようにして「反復」「繰り返し」が示唆されている。

また「円環」の話で言うなら、月面に棺桶が円環状に並んでおり、その1つで渚カヲルが目覚めたシーンが印象的だった。渚カヲルはどうやら、「円環のように連続する時間をループする存在」「ループ構造の物語における語り部を担わされた存在」なのだそうだ。さらに、渚カヲルの存在は、「始まりと終わりは同じ」という示唆を与えもする。というのも彼は、「第1使徒」であり「第13使徒」でもあるらしいからだ(1時と13時が同じだと考えると分かりやすいだろう)。
そしてこの「始まりと終わりは同じ」という描写は他にも様々な形で出てくる。例えば、『シン・エヴァンゲリオン』後半の”親子喧嘩”は、「初号機(碇シンジ)」と「13号機(碇ゲンドウ)」との闘いだ。また、『シン・エヴァンゲリオン』で碇シンジは初号機とのシンクロ率が「0%」となり、普通なら操縦できないはずなのだが、「実は『0』に最も近い数字である『無限大』なのではないか」という示唆がなされていた。さらに言えば、『エヴァンゲリオン』の根幹にある「人類補完計画」は、「種としての『死』(終わり)は、新たな『生』(始まり)である」なんて風にも捉えられるだろう。
このように、『エヴァンゲリオン』では「始まりと終わりは同じ」という円環構造がかなり多重的に描かれており、それが『シン・エヴァンゲリオン』で一層過剰に示唆されているという感じだった。さらに、ホントにみんなよく観てるなと思ったのが、碇シンジが父親との思い出として大事に持っている「SDAT」(音楽プレーヤー)についての描写だ。SDATはそれまで、「トラック1」から「トラック26」までを延々と繰り返しているだけだった(ちなみに、トラック数が26なのは、テレビ版が全26話であることと対応させているそうだ)。しかし『破』でマリが屋上に降りてきた時に、SDATが初めて「トラック27」を表示したらしい(私は全然気づかなかった)。これについては、「マリの登場によって初めて、終わることのないはずの円環構造が破られた」という解釈がなされているようだ。

またこの「反復・繰り返し」「円環」というキーワードから、「登場人物たちは2周以上の人生を生きている」みたいな解釈もなされている。考察動画を観る限り、この点に関する仮説は色々と存在しているようで、私の視界に入っただけでも「碇シンジは様々な時間軸を行ったり来たりしている」「綾波レイの幽霊が登場すると別の時間軸に分岐する」「『Q』だけ別の時間軸の物語」など様々な考察が存在した。さらに、「テレビ版、旧劇場版、新劇場版は同じ時間軸の物語であり、登場人物たちはその度にやり直しの人生を生きている」みたいな解釈もあるようだ。

その中で個人的に最も「なるほど」と感じたのが「碇ユイ人生2周目説」である。「2周目の人生を生きている碇ユイが、今後起こることを碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、真希波・マリ・イラストリアスの3人に伝え、それを踏まえて3人が行動している」という解釈だ。確かに『エヴァンゲリオン』では、「知りすぎている者」と「何も知らない者」の情報量の差が大きすぎる。渚カヲルの場合は「ループした時間を生きている存在だからずっと情報が蓄積されていく」という解釈で理解できるが、碇ゲンドウ、冬月コウゾウ、マリの3人は他の人が知らないことを知りすぎているなと思う。まあ、碇ゲンドウと冬月コウゾウについては「死海文書があるから」という解釈も可能だが、マリに関しては可能性さえ思いつかない。そう考えれば、「人生2周目の碇ユイから話を聞いた」という可能性も現実味を帯びてくると言えるだろう。
さて、このような「反復・繰り返し」「円環」という構造で『シン・エヴァンゲリオン』を捉えると、物語の後半における碇シンジの行動が理解しやすくなるんじゃないかと思う。碇シンジは、どうしてそうなったのかはよく分からないが、「イマジナリーの世界」ではなく「リアリティの世界」で立ち直った。そしてそんな碇シンジに渚カヲルが「どうしたい?」と聞いた際、彼は「僕のことはいいからアスカたちを救いたい」と答えるのだ。

では、この「救いたい」とは一体どんな意味なのか? それはどうやら、「『エヴァが存在する』が故に円環構造に囚われてしまっている状況から解放すること」を意味しているのだそうだ。碇シンジが『シン・エヴァンゲリオン』の中で解放しようとするのが「アスカ」「渚カヲル」「レイ」の3人であることからもそう判断できるという。アスカとレイは共にクローンであり、それ故に円環を成す世界をいくらでも生き続けられてしまう。また理由は不明だが、渚カヲルもまた円環構造に囚われているようである。そして碇シンジはそんな3人を繰り返しの世界から解放しようとしているというわけだ。
彼らは「エヴァが存在する」せいでそ円環構造から抜け出せない。アスカはエヴァに乗ることで孤独を癒やしてきたし、レイは「エヴァに乗る以外に存在意義がない」と感じている。また渚カヲルは「碇シンジの幸せ」を願っており、その「幸せ」の一端は「碇シンジがエヴァに乗らずに済むこと」だと言えるだろう。エヴァさえなければそんな円環構造の中にいる必然性などなくなるわけで、だから碇シンジは「エヴァが存在しない世界」に書き換えようとしているということのようである。
しかしホント、自力ではこういう思考にはどうやっても辿り着けないので、考察する人たちは本当に凄いなと思う。そして改めて、このような怒涛の考察にも余裕で耐え得る強さを持つ『エヴァンゲリオン』という物語に圧倒させられる。

「運命を仕組まれた子どもたち」の様々な関係性
『シン・エヴァンゲリオン』においては、「第3村での生活」がとてもほのぼのしていて、まったく理解できない物語に触れる上で癒やし的な存在になっていたなと思う。『エヴァンゲリオン』は本当に全体の構成が上手くて、観客を置き去りにするような難解かつ怒涛の展開が詰め込まれている一方で、「第3村」みたいな誰でも楽しめる要素もちゃんと用意されている。だから観客も、ギリギリ振り落とされない程度にどうにか物語についていけるのだと思う。
で、その中でもやはり、アヤナミレイの存在がメチャクチャ良かった。彼女はこれまで「NERVでエヴァに乗る生活」しかしていなかったこともあり、村での生活の中で「仕事って何?」「『おはよう』って何?」と無邪気に質問を重ねていく。そしてその雰囲気がとても可愛くて良かったなと思う。ホント、村にいるアヤナミレイはずっと見てられるなぁ(ただ、ふと思ったのだが、同じクローンであるアスカとはどうしてこんなにも違うのだろう?)。
また、この「第3村」にも考察がなされていて、「加持リョウジが実現しようとしていた『種の保存』の人類版のような空間ではないか」という意見があった。第3村での生活の描写では、大人になった鈴原トウジが医者として出産の手助けをしていたり、鈴原トウジの妻(委員長)が赤ちゃんに授乳していたり、野良猫が妊娠していたりと、様々な形で「生」が意識されている。そしてそういう環境だからこそ、「出生」という背景を持たないアヤナミレイの存在は異質だと言えるだろう。さらに、「彼女がそこに居心地の良さを感じ『ずっとここにいたい』と願うものの、どうしてもそれが叶わない」という切なさややるせなさが描かれていたことも印象的だったなと思う。

あるいは、アヤナミレイに関してはアスカの口から「アヤナミシリーズは第3の少年(=碇シンジ)に好意を抱くようにプログラムされている」という話が出てきた。そしてこの点に関しての考察も興味深いなと思う。それは、『エヴァンゲリオン』全体の中でも屈指の名シーンと言っていいだろう場面に関するものだ。『序』で綾波レイが「こういう時、どうしたらいいか分からないの」と言った時に、碇シンジが「笑えばいいと思うよ」と返した場面である。

さて、テレビ版にもまったく同じシーンがあるようだが、テレビ版では「笑えばいいと思うよ」のセリフに被せる形で碇ゲンドウの映像に切り替わるのだそうだ。つまり元々は、「綾波レイが碇シンジの中に碇ゲンドウを感じて笑う」という場面だったのである。しかし『序』では碇ゲンドウのイメージが重なることはない。これは、「『アヤナミシリーズは碇シンジに好意を抱くようにプログラムされている』という新たな設定を踏まえて、『笑えばいいと思うよ』の解釈が変更された」というように受け取られているようだ。なるほどなという感じである。
で、綾波レイ(アヤナミレイ)は碇シンジ以外には「感情」を持たない存在として描かれてきた。そしてだからこそ、村で人間の営みを体験した経験を通じて様々な感覚を理解していったアヤナミレイが碇シンジに別れを告げる場面はグッと来るなと思う。「稲刈りをしてみたかった」「ツバメをもっと抱っこしていたかった」「好きな人と一緒にいたかった」と言いながら後ずさりしていく場面は、やっぱり込み上げてくるものがあるよなぁ。

さらに言えば、「一般的な『感情』を持たない存在だからこそ、誰にも解けなかった碇シンジの心を溶かすことが出来た」という点も興味深いなと思う。綾波レイ(アヤナミレイ)は、基本的な「感情」さえ持っていないが故に、教わって理解した言葉や感覚を躊躇なく口にすることが出来る。そしてそのストレートさに、碇シンジは負けたのだろう。そう考えるとホント、「何でみんな僕のこと放っておいてくれないんだよ」と泣く彼に、「みんな碇くんのことが好きだからよ」とさらっと言ってより号泣させるなんて、アヤナミレイにしか成立させられない場面だよなとも思う。あと、「『好き』って分かったから嬉しい」ってセリフも凄く良かった。っていうか、やっぱり綾波レイ(アヤナミレイ)がメチャクチャ良いよなぁ。
さて、アヤナミレイと、『シン・エヴァンゲリオン』でクローンだと明らかにされたアスカ(式波・アスカ・ラングレー)に関しては、「プラグスーツを着ている/着ていない問題」についての考察もある。アヤナミレイは病院で「着替えたくない」と主張し、農作業中もプラグスーツを着ていた(さすがに銭湯に入る時には脱ぐように言われていたが)。彼女はある場面でLCL化してしまうのだが、これについては「プラグスーツを着続けたせいで『人間の形を保つ機能』を早く使い切ってしまったのではないか」と考えられているらしい。
一方アスカの場合は、プラグスーツを着ている場面はほぼなく、「裸に上着だけ羽織る」みたいな姿でいることが多い。そしてこれを「プラグスーツを温存している」と捉える解釈があるそうだ。アスカがシンジに「初期ロット、ちゃんと動いてる?」と聞く場面があるので、「『動けなくなる可能性』を理解している」と考えていいだろう。また、アヤナミレイが「私はNERVでしか生きられない」と口にする場面もある。彼女も「動けなくなる可能性」を理解していたのかもしれない。プラグスーツを温存していたらもう少し長く形を保っていられたのか、その辺りのことはよく分からないが、いずれにせよ、ここではアスカとアヤナミレイのスタンスの違いが浮き彫りにされていると言えるだろう。

それで、このように考えてみることで、アスカが風呂に入っていたり寝てたりする場面でよく「脱がれた状態のプラグスーツ」が映し出されていたことが気になってきた。そのカットにどんな意味があるのかよく分かっていなかったが、もしかしたら、後に明かされる「アスカも実はクローンだった」という真相への伏線みたいな意味合いがあったのかもしれない。そしてこのような考えを踏まえると、『エヴァンゲリオン』内のあちこちに出てくる「(主にアスカの)微エロシーン」にも面白い解釈が出来そうだなと思う。
さて私は、ざっくりしたことしか知らないが、「欧米ではエロ規制が厳しく、日本的な感覚なら『まあセーフだろう』という描写でも、欧米ではアウトみたいなことはよくある」という話を聞いたことがある。だから、『エヴァンゲリオン』の中で「微エロシーン」が出てくる度に、「これは欧米の検閲を通るんだろうか?」と勝手に心配になっていた。だからそういうことも踏まえつつ、「『エヴァパイロット』が裸でいる(プラグスーツを着ていない)ことには明確な意味があるんだ」という設定を用意しているのだとしたら面白いなと思う。いや、これは私が勝手に考えていることでしかないし、全然的外れかもしれないが。
ちなみに、『シン・エヴァンゲリオン』ではアスカもまたクローンであることが示唆されるわけだが、『破』でアスカが登場した時点でその可能性を指摘していた人がいたそうだ。やはりそこには、「何故名前が『惣流』から『式波』に変わったのか?」という、誰もが気になっていた大きな疑問が関係している。しかしホント、それだけの情報から「アスカもクローンかもしれない」という可能性が導けるのは本当に凄いなと思う。

さらにアスカに関しては、大人になった相田ケンスケが重要な存在として関わってくるという、かなり予想外の展開になる。『シン・エヴァンゲリオン』を最初に観た時は、特段何を考えることもなく「アスカとケンスケは恋愛関係にあるんだろう」みたいに受け取っていた気がするが、その後考察に触れた上で改めて観た時には「ケンスケはアスカにとって親のような存在だ」という解釈の方がしっくり来るなと感じた。また、「睡眠欲と食欲を失っているのだから性欲もないはず」とか「シンジの前ではスカーフをしてDSSチョーカーを隠している」などの指摘もあって、ホントにみんなよく気づくものだと思う。
あと、アスカに関しては最初、「いつからこの村にいるんだろう?」という点が気になっていたのだが、3回目の鑑賞でようやくちゃんと理解できた気がする。元々は、「第3村が出来たのはずっと前だから、アスカはかなり以前からケンスケと暮らしていたんじゃないか?」と思っていたのだが、たぶんそうじゃないだろう。アスカはたぶん、「碇シンジの監視役」として第3村にいたはずで、だからケンスケとの関係もそう長くないのではないか。また、ケンスケが鈴原トウジの家で「碇は俺が引き受けるよ。その方がいいと思う」と切り出した理由がよく分かってなかったのだが、これも「碇シンジをアスカの監視下に置くため」だったのだろう。こういうことすら3回観ないと分からなかったりするので、もう少し色々自力で理解できる人間になりたいものだなと思う。
「WILLE」に戻るアスカとシンジ、そして壮大な「親子喧嘩」

『シン・エヴァンゲリオン』で凄いなと思ったのは、主人公である碇シンジが冒頭からしばらくの間まったく何もしないことである。始まってから1/3ぐらいまではホントに「ただいるだけ」という感じだし、その後も、ある大きな決断をするまでは特に何をするわけでもない。最終的にはちゃんと「主人公然」とした振る舞いをするのだが、それにしても、ここまで「主人公感」を強奪されたまま展開する物語も珍しいのではないかと思う。

それで、碇シンジの動向とは別に物語が大きく動き出すのは、アヤナミレイがLCL化したのと時を同じくして第3村にヴンダーがやってきた辺りからだろう。これは、ヴンダーからの離艦者を下ろすだけではなく、アスカを回収する目的も有していた。この場面でケンスケは昔のようにビデオ撮影をしており、アスカはそれを嫌がる素振りを見せる。しかしケンスケは、「悪いが今日だけは記録させてくれ」とアスカの制止を振り切っていた。このことから、ケンスケはアスカとの別れ(あるいは死)を、そしてアスカもケンスケとの別れを予期していることが伝わってくるだろう。
そしてここに、アヤナミレイの喪失を経験した碇シンジがやってきて、自らの意思でヴンダーに、つまり「WILLE」に戻る決断をするのだ。この時の彼は、一体何を考えていたのだろう。
もちろん、物語の構造的な話をするなら、碇シンジがいなければその後の物語が展開しないのだから、彼が「WILLE」に戻るのは既定路線である。しかし、碇シンジ個人の話をするなら、彼があの時点で「WILLE」に戻らなければならない理由はなかったはずだ。「WILLE」からすれば碇シンジは「裏切り者」であり、その後の計画において彼に何らかの役割を期待したりはしていない。ヴンダーに戻ったアスカが、鈴原サクラから「DSSチョーカーで親友が爆死したのを見て、なおここに戻ってくる決断をしたのは何ででしょう?」と聞かれ、「それより、葛城さんが帰還許可を出したことの方が驚きよ」と返していたぐらいだ。碇シンジ自身も恐らく、自分が何も期待されていないことぐらい理解していただろう。相田ケンスケからも「村に残ってもいいんだぞ」と言われていたし、そういう発言からも彼には「WILLE」に戻る理由はなかったと考えていいと思う。

それで普通に考えれば、彼が「WILLE」に戻ったのは「『WILLE』に戻りたい(戻るべき)理由があったから」か「第3村には残りたくない(残れない)理由があったから」のどちらかだろう。いや、両方という可能性もあるか。
前者だと考えるなら、「葛城ミサトと加持リョウジの息子(父と同名の加持リョウジ)と会ったこと」が大きなきっかけではないかと思う。その時に相田ケンスケから、「ミサトさんは君に頼り切っていたことに罪悪感を抱いている」みたいな話を聞かされる。『Q』以降、碇シンジはミサトさんからそれまでとはまるで違う扱いを受けてきたわけだが、そこに色んな背景・思惑があったのだと知り、「ミサトさんに会うべき(会いたい)」と考えたのかもしれない。
後者だとすれば、描写こそ少ないが、「この村にいても貢献できることはない」と実感させられたからではないかと思う。例えば、ケンスケから「釣りをして食料を確保してくれ」と言われたにも拘らず、彼は1匹も釣れなかった。あるいは、鈴原トウジとの会話の中で、「生き残るためにお天道様に顔向け出来ないようなこともした」みたいに言われる場面もある。この時もしかしたら、「そうまでして『生きたい』とは思えない」なんて風に感じたのかもしれない。

まあ理由はともあれ、碇シンジは「WILLE」に戻った。もちろん歓迎されない存在であり、戻ってすぐ拘束され部屋に閉じ込められてしまう(葛城さんの温情でDSSチョーカーは付けられなかったが)。そしてそこからなんやかんやとあって、訳の分からない壮大な「親子喧嘩」が展開されるのだが、まずはその前に、その「なんやかんや」の間にある、私が号泣させられた場面について触れておくことにしよう。
それは、碇シンジが銃を向けられるシーンだ。ヴンダーの船員の多くは碇シンジに怒りを抱いている。ニアサーによって家族など大切な人を亡くしたからだ。そんな1人が碇シンジに銃を向けるのだが、その後、別の人物もそれに続く。鈴原サクラだ。そして私は、彼女の言葉に強く揺さぶられてしまったのである。
彼女は怒りから銃を向けているのではない。碇シンジのためを思っての行動なのである。「碇さんはエヴァに乗って世界を傷つけて、自分のことも傷つけてきました。だから乗らんで下さい。(銃で撃たれて)怪我をすれば、痛いですけど、エヴァには乗らんで済みますから」と説得しようとしていたのだ。しかしやはり、彼女もまたニアサーを起こした碇シンジに対して複雑な感情を抱いている。だから結局、「碇さんは恩人で仇なんや」と言って泣き崩れてしまうのだ。このシーンはもの凄く素敵だなと思うし、何度観ても号泣させられる。

さてその後は、「マイナス宇宙」「量子テレポーテーション」「ゴルゴダオブジェクト」「ヴィレの槍」「アディショナルインパクト」みたいな単語が散りばめられるカオス的な状況が展開され、そしてそこから「親子喧嘩」が始まっていく。まさに、物語の基本構造としてよく登場する「父殺し」だろう。「孤独」に対して独自の信念を持って対峙し続けた父親と、「孤独」から逃れようとして壮大な紆余曲折を経てきた息子が「人類の存亡」をかけて闘うのだ。もはや何が何だか分からないが、シンプルに「親子喧嘩をここまで壮大な物語に昇華していること」に対してブッ飛んでるなと感じさせられた。

この「親子喧嘩」のパートは、「撮影セット」や「書き割り」を舞台にした場面が多く、「虚構感」が強く押し出されていたなと思う。物語の設定上は「マイナス宇宙は人間には知覚できないから、LCLが人間に知覚可能な映像を見せている」ということになっている(作中で碇ゲンドウがそんな説明をしていた)。さらに、絵の雰囲気が凄くつるつるしているというか、「リアルな雰囲気を意図的に失わせている」みたいな感じなのも印象的だった。恐らく、「これは現実そのものではなく、LCLが脳内で作り出している幻想である」という見せ方の工夫なのだと思う。
それで、この点に関しても面白い考察があった。「碇シンジらがいる『現実』と、LCLが見せる『虚構』」という関係は、「観客がいる『現実』と、映画内世界という『虚構』」と対比されているという意見だ。LCLが見せる「虚構」の中で、碇シンジは「エヴァの無い世界」へ書き換えようと奮闘している。そしてそれは、「まさに今『シン・エヴァンゲリオン』という『虚構』に触れている観客」に対して、「『エヴァの無い世界』を生きよう!」というメッセージとしても機能している、というのだ。なるほどなという感じだし、ホントみんなよく考えるものだなと思う。

さて、この「親子喧嘩」のパートにおいては、「碇ゲンドウの独白」がとても印象的だった。『シン・エヴァンゲリオン』を最後まで観ても別に、碇ゲンドウに対して共感の気持ちを抱けるわけではない。ただ、彼の長い長い独白には「分かるかもなぁ」という感覚になれた。彼が感じているのと同じ強度というわけではないが、「人間の世界とはどうしても相容れない」みたいな感覚は私にも理解できてしまうのだ。
勝手な印象ではあるが、私は何となく「庵野秀明は碇ゲンドウに近い孤独感を抱いているんじゃないか」と思っている。「碇ゲンドウの独白は、庵野秀明が抱き続けてきた感覚そのものなんじゃないか」という気がするのだ。まあそうであってもなくてもどっちでもいいのだが、そんな風に感じさせるところもまた『エヴァンゲリオン』の面白さだと思う。また、全編を通じて強気の姿勢を崩さなかった碇ゲンドウが、この独白の場面で「初めて弱音を吐いている」という見え方になる。そしてその弱さは、「碇ゲンドウ=庵野秀明」という印象を通じて「庵野秀明自身のもの」にも思えてくるのだ。この場面に限らないが、このように「多重層的に様々な要素が積み上げられている(ように見える)」という点もまた、作品自体の魅力や考察したくなる雰囲気に繋がっていると言えるだろう。
ちなみに碇シンジの話で言えば、やはり葛城ミサトとの関係が改めて良いなと思う。『Q』『シン・エヴァンゲリオン』の世界では、碇シンジは「WILLE」にとって「憎き存在」であり、それは「WILLEのトップ」である葛城ミサトにとっても同じ”はず”である。しかしやはり、碇シンジと最も長く時間を過ごしたであろう葛城ミサトには、そうやすやすと割り切れるものではない。「碇シンジにDSSチョーカーを着けない」という決断をリツコに再確認される場面も印象的だったが、葛城ミサトは様々な形で「WILLEのトップとしてあるべき姿」と「碇シンジの”親友”としてあるべき姿」の間で葛藤させられるのだ。

しかしそういう中にあって、最終的には外的な状況変化によって「四の五の言っていられない」という事態に陥り、結果として「シンジくん、頼むわよ」みたいな展開になっていくのはやっぱり熱いよなぁ。「エヴァパイロット」同士の関わりももちろん魅力的だが、碇シンジと葛城ミサトの物語にちゃんと終止符が打たれる感じも良かったなと思う。
真希波・マリ・イラストリアスは結局何者だったのか?
私は全然知らなかったのだが、新劇場版で初めて登場した真希波・マリ・イラストリアスは、実はマンガ版には出てくるのだそうだ。とはいえここでは新劇場版の話をしているので、一旦マンガのことは置いておこう。
私が観た考察の中でも、マリはやはりかなり謎の存在だとされているようで、それ故に様々な可能性が示唆されていた。『シン・エヴァンゲリオン』ではマリに関する情報は多少出てきていて、例えば、冬月コウゾウが彼女のことを「イスカリオテのマリア」と呼ぶシーンがある。「イスカリオテのユダ」が「裏切り者」として知られていることを踏まえると、「かつては碇ゲンドウ・冬月コウゾウらと同じグループにいたが、裏切って敵対するようになった」と考えるのが自然だろう。碇ゲンドウのことを「ゲンドウ君」と呼んでいたり、碇ゲンドウの回想シーンにマリらしき人物が何度も出てきていたこともこの可能性の裏付けとなる。さらにマリは、「神様の力を借りなくても、人類の力だけでここまで来てるよ、ユイさん」と発言しており、碇ユイと面識があることは確実だと言っていいだろう。ちなみにマンガ版では、「マリはユイのことが好きで、メガネをもらったことがある」のだそうだ。そのため、マリが掛けているメガネは「ユイからもらったもの」と解釈されることが多いという。

とまあ、断片的な情報は色々と出てくるが、しかしやはりその正体は判然としない。結局、一番謎の存在なんじゃないかと思う。その一方で、「マリのような存在がいなければならなかった理由」から考察を進めることも出来るだろう。碇シンジにとってマリは「エヴァからの解放」を必要としない人物であり、物語の構造上そのような存在がどうしても必要だったのである。

そもそもだが、碇シンジはマリにほとんど会ったことがない。『破』で学校の屋上にパラシュート降下した彼女とぶつかったのが初めての出会いで、その後『シン・エヴァンゲリオン』で最後の決戦前にアスカと共に秘密裏に会いに来たのが2度目なのだ。そしてそのような存在だからこそ、「マイナス宇宙の中で碇シンジが『解放したい』と願う者」の中にマリが入っていないのは当然である。
あるいは、「テレビ版・旧劇場版・新劇場版はすべて繋がっており、エヴァパイロットは繰り返しの世界を生きている」という解釈を採用した場合でも、テレビ版・旧劇場版に出てこないマリは「円環構造に囚われていない者」であり、そういう点からもマリを解放する必然性はないと言えるだろう(SDATがトラック27を表示したのも、マリが円環構造の外側からやってきたからだろうか?)。

さらに言えば、マリは「エヴァに乗ることを心の底から楽しんでいる(ように見える)」ため、そもそも「エヴァからの解放」を必要としない。このように様々な点から、マリは「『エヴァの無い世界』を望む碇シンジの思惑」から外れた人物なのである。
では何故そのような人物が必要とされるのか。それは、「『エヴァの無い世界』では、碇シンジはアスカ、渚カヲル、レイと関われないから」である。彼らはエヴァがあるからこそ出会い関わることが出来た。つまり、「エヴァの無い世界」が実現してしまえば、碇シンジは彼らとまったく関係なくなってしまうのだ。
そのことが明確に示唆される場面がある。『シン・エヴァンゲリオン』のラストシーンだ。庵野秀明の出身地・山口県宇部市にある宇部新川駅が舞台で、ベンチに座る碇シンジがいるのとは反対側のホームに渚カヲルや綾波レイらしき人物が立っている(アスカもいたようだが、私は気づけなかった)。考察動画によると、庵野秀明は「『映画=電車』というイメージ」だと過去のインタビューで語っているらしく、そこから「『ホームの反対側にいる』ということは『行き先が反対』であり、つまりこれは、『碇シンジがいるのとは違う世界を進んでいく』という暗示だ」という解釈になるのだそうだ。なるほど。碇シンジは「エヴァの無い世界」を願い実現させたのだが、そのことによって、アスカ、渚カヲル、レイとは違う世界を生きることになってしまったというわけだ。

そしてそれは、「物語のラスト」としてはとても寂しいだろう。観客としては、「碇シンジもちゃんと救われていてほしい」と感じてしまうはずだ。そしてだからこそのマリなのである。
ベンチに座る碇シンジは、後ろから誰かに「だーれだ」と目隠しされ、「胸の大きな良い女」と返す。そしてこのやり取りは、アスカとマリが最後の決戦に向かう前に碇シンジと会った際のやり取りを踏まえたものである。つまり、宇部新川駅のホームにいる碇シンジとマリは、かつての記憶をそのまま保持しているというわけだ。だから2人は、生まれ変わった新しい世界で共に歩むことが出来る。このような「碇シンジにとっても良いラスト」のためにも、マリは必要不可欠だったのだ。
碇シンジにとっては、先に挙げたような理由から「マリを解放する必然性」は感じられない。一方マンガ版の設定を踏まえるなら、マリにとって碇シンジは「自分が愛した女性の息子」であり、「何が何でも守りたいと思える存在」だと言っていいだろう。さらに、「マリ」という名前からは「マリア」が連想されるし、そう考えると随所でマリの「慈愛」が描かれていたようにも思う。『エヴァンゲリオン』という物語を「碇シンジの新たなスタート」という形で着地させるためにマリは欠かせない存在だったというわけだ。初見では当然こんなこと理解できなかったが、考察動画を観て、「メチャクチャ良いラストだな」と感じた。
しかしホント、細部に渡りよく考えられているなと感じるし、改めて「よくもまあこんな物語を生み出したものだな」と思う。


最後に
『エヴァンゲリオン』には、「キャラクターがとにかく魅力的だから、深いことが理解でき来なくても楽しめる」というのと「あまりにも深い設定・構造を有するが故に、いくら考察してもし足りない」という両極端な側面があり、それ故にどんな層にも突き刺さる作品になっていると言えるだろう。というか、制作側から「どんな楽しみ方も出来るからお好きなように!」と言われている感じさえある。また考察動画によると、「『エヴァンゲリオン』はそもそも、『その時々の制作側の気分を作品にそのまま反映させる』ことを目指した企画」なのだそうだ。であれば、「公開された作品に対する観客の反応なども随時取り込みながら双方向的に進化していった」と考えるのも自然なように思う。まさに「時代と共に成長していった作品」と言っていいだろう
物語としては、最終話である『シン・エヴァンゲリオン』を踏まえてもなお多くの謎が残っているが、とはいえ、ずっと追い続けてきたファンにとっては「納得が行く、満足度の高い作品」なんじゃないかと思う。公開から30年経っても未だに衰えることのないコンテンツ力は化け物だし、これからも多くの人を魅了していくことだろう。もちろん、新作も楽しみだ。

そんなとんでもない作品と同時代にリアルタイムで出会えたことは僥倖だなと思うし、願わくば死ぬまでに同じような経験が再び出来たらいいなとも思う。
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