【異様】映画『聖なるイチジクの種』は、イランで起こった実際の市民デモを背景にした驚愕の物語である

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:モハマド・ラスロフ, 出演:ソヘイラ・ゴレスターニ, 出演:ミシャク・ザラ, 出演:マフサ・ロスタミ, 出演:セターレ・マレキ, 出演:ミシャク・ザラ
¥550 (2025/07/06 23:04時点 | Amazon調べ)

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「ヒジャブの付け方」を咎められ拘束された女性が死亡した実際の事件を背景に、市民デモが激しくなる中で混沌とする「家族」を描き出す物語
  • 冒頭からしばらくは、「妻であり母であるナジメがおかしい」と思っていたのだが、次第にその印象は変わっていく
  • 「ひと家族」という最小単位内での対立を描き出すことで、「イランという国家の縮図」をあぶり出す構成が見事

「パスポートを取り上げられていたモハマド・ラスロフ監督が徒歩でイランを脱出し、28日間掛けてカンヌ国際映画祭までたどり着いた」というエピソードも含め、とにかく衝撃的な内容である

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

マフサ・アミニの死がきっかけとなった実際の市民デモを背景にイランの現状を描き出す映画『聖なるイチジクの種』は、監督・役者・スタッフが人生を賭して生み出した凄まじい作品だ

これはちょっと凄まじい物語だった。正直なところ、観る前はそこまで大きく期待してはいなかったのだが、実際にはちょっとビックリするぐらいの作品だったなと思う。予告編では「自宅にあった銃が無くなった」ぐらいの情報しか出ていなかったため(監督がどういう人なのかは知らなかったし、調べもしなかった)、「まさかこんな話になるとは」という感覚がかなり強かったのである。

実際に起こった市民デモを背景として組み込んだ物語

私はそもそも、「実際の出来事を扱っている」という事実さえも知らなかった。本作で扱われている事件については、鑑賞中に何となく「そんなニュースを目にしたことがあるな」程度に思い出したのだが、「実際の出来事を扱っている」と判断できた理由は、「スマホで撮影したのだろう映像」が多数使われていたからである。もちろん、「そういう演出」という可能性もあるのだが、その後の展開なども踏まえつつ、「なるほど、あの事件が背景にあるのか」と認識したというわけだ。

それは、マフサ・アミニという女性が命を落とした事件である。そして彼女の死に抗議する形で市民デモがあちこちで始まっていくことになったのだ。というわけで、まずはこの事件の背景について説明しておこう。

本作『聖なるイチジクの種』の舞台は、イランの首都テヘランである。イランはイスラム教の国であり、作中で描かれている雰囲気からすると、イスラム教の中でも「コーランを厳守すべき」という圧力が強い国なのだと思う。当然、「女性は外出時、ヒジャブを着用しなければならない」というルールについてもかなり厳格で、不適切だと判断されると「道徳警察」に摘発を受けてしまう。

そんなイランで事件は起こった。2022年9月16日、ヒジャブの付け方の不備で道徳警察に拘束されたマフサ・アミニが、その後死亡したのだ。国は「心臓発作だった」と発表したが、彼女が警察に襲われているような姿を捉えた防犯カメラの映像がネットで拡散しており、「仮に心臓発作で亡くなったのだとしても、その原因は警察による暴行だったはずだ」と考える人が増えていったのである。

そして、普段から国に対する不満を溜め込んできた市民が、彼女の死をきっかけに連帯し立ち上がった。SNSで繋がる若い世代が中心となって抗議デモを行い、「独裁者を倒せ!」「女性、命、自由」といったスローガンを多くの人が叫び始めたのである。

本作は、このような市民デモが起こっている中で展開される物語であり、そして、そんな暴動の様子が様々なスマホ映像によって映し出されていくというわけだ。

イランをどうにか抜け出した監督、イランからの出国が許可されない主演の2人

作中では、国営放送を家族で見るシーンが何度か映し出されるのだが、国営放送は当然この市民デモを「市民側が悪い」という形で取り上げていたデモに関わったと判断された者たちは問答無用で逮捕され、それによって主人公イマンの仕事は殺人的に忙しくなっていくわけだが、その辺りの話はまた後でしよう。国としてはとにかく、市民デモを徹底的に弾圧する構えである。

さて、そんなイランにおいて、本作『聖なるイチジクの種』のような映画を製作して無事なはずがない。監督のモハマド・ラスロフは、本作の公開以前の時点で既に、「イラン政府を批判した」という罪で禁錮8年とむち打ちの有罪判決が下っていたようだ。その判決が確定した時点で本作の撮影は終了していたそうで、そのため彼は徒歩で国外へと脱出(ずっと以前にパスポートを没収されていたのだ)、28日間かけてカンヌ国際映画祭の地へと辿り着き、そこで喝采を浴びたという。そして、そのままドイツへの亡命を果たすことができたそうである。

本当に、身の危険を顧みずに映画を作り続けているというわけだ。

さらに、公式HPには次のような文章が掲載されていた。これを読んだ上で本作を観ると、見え方がまた少し変わってくるんじゃないかと思う。

イスラーム共和国の諜報機関が私の映画製作について情報を得る前に、なんとかイランを脱出することができた俳優も多数います。けれども、今もイランには俳優や映画のエージェントがたくさん残っていて、諜報機関から圧力がかかっています。長い取り調べを受けたり、家族が呼び出されて脅されたりした人もいます。この映画に出演したことで、彼らは起訴され、出国を禁じられました。カメラマンの事務所は強制捜査に遭い、機材はすべて押収されました。音響技師がカナダへ出国することも妨害されました。諜報機関は映画クルーの取り調べの際、私にカンヌ国際映画祭からの撤退を促すよう要求しました。クルーに対し、映画のストーリーを認識しないまま私に操られてプロジェクトに参加させられた、と丸めこもうとしていたのです。

公式HPには他にも色々と書かれており、例えば、イマンとナジメを演じた役者は共に、本作とは関係なく元々イランからの出国が禁じられていたそうだ。イマンを演じた役者の場合は恐らく、モハマド・ラスロフ監督の過去作への出演が原因ではないかと思う。また、ナジメを演じた女優は元々活動家としての一面も持っており、実刑判決を受けたこともあるそうだ。スタッフも含め、皆相当の覚悟を持ってこの撮影に臨んだのだろうと思う。本当に凄まじい話である。

こういう事実を知った上で観ると、「本作のほとんどが、『室内』か『テヘランから離れた辺鄙な場所』で撮影されている」ことにも納得できるだろう。とてもじゃないが、「撮影許可」など得られるような状況ではなかったはずだからだ。市民デモの様子をスマホの映像で代用したのも、そうせざるを得なかったからだろう。

しかし本作は、そういう制約の存在を特に感じさせることのない構成になっており、その辺りとても見事だったなと思う。そしてさらに、そんな厳しい状況に置かれてもなお「映画製作」を止めなかったその情熱や信念の強さみたいなものにも圧倒させられてしまった

映画『聖なるイチジクの種』の内容紹介

イマンは、20年間勤めた革命裁判所でようやく昇進の機会を得る。それまではずっと、「被疑者を起訴するための証拠集め」を行っており、「被疑者から恨みを買う可能性がある」ため、2人の娘にすら仕事内容を打ち明けられずにいたのだ。正直なところ、昇進後の調査官という立場も恨まれる存在であることに変わりはないのだが、調査官になれば3LDKの官舎に住める。そこで妻ナジメの勧めもあり、このタイミングで大学生のレズワンと高校生のサナの2人に自身の仕事について話すことに決めたのだ。

しかし慎重な母ナジメは2人に、「SNSへの投稿は禁止」「付き合う友人は選びなさい」と厳しく諭す。政府に対して批判的な意見の多いイランでは、革命裁判所は「体制側」の存在として嫌われることが多い。そのため、少しでも隙を見せたらすぐに糾弾されかねないのである。「もしもの時のことを考えて、常に”清廉潔白”でいなければならない」と口にする母親に対して、娘たちは顔をしかめてみせた

さて、念願だったはずの昇進を果たしたイマンだったが、しかし彼はすぐに厳しい現実に直面させられる。というのも、調書が5巻もある事件の被疑者をすぐに死刑で起訴しろと命じられたのだ。彼は直属の上司であるカデリに、「そんなこと出来るわけがない」「これまで20年間真面目に仕事をしてきた。なのに、調書を読む時間もないまま起訴だなんて」と拒絶する。しかしカデリは手元のメモに「盗聴されている」と書き、イマンを食事に誘った。

カデリの話によると、ボスはイマンを嫌っており、本当はボスの直属の部下を昇進させたがっていたのだが、色んな状況があり、最終的には自分が推したイマンが調査官のポストに就くことになったのだそうだ。だからこそ、イマンにはミスは許されない。ボスは常に、イマンを失脚させるネタを探しているからだ。つまり、起訴状へのサインを拒絶したら、イマンもカデリも失墜するのである。ようやく広い官舎に移れ、娘たちも喜んでいる中、今の立場を失うなんて想像も出来ない。そのためイマンは、信念を曲げざるを得なかったのだ。

一方で、イマンの昇進と重なるようにして、テヘランでは市民デモが頻発していった。テレビも盛んに、暴動の様子を伝えている。サナが通う高校は暴動のため休校となり、そしてさらに、レズワンが通う大学では、構内で発生した暴動に巻き込まれる形で、レズワン唯一の親友であるサダフが顔に散弾銃を被弾、大怪我を負ってしまったのだ。

レズワンはサダフをとりあえず家に連れて帰ろうとしたのだが(サダフが「病院に行ったら逮捕される」と危惧していたため)、そこには1つ問題があった。その少し前のこと、寮住まいのサダフを家に泊めたことがある。翌日まで寮が閉鎖されるため行き場がなかったサダフの手助けになればと思ったのだ。しかしそのことを、母ナジメは良く思わなかった夫がどんな反応をするのか分からなかったからだ。レズワンは「二度とこんなことはしない」「父親が帰ってきたら寝室から出さない」ことを約束することでどうにかサダフの宿泊を許可してもらった

そんなことがあったため、普通にはサダフを家に連れてはいけなかったのである。そのため、家にいたサナが機転を利かせて一旦母を家から遠ざけ、その隙にサダフを家に連れ込むことが出来た。しかし、「親には連絡しないでほしい」と懇願するサダフには、とりあえずの応急処置を施してあげるぐらいのことしか出来ない。

市民デモは日々激しさを増し、娘2人がチェックするSNSには警察による横暴を記録した映像が多数アップされている。一方で、国営放送は国に都合の良い情報しか伝えようとしない。こうして、SNSでの情報を元にしてデモ側にシンパシーを感じている姉妹と、夫の仕事上の立ち位置を踏まえ、さらに「そもそも夫・父親には敬意を払うべき」という感覚を持っているナジメとの間に溝が生まれ始めていく

さて、一家の大黒柱であるイマンは、暴動を機に仕事が殺人的に忙しくなっていった1日の逮捕者が200~300人起訴するかどうかの判断を1件2~3分でこなさなければならないという、もの凄くハードな環境に置かれていたのだ。そのため、彼は家族を顧みる余裕をどんどんと失っていき、そして、そんなイマンに対してナジメは憤りを感じ始める。元々は「家族の幸せ」のためになるはずだった昇進が、「家族をバラバラにするもの」になり始めているからだ。

そしてまさにそのような状況で、重大な”事件”が起こる。昇進に伴ってイマンに貸与されていた拳銃が紛失してしまったのだ。イマンの記憶では家に持ち帰ったことは確かなのだが、どう探しても見つからない。拳銃の紛失はそもそも懲役6ヶ月から3年の実刑なのだが、それ以上に、昇進からわずか2週間での失態は信用を失墜させてしまう上司の責任も追及されるだろう。だから、何が何でも探し出さなければならない。そのためイマンは、妻と娘たちを疑いとんでもない行動に出るのだが……。

初めは「ナジメがおかしい」のだとばかり思っていた

本作はもちろん、まず「現実の凄まじさ」みたいな部分に圧倒される物語だと思う。市民デモの高まりや、イランという国家の運営のされ方など、様々な現実が入り交じることで混沌としていく。一応、誰もが「正義」を実現しようと行動しているはずなのだが、その気持ちや行動が絶妙にすれ違っていくことでズレが積み重なり、最終的には巨大な溝になっていってしまうような恐ろしさが、絶妙に描かれていたと思う。

しかし本作は決して、「圧倒的にヤバい現実を舞台にしている」という点だけに依存しているわけではない。もしそうだとすれば、ドキュメンタリー映画の方がより一層観客を圧倒するはずだ(実際にはイランでは撮れないだろうが)。本作はむしろ「フィクションだからこその凄まじさ」みたいなものに溢れていて、個人的にはそちらの方により強く惹きつけられたように思う。

そしてその中心にいるのがナジメである。

さて、映画が始まってからしばらくの間、私は「ナジメがちょっとおかしいんだ」と考えていた。というわけで、しばらくその辺りの話をしていこうと思う。

まずはやはり、レズワンの親友サダフに対する態度が気になった。ナジメは、「寮が閉鎖しているからサダフには行き場がない」という事情を知った上でなお彼女を家から追い出そうと考える。また、暴動後にサダフを匿っていることを知ったナジメは、自宅で出来る最低限の手当こそしてあげるものの、その後は彼女を自宅に留めず寮へと追い返してしまう

サダフが大学で被弾した際、レズワンもすぐ傍にいた。だからレズワンは、「サダフは暴動に参加していたわけではなく、たまたま巻き込まれただけだ」ということを知っている。しかし彼女がそう母親に訴えても、ナジメは「無実なら、大怪我を負わせるような捕まえ方はしないでしょ」と、まるで警察のやり方を擁護するかのような主張をするのだ。

また、暴動の様子を伝えるテレビを観ている時にも価値観の違いが浮き彫りにされる。SNSを見ている娘たちは、「テレビは警察の暴力を報じない」と国営放送による情報統制を訴えるが、ナジメは「テレビが嘘をつくはずがない」と言い返すのだ。日本でも、上の世代の人ほど「テレビ」を殊更に信じる傾向があるように思うが、そういうのとは違う何かを感じ、少し違和感を覚えてしまった

そもそもナジメは、夫イマンの主張には基本的に逆らわないし、娘2人には「私の父親は飲んだくれのギャンブル中毒だった。それと比べたらパパは本当に頑張っているんだから、もっと敬意を払いなさい」と説教するほどである。娘2人はSNSを通じてデモ側にシンパシーを感じているため、体制側の”犬”みたいに革命裁判所に忠誠を誓っているのだろう父親に嫌悪感を抱くようになるのだが、ナジメは父親に対する娘たちのそんな態度を改めさせようとするのだ。

本作の物語は一応、「家の中で銃が紛失した」という要素がメインになると思うのだが、展開がそこに至るまでにはとにかく時間が掛かる。本作は167分もある大作なのだが、私の体感では、物語の中盤ぐらい、大体80分ぐらいが経過した辺りでようやく「銃の紛失」の話になる印象だった。そこに至るまでの間はとにかく、「ナジメと娘たち」、そして「ナジメとイマン」の関係性について、様々な観点から掘り下げていくという感じである。

そして、「銃の紛失」に至るまでに描かれるナジメの印象は、とにかく「こいつ、ヤバっ」だった。もっと具体的に書けば、「夫を盲信している妻が、世界標準で見たら平均的な感覚を持っているはずの娘2人を、旧弊な価値観へと押し留めようとしている」みたいに見えていたというわけだ。

しかし面白いことに、そんな印象は少しずつ変わっていくのである。

もしかしたら、ナジメこそが最も理性的だったと言えるかもしれない

さて、「ナジメはもしかしたらまともなのかもしれない」という感覚は、「銃の紛失」以前にも少しだけ感じていた。それはこんな場面である。

ナジメが夫のイマンに、レズワンの親友サダフの話をしていた時のこと。彼女は夫に、「サダフのことを助けてあげてほしい」と頼んでいたサダフは結局その後逮捕されてしまったため、調査官である夫ならどうにか対処できるのではないかと考えての訴えである。まあ、やはりそれは難しそうだという話になるのだが、この時のナジメの言い方が印象的だったレズワンには「無実なら、大怪我を負わせるような捕まえ方はしないでしょ」と言っていたにも拘らず、夫に対しては「彼女は本当に無実なのよ」と主張していたのだ。

この時私は「正反対のこと言ってるじゃん」と感じた。ただ、夫の協力を得ようとしたら「助けるべき人物が無実であること」は絶対条件だとも思うので、「そういうことも踏まえて『無実』と断言したのかもしれない」みたいに私は受け取ったのだろう。だからそれ以上深く考えはしなかったのだと思う。

ただ、「銃の紛失」騒ぎが起こり、そのせいでイマンがメチャクチャ追い詰められていく過程で、少しずつナジメのスタンスが理解できるようになっていく。彼女は実は、「イカれているようにしか見えない振る舞い」を率先して行っていただけなのだ。ただ、その理由についてはここでは詳しく触れないことにしよう。映画のラスト付近で、ナジメが娘2人に「◯◯だから」とその真意を説明する場面があるのだが、私はそれを聞いてようやくナジメの行動の意味が理解できるようになったのである。

つまりナジメは、常に「最善」を目指して努力し続けていたというわけだ。言動は奇妙に思えるかもしれないが、それはそうせざるを得なかっただけであり、実際には誰よりもまともで、誰よりも頭を使い、常に「最善」を追い求め続けていたのである。

そしてそんな事実が明らかになることで、物語の全体像も少し違って見えてくるんじゃないかと思う。「誰がどのように『正義』を実現しようとしているのか?」に関して、映画冒頭での印象と、映画後半に入ってからのそれとではかなり差が出てくるはずだ。

本作はそんな、ナジメを中心とした「家族の物語」がなかなかに狂気的であり、そしてそれ故に興味深い作品に仕上がっているのではないかと感じさせられた。

私にはちょっと許容しがたかった、「神」と「法律」についての議論

さて、「正義」に関係する話として本作では、「神」と「法律」に関する議論が登場する。私はそもそも、イスラム教に限らず「宗教」全般を嫌悪しているため、イマンの主張にはまったく与することが出来ないが、議論としてはとても興味深かった

私の理解では、イスラム教を国教に据えている国は、国家全体のルールも相当コーランに依存している印象がある。例えば、イランの刑罰としてよく「むち打ち」が出てくるが、これも恐らく、コーランにそういう刑罰が記載されているからだと思う。となればコーランは、日本で言う「日本国憲法」に限らず「刑法・民法」にも強く影響する存在と考えていいだろう。

つまりイランでは「コーラン」=「法律」であり、だからこそ次のような会話も成立するのである。

娘たち「もし法律が間違っていたら?」
イマン「神は正しい」
娘たち「『神の法律』だという根拠は?」

確かこの後、ナジメが「パパに逆らうんじゃない」みたいなことを言ってこの会話は終わった。では、このやり取りから何が理解できるだろうか。まず3人とも、「『コーラン』=『法律』である」という共通認識は持っていると思う(娘2人はそのことを許容してはいないと思うが)。ただ、イマンは「『コーラン』は『神の教え』である」と考えていて、娘たちはそれを疑っている。イマンは、「『法律』とは『コーラン』のことであり、『コーラン』は『神の教え』なのだから疑う余地などない」と思っているわけだが、娘たちは「『コーラン』が『法律』なのは一旦許容するとしても、『コーラン』が『神の教え』である保証などないのだから、『コーラン』(つまり『法律』)が間違っている可能性だってある」と考えているというわけだ。

先述した通り、私は「宗教」全般に嫌悪感を抱いているので、当然、娘たちの感覚に賛同してしまうイマンの主張は、私にはまったく意味不明である。しかし一方で、「信仰」がイマンのようなスタンスによって今日までの長きに渡り継続されてきたことも理解しているつもりだ。私はイマンの価値観には賛同できないが、イマンのような思考の方が長い歴史を有しているわけで、それを「不合理だから」で一刀両断するのも正しくないかもしれない

さて、別の場面でもイマンは「神の教え」について言及していた。色んな事情が重なったこともあり、イマンとナジメがサナに対して、「髪を青くしてもいいし、爪を塗っても良い」と歩み寄る場面がある。しかしその後2人になると、イマンはナジメに「サナは髪を青くしたいのか」と嘆息するのだ。ナジメは「時代が変わったよね」と夫を諌めようとするのだが、それに対してイマンはこんなことを口にするのである。

でも神は変わっていない。神の法もだ。

私としては本当に嫌悪するしかない感覚なのだが、恐らくこれが、イランという国家を統治する者たちのベースとなる考え方なのだろうとも思う。作中では「神権政治打倒!」というデモ隊によるシュプレヒコールの声が響く場面があるのだが、この「神権政治」を私は、「コーランの記載に準じて国家運営を行う」という意味だと理解している。そしてイランの若者たちは、そんな国家のあり方に対して不満を募らせているというわけだ。他の国のことを知るのが容易ではなかった時代ならともかく、SNSで世界中の情報に触れられる時代においては、特に若者がそういう不満を溜め込んでいくのは当然だろう。

結局のところ、イランが抱える本質的な問題はここにあるのだし、本作『聖なるイチジクの種』は、「父娘の対立」に重ねる形でそんな問題を炙り出しているのだと思う。そしてそう捉えるなら、この4人家族は「イラン」という国の現状を象徴しているとも言えるだろう。父親が「体制側」、そして娘2人は「体制批判側」であり、そして、初めはそんな風にはとても見えないだろうが、そんな両者のバランスを絶妙に取ろうとしている「中間層」みたいな存在をナジメが担っていると考えると分かりやすいだろう。

このように、4人家族というごく小さな単位における様々な対立が、「イランという国家が抱える混乱そのもの」を反映している感じがあって、そのこともまた印象的な作品だった。「家族の物語」として捉えた場合、本作はあまりにも「狂気的」なのだが、「実はイランという国家の現状を反映している」と捉えれば、その「狂気」の見え方も変わってくるというわけだ。

そんなわけで、現実をそのまま映し出すドキュメンタリー的な部分も興味深かったが、フィクション部分もとても面白い作品だった。

映画『聖なるイチジクの種』のその他感想

最後まで観れば作品の構図が色々と分かるわけだが、リアルタイムに物語を追っている時には違和感を覚える部分が結構多かったように思う。というか、本作のメインの描写であるはずの「銃の紛失」がなかなか描かれなかったり、それ以降の展開も、「誰が銃を盗んだのか?」に焦点が当たるのかと思いきやそうではなかったりして、何となく予想を裏切る感じが面白い。また、先程長々と書いた通り、「ナジメの印象がどんどん変わってく」みたいな部分も印象的で、様々な要素が詰め込まれた魅力的な作品だったなと思う。

また本作では、ラストのラストで「ある人物が、銃を持ってある人物と対峙する」という展開になる。このような場合、私は普段「撃つなよ!」と思いながら観ていることが多いように思う。普通に考えれば、「撃たなければならないが撃ちたくはない」みたいな葛藤を描くことが物語的なセオリーだろうし、だとすれば、観ている側としてはやはり、「撃つなよ!」という感覚を抱くのが「製作側が望む正解」であることが多いはずだ。

ただ本作の場合まったく逆で、私は「撃て!撃て!撃て!」と思いながら観ていたし、それは自分でもかなり意外だった。とはいえ、本作のこのシーンにおいてはそういう見方が「正解」であるように思うし、そうなるように上手く誘導されていたのだとしたら流石だなとも思う。

さて最後に。本作のタイトルにもある「聖なるイチジク」について、本作冒頭でこんな説明が表示される(これは劇場でのメモが追いつかなかったので、ネットで調べて文面を拾った)。

聖なるイチジクの木の一生は独特だ。種子は鳥の糞に混ざり、他の木に落ち、発芽すると地面に向けて根を伸ばす。そして宿主の木に枝を巻き付け、締め上げ、最後には独り立ちするのである。

https://numero.jp/cinema-news-20250215/p6

そもそも「聖なるイチジク」という名前の植物が存在するのかどうかよく分からないのだが(「聖なるイチジク」で調べると検索結果には本作に関する情報がズラッと並んでしまうため)、「イチジク」で調べると、「仏教やヒンドゥー教では『聖なる木』とされる」「エデンの園にあった果物で『原罪』のシンボル」などの話が出てきた。色んな宗教において特別な意味を持つ果物であるようだ。しかしざっくり調べた限りにおいては、イスラム教においてどんな意味を持つのかはよく分からなかった

また本作を観ても結局、何が「聖なるイチジク」であり、何が「種」なのか、私は理解できていない。ただ、何となく「目を引くタイトルだな」とは思うし、さらに「宿主の木に枝を巻き付け、締め上げ、最後には独り立ちする」という説明も本作の雰囲気に合っている感じがして、タイトルとして秀逸だった。そういう外枠の部分も含めとても良く出来た作品だったなと思う。

監督:モハマド・ラスロフ, 出演:ソヘイラ・ゴレスターニ, 出演:ミシャク・ザラ, 出演:マフサ・ロスタミ, 出演:セターレ・マレキ, 出演:ミシャク・ザラ
¥550 (2025/07/06 23:07時点 | Amazon調べ)

最後に

あまり期待せず観たからということもあるかもしれないが、思いがけず面白い作品で非常に満足だった「映画を撮影するだけで逮捕されてしまう国」というのはどう考えてもヤバいし、宗教の是非はともかく、人々が不当に「自由」を奪われずに済む世の中であってほしいなと思う。

次にオススメの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次