【幸福】「死の克服」は「生の充実」となり得るか?映画『HUMAN LOST 人間失格』が描く超管理社会

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はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:宮野真守, 出演:花澤香菜, 出演:櫻井孝弘, 出演:福山潤, Writer:冲方丁, 監督:木﨑文智
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「『為政者による横暴』ではない形での、テクノロジーを駆使した新たな『管理』」に人類は直面している
  • 現代を取り巻く、「『緩やかに管理されている社会』を忌避しない雰囲気」が、これからも進んでいくのだろうか?
  • 「文明」の悪影響を理解した上で、「『文明』を諦めきれない人類」はどんな選択をすべきだろうか?

「原案『人間失格』」という表記の意味が分からないほどのSF作品であり、哲学的思考が展開される濃厚な作品だ

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「死を克服した超管理社会」で人類は幸福になれるのか? 映画『HUMAN LOST 人間失格』が描く「未来の可能性」

映画の冒頭で、「原案『人間失格』」と表示される。しかし、このSF的な作品のどこに、太宰治の『人間失格』が組み込まれているのか、私には分からなかった。人物名とキャラクターの設定を拝借した、ぐらいの話なのではないかと思う。それで「原案」と言っているとしたら、ある意味で度胸のある作品だと感じる。

映画を観て感じたことは、「アニメは哲学を語る器として最適」ということだ。映画『虐殺器官』でも同じようなことを感じたが、難解な話をしていても、「それを理解したい」という気持ちにさせる力があるように思う。そもそも「SF」という器が「哲学」を語るのに適しているのだと思うが、さらにそれが「アニメ」になることで、余計に受け入れやすくなる。『HUMAN LOST 人間失格』も、「死の克服」や「超管理社会」など、日常的ではあるがなかなか深くは考えないテーマについて描き出す作品だ。こういうアニメ作品を通じて、「普段なかなかしない思考」に触れることが、人生をより豊かにするはずだとも考えている。

テクノロジーの進化によって、それまで不可能だった「管理」が可能になった

私はさほど歴史に詳しくないのであまり自信はないが、様々な時代、様々な地域で、「国王などのトップが平民から搾取することで人々を管理する」という国家運営がなされてきたはずだ。もちろん、現代でも独裁国家と呼ばれる国はある。つまり、重い税負担を課したり、思想や集会を制限したりすることで人々から「自由」や「権利」を奪い、トップに君臨する者が好きなように振る舞えるような仕組みを、人類は永きに渡って行ってきたというわけだ。

そういう手法が連綿と続いてきたのは、「人々を管理する手法がそれしかなかった」からだろう。抑圧し続けることによってしか人民を平伏させられなかったというわけだ。もちろん、性格が超サディスティックな「暴君」もたくさんいただろうが、管理するための手段が他にあれば暴力的な手段など取らなかったという者もきっといると思う。

しかし、科学やテクノロジーの進化によって、人類は新たな「管理手法」を手にすることとなった

例えばグーグル。私たちは日々様々な検索を行うが、その検索キーワードを元に関心の度合いが判断され、それを元に表示する最適な広告が決まるのみならず、表示される検索結果も最適化されている。この辺りのことに詳しい知識を持っているわけではないが、恐らく、同じキーワードで検索しても、検索する人が異なれば、検索結果もまた違ってくるはずだ。このようなことは既に、技術的には容易に行えるようになっているはずで、グーグルに限らず、様々なSNSやウェブサービスが同じような仕組みを採用しているのだろうと思う。

そしてこのような技術は、ある種の「分断」を生みもする。あまり深く考えなければ、私たちは皆「他の人も、自分と大体同じような情報に触れているはずだ」という発想になると思う。しかし実際には、一人ひとり見ている情報はまったく異なる。コロナワクチンに反対する人には「コロナワクチンは危険だ」という情報ばかりが集まり、推しのアイドルがいる人にはその推しの情報ばかりが集まることになるのだ。

このような、「『皆が同じような情報を見ている』という幻想を共有する中で、一人ひとり触れている情報が異なる状態」には、「フィルターバブル」という名前が付けられている。自分を取り囲むような「バブル(泡)」が存在しており、実はその外側に出ることは出来ない(フィルターされている)のだが、本人はその「バブル」の存在を認識できず、他者と分断されていることに気づかない、という意味だ。

「フィルターバブル」はあくまで結果であり、グーグルなどのウェブサービス提供者がその状態を積極的に作り出そうとしているわけではないだろう。ここで重要なのは、「私たちはもはや、多少の不利益があってもこれらのサービスを使わざるを得ない」という点にある。まさにそれは「管理」と言っていいはずだ。これこそ人類が手に入れた新たな「管理手法」である。

「フィルターバブル」という状態に気づいているかどうかともかく、様々なウェブサービスを使う中で、「これを使うことが、自分にとって果たして本当にプラスと言えるだろうか?」と疑問に感じてしまうこともあるだろう。「映え」を意識した写真ばかり投稿して疲れる、ゲームは好きだが人間関係が面倒くさいなどなど、「生きていくのに必要だが、それがもたらすマイナスも見過ごせない」みたいな感覚になることも多いのではないかと思う。しかしそうだとしても、「使わない」という選択をすることはなかなか難しい

一方私たちは、ウェブサービスを使うことで「幸福」や「自由」を得た気になれる。確かにそれは間違っているわけではない。仲間を見つけたり、めんどくさい作業を時短したりすることで、生活はより良くなるだろう。しかし結局のところそれらは、「そのウェブサービスの存在を前提にした『幸福』や『自由』」でしかない。ウェブサービスの提供者が想定しない、あるいは提供したくない「幸福」「自由」は存在し得ないのだし、あるいは様々な理由からそのウェブサービス自体が無くなってしまう可能性もある。

こう考えると、権力者をどれだけ遠ざけることができたとしても、私たちの「幸福」「自由」は巨大企業に握られてしまっていると言えるだろう。

別にその状態に不自由を感じないということであればなんの問題もない。そういう人もいるだろうと思う。だとすれば、現状のような「管理」は、為政者や独裁者によるものと比べれば遥かにマシだと言えるだろう。しかし私は、それが何であれ、「誰かに押し付けられた『幸福』『自由』」は気に食わない。哲学の世界では、「幸福であれば自由が制約されてもいい」という考えを「功利主義」、「自由であれば幸福が制約されてもいい」という考えを「自由主義」と呼ぶようだが、私は「自由主義」なのである。

私は、現状のような「巨大企業による緩やかな管理」も、あまり好きではない。だから当然、SF作品などで描かれる「超管理社会」などまったく許容できないのだが、皆さんはいかがだろうか?

「管理社会」はどこまで進むのか?

私たちは既に「管理社会」を生きていると言っていいだろう。「防犯カメラ」という名の「監視カメラ」があちこちに設置され、アメリカは「エシュロン」という通信傍受システムを使って世界中の通信を収集している(その事実を、元CIAのスノーデンが暴露したことで大騒ぎになった)。スマホの位置情報やSUICAの履歴、ネットの検索履歴など様々な情報は、それを管理する企業で収集され、何らかの形で利用されているはずだ。

また、先程書いた「巨大企業による緩やかな管理」においても顕著だが、多くの人は「『管理されている状態』にさほど嫌悪感を抱いていない」ように感じられる。「好ましくはないかもしれないが、便利で楽しい方が重要だから」という理由で、本来なら「管理」として嫌悪されるはずの事柄が、世の中でどんどん受け入れられているように思えるのだ。

きっとこのまま、「管理社会」の流れは進んでいくのだろう

もしかしたら、「価値観が多様になったこと」も背景にあるのかもしれないとも思う。本来であれば、価値観が多様になればなるほど、「管理」という発想からは遠ざかるはずだが、実際にはその逆のことが起こっているように感じられる。価値観があまりに分散しているからこそ、「1つにまとめよう」という動きが視界に入りやすくなったのではないかと思うのだ。

かつては、誰もが納得する「大きな物語」が社会の中に当然のように存在し、誰もがそれを信じていられた。例えば一昔前の日本なら、「良い大学へ行き、良い企業に就職し、結婚し子どもをもうけて家を建てる」みたいなライフプランが「大きな物語」として機能していたはずだ。しかし今は、価値観が多様になったことで、そのような「大きな物語」は存在しにくくなった

そしてだからこそ、それが機能し得る場では「大きな物語」が今まで以上に強調されるようになったと感じもする。ラグビーワールドカップやオリンピックなど、「みんなで1つになる」みたいな雰囲気が自然と生まれやすい状況では、かつてないほどにその「一体感」みたいなものが重視されるようになった印象が強い。「大きな物語」が当たり前のように機能している社会では、その存在をわざわざ強調する必要はない。まさにこれは「価値観が多様になったこと」を背景にするものだと言えるだろう。

そしてそういう動きは、まさに「管理社会」を加速させているように私には感じられるのだ。

映画『HUMAN LOST 人間失格』では、「死なないこと」を「幸福」の定義とする者が登場する。そして、その人物の価値観を元に構築される社会が描かれていく。そこでは、「死」を軸として「管理」が行われる。

恐らくだが、この映画のような未来がやってくることはないだろう。あくまで私の周囲の観測でしかないが、「長く生きたいとは思わない」みたいな感覚を持つ人が、特に若い世代に多いように思うからだ。しかし、「死」ではない何らかの軸をベースにした「管理社会」が生み出される可能性は十分にあるだろう。そして私たちは、「『管理』を拒絶しない」という行動によって、そういう未来を手繰り寄せていると言ってもいいのである。

私たちが生きている間に劇的な変化が起こるかは分からないが、人類がどんな未来を選択するのか想像しながら観るのも面白いだろう

映画『HUMAN LOST 人間失格』の内容紹介

舞台は昭和111年の日本「グランプ」と呼ばれる四大医療革命が起こり、それによって人類は「医者を必要としない生活」を手にすることができた。病気は万能医療薬が治してくれるし、怪我はナノマシンがすぐに治癒してくれる。また、120歳を超えた者は「合格者」として認定され、「健康基準」に組み入れられる。そしてその「健康基準」を元にして全国民の健康を管理する仕組みになっているというわけだ。人類はこうして「死」を克服することに成功した。その管理は「シェル」という機関が一括で行っており、また、「シェル」と共に研究開発を行う「澁田機関」と呼ばれる組織も存在している。

しかし、「死を克服した」のはいいが、決して生活が楽になったわけではない。社会は大きく二分され、「環状七号線内(インサイド)」では恵まれた文明を享受できるが、あぶれた者は「環状七号線外(アウトサイド)」へと追いやられ、過酷な生活を強いられる。いくら死なない身体だと言っても、1日に19時間も労働をしなければならない生活はやはりキツい。

さて、平和な生活が送れるはずの「インサイド」では、「ロスト」と呼ばれる謎の現象が起こっている。死を克服したはずなのに、何らかの理由によって身体が怪物にように変異してしまうのだ。原因はまったくの不明だが、その原因を作り出しているのが堀木正雄ではないかと目されている

頻度こそ多くはないものの、「ロスト現象」のことは国民には完全に秘されていることもあり、その処理は秘密裏に行われなけれはならない。そのため、日々特殊部隊が待機しており、怪物化してしまった者たちの駆除に追われているという状態だ。また、「ロスト状態に陥るかもしれない者」に関する調査も行われており、その役割を柊美子が担っている。

一方、「アウトサイド」で一人暮らしをしている大庭葉蔵は、日がな一日絵を描いているだけの男だ。友人と言える存在は、竹一のみ。そんな竹一が、何度目かの「インサイド突入計画」を実行に移すことを決め、葉蔵にも声が掛かる。爆弾を搭載した霊柩車を護送し、レインボーブリッジの封鎖を突破するという計画だ。葉蔵は気乗りしなかったが、結局ついていくことに決める。突入の直前、竹一と葉蔵は堀木から薬を渡された。竹一は、「これで本来の姿を取り戻せる」と意気込んでいたのだが……。

映画『HUMAN LOST 人間失格』の感想

なかなかスルッと理解できる物語ではなく、そこが魅力の1つなのだが、「なんか面白いアニメを観たい」という気分にはちょっとそぐわない作品だと思う。私は映画館で1度観たに過ぎないが、「『文明曲線』って何がどうなってるんだっけ?」「結局『アプリカント』って何だっけ?」など分からないことは多く、設定や世界観をきちんと把握できている自信はない。難解過ぎるということはないので、物語を追うことは難しくないと思うが、この映画を通じて一体何を描こうとしているのかを考えようとすると、ちょっと行き詰まってしまう感じもある。

各人の行動原理はとてもシンプルだと言っていいだろう。柊美子は体制側について、「シェルの管理によって死を克服した人類が作る素晴らしい社会」を成り立たせるために奮闘している。一方で堀木正雄は、「『死が存在しないこと』は『生が奪われること』と同じだ」と考え、「死を克服した」というような思想を打ち砕いて、人類が新たに人類をやり直すために行動している。このような「行動の指針」はそう難しくなく把握できるだろう。

しかし、「理想の実現のためにそれぞれが取る行動」はちょっとシンプルとは言えない。「彼らの行動の1つ1つが、どのような理屈で『それぞれの理想の実現』に結びついているのか」を理解するのは、私にはとても難しかった。

ただ、ある意味ではそれで良いのだと私は思う。その難しさは結局のところ、「現代を取り巻く様々な問題が内包する難しさ」と呼応すると感じるからだ。

映画『HUMAN LOST 人間失格』は様々な事柄を描く作品だが、全体を通底するテーマとして「文明を維持すべきか否か」という問いが存在する。まさにそれは、今私たちが直面している問題でもあると言えるだろう。温暖化、環境破壊、異常気象などなど、「人類がこの地球上に生きているせいで起こっている災厄」は様々に存在している。そしてそれらは結局のところ、私たちが発展させ続けてきた「文明」の悪影響というわけなのだ。

それが分かっていてもなお、私たちは「文明を手放すこと」を難しいと感じてしまう。まさにその「文明」こそが、私たちにとっての「幸福」や「自由」を生み出しているはずだと考えているからである。

同じジレンマを抱える『HUMAN LOST 人間失格』世界では、「とりあえず文明を延命する」という結論を出す。そして、その目的で導入されるのが、四大医療革命「グランプ」というわけだ。つまり観客は、「『文明の延命』を決断した社会」が辿る可能性を映画を通じて理解するのであり、とするならば「難しさ」を孕んでいて当然だと感じるのである。

「価値観が多様になった社会」では、「問題を共有すること」さえままならない。そのような社会ではきっと、何か思い切った変革が必要とされるだろう。となれば、「死の克服」という基準だけで人類を「ふるい」にかけて「文明の延命」を目指すこの物語が、私たちが辿るかもしれない未来と呼応している可能性もあるのではないか

そんな見方をしてみても面白いのではないかと思う。

出演:宮野真守, 出演:花澤香菜, 出演:櫻井孝弘, 出演:福山潤, Writer:冲方丁, 監督:木﨑文智
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最後に

人間が人間であるためには、死が必要なんだよ。

ある人物がこんな風に口にする場面がある。私はこの意見に賛成だ「いつか死ぬ」という制約があるからこそ「人間」という形を保っていられるのだと思う。その制約を外してしまえば、見た目が同じ「人間」だとしても、まったく別物であるように感じられてしまうかもしれない。

しかし、そうは思わない人もいるだろう。「死の克服」を喜ばしいと感じる人は一定数いるはずだ映画『Arc アーク』でも、「不老不死が実現した社会」が描かれるのだが、「死」を巡って人々が対立する様が描かれる。

科学的には、「臓器を新鮮なものに取り替え続ける」ことによって不老不死を達成しようとする計画があるようだし、あるいは、「生きている」と呼んでいいかは分からないが、映画『マトリックス』のような、肉体を放棄して仮想現実の世界で生き続ける未来を目指している人もきっと世の中にはいるだろう。遠い未来の話ではあると思うが、何らかの形での「死の克服」は決して夢物語ではないと思っている。

ただ、「死を克服すること」が人類にとって本当に「幸福」であるのかは誰にも分からない。あなたは、どう考えるだろうか?

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