【再生】ヤクザの現実を切り取る映画『ヤクザと家族』から、我々が生きる社会の”今”を知る

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:綾野剛, 出演:舘ひろし, 出演:尾野真千子, 出演:北村有起哉, 出演:市原隼人, 出演:磯村勇斗, 出演:寺島しのぶ, 出演:岩松了, 出演:豊原功補, 出演:菅田俊, 出演:康すおん, 出演:二ノ宮隆太郎, 出演:駿河太郎, Writer:藤井道人, 監督:藤井道人
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「義理人情」を行動原理とするヤクザは、必要悪だったのではないか
  • 「悪いやつは叩いていい」「ルールの範囲内なら何をしてもいい」という風潮は怖い
  • 間違いを犯してもやり直しがきく社会であってほしい

映画で直接的に描かれるのは「ヤクザ」だが、実際には「我々と、我々が生きる社会」が切り取られている

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『ヤクザと家族 The Family』から、「『ヤクザを排除すること』に、本当に意味があるのだろうか?」について考える

今の時代に「ヤクザ」を描くなら、これしかない

映画を観て、絶妙なバランスだなぁ、と感じた。ヤクザという存在を絶妙に肯定し、そして絶妙に否定もし、様々な捉えられ方がされる中で、「この細い針の穴を通すしかない」というギリギリのところを真っ直ぐ通っている映画だと思う。もちろん、「ヤクザ」をエンタメとして見せる作品は多くあるだろうが、「ヤクザ」を現実のリアルな存在として切り取りながら、現代において作品を成立させるにはこれしかないだろうなぁ、と思った。

生きる権利奪ってんのはそっちだろうが

このセリフからも分かるように、この映画で描かれているのは「ヤクザ」そのものではなく、「ヤクザを通じて見た社会」だ。だからこそこの映画は、「ヤクザという対岸の物語」ではなく「私たちの物語」だと言える。

「アンダーグラウンドを支配する存在」は必要だと思う

まず大前提として私は、「アンダーグラウンドを支配する存在」は必ず現れるものだと思っている。既に「ヤクザ」は、「アンダーグラウンドを支配する存在」として廃れてしまっただろうが、結局「半グレ」と呼ばれる人たちが出てきた。どんな立場の人間を取り締まろうも、アンダーグラウンドの世界が存在する限り「アンダーグラウンドを支配する存在」は決していなくならないし、どうしたってアンダーグラウンドの世界もなくならないだろう。

この前提に立てば、「アンダーグラウンドを支配する存在」=「警察がある程度管理しやすい存在」であることが望ましいはずだ。

そして私の認識では、「ヤクザ」はかつてそういう立ち位置にいた。批判もあるだろうし、時代の流れに逆らう意見だろうとも思うが、そういう意味で私は、「ヤクザ」は社会の必要悪だと考えているし、「ヤクザ」がいる方が”まだマシ”ではないか、とも感じる

そう考える一番の理由が、「ヤクザ」の特殊さだ。

義理人情を重んじ、男を磨き、男の道を極めることです

義理人情じゃ、もう飯は食えねぇってことです

前者はヤクザが、後者はヤクザではない者が口にするセリフだ。どちらも「義理人情」という言葉を使っている

「ヤクザ」は確かに、暴力的・威圧的な存在であり、法を犯す。ヤクザの抗争に巻き込まれて一般の方が亡くなることもあるし、覚醒剤などを販売することも多いだろう。ヤクザによるそういう直接的な被害を受けたことがある人には、どんな理屈があれ納得できないだろう。

しかし「ヤクザ」は、「義理人情」を重んじる組織であり、間違って機能するとヤクザ以外にも大きな被害をもたらすが、良い方に転べば「アンダーグラウンド」の世界は安定するはずだ。

「義理人情」がベースにあることで、「悪事」に一定の制約がかかる。また、マル暴の刑事ともほどよく付き合い、明文化されていない阿吽の呼吸のようなやり取りで落とし前をつけさせ、社会秩序を大きく混乱させない程度に警察権力がヤクザを押さえつける。警察がコントロールしきれない部分ももちろんあり、予想外の大きな被害が出てしまうこともあるが、そういう部分には仕方なく目をつぶり、社会全体として「アンダーグラウンドの秩序を安定化させること」を優先する

これらが成り立つのも、「ヤクザ」が「義理人情」を行動原理とするからであり、「法律」を超えた領域で社会を安定させる機能を果たすのにとても有用だった、と私は考えている。

もちろん、当たり前だが、「アンダーグラウンドの世界」が無くなればいいと思っている。しかし、それはあまりにも理想論すぎる。

であれば、「アンダーグラウンドの世界と、社会がほどよく共存していくためにはどうすべきか」を考える必要がある。そう考えた時、すべてが最悪である選択肢の中で「義理人情を重んじるヤクザ」という存在は、最もマシだと思えるのではないか、という話をしているつもりだ。

一方、「半グレ」は違う。詳しくは知らないが、イメージだけで書くと、「ヤクザとは違い、警察権力でコントロール不可能な犯罪集団」ということになるだろう。ヤクザがいなくなった今、そういう「半グレ」と呼ばれる人たちがアンダーグラウンドの世界を支配しているのではないかと私は想像している。

それは、「義理人情」とは程遠い、とても殺伐とした世界だろう。金が儲かればなんでもアリという価値観で、「ヤクザ」だったらやらなかっただろう犯罪に手を出し、「ヤクザ」だったら抑えていただろう状況に躊躇なく足を踏み込んでいく。「ヤクザ」であれば阿吽の呼吸でコントロールできたものが、「半グレ」に変わってしまえばできなくなり、ただ「犯罪者」として逮捕するしかない。

もちろん、「犯罪者」として逮捕すればいいのだが、その労力は甚大だろう。「ヤクザ」をコントロールして社会を安定させていた頃とは比べ物にならない手間が掛かる。そしてそれ故に、捜査も逮捕も追いつかない、という事態も起こるはずだ。

「ヤクザ」の場合は、どこの組の所属か、破門されたかどうかなどの情報などがちゃんと記録され、恐らく警察もその情報を共有している。しかし「半グレ」の場合は、構成員は流動的であり、どこに誰が属しているかなどさっぱり分からない。そういう中で捜査をしなければならないのだから時間も掛かるだろう、という意味だ。

だから、「ヤクザ」の方が圧倒的にマシだと私は考えている。

繰り返すが、「ヤクザ」を称賛したいのではない。「アンダーグラウンドを支配する存在」を許容しなければならない世の中だと考えており、すべてが最悪の選択肢からどれを選ぶと聞かれた時に、私は「義理人情に生きるヤクザ」だと答える、という話である。

「悪の排除」と「ルールの範囲内ならセーフという感覚の蔓延」

我々が生きている世界では、現に「ヤクザ」が排除された。警察が法律を作り、厳しく締め付けをし、ヤクザの根城だった歌舞伎町などの繁華街はキレイな街に変わり、ヤクザは生き残れなくなった。

ヤクザを取り巻く環境はどうなったのか。

これからヤクザを取り締まるのは法や警察だけじゃない。世の中全体に排除されるようになりますよ

ヤクザはまず、法や警察から徹底的にマークされる。その厳しさは残酷だ。ヤクザを辞めても、概ね5年間はヤクザの関係者だとみなされるため、銀行口座は作れず、自分の名義で家も借りられないという。

冒頭で引用した「生きる権利奪ってんのはそっちだろうが」というセリフは、まさにこういう状況を指している。公権力が、「生きるための基本的人権」と言えるものをかなり制限しているのだ。

ただ、警察というのは公権力であり、時代の変化を見ながら、社会の安定化のために何をすべきか考え実行しなければならない立場だ。ヤクザの「生きるための基本的人権」を制約するという手法に対して、個人的にはやりすぎじゃないかと感じるが、公権力がそういう判断をしたのであれば仕方ないという感覚もある。

しかし、このような風潮は、一般市民にも及んでいる。そして、「ヤクザを締め付ける風潮が、社会全体を歪に変えるのではないか?」と、映画を観て改めて感じた

例えば、こんなシーンがある。元ヤクザの登場人物が、ヤクザ時代のエピソードを話す場面だ。彼は一般人に車をぶつけられ、修理代として真っ当な金額を請求したのだが、なんとそのことで逮捕されてしまうのだ。一般人を恐喝した、みたいな理屈なのだろうが、既に時代はこうなってしまっている。

これは、間違っているのではないか? と私には感じられる。車をぶつけた一般人の方に、明らかに非がある。しかし、相手がヤクザだったことで、「ヤクザは法律で取り締まられる存在だから、何をしてもいい。ヤクザに恐喝されたってことにすれば修理代払う必要がないんじゃないか?」と考えて行動したのだろう。その理屈は、とてもじゃないけど真っ当ではない。

しかし中には、この一般人の行動を、「そうか、そんな手があったか」「褒められた行動じゃないが、相手がヤクザだからしょうがない」みたいに感じる人もいるのではないだろうか?

私は、そのことが怖いと感じる

そしてこの映画は、このような「ヤクザを通して見た社会の変化」を突きつける作品だと私は思う。

このような「社会の変化」は、なにもヤクザだけに限らない。今世の中では、「ルールの範囲内だったら何をしてもいい」という風潮が、当たり前のようにまかり通っているように私には感じられてしまう

Youtubeの再生回数が稼げさえすればいい、誤った情報でもたくさんRTされればいい、際どい表現で誇張しても商品が売れればいい。このような、法は破っていないかもしれないが、倫理的に問題だと感じる行動は、世の中のあちこちに存在する。この態度には、「ヤクザに恐喝されたってことにして修理代を払わない」のと似たものを感じてしまう。

ルールや法律は完璧なわけではないし、時代を経ることで社会と乖離していく部分も出てくる。そしてルールの改定は常に、時代の変化に遅れを取るものだ。その上で、「別にルールの範囲内なんだからいいじゃん」という態度が当たり前のものとして社会に受け入れられていくと、倫理的にはアウトだがルール的にはギリギリセーフ、みたいな行為が世の中に蔓延していくことになる。

そしてそれは、「悪なんだから叩いていい」という雰囲気と同期しているとも感じられる。「ヤクザは悪なんだから叩いていい」という風潮と、「悪じゃなければセーフなんだから何をしてもいい」という考えは、表裏一体だろう

この映画は私たちに、「こんな社会でいいのか?」と突きつけているように感じられた。表向き、描かれているのはヤクザなのだが、実際には「ヤクザに象徴される『分かりやすい悪』に相対する我々自身」が切り取られている。そして、我々自身の行動によって自分たちの首が絞まり、社会がますます窮屈になっている現実を示そうとしているように感じられた。

「やり直せる社会」であってほしい

公権力がヤクザの「生きるための基本的人権」を奪っていると先述したが、現実的にヤクザを抜けた者は実際どんな風に生きていけばいいのだろう? と思う。銀行口座は開けず、家も借りられないとしたら、普通に生きていくことは難しい。本人は、ヤクザを辞めて真っ当に社会で生きていきたいと思っていても、環境がそれを許さず、結局またアンダーグラウンドの世界に戻ってしまうのではないだろうか。

そして結局のところ、「ヤクザではないアンダーグラウンドの構成員」を増やしているだけで、社会全体にとってもマイナスでしかないのではないだろうか。

もちろん、ヤクザを抜けた者になんの制約も課さなくていいなどとは思わないが、あまりに厳しすぎる制約は逆効果でしかないと感じる。

また、問題なのはそれだけではない。むしろより大きな問題だと思うのは、「私的制裁」である

ネットの時代になって、どこの誰か分からないような個人(の集団)が、独自の基準で「悪」を選定し、自分たちに正義があると過信して「私的制裁」を下すことが当たり前になってきた

映画の中でももちろん、そんな現実が描かれる。「元ヤクザ」だと、何気ない写真がたった一枚ネットにアップされたことでバレてしまうのだ。そしてそれによって、真面目に働き、家族とやり直そうと考えていた男の人生が狂っていく

そしてこれは、ヤクザに限らない。元犯罪者や不倫した芸能人など、様々な人間が「私的制裁」の被害に遭っているだろう。

もちろん、法を犯すような行為をしたのなら、きちんとした手続きに則って罰が与えられるべきだ。そしてそれは、公権力が行う。一定のルールに則った罰を受けた人をスタートラインに立たせてあげなければ、公権力による刑罰はうまく機能しないだろう

しかし社会はどうもそれを許容しない

私は、「個人として、あの人は嫌いです/受け入れられません」という感情を持つのは自由だと思っている。しかしその感情を他人に強制したり、その感情から生まれる怒りや憎しみを「私的制裁」のような形で発散するのは間違いだろう。

さらに、「悪いことをした本人」だけではなく、その周辺の人間まで貶めようとする。100歩譲って、「悪いことをした本人」への「私的制裁」を許容したとしても、周囲の人間まで同列に扱うのは絶対に間違っている。しかしそういう風潮が、「良くはないけど、まあしょうがないよね」的な感じで「消極的に許容」されているように感じてしまう。

「麻痺してるよなぁ」と思う。もっと強く、「狂っている」とも感じるが、社会全体はもっと勢いよく狂った方向へと進もうとしているようにも思える。

この進行を止めたいと考えても、特効薬はない。この社会の異常さに気づいている人ももちろんたくさんいるはずだが、そういう人たちが少しずつでも「こんな世の中、おかしいよね」と口に出していくしかないのだと思う。

繰り返しになるが、この映画における「ヤクザ」はある種の記号でしかなく、それは「我々の視界に日々入ってくる『分かりやすい悪』」を示している。そういう存在に対して、条件反射で接するのではなく、どんな態度を取るのが正解なのかを一人一人が真剣に考えなければ、社会は一層狂っていくだろうと思う。

息苦しい社会を作っているのは、我々自身というわけだ

映画『ヤクザと家族 The Family』の内容紹介

主人公・山本賢治の人生を1999年、2005年、2019年という3つの時代に区切り、「ヤクザ」を背景にしながら、時代の変遷を切り取っていく物語である。

賢治の父親は、シャブ漬けになったことで自殺する。天涯孤独となった賢治は、定職に就かず、ワル仲間とフラフラした日々を送っているが、知人の焼肉屋で突然起こったトラブルを収めたことで、柴咲組の組長に気に入られる。父親に覚醒剤を売っていたのはヤクザであり、賢治はヤクザなんかと関わらないと断るが、死を覚悟するほどの揉め事に巻き込まれたことをきっかけに盃を交わすこととなる。

6年が経ち、組内での立場も上がった賢治は、自分のシマの店で働いている由香を気に入り呼び出した。大学生だという由香は、しかし、ヤクザだと打ち明けた賢治に臆することなく接し、賢治の思った通りには事が進まない。

一方、シマでは縄張り争いが始まっていた。同じシマでしのぎを削る侠葉会との小競り合いが増えてきたのだ。この一帯は3年後に再開発されることが決まっており、それに伴い侠葉会が力を増しつつある。そんな状況で賢治は、侠葉会の者に大怪我をさせてしまい、そのまま全面戦争に発展するかに思われたが……。

そして長い時を経た2019年、賢治はまったく変わってしまった世の中で、それまでの理屈が通用しない社会を相手にすることになり……。

映画『ヤクザと家族 The Family』の感想

映画を観て強く感じたことは、「そういう生き方しかできない人はどうすればいいんだろう?」ということだ

映画の中にも、こんなセリフがある。

ヤクザしか生きる道がなかった連中だ。どこがあいつらを拾ってくれるよ

こういう感覚は、私も理解できてしまう。「一般的な生き方ができない人間はどうしたらいいのか?」については、常に考えているからだ。

大学を卒業し、新卒で就職し、仕事もきちんとこなし、異動に文句をいわず、恋愛して結婚して子どもを育てて……というような生き方の、どこかで躓いてしまう人は必ずいる。学校に行けなくなる人もいる。就職で失敗する人もいる。働き始めて身体を壊す人もいるし、結婚したけど夫からDVを受けている人もいる。

そんな風に躓いてしまった場合、今の社会は、後戻りもやり直しもなかなか難しい。決して不可能ではないが、簡単ではない。

そしてそもそも、上記のようなレールに乗ることそのものがムリだと感じてしまう人もいる。貧困や親の暴力の環境にいるとか、どうしても集団の中に馴染めずに孤立してしまいがちの人もいるだろう。

そういう時に、「アンダーグラウンドの世界」が、ある種のセーフネットとして機能している部分もあるはずだ。望んでアンダーグラウンドの世界に自ら足を踏み入れる人も当然いるだろうが、望んでいないのにアンダーグラウンドに来るしかなかった人もまた同じくらいたくさんいるはずだ。

当たり前の生き方が当たり前のようにできる人は、「甘え」「努力が足りない」という言い方でそういう人たちを非難することもあるだろう。しかし私は、そういうレベルの問題ではないことを知っている。「やりたくない」のではなく「どうしてもできない」という人もいるのだ。「やりたくない」であれば努力でどうにかなるかもしれないが、「できない」を努力で乗り越えることは難しい。そういう現実に対する想像力が、欠如しているように感じられてしまう。

「正しい生き方」など無いはずなのに、まるであるかのように錯覚させられ、そういう「正しい生き方」を進めなかった者は罪悪感を背負わされる。そしてその罪悪感がまた、その人の人生を過酷にしてしまうのだ。

「アンダーグラウンドの世界」を否定するのであれば、代わりの選択肢を信じさせてほしい。「生活保護」などではなく、自分がきちんと働き、せめて周囲の人間には貢献できているという実感が多少は得られ、その上で生活していけるだけのお金を得られるような、そんな選択肢を信じさせてほしいと思う。

私自身、いつ今の生活から脱落してしまうか分からないといつも考えている。だからこの映画で描かれる彼らのことが、他人事とは思えない

出演:綾野剛, 出演:舘ひろし, 出演:尾野真千子, 出演:北村有起哉, 出演:市原隼人, 出演:磯村勇斗, 出演:寺島しのぶ, 出演:岩松了, 出演:豊原功補, 出演:菅田俊, 出演:康すおん, 出演:二ノ宮隆太郎, 出演:駿河太郎, 監督:藤井道人, Writer:藤井道人
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最後に

最後に改めて繰り返すが、私は決して「ヤクザ」という存在を積極的に肯定しているわけではない。すべてが不正解でしかない選択肢の中から何かを選ばなければならないのなら、「ヤクザ」がマシだろう、と言っているだけだ。

そして、私がこの記事で書いたような感覚は許容されにくくなっていると感じる。「悪はすべて排除すべきだ」という雰囲気が強すぎて怖いし、それを反転させた「悪じゃないなら何をしてもいい」という振る舞いにも違和感を覚えてしまう

「ヤクザ」という「分かりやすい悪」を目の前にした時、我々はどう振る舞うべきなのか。観客には、その問いが鋭く突きつけられていると感じられた。

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