【苦しい】「恋愛したくないし、興味ない」と気づいた女性が抉る、想像力が足りない社会の「暴力性」:『ユーハブマイワード』(ムラタエリコ)

目次

はじめに

この記事で取り上げる本

いか

この本をガイドに記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「みんなが恋愛の先に手に入れるような関係を求めていたんだ」という認識の鮮やかさ

犀川後藤

読みながら、「まさにそんな風に感じていた!」と思わされてしまいました

この記事の3つの要点

  • 「恋愛」に対して積もりに積もった違和感を、女性らしい日常的な感覚で言語化していく
  • 「想像力が欠如した世の中」に対する、抑えられない憤り
  • 「写真を撮ることの暴力性」と、「『撮る側のもの』ではなくなってしまった」という無念さ
犀川後藤

1冊の本に対する感想としては過去最長の、25000字超えの文章になりました

自己紹介記事

犀川後藤

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』は、否応なしに世の中の「普通」とか「当たり前」とか「常識」とかに削られてきた女性が、その葛藤をありのままにさらけ出した素敵なエッセイだ

『ユーハブマイワード』について

本書『ユーハブマイワード』は、文学フリマで買ったリトルプレスです。通常は書店などで販売していませんが、手に入れられる場所もありますので、リンクを貼っておきます。

『ユーハブマイワード』のデザインを私の友人が手掛けているという、本当にただそれだけの理由で買いました。恐らく、そんなきっかけでもなければ手に取ることはなかっただろうと思います。

いか

そもそも文学フリマに行くのも初めてだったもんね

犀川後藤

岩手に住んでいた頃、岩手開催のには行ったことあるけど、東京のは初めてだった

ただ、買ったはいいものの、ずっと忙しくてしばらく読めずにいました。最近ようやく時間が取れるようになったので、満を持して読んでみたのですが、これが素晴らしいのなんのって。ちょっとびっくりするぐらい素敵なエッセイでした

私は、他人の文章を読んで時々、「これって自分が書いた文章だっけ?」と感じることがあります。つい最近も、「恋愛関係なしで、パートナーシップを築く実験」という連載の、有吉宣人さんの文章が、「ほぼ私が書いたと言っても過言ではない」と感じる文章で驚きました(この記事の存在を教えてくれたのも、『ユーハブマイワード』のデザインを手掛けた友人です)。

『ユーハブマイワード』の場合は、著者が女性なので、当然、すべての記述に対して「自分が書いた」という感覚になれたわけではありません。ただ随所で、「うわっ、まったく同じこと考えてるじゃん」と感じられ、自分の内側の柔らかい部分がズバズバ刺激される感覚がありました。

正直私は、普段、あまり「エッセイ」に刺激を受けるタイプではありません。最近は映画ばかり観ているので本を読む冊数はかなり減っていますが、これまでの人生で4000冊近くの本を読んできました。その中で、小説に心をグワッと鷲掴みにされたこともありますし、ノンフィクションや数学・科学・哲学を扱った本に感心させられたこともあります。ただなかなか、「エッセイ」に心を奪われるという経験をしたことはありませんでした。そういう意味でも、この『ユーハブマイワード』は、かなり印象的な作品になったと言えるでしょう。

犀川後藤

「面白かったエッセイ」で思い出せるのは、乙一、森見登美彦、三浦しをん、朝井リョウぐらいかなぁ

いか

中谷美紀、岸本佐知子、穂村弘なんかも結構良いよね

この文章を書いている今、私は40歳。一方、『ユーハブマイワード』の著者のムラタエリコさんは本書出版時点で28歳12歳も年下の異性と「感覚が合う」と主張することは、おじさんとしてはやはり結構勇気のいることです。ただ、私が何か書くことで本書が、あるいは本書に書かれている内容が、それを必要とする人のところに届く可能性もあるんじゃないかとも信じたいので、そんな違和感は一旦無視して、読んで感じたこと、考えたことを書き連ねてみたいと思います。

本書は、何らかのテーマで区切られているようなエッセイではなく、恐らく、著者が日々感じたこと、考えたことを日記的に綴ったものを再編集したような作品だと思います。ただ、全体を通読して私が特に興味を抱いたのが、「恋愛・ジェンダー的なこと」と「写真のこと」だったので、この記事では主にこの2点に絞って書いていくつもりです。

「恋愛」にどうしても前のめりになれない自分に気がつく

「みんなが恋愛の先に手に入れるような関係を求めていたんだ」

本書を読んで、一番刺さった文章を、まずは引用したいと思います。

共に朝を迎えることも、服を着ないで眠ることも、特別な意味なんてなかった。わたしたちは恋愛がしたいんじゃない。みんなが恋愛の先に手に入れるような関係を求めていたんだ。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
いか

この文章は、ガツンときたよね

犀川後藤

「なんでこういう言語化が、これまで自分の内側から出てこなかったんだろう!」とさえ思ったわ

この文章を読んだ時、心の中で「うわぁー、そうそう!」と頷きまくってしまいました。さらに私は、まったく同じ感覚を抱いていたにも拘わらず、これまで「恋愛の先に手に入れるような関係を求めていた」という形でその感覚を掴めていなかったことにも気付かされたのです。言語化するのは結構得意だと自覚しているので、「この感覚を、自身でこんな風にシンプルに言語化出来ていなかった」という事実にも、同時に驚かされたという感じでした。

私は、割と以前からずっと、「『恋愛』の先に『結婚』があるのって、なんか変だよなぁ」という感覚を抱いています。それは、「恋愛」と「結婚」に求める状態が違いすぎるからです。「恋愛」にはなんとなく、「刺激」とか「新奇性」みたいなものを求めているし、求められている感じもします。付き合いが長くなるにつれてそうではなくなっていく人もいると思いますが、「恋愛」のスタート地点はやはり、「刺激」「新奇性」であることが多いでしょう。一方「結婚」には、「空気のような透明さ」や「隣にいる時の穏やかさ」みたいなのが大事な気がします。だから、「恋愛」から「結婚」にたどり着く場合、お互いの関係を「刺激」から「透明さ」へとドラスティックに変化させなければならない、と感じてしまうのです。

なんかそれは凄く不合理な気がするなぁ、と思っていました。

犀川後藤

結婚した人の3割ぐらいは離婚するって話を聞いて、まあそりゃあそうだよなぁ、って思ったりするんだよなぁ

いか

離婚してないってだけで、夫婦関係は破綻してる人もいるだろうから、上手くいっていない割合はもっと多そうだよね

私は、決して「結婚」に限りませんが、最初から「透明さ」みたいな関係をスタート出来たっていいと思っているし、あるいは逆に、「結婚」や「破局」のような未来を想定せずに、誰かとずっと「刺激」の関係で居続けることだって出来ていいんじゃないかとも思っています。

世の中の人はどうも、「『恋愛』から『結婚』に至るという道筋」に違和感を覚えることがないみたいで(あくまでも私の感触ですが)、私のように考える人にはあまり出会ったことはありませんが、やっぱりどうしても私は、「『恋愛』を起点にしなくたって、『恋愛を経たような関係』に辿り着けてもいいんじゃないか」と感じてしまうのです。

そういう、私がずっと抱いていた感覚を、「みんなが恋愛の先に手に入れるような関係を求めていたんだ」というシンプルな言葉で表現しており、私はこの点にまずズバーンと刺されてしまいました。

また著者は、友人との会話の中で、こんな発言をしています。

「彼氏って友達とやってることあんまり変わらないじゃん。セックスするかしないかみたいなところない?」

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
犀川後藤

これは本当に、私が普段から言ってる言葉だったから、「同じ感覚だ!」ってビックリした

いか

まあ、男が口にする言葉としてはちょっと不適切感あるから、言う相手は選んでるよね

私もよく、「『恋人』でも『友達』でもほぼ同じことが出来るから、関係としてはほとんど差が無いんだよなぁ」と感じます。私は生まれてこのかた、「感覚が合うと感じる同性」に出会ったことがないので、友人はほとんど異性なのですが、「『身体の関係』以外のことは、別に友達のままでも全部出来ちゃうよなぁ」みたいに思うことばかりでした。

だから、「恋愛にしたい」という感覚が分からなくなってしまうのです。

いや、20代の頃はまだ「恋愛をしたい」と思っていました。ただそれは、「『身体の関係』以外のことは、別に友達のままでも全部出来ちゃう」という感覚に、まだ気づけていなかったからです。しかし、子どもの頃から同性とどうも話が合わなかったこと、異性と話している方が自分としては自然だったこと、昔から女性ばかりのところに男が私だけ呼ばれる「黒一点」の状態になることが多かったこと(これを私は「女子会に誘われる」と呼んでいました)、恋愛の状態がどうも上手くいかないという感覚があったことなどを踏まえて、ある時点で「恋愛を止めよう」と決めました。そしてそのお陰もあって少しずつ、「『身体の関係』以外のことは、別に友達のままでも全部出来ちゃう」という感覚に気づけるようになっていったのです。

犀川後藤

一応、混乱しないように書いておくと、私は「男として女性が好き」というセクシャリティです

いか

LGBTQに当てはまる自覚は特にないって感じだよね

そして、「『身体の関係』以外のことは、別に友達のままでも全部出来ちゃう」という感覚が積み上がることで、余計に「恋愛」から遠ざかることにもなっていきました。というのも私の中で、「付き合ってください」と告白することは、「『友達』の関係では出来ないことがしたいです」、つまり「あなたとセックスがしたいです」と伝えるのと同じになってしまうからです。「なんかそれは嫌だよなぁ」という気持ちが、余計に私を「恋愛」から遠ざける、という循環が生まれています。

さて、著者から「彼氏と友達って大体同じじゃない?」と問われた友人は、それに対して次のように返しました

「友達と遊びに出かけたり、友達と暮らしたりするのとあまり変わらないのかもしれないけど、でも特別だよ」

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

これに対して著者は、

わたしはその「でも特別」という部分がわからない。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

という感覚を抱くのですが、私も同じです。私もその「でも特別」がどうにも理解できずにいます

犀川後藤

「恋人の特別さが分からない」ってより、「友達でも特別さを感じられるんだけど」って感じかな

いか

「恋人の特別さ」と「友達の特別さ」は何が違うの? ってことだよね

「恋愛」に対して感じるはずの「でも特別」が分からない

誰かを「特別に」好きという気持ちがずっと分からなかった。涙が出た。涙が止まらなかった。確かに、彼のことが好きなのに、この気持ちをどこかに着地させることができない。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

まだ恋愛をしたかった20代の頃、「恋人のことを『唯一無二の存在』として扱わなければならない」みたいな感覚になることが、どうにも苦手でした。「私のこと、好き?」みたいなことを聞かれると、「私以外の人のことは『好き』ではいけない」と言われたような感覚になります。もちろん、相手もそういう意味で言っているのだろうから正しい受け取り方なんだと思いますが、「どうしてそうじゃなきゃいけないんだろう?」とずっと不思議に思っていました。

世の中的なルールでは、「誰かと恋愛関係になったら、同じ強度を持つ関係性を築いてはいけない」ということになっているはずです。ただ私は、どうもこの感覚に納得がいきません。これに抵触すると、「浮気」とか「不倫」などと非難されてしまうのはどうしてなんでしょう? もちろん、私は「同じ強度」という点に重点を置いているつもりなので、「同じ強度」ではない、単に火遊び程度の関係であるなら、「浮気」「不倫」と糾弾されて然るべきだと思っています(ただ私は、「火遊び程度の浮気」をする人は、結局、恋愛相手に対しても「火遊び程度の気持ち」しか抱いていないんじゃないか、と感じてしまうのですが)。

ただ、「同じ強度」の関係性にいつ出会ってしまうかは予測不能です。私たちは、この世の中に生きるすべての人間と”同時”に出会うことなど出来ないのですから、恋愛相手に対するのと「同じ強度」で惹かれてしまう人に、いつ出会ってしまってもおかしくないでしょう。それは「仕方ないこと」なんじゃないかと私は思うんですが、どうもそれも許容されないみたいです。

犀川後藤

一夫多妻とか一妻多夫みたいな関係が「排除」されてるのは不自然な気がするんだよなぁ

いか

まあ、遺伝子レベルでそれが禁忌としてプログラムされてる、みたいな話ならしゃーないけどね

こんな風に私は、「『特別』が複数あってもいいんじゃないか」という考えを捨てきれずにいるのです。ただそういうことを言うと、「私のことを『特別に』好きなわけじゃないんでしょう」みたいに非難されてしまったりします。やはりそこには、「『特別』は1つである」という考えがあるのだと思いますが、それしか許容されない状況には、どうにも納得できずにいるのです。

私は、ムラタエリコという人について『ユーハブマイワード』の記述からしか知り得ませんが、本書を読む限り、彼女もまた「『特別』を複数持つことが出来る人」のように感じます。それは、巻末に寄稿された、著者の友人の文章からも窺い知ることが出来るでしょう。

もし悩みを抱える友人がいたら、親身になって話を聞き、その荷物を減らしてやろうとするし、街中で困りごとがありそうな人を見かければ、何か助けになれる事はないかと声をかけに行く。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

恐らく彼女は、私なんかよりも遥かに多くの人に「特別」を抱くことが出来る人なのだと思います。そして私は、その方が「素晴らしい」んじゃないかと考えてしまうのです。むしろ、短期間で恋愛相手がコロコロ変わるみたいな人の方が、「『特別』って、そんなにすぐに変わるもの?」と感じてしまいます。その比較で考えれば、「『特別』が常に1つの人」より「『特別』が常に複数の人」の方が「より自然」ではないかと思うのですが、やはり世間的にはきっと、「『特別』が常に1つの人」の方が「正しい」とされるのでしょう。

犀川後藤

「一度付き合ったら長い」みたいな感じの人が言う「特別」は、良い「特別」だと思うけどね

いか

「そういう『特別』もあるし、そうじゃない『特別』もある」みたいな感じで許容されたいよねぇ

また本書には、「強度」についてもこんな風に書いている箇所があります。

会いたいとか好きだとか、そういう気持ちに出会った時、なぜ?と思ってしまうような関係ってあんまり上手くいってないのかもしれない。気持ちが双方向に、同じくらいの強さで向き合っていない時「なぜ?」が生まれる。「喫茶店でだらだらおしゃべりしたい」って言ってくれれば「このひとはわたしと喫茶店でだらだらおしゃべりがしたいんだな!」と思える。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

この文章は、「恋愛」についてのものではなく、「同性同士のお茶の席」での感覚を基にしています。同性に対して、「相手とは、どうも同じ強度の気持ちを持っていなかったようだ」という感覚を抱いたことをきっかけに、「居心地の良い関係のためには、お互いが同じ強度の気持ちを持っている必要がある」という結論に達したというわけです。

つまり彼女は、恋愛なのか友達なのか、異性なのか同性なのかに関係なく、「そこに『同じ強度の気持ち』が存在するかどうか」で「特別」かどうかを感じ取るのでしょう。そしてだからこそ、「『恋愛にのみ特有の特別な感覚』を上手く捉えられない」のかもしれないと感じました。

いか

これも、感覚としては凄く分かるよね

犀川後藤

「同じ強度の気持ち」かどうかって、やっぱなんとなく分かっちゃうもんだしね

「特別」を向けられることに対する違和感と、そこに潜む「想像力の無さ」

他人に対して、多くの人が「当然」と考える「恋愛的な特別」を抱けないことに気づいた彼女は、当然というべきか、その「恋愛的な特別」を自身に対して向けられた時にもやはり、強く違和感を抱いてしまうことになります。

誰かに特別な感情を抱かれることが人生を助けてくれると思っていたのに、その特別な感情が苦しかった。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

彼女はある出来事を通じて、このような実感を引き寄せてしまいました。それは、「恋愛」に対して「大いなる断絶」とでも言うべき何かを感じてしまった時のことです。本書にはその出来事について具体的に触れられているわけではないので、

これ以上向き合っていても仕方がないことがなんとなくわかった日があった。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

のように振り返っているその日に一体何があったのかは分かりません。ただ恐らく、「お互いが相手に抱く気持ちの『強度』にズレがあり、そのバランスが保てなくなってしまった」ということに気付かされたのではないかと思います。そして、そんな風に気づいてしまったからこそ、それまで2人の間に当たり前のように存在し変に意識することのなかった「特別」に対して苦しさを感じるようになってしまったということなのでしょう。

犀川後藤

「恋愛」って、「お互いの気持ちの強度」にズレが生じても、「恋愛」っていう枠組みがすぐに崩れるわけじゃないから、そこがややこしいんだよなぁ

いか

「ちゃんとお別れする」みたいなプロセスを経ないと、「恋愛」っていう枠組みは無くなってくれないからねぇ

さて彼女は、「恋愛」を幾度も経験していますし、そこに「憧れ」めいた気持ちを抱いてもいたわけですが、一方で、「恋愛」に自分から飛び込んでいくことはなかったはずです(本書の中にそんな記述があった気がします)。つまり彼女にとって、「恋愛」は常に「相手からの告白」でスタートするわけですが、この点についても本書の中で言及されています。

好意を伝えられるのがしんどいというのは共感されにくい事かもしれないけど、自分の言動全てを曲解され続けている感覚に近い。モテ自慢と捉えられないか不安になりながらこの文章を書いています。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

彼女は本書の中でこんな風に断りを入れているのですが、私としては「自分の言動全てを曲解され続けている感覚」という表現に「なるほど」と感じました。そう、彼女は決して、「告白するという行為そのもの」に対して憤りを抱いているわけではありません。そうではなく、「まだ会ったばかりなのに?」「ほとんど喋ったことがないのに?」みたいな感覚の方が先に現れてしまう、というわけです。恐らく彼女は、「私の気持ちを想像してくれていますか?」という類の「怒り」を抱いているのでしょう。もしそうだとするなら、この「想像力の無さ」は、私が普段から感じている問題意識の1つでもあります。

犀川後藤

ホント、「『想像力』って機能があなたには備わっていますか?」みたいに感じちゃう人が多すぎる

いか

考えすぎちゃうのも良くないけど、考えさ無さすぎるのはホント罪悪だよね

「想像力の無さ」については、恋愛とはまた少し違う状況に対する苛立ちみたいなものにも本書では言及しています。

仕事中であっても、知らない人から自分の見た目をジャッジされてはいけない。それがなんの意味も含まない「痩せた?」で、あっても。褒めようと思っての「美人」も。悪意のない言動も。全て。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

美人だねと言われるってことは、ブスだったらブスだねって言われてるのと一緒じゃん。わたしは自分の顔面を美人かブスかで判断しない。もちろんコンディションの良し悪しはあるが、自分の顔面でしかないから。遺伝子に感謝している。そう思えない人がいるのも知ってる。でもわたしはわたしの納得いく顔面で生きている。それは顔面で人間の良し悪しを判断する感覚がわからないから。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

私もたぶん、20代の頃はまだ、この辺りの感覚を適切には理解できていなかったんじゃないかと思います。ただその後、恋愛ではない形で異性と関わっていく中で、女性の感覚をそれなりには理解できたつもりにはなっているし、少なくとも同世代の同性と比べたら圧倒的に分かっているはずです。「それがどれだけ『ポジティブ』な理由で発された言動であっても、相手が『ポジティブ』には受け取らないかもしれない」という想像力を持てない人は、ホント、「人間関係」というステージから脱落してほしいとさえ感じてしまいます。

いか

セクハラとかパワハラも、まず間違いなく、こういう「想像力の無さ」が生み出すものだからね

犀川後藤

私も年齢的にはもうおじさんだけど、いわゆる「おじさん」には、そういうことを理解する力が全然ないんだろうなぁって思う

さて、もう少しこの「想像力の無さ」を掘り下げていきましょう

「『男であること』の加害性」と、「『記号で見られること』の違和感」

少し前に、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という映画を観ました。この映画の主題や様々な描写は、『ユーハブマイワード』と深いところで響き合う部分があると思うので、どちらかに共感できた方はもう一方にも触れてほしいですが、私がここで取り上げたいのは、映画の中でさりげなく描かれていた「『男であること』の加害性」についてです。ある人物が、「男である自分が、ただ自分としてそこに存在しているだけで、その存在が誰かにとっての『加害性』になってしまっているかもしれない」という悩みを告白する場面があります。私の中にも似たような感覚があったので、凄く共感してしまいました。

先程紹介した、「恋愛関係なしで、パートナーシップを築く実験」という文章にも同じようなことが書かれていたので、少し抜き出してみたいと思います。

こんなに「傷つける」ということへの意識が働く大きな要因がある。自分をシスジェンダー男性だと認識していることだ。自分にとって男性というのは、特権的で、他者を傷つける力や、加害性を常に持ちうる存在。自分はそんな存在だ、と思うたび、自分が男性であることがこわいし、男性であることに罪悪感を感じる。だから、なるべく注意深く人と接したい。でも、人と一緒にいる、ということを諦めたくないとも思う。

「恋愛関係なしで、パートナーシップを築く実験」

先程も触れた通り、有吉さんの文章は「ほぼ私が書いた」と言ってもいいぐらいほとんどの箇所に共感できてしまうのですが、この「加害性」に関する部分は特に、身近にいる同性と感覚を共有出来たことがないこともあり(まあ、私が同性とほとんど関わらないからという理由もあるとは思いますが)、特に「分かるわぁ」と感じてしまいました。

犀川後藤

自分の周りの同性に「『男であること』の加害性」についての話をしても、たぶんポカンとされると思う

いか

この感覚が通じそうな人の顔を思い浮かべられないよね

ただし、『ユーハブマイワード』には、「同性別の皮を被った化け物」という表現も出てきます。つまり、この「加害性」は決して男性性に限定されるものではないというわけです。ただ、「存在そのものが『加害性』を持ち得る」という話は、やはり男性性に対して適用されることが多いと思うので、この記事では「『男であること』の加害性」という書き方で統一したいと思います。

さてそうなると、「男は何故その『加害性』に気づかずにいられるのか」という疑問が生まれもするでしょう。その直接的な解答というわけではありませんが、本書のこんな文章が、その一端を説明してくれるかもしれません。

『そういう発言は、気にせず受け流すのが一番』が普通だと思わないでほしい。それが処世術として、まかり通っているような世の中を渡りたくない。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
犀川後藤

こういう主張が当たり前のように出てくる世の中であってほしいって思っちゃう

いか

今はどうしても、こういう主張は「勇敢」みたいな受け取られ方になっちゃうよね

つまりこういうことです。男の「加害性」に直面したとしても、世の中的には「『気にしていない風を装う』という振る舞いこそが最善である」という風潮があるため、その「被害」を表に出しにくくなります。そしてそれゆえ、男は自身の「加害性」に気づかないのです。さらに、当然の話ですが、「『気にしていない風を装う』という振る舞いこそが最善である」という価値観を押し付けているのもまた男だという点にも注意が必要でしょう。つまり男は、そんな押し付けをしている意識も、まして「加害性」を帯びているなどという事実にも気づかないまま、ナチュラルに「加害性」を振りまき続けている、というわけです。

なかなかの醜悪さだと言えるでしょう。

そして、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の登場人物や「恋愛関係なしで、パートナーシップを築く実験」の有吉さん、そして私のように、その「加害性」を自覚してしまった者たちは、自身に付随する「醜悪さ」に狼狽えてしまい、それ故に、「その『加害性』を感知するだろう異性との関わり」について再考させられるというわけです。

犀川後藤

私は「女子会に誘われる」っていう経験を何度もしたことで、この「加害性」に気づけたかな

いか

普段仲良さそうに振る舞ってる男に対して、女性が陰でボロクソ言ってるのを聞いて考えを改めたよね

さてでは、その「加害性」はどんな風に発露されるのでしょうか? 様々なパターンがあるとは思いますが、本書の中で指摘されているのは、「記号」についてです。

相手は女という記号でしかわたしを見ていないのだ。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

意味が分かるでしょうか

この「記号」という考え方は、私の中では対人関係を考える上でベースになっているものです。「記号」に関する考察については、Kindleで本も出版していますので、興味があればそちらも読んでみてください。

これは要するに、相手のことを「その人そのもの」として捉えるのではなく、「性別、年齢、出身、属している組織、家族関係」などの「属性(記号)」で捉える振る舞いのことです。「これだから女は」「母親なのに信じられない」「お兄ちゃんなんだから」みたいな言い方はすべて「記号」的な捉え方ですし、無意識の内にこういう風に他者を見てしまう人は結構いるんじゃないかと思います。

犀川後藤

こういうことについての自覚をまったく持てない人って、ホントにいるんだよなぁ

いか

特に、「自分は多様性みたいなことに理解がある」って自覚を持っている人ほどダメだったりするよね

彼女は、自身に向けられる「記号」的な視線に対して常に違和感を覚えてしまうわけですが、決してそれだけに留まりません。彼女は、社会のあちこちに存在する、そのような「記号」的捉え方に対しても苛立ちを覚えてしまうのです。

心無い発言をした人に、
「LGBTQ+を敵に回した!」
と、メディアは言うが、外部からの言葉だなと思う。当事者ではない、外野からの言葉がこの世には溢れている。
メディアが言うようにLGBTQ+を敵に回していることは確かだが、
・他人のセクシュアリティやパーソナルなことに口出しをしてくるクソ野郎
・自分がマジョリティであるという自覚を理由にマイノリティを格下の人間だと無意識に思っている差別
などなど、そのメディアにも言いたいことはいろいろある。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

あぁ、凄く分かるなぁ、と感じました。

「記号」に対する自覚が無ければ無いほど、その人が放つ言動には容易に「暴力」が内在し得ます。その「暴力」は、「あまりにも無自覚に放たれた」という事実を内包することによって、その言動が本来持つ意味以上の何かを帯びて、「記号」に対する自覚を持つ人間を打ちのめすでしょう。しかし当然のことながら、その言動を成した者は、自身の言動がどこかの誰かを打ちのめすものであると自覚することさえ出来ないはずです。むしろ人によっては、「LGBTQ+を敵に回した!」みたいな言葉を「正義」と勘違いし、「良いことをした」「きっと誰かのためになっているはずだ」なんて感覚の人もいるかもしれません。

犀川後藤

私はほとんどSNSを見ないけど、たまに視界に入ってくる「炎上」に対しては、「お前ら関係ねーだろ」みたいにしか思えないことが多い

いか

「場外乱闘」ばっかりで、常に当事者が置き去りにされている感じがするよね

私は、そういう「世間」に対してずっと違和感を覚えてきました。私の場合は「男」なので、否応なしに「加害者側」として括られてしまいますし、だからこそ、「『被害者側』である著者と同じ感覚が共有出来ているはずだ」と主張するのは無理があるかもしれません。ただ、それでも私は、「こういう感覚を持つ『男』も、多少はいる」という事実を知ってほしい気がするし、またこんな風に書くことで、他の男たちが「『男であること』の加害性」を多少なりとも自覚しようとしてくれたらいいな、とも考えているのです。

著者が日常の中で様々に抱く「違和感」は、多くの人に色んな形で「コミュニケーション」についての再考を迫るものだと言えるでしょう。

「写真を撮ること」もまた、著者にとっては「社会を捉える目」として機能している

著者はある章で、こんな風に書いています。

今まで見ていた景色を誰かの目を通して見ること、見たことのないものを自分の目で見ること。人と関わっていく中で自分の目が育っていく。それに気が付いたときの新鮮さを何度でも味わいたくて、私は他人を諦めたくない。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

この文章は決して「写真」に関してのものではないのですが、彼女が「見ること」についてかなり自覚的であることを示す文章だと言えるでしょう。写真の専門学校に通っていたという著者は、「写真を撮る」という行為を通じて、結果として「見るという行為」に自覚的になったのだと思います(あるいは、元々自覚的だったからこそ、「撮ること」に興味を持ったのかもしれません)。そして本書では、「写真を撮ること」や「見ること」を通じた思考が、自然と、「社会への違和感」や「自身のアイデンティティ」に接続されていくような文章が多く、その鋭さもまた魅力の1つだと感じました。

犀川後藤

ちなみに、著者と同じように私も、「新鮮さを何度でも味わいたくて、他人を諦めたくない」って思ってる

いか

なかなかそう感じられることってないけど、たまにそういう機会があるとエクスタシーにも似た感覚になるよね

そんなわけでここからは、「写真を撮ること」を通じた彼女の思考に触れていきたいと思います。

「生存のために必要な場所」について

著者は定期的に、美術館や展示に足を運ぶそうですが、彼女はそのような空間を「生存のために必要な場所」と捉えています

この空間はやんわりと社会に蔓延る『生きにくさ』からわたしたちを救ってくれるから。社会はわたしたちに生きにくさを感じさせると同時に、美術館や博物館もわたしたちに正しい場所を提供してくれる。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

私は、そこまで強くそんな風に感じているわけではありませんが、言っていることは理解できます。例えば私は、衣食住にほぼ興味がないので、単にそれだけを考えれば地方で暮らすことも全然出来るはずです。ただ1点だけ、「文化資本の差」という意味でどうしても東京を離れられないという感覚があります。東京でさえ数館でしか公開されない映画が観れたり、気が向いた時にフラッと足を運べる距離に美術館・博物館が山程ある環境はやはり得難いものがあると思うし、そういう時間をかなり自由度高く自分の人生に組み込めるという事実が、自分という人間をなんとかこの世界に繋ぎ止めていると感じもするからです。

いか

こういう感覚も、正直なかなか通じないよね

犀川後藤

特に「コスパ」「タイパ」みたいな言葉で、世の中のすべてを「情報」かのように捉えちゃう人は、ちょっと苦手かな

さて、そんな彼女が、美術館の来館者に対して「怒り」を表明する場面があります。すべてを引用すると長いので、適宜省略しながら抜き出してみましょう。

写真を鑑賞していると、予感は的中した。iPhoneのシャッター音が鳴り響いた。これはもう本能だと思った。そこから止まることのないシャッター音が作品の前を陣取る。
(中略)
社会から離れ、生きるために美術館や博物館、映画館に来る人間もいるんだよ。
(中略)
つらくて泣きそうだった。見栄えがいい、オシャレという感覚がソーシャルメディアと力を合わせ、私たちの居場所を奪っていく。強奪だよこんなもん。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

私はこの文章を読んで、かつてタイをバックパック的に旅行した時のことを思い出しました

10年くらい前、行きと帰りの航空券だけ確保して、宿も旅程も決めないまま、2週間ほどタイをウロウロするという旅行をしたことがあります。当時、まだぎりぎりガラケーを使っていたこともあり、写真を撮る機能を持つものをすべて置いていったので、タイで撮った写真は1枚もありません

犀川後藤

まあそもそも、普段から特に写真を撮るような習慣はないんだけど

いか

写真を撮っても別に見返さないし、SNSに上げたりもしないから、撮る意味がないんだよね

タイに着いて最初に向かったのが、一番の観光地である王宮です。確かその日は土曜日だったはずなので、恐らく普段よりも観光客がたくさんいたんじゃないかと思います。

そしてそんな王宮は、世界中の人間が自撮り棒を掲げて写真を撮りまくるだけの、「地獄絵図」としか感じられない状況にありました。私にとっては、とにかく醜悪でしかなかったのです。

その日以来私は、「二度と観光地にはいかない」と決めてタイでの旅を続けました。それ以降、周りはほとんど現地に住むタイ人ばかり、1日に1組か2組ぐらい欧米の観光客とすれ違う、という感じだったのを覚えています。王宮で、「カメラを通じてしか目の前の現実を見ようとしない人々」の姿に苛立ちを覚えたお陰で、なかなか面白い旅行になったと言ってもいいかもしれません。

犀川後藤

一番覚えてるのは、だだっ広い大地にどこまでもまーっすぐ続く鉄道の線路だなぁ

いか

線路の両側に出店みたいなのがあったり、線路の上をしばらく歩いてみたり、楽しかったよね

著者も私と同じような違和感を覚えたのだと思いますが、要するにそれは、「『撮ることの暴力性』にどれだけ無自覚であるか」を示すものだと言っていいと思います。

「撮ることの暴力性」と、「自撮りをする理由」について

「写真」が好きで、専門学校に通って学びさえした彼女は、しかし、本書の中でこんな風にも書いています。

しかし、学校を卒業して7年たった今、やっと写真を諦めることができた。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

わたしはもう写真をやらなくていいんだ。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
いか

この辺りの感覚は、なんかちょっと悲しい感じするよね

犀川後藤

好きなことを「好きでいられること」ではなく、「諦められたこと」に対して安堵感を得るっていうのは、なんかね

どうして彼女は、こんな感覚に行き着くことになってしまったのでしょうか。まさにその点にこそ、「撮ることの暴力性」が関係しているのです。

十分な関係性が無い人を一方的に記録することの暴力性を理解すること。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

現代人は、あまりにもカメラの存在に慣れすぎたために、もしかしたら「撮ることの暴力性」を正しく捉えきれていない人もいるかもしれません。一昔前と比較してみましょう。私が子どもの頃は、もちろんスマホなどなく、「チェキ」があったかどうかは覚えていませんが、恐らく最も手軽に写真が撮れる手段は、「写ルンです」のようなインスタントカメラだったと思います。そしてそういうカメラは、何かのイベントの時に使われるのが普通で、現代のような「誰もが日常的にカメラを向けられるような時代」ではなかったはずです。

私は子どもの頃、フィルムカメラで写真を撮ることに少しだけハマっていました。何かのタイミングで、親にちゃんとしたフィルムカメラを買ってもらって、小遣いをフィルム代と現像代に費やしながら写真を撮っていた記憶があります。だから、同世代の一般的な人たちよりは、他人にカメラを向ける機会が多かったと言えるでしょう。そしてそんな私にとっても、やはりその行為は「非日常的なもの」として記憶されています

いか

当時撮った写真は確か、「文化祭の入り口の装飾で色んな写真を使いたい」みたいな要望があった時に全部あげちゃったよね

犀川後藤

フィルムはどこかにあるはずなんだけど、実家をひっくり返したら出てくるんだろうか……

時代が変わったと言われればそれまでかもしれませんが、多くの人が「『無遠慮にカメラを他人に向けること』は暴力的な行為である」という感覚を失念しているように感じます。そして著者は、今の時代のそんな雰囲気に嫌気が差しているというわけです。このような感覚はとても大事だと私は感じました。

さて、そんな「撮ることの暴力性」を背景にした彼女の行動が「自撮り」です。彼女は本書の中で、「自撮りをする理由について、自分で自分をインタビューする」という構成の章を用意しており、その中で次のように書いています。

わたしは写真を勉強してたので、自分の手の届く範囲の景色や友人や日常のワンシーンを写真にしてきたのですが、自分の写真が少ないということに気が付いたんです。写真を撮る側の人間なので当たり前ですが。じゃあ誰かに写真を撮られるような人間になる!というのもおかしな話じゃないですか。写真ってあくまでも撮る側の人間主体のものなので。写真として自分の姿が残っていたらいいなとは思うんですけど、写真撮られるのそこまで得意なわけじゃないし。でも人が写ってる写真も撮りたい。それで、自分の一番近くにいる人間を探してみたんです。友達だと許可が必要だし、気も使いたいし。じゃあ、許可もいらない自分にすれば良いんだと思い自撮りを始めることにしました。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

この文章には「暴力性」のような直接的な言葉は出てきませんが、主張としてはまさにそのようなことを言っているのだと思います。「撮ることの暴力性」を自覚しているが故に、「そのような懸念を一切考慮する必要のない被写体」として「自分」を選んだ、というわけです。このような感覚に自覚的であるという事実は、特に「表現」に関わる人間にとっては大事だと感じました。

いか

写真に限らないけど、表現とか創作とかって、往々にして何らかの「暴力性」を含んでしまうものだからね

犀川後藤

「自覚していればいい」って話では決してないけど、ただ「自覚できていないのは最悪」って感覚は共通であってほしいよなぁ

「写真は『撮る側のもの』である」という感覚について

「撮ることの暴力性」を理解している著者にとっては当然のことだと言えるでしょうが、彼女は、

写真ってあくまでも撮る側の人間主体のものなので。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

というスタンスを明確に持っています。はっきり言って、私にはこの感覚は「当たり前」のものに感じられるのですが、多くの現代人にはちょっと意味が分からないかもしれません。この点について著者は、別の章でもう少し具体的に次のように書いています。

突然だがわたしが好きな写真は死んだ。もうこの世にはわたしが心酔した写真という行為はなくなったと思った。SNSの普及で写真は撮る側のものから、撮られる側のものになった。撮られる者が撮る者をコントロールし、撮られた者が撮った写真をコントロールする。つまり様々な最先端技術や、SNSのフィルターを使い見る人までをコントロールしている。写真が死んだというか、写真的な瞬間が現代にはないのかもしれない。
撮られる人の自意識というのが、進化しすぎてしまった。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

「撮る側の人間主体」という感覚は、スマホが登場するまでは当たり前のものだったはずです。撮る側の人間の方が圧倒的に少なかったこともあり、言い方はちょっと悪いかもしれませんが、「撮る」という行為そのものに、何か特権的とでも言うべき雰囲気が内包されていたと感じます。

犀川後藤

私は子どもの頃、「カメラ目線の写真」を撮りたくなくて、盗撮っぽい感じの写真ばっかり撮ってた

いか

もちろん、相手との関係性があることが大前提だけど、これもまた「撮る側の特権的行為」って感じだよね

ただ、今はそれが逆転してしまいました。感覚的に理解できると思いますが、「撮る」という行為は明らかに「撮られる側」が主体となっている時代です。モデルやインフルエンサーと呼ばれる人たちが、自身の存在をSNSなどでアピールするための行為としての「撮る」ばかりが蔓延しているように感じます。そしてそのことを以って著者は、「わたしが好きな写真は死んだ」と言っているわけです。

自分が選んで撮る景色ではなく、景色に圧倒されたり、所以のわからない感銘を受けてその景色に写真を撮らされるという原体験に戻らなくてはいけない。自分が存在しているから写真が存在するのではない。世界や生活が存在しているからそれを写真に収めることができる。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

彼女は明確に、「撮るという行為」は、「『撮るという行為』以前に存在する何か」を起点にすべきである、と考えているようです。また、「だからこそ『写真』には価値があるのだ」とも主張しているのでしょう。そして私も、ジャンルこそ違いますが、著者と同じような感覚を持っていると思います。

これまで私は、今読んでいただいている文章のように、日々色んな文章を書いてきました。私の場合、仕事として文章を書いているわけではないので、「◯月◯日までに原稿を仕上げなければならない」みたいな制約に則って執筆を行っているわけではありません。むしろ私は普段から、「読んだ本、あるいは観た映画については、必ず何か文章を書く」というルールを決めているのです。しかしこれは、「『書くという行為』以前に存在する何か」を起点ににする、という著者の主張とは異なるでしょう。「書くという行為」以前に、「書くこと」自体は既に決めているからです。

犀川後藤

まあ、「本・映画に触れたら必ずなにか文章を書く」という制約のお陰で文章力・思考力が高まったから、良かったけどね

いか

「つまらない作品」に対して、「何故『つまらない』と感じたのか」を考えるのも訓練になるよね

ただ時々、「書かずにはいられない」という状況に陥ることがあります。私のこれまでの経験の中では、かつて森美術館で行われた「Chim↑Pom」の展覧会を観た時のことが印象的です。それまで、美術展を観て文章を書いたことなど一度もないのですが、Chim↑Pomはあまりにも衝撃的だったので、結果として、『美術手帖』という雑誌からの引用も含めて4万字超の文章を”書かされた”ことを覚えています。これは本当に、”書かされた”という実感が強く残る文章です。

本書『ユーハブマイワード』も、読む前から感想を書くことを決めてはいました。ただ、まさかこれほどズバズバ刺さる作品とは思わず、そんなわけで、今まさにこうして書いている文章も、”書かされた”という感覚の方が強いのです。

「書くという行為」や「出力した文章」が重要なのではなく、「『書きたい』という気持ちにさせられた対象」にこそ価値があるという感覚は私の中にもあるし、まさにそれは、「『撮りたい』という気持ちにさせられた対象にこそ価値がある」という彼女の主張と相似形を成すはずだと私は考えています。

いか

理想的には、あらゆる表現・創作がそうであってほしいって思うよね

犀川後藤

小説家・森博嗣みたいに「お金のため」って公言するのも全然アリだけど、よほど上手く演出しないと成立しない気がするかな

デバイスの進化によって、写真という分野は早々に「『撮る側』ではなく『撮られる側』が主体になる」という激変が起こりましたが、他の芸術分野も同じような大転換が起こる可能性はあるでしょう。そして私は、そのような変化が起こっても、彼女のように踏み留まれる人間が多い世の中であってほしいと感じました。

「写真が『撮られる側のもの』になってしまったこと」がもたらす変化と、そこに潜む違和感

さて、少し自撮りの話に戻りましょう

著者は自撮りをする理由について、「『撮ることの暴力性』に関して一切懸念する必要のない被写体として自分を選んだ」みたいに書いていたのでした(他にも「友人や家族に近況を知らせるため」や「『今を記録すること』が将来何らかの意味を持つかもしれないという期待を抱いているため」などの理由を挙げています)。自撮りの場合、「撮る側」と「撮られる側」が同一人物に内在しているという見方もできるわけですが、その場合でも、彼女はやはり「撮る側」の視点をより強く認識していると考えられるというわけです。

犀川後藤

要するに何が言いたいかというと、「『撮ること(自撮りすること)』そのものに価値があるのであって、それ以上ではない」ってこと

いか

「自慢のために『撮られたい』」とか「何かをアピールするために『撮られたい』」みたいなマインドではない、ってわけだね

だからこそ彼女は、「写真」にもたらされた、「『撮る側のもの』から『撮られる側のもの』になってしまった」という変化を嘆いているわけですが、その感覚は当然、「自撮り写真」が「撮られる側のもの」として受け取られた場合にも違和感をもたらすことになります。

あとわたしのアカウントを見にきた全く知らない人から『めっちゃいい顔してますね』というDMをもらったことがあります。あんまりそういうことを知らない人に言わない方がいいですよと言ったら。『本当のことを言っただけだ。言いたいから言った』と、キレられたことがあります。自分の顔を全世界に発信しているわたしもわたしですし、自分の意図通りに伝わらないこともあるというのは重々承知の上でしたが、顔面を売りにしているわけでもないのに外見を良いとか悪いとか言われるの本当に気分が悪かったです。人の顔面に判定を下してそれを伝える人がいるなら自撮りをやめようと思いましたが、そいつらのせいで『自分を記録せずにはいられない!』という気持ちを抑えるのはおかしなことだったので、やめませんでした。わたしは自分の外見に自信があるわけではないのです。自分の体だな~と思っているだけです。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

これも「時代の変化」と言ってしまえばそれまでですが、あまりに手軽に写真を撮れるようになり、かつ、それを多くの人に見てもらいやすいSNSが発達したことで、「自撮り写真をアップする人=自分のことを見てもらいたい人」のように受け取られてしまうというわけです(想像しにくいでしょうが、例えば仮に「スマホは存在しないが、SNSは存在する世界」があるとしたら、自撮り写真をアップしても、同じようには受け取られない気がします)。そしてそれ故に、「『見てもらいたい人』なんだから、褒めたら喜ぶだろう」みたいな輩に絡まれてしまうというわけです。

犀川後藤

まあ、この点については、「まったく理解できない」とは思わないけどね

いか

それにしても、「『全く知らない人』が唐突に言ってくる」って状況は、やっぱり許容しにくいよね

これもまた、「写真」が「撮られる側のもの」になってしまったことによる弊害と言っていいでしょう。著者は、「撮る側のもの」として発信しているつもりなのに、否応なしに「撮られる側のもの」として受け取られてしまうのです。このような変化もまた、彼女を「写真」から遠ざける要因になったと言えるでしょう。

「『思うこと』は自由」だが、「『思ったことを口にすること』は自由」ではない

さて、「写真」の話から少し逸れますが、先程の引用中の「本当のことを言っただけだ。言いたいから言った」という謎の逆ギレについて考えてみることにしましょう。

私は、それがどんな内容であれ、「思うこと」は果てしなく自由だと考えています。どれほど倫理に反した発想でも、明らかに法律に抵触するような思考でも、それが「頭の中」だけで閉じられているのであれば、何の問題もないはずです。

犀川後藤

前に読んだ、中島らもの奥さんが書いたエッセイ中の文章は、今でも印象的に覚えてる

いか

「(中島らもは)頭の中が自由ならそれでいいと思っていたはずだ」ってやつだね

さて、当たり前のことを書きますが、「『思うこと』は自由」というのは決して、「『思ったことを口にすること』は自由」という意味ではありません。しかし、どうもこの2つを履き違えている人が多いような気がするのです。

まったく見ず知らずの人に「めっちゃいい顔してますね」なんて言えてしまうのは、「言われた相手が、それを喜ぶはずだ」という考えがあるからだと思います。しかし当然のことながら、それがどんな内容であれ、どう受け取るかはその人次第です。「変態」と言われて喜ぶ人もいれば、「美人」と言われて傷つく人だっているでしょう。そんなことは、考えるまでもなく当たり前のことだと私は思うのですが、どうもその程度の想像力さえ持てない人が世の中には多くいるようなのです。

本書で著者は、「恋愛がなかなか続かないこと」について周囲の人間と話をすることがあると書いています。そして、相手に問われるまま自分の話をつらつらしていると、こんな風に言われることがあるのだそうです。

「お前には男を見る目がない」とか「本当に好きな人じゃなかったんだよ」とか言われたりする。わたしの問題に話をすり替えたり、知ったような顔をして人の好きを精査してくる。失礼な発言なので人に同じようなことを言わないように気をつけたいと思う。相手の感覚を否定するようなことを軽々しく言っちゃダメだし、個人の恋愛はお前を楽しませるためのものじゃない。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
犀川後藤

私も、自分の恋愛観を人に話すと、「本当に好きな人にまだ出会えてないだけだ」みたいに言われることがたまにある

いか

「自分のことについては、あなたの何千倍も多く考えてるんだから、ありきたりの意見だったら言わないでほしい」って思っちゃうよね

恐らく、「これは相手のための言動である」という免罪符(それは単なる思い込みに過ぎないが)さえあれば、「思ったことは何を伝えても良い」と考えているのだと思います。「あなたのため」という「押し付け」を、多くの人は「善意」と思い込んでいるので、その「押し付け」を拒絶してしまうと、「言いたいから言った」みたいな謎の逆ギレとなって返ってくることになるわけです。そんな世界線に生きるのは、とてもしんどいなと感じます。もちろん、「あなたのため」という気持ちはありがたいのですが、「あなたのために言っているつもりだけど、もしかしたら何の役にも立たないかもしれない」ぐらいのスタンスでいてほしいと感じてしまうことの方が多いのです。

著者はこの点についてかなり意識しています。それが分かる文章を抜き出してみましょう。

学生っぽいな~と思いつつも、自分がもうそこに居ないことにちょっとびっくりした。いつまでも学生のような気分だったけど、そんなことはないらしい。本人の前で「学生っぽいねえ」とか言いそうになるのを抑えた。わたしもあの時の大人達の気持ちが分かるようになった。
でもこの発言がどれだけ失礼なものか、大人は考えていない。大人は学生に責任のない言葉ばかり贈る。年上の人ってどうして若者のヤル気を削ぐようなことばかり言うのだろうか。的外れなアドバイスと、『若いんだからもっと~』というテキトーな言葉。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
犀川後藤

自戒を込めて言うけど、ホント大人って、「自分がかつて子どもだった」っていう事実を忘れてるとしか思えない振る舞いをするよなぁ

いか

「その言動、あなたが子どもの頃にされたら絶対に嫌だったよね」みたいなことを、さらっとぶつけてくるもんね

私も、年齢を重ねるにつれて、他人に対して一層「言葉を飲み込む機会」が増えたように思います。もちろんそれは、相手との関係次第です。「自分の言動が、適切な形で相手に届く」とお互いが諒解し合えている関係であれば、たぶん「学生っぽいねえ」みたいなことも言うと思います。だから「学生っぽいねえ」という言葉を使うこと自体が問題なわけではありません。しかし、そういうことが理解できない「おじさん」の場合は、「それをセクハラ・パワハラだって言われちゃうと、何も言えなくなっちゃうよ」みたいな反応になるというわけです。

結局のところ、常に問題となるのは「想像力」だと言えるでしょう。そして、「想像力」を使わずに生きて来られた人ほど、問題の本質がどこにあるのかを捉えられなくなってしまうのです。「想像力を働かせずに発言したり行動したりすること」こそが常に問題の本質なのであり、そういう認識が出来ない人に対しては、もっと「躊躇」した方がいいと私は感じてしまいます。

著者の「写真」に対するスタンスや思考は、このような問題さえも浮き彫りにしていくのです。

いか

「写真の話」が、『ユーハブマイワード』って作品全体のテーマと分かちがたく結びついている、っていうのがいいよね

犀川後藤

どこまで意識して書いたのか分からないけど、「写真の話」がまさかここまで全体の話と絡むとは思わなかったからビックリした

最後に

「写真の話」についてもかなり触れましたが、本書の中心的なテーマ(というか、著者の中心的な関心)はやはり「恋愛」や「人間関係」です。そしてそれらについて考え込んだり立ち止まったりしながら、著者は少しずつ自分の内側にある「何か」を捉えようとしていきます

これ以上誰かのことで自分のことを削りたくない。もうこれ以上自分に嘘をつきたくない。最初から、間違っていたんだ。最初から、誰とも一緒になりたくなかった。誰かと特定の関係になりたくない。誰とも恋愛をしたくない。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

たくさん時間を過ごして来た相手を今まで通り恋人にしたいと思えなくなったことに、強い疑念や違和感を覚えたくさんの時間をかけて悩んだ。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

結局わたしは恋愛を恐れているとか、恋愛感情がわからないとかじゃなくて、誰かを好きでいる自分が好きじゃないのかもしれない。自分の気持ちの良い方に人間関係を進めていくことが、相手や相手の好意を利用しているような気がしてそれが苦しい。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

告白されても「ごめんなさい。今恋人いらないんです」って言えばいいだけじゃんって思うかもしれないけど、相手の期待に応えられないことが当時はとにかく苦しかった。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』
いか

一般的な人がまず疑問を抱かないだろう事柄について考えを深めている感じがとてもいいよね

Saikawa Goto

さらにそれを、ちゃんと「言語化」してるってのが素敵だよなぁ

当然のことながら、リトルプレスである本書は「著者が書きたいことを好きに綴る作品」であり、「結論を出すこと」みたいな目的があるとは思えません。本書はとにかく、彼女が右往左往している様がひたすらに記録されているという感じであり、その行ったり来たりが「読者」が抱える何かと響き合うのなら、とても魅力的な読書体験になるんじゃないかと思います。

さて、そんな右往左往の中にあって、私が「これだけは絶対に手放すべきではない」と感じたのが、著者のこんな感覚です

この好きは『好き』とは違う。『大切』というのが、みんなにも伝わりやすいし、彼に対する感覚として一番近かった。「それは『好き』ってことだよ!」と人は言うんだけど、多分違うんだよな…あなたの想像している『好き』とはちょっと違う気がするのだ。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

彼女が、「恋愛とは何か」を巡る航海の旅をいつか終えることが出来るのかどうか、それは私には分かりません。ただ少なくとも、この感覚さえ手放さないでいられるのなら、座礁したり難破したりすることなく航海を続けられはするんじゃないかと感じました。

犀川後藤

今の時代、「いかに早く結論を出すか」ばかりが重視されている感じがあるんだけど、そういう風潮はあんまり好きになれないんだよなぁ

いか

「結論が出ないものを保留する」みたいな振る舞いが許容されにくくなってるんだろうね

余談

さて最後に、本筋とは関係ないけれど印象的だった話に触れて、この長い記事を終えることにしましょう。

本書の巻末に、著者の友人が文章を寄稿しているという話には既に触れましたが、その中でその友人はこんな風にも書いています

結果的に自らの心をすり減らすことになっても、彼女はそれをやめようとしない。この世界で弱者が軽んじられているとしたら、誰かが声を上げ続けなければならないから。大丈夫じゃない人が目の前にいたら、是非とも大丈夫になってもらいたいから。この本はそのために生まれた。

ムラタエリコ『ユーハブマイワード』

この文章を読んだ時、私は、「似たような文章を読んだ記憶があるなぁ」と感じ、しばらくして思い出しました。戸田真琴という元AV女優が書いた『あなたの孤独は美しい』の中の一節です

著:戸田真琴
¥1,485 (2023/08/17 06:54時点 | Amazon調べ)
犀川後藤

戸田真琴はホント、文章がメチャクチャ素敵だから、本でもネット記事でもなんでもいいから読んでみてほしい

いか

『あなたの孤独は美しい』の中の「AV女優になったきっかけ」の話も、衝撃的だったよね

あなたが、世間からほんのちょっと浮いてしまった時、そんな自分を恥じるよりも早くに、私が大丈夫だと言うために駆けつけます。
あなたが、賑やかな集団に混ざれなくて、そんな自分を情けなく思う時、本心に背いて無理やり混ざりに行こうとするよりも早くに、私がその手を掴んでちゃんとあなたらしくいられる場所まで連れていきます。
現実には身体は一つしかないのでそんなことはできやしませんが、心という自由な空間の中では、あなたのところまでちゃんと走っていけるのです。こうして、本という形にして、いつでもあなたが開くことのできる場所に置いておくことさえできたならば。
そんな願いを込めた本にしたいと思います。
あなたが、あなた自身を恥じないで生きていけるようになるのなら、私はきっとどんな言葉も吐くでしょう。

戸田真琴『あなたの孤独は美しい』

こういう主張は、ある意味では「諸刃の剣」でもあります。というのも、「嘘っぽい」と受け取られてしまうリスクが多分にあるからです。「そんなこと、ホントに思ってるわけないだろ」みたいな反応になりかねないと、容易に想像できるんじゃないかと思います。

戸田真琴の文章も、著者の友人の文章も、引用した部分だけ読んだら、とても「嘘っぽい」かもしれません。ただ、作品全体を通読すれば、そのような印象にはならないと思います。

それは、戸田真琴も著者も、「言葉が持つ重み」を正しく理解しているからです。2人とも、その凄まじい切れ味でどこかの誰かを血みどろにしてしまう可能性を引き受けつつ、それでも勇敢に「言葉を紡ぐ」という選択をしているのだと思います。

犀川後藤

そういう人の言葉は本物って感じするし、やっぱりズバッと伝わってくるんだよなぁ

いか

っていうか、そうじゃない人の文章が、薄っぺらく感じられちゃうよね

しかも『ユーハブマイワード』の場合、「あなたのためならなんでもする」という著者の決意を友人が代弁しているのです。普通に考えて、よほどの信頼や確信がなければ、そんなこと書けないでしょう。だから、「友人がその覚悟を代弁している」という事実もまた、著者のスタンスの「真実性」を高める要素になっていると言えるでしょう。

そういう様々な要素を踏まえた上で、改めて、とても良い言葉・思考に巡り会える作品だったなと思いました。

ちなみにですが、たぶんこの記事は、私が「ある1冊の本」についてこれまで書いてきたすべての文章の中で一番長いはずです。久々に本気出したー(笑)。

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