【デモ】クーデター後の軍事政権下のミャンマー。ドキュメンタリーさえ撮れない治安の中での映画制作:『ミャンマー・ダイアリーズ』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「ミャンマー・ダイアリーズ」公式HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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公式HPの劇場情報をご覧ください

この記事の3つの要点

  • 本作は、「存在するだけで価値のある作品」だと私は感じる
  • 「全編ドキュメンタリー映画」なのではなく、まさにその事実こそがミャンマーの現状を如実に伝える要素になっている
  • フィクションでしか現実を伝えられないという状況下での命を懸けた映画制作

『何も出来ない状況に対しても、せめて「知ること」ぐらいは誰にでも出来る。私たちは「SOSの受け手」にならなければならない

自己紹介記事

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クーデターが起こり、軍事政権下にあるミャンマーで、命懸けて撮影する者たちの奮闘の結晶である映画『ミャンマー・ダイアリーズ』

こういう言い方をするとあまり良くは聞こえないかもしれないが、本作のような作品は「存在するだけで価値がある」のではないかと私は考えている。このように書く理由は、正直に言って、「『内容がすこぶる面白い』わけではない」からだ。しかしそれでも、こういう映画には存在価値があると思っている。「このような映画が存在し得た」という事実が映画制作の凄まじさを実感させてくれるし、また、「こうまでしなければ映画の撮影が不可能だった」という事実が、ミャンマーの置かれたあまりに厳しい状況を想像させるからだ。

だから、「批評」をするみたいなつもりはない。なかなか上映されないと思うので難しいとは思うが、機会があれば是非観てほしいと思う。

「ドキュメンタリー映画」というわけではない

本作は、”匿名”の映画監督10人による作品だ。軍によるクーデターが起こった後のミャンマーにおいて、命を懸けて撮影されたものである。本作は、ベルリン国際映画祭でドキュメンタリー賞を受賞したのだという。私は鑑賞時点でその事実を知らなかったのだが、しかし当然「ドキュメンタリー映画だろう」と思って観に行った

確かに最初の方は、かなりドキュメンタリーチックに展開されていく。しかし全編がドキュメンタリーというわけではない。その理由については、この映画の配給に関わった日本人映画監督(本作の撮影には関わっていない)が上映後のトークイベントの中で語っていた。まずはその辺りの話から始めよう。

冒頭は、非常に有名な動画から始まる。SNSなどをほぼ見ない私でも知っている、「いつもの場所でダンス動画を撮影していた女性の背後で戦闘車両が移動し、クーデターの準備がなされている」という動画だ。そしてその後もしばらくの間は、スマホで撮影したと思しき映像が流れる。クーデター直後はまだ、デモ活動や軍・警察などに対する抵抗なども行えていたし、スマホでの撮影も可能だったからだ。

しかし、映画の後半に進めば進むほど、そのような「ミャンマーの今を映し出したSNS発の映像」は少なくなっていく。何故なら軍事政権が、「デモの様子などを映した映像を持っているだけで逮捕する」という方針に切り替えたからだ。例えば検問の際に、スマホの中にそのような映像が残っていることが発覚しただけで、もうアウトだというのである。このためミャンマーでは早い段階で、SNSで状況を発信することはおろか、スマホで撮影することも困難な状況に置かれてしまったのである。

トークイベントに登壇した映画監督によれば、そもそもミャンマーはクーデター以前から、「映画の検閲」が厳しい国だったという。彼の実感では、2016年頃から少しずつ軟化されたというが、今回のクーデターで完全に逆戻りしてしまったそうだ。なので彼は、「ベルリン国際映画祭でミャンマー映画が上映されたこと」自体に、まずは驚かされたと言っていた。

そんな国だからこそ、「クーデター後に映画撮影を行う」など、まさに「死に直結する行為」なのである。先ほど「命を懸けて」という表現を使ったのはそのためだ。映画制作を行っていることが発覚したら、恐らく逮捕だけでは済まず、拷問の後で処刑されてしまうだろうと語っていた。

だからこそ、そのような状況下にあるミャンマーでこの映画が撮影されたという事実がとても重要なのだ。そんな環境で、一体どのような映画制作が可能なのか。その答えの1つとなるのが本作『ミャンマー・ダイアリーズ』だと言っていいだろう。

「現実をフィクションでしか描けない」という凄まじいリアル

では、映画の後半はどうなっていくのか。ある程度は想像できるだろうが、「室内で撮影された、個人の演技が主体となる物語」にシフトしていくのである。

もちろんこれは、撮り方としては完全に「フィクション」だ。しかし、本質的な意味では「フィクション」ではないとも言える。トークイベントの中で「あくまでも推測だ」と前置きしつつ語られていたのだが、「描かれている物語は恐らく、監督自身、あるいは身近な人に起こった実際の出来事だろう」とのことだった。確かに、そう推測するのが妥当だろう。「映画を撮影する動機」は人それぞれだろうが、それにしたって、「発覚したら処刑」という状況下で、「まったくのフィクションを撮ろう」と考える人はそう多くないように思う。

だからある意味では、この「フィクションパート」も「ドキュメンタリー」みたいなものだと受け取ることが可能なのである。

このように捉えた時、映画『ミャンマー・ダイアリーズ』の凄まじさが少し浮き彫りになると言えるだろう。本作は「ドキュメンタリー」と銘打たれている。ドキュメンタリーの賞も受賞した。しかし、その多くが事実を基にしていると推察されるものの、フィクショナルな映像が大半を占めているのだ。

この状況はまさに、「『現実』を伝える手段が『フィクション』しか存在しない」ことを意味していると言えるだろう。そしてそのような状況は、なかなか想像が及ぶものではない

この記事を書いているまさに今、イスラエルとパレスチナが「戦争状態」に陥っている。そして私たちはその様子を、テレビなどで目にすることが可能だ。それは、戦場記者や特派員などが現地入りし、危険と隣り合わせで報道をしてくれているからである。通常であればこのように、どれだけ危険な状況だとしても、何らかの手段でその状況を発信できるはずだ。

しかし、少なくともこの映画が撮られた時のミャンマーは、そのような状態にさえなかった。彼らが直面している現実を、どういう形にせよ発信する手段が存在しなかったのだ。だからこそ、「撮影していることが発覚しにくい室内」で何かを撮るしかなかったのだし、だとすればどうしても「フィクショナルな映像」にならざるを得ないだろう。そういう中でも、どうにか「リアル」を伝えようと奮闘し続けた者たちの死を賭した闘いの記録こそが本作なのである。

このような背景を持つ作品だからこそ、内容がどれほど「フィクショナル」でも「ドキュメンタリー映画」として評価されているのだと私は感じたし、また、こうでもしなければ「リアル」を映し出せなかったという”現実”には、改めて驚愕させられてしまった

私たちは「SOSの受け手」になる必要がある

作中では全編を通じて、「私たちの声は届いていますか」という問いかけがなされる。当然だが、「発信する者」だけでは、情報は適切な場所まで届かない。「受信する者」がいなければ、何かが発信されても無かったことにされてしまうのだ。

そしてもちろん、「受信する者」になるべきは、私たちである

日本人であれば多くの人が、香港デモの映像は何かしらで目にしたことがあると思う。今思い出しても、凄まじい映像だった。あまりにも悲惨で、何故このような状況に陥ってしまったのかと憤りを覚えるものばかりだ。しかし同時に、そのような映像が世界に向けて発信されたことで、香港デモへの関心が高まり、支援の輪が広がったとも言えると思う。

しかし、ミャンマーに住む人たちにはそのような選択肢はない。なにせ、SNSで写真や映像を発信することが禁じられてしまっているのだ。香港に集まったような注目を、ミャンマーが獲得することはかなり難しいと言える。

だからこそ、命懸けで撮影された映像の存在を知った者は、「SOSの受け手」にならなければならないと私は考えている。受け取っても大したことは出来ないかもしれないが、しかしそれでも、「SOSを受信した人がいる」とミャンマーの人たちが知るだけでも、多少なりとも勇気に繋がるのではないだろうか。

あまりに情報が溢れた時代なので、「すべての情報が、適切な『受け手』を得られる」とは限らなくなった。仕方のない変化ではあるが、残念だと感じることも多い。しかし、本作が発する「SOS」は、「正しい『受け手』を得られる”べき”情報」であるはずだ発されたまま放置ではいけないメッセージなのである。

そしてそういう意味において、この映画は「存在するだけで価値がある」と言えるのではないかと思う。是非多くの人にこの「SOS」が届いてほしいと願うばかりだ。

最後に

クーデターが起こって以降、ミャンマーでは1万人以上が拘束され、150万人以上が避難民となったという。映画は、2021年2月のクーデター開始以降、およそ1年の間に撮られた映像が多いそうで、2023年に入ってからの情報は含まれていない。しかし、トークイベントで登壇した映画監督は、今も状況にほとんど変わりはないと語っていた。

悲惨な現実を伝える作品に触れる度に感じることではあるが、仮に、世界が抱える難問に対して直接的なことは何も出来ないとしても、せめて「知ること」ぐらいはすべきだと思う。私たちは決して「知ること」を止めてはいけないのだ。あなたは今、この文章を読むことで、本作『ミャンマー・ダイアリーズ』が発する「SOS」の存在を知った。次は、その「受け手」になる番だ。そのような人が多く出てきてほしいと思うし、また、ミャンマーの問題に限らないが、様々な問題に多くの関心が集まれば、状況は改善していくはずだとも信じているのである。

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