【矛盾】死刑囚を「教誨師」視点で描く映画。理解が及ばない”死刑という現実”が突きつけられる

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:大杉漣, 出演:玉置玲央, 出演:烏丸せつこ, 出演:五頭岳夫, 出演:小川登, 出演:古舘寛治, 出演:光石研, 出演:青木柚, 出演:杉田雷麟, Writer:佐向大, 監督:佐向大, クリエイター:—, プロデュース:松田広子
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 先進国で死刑制度が残っているのは、ほぼ日本とアメリカのみ
  • 「教誨師」とはどんな存在で、どのように死刑確定囚と関わるのか
  • 17人もの命を奪った、死刑確定囚・高宮の「論理」が、死刑制度の矛盾をあぶり出す

恐らく一生関わることのない世界ではあるが、「自分には関係ない」で済ませていいはずがないと実感させられるだろう

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「死刑」という仕組みは、「誰のため」「何のため」に存在するのか考えさせられる映画『教誨師』

この映画では、「教誨師」が扱われている。耳馴染みない存在だが、それもそのはず、刑務所にいる受刑者たちの「徳性」を育成する役割を担う人物なのだ。この映画ではキリスト教の牧師が「教誨師」として登場する。

また刑務所ではなく、拘置所の独房にいる「死刑確定囚」との関わりも許される存在だ。「死刑確定囚」の立ち位置は特殊である。「『死刑執行』こそが刑罰であり、その日まで刑は執行されない」という理屈から、彼らは刑務所ではなく拘置所に収容されるのだ。刑務作業の義務も服装の規定も存在しないが、会える人間は制限されており、「教誨師」はその数少ない1人である。

この映画は、そんな「教誨師」の目線から、普段なかなか考えることのない「死刑制度」について問いかける内容だ

「死刑制度」は、ほとんどの人にとって「無関係」。だから顧みられることがない

私もそうだが、普段なかなか「死刑制度」について考える機会はないだろうと思う。死刑判決が下されるか、死刑確定囚が無実を訴えて再審が行われでもしない限り、ニュースでも「死刑」という単語を耳にする機会すらない

しかしそもそもだが、先進国で「死刑制度」が残っている国はかなり少数派となっている。例えば、先進国が多く加盟しているOECDの36ヶ国の中で、通常犯罪において死刑制度が存在するのは日本・アメリカ・韓国のみ。しかも韓国は長いこと死刑執行が行われていない。多くの国が「死刑制度」を廃止し、ヨーロッパではベラルーシ以外のすべての国が「死刑制度」を撤廃したという

私たちは、「犯罪者に対する最高刑は死刑」と当たり前のように考えているが、世界の潮流からは逆行しているのだ。

だとすると、「なぜ死刑制度を存続させているのか」について考える必要があるだろう。民主主義の国なのだから、国家の決定は我々の決定でもあるからだ。

「自分には関係ない」で安易に済ませていいことにはならないだろう

この映画では、6人の死刑確定囚が登場する。そしてこの6人を深く描き出すことで、「死刑制度の矛盾・問題点」をあぶり出すのだ。

6人のほとんどが、その「存在」によって矛盾・問題点を浮き彫りにしていく。例えばある死刑確定囚の振る舞いは、独房に閉じ込めておいてもまったく無意味にしか感じられないのだ。もちろん原理的には「死刑の執行」こそが刑罰なのであり、「閉じ込めておくこと」が主たる目的ではない。しかし感情的には、「死刑までの間、囚われの身となることで、自分の罪を悔い改めてほしい」という気体をしてしまうだろう。映画では、そうはならない現実が描かれていく。

また、より重篤な問題も描かれる。冤罪だ

登場する死刑確定囚の中には、恐らく冤罪なのだろうと推定される人物もいる。誤った捜査や裁判によって、独房にいるべきではない人が囚われてしまっているのだ。私は事件系のノンフィクションも結構読むが、それらの記述を総合すると、一定数「明らかに冤罪だろう人物が一定数死刑判決を受けている」という現実が存在すると考えるべきだと思う。

死刑制度の最大の問題はこの点、つまり、不可逆的だという部分にあるだろう。死刑執行後に裁きが誤りだったと分かっても回復不可能だ。「命を奪う」という刑罰を行うなら、「100%間違いないのない裁き」が大前提となるはずだが、人間が行うことに100%はない。そういう意味で死刑制度というのは、原理的に存在不可能な仕組みであるように私は感じられる。

さてこのように、ほとんどの人物がその「存在」によって矛盾・問題点をあぶり出す。しかし、高宮という死刑確定囚だけは「論理」によってそれを浮き彫りにしようとするのだ

彼の存在が、この映画における非常に異質な要素であり、私としては非常に興味深い存在でもあった。

高宮の「論理」は、人間の「傲慢さ」を明るみにする

映画の中で非常に印象的だった場面がある。高宮が、教誨師である佐伯に議論を吹っかけるのだ。ざっくり説明すると、以下のようなやり取りである。

「世間の人は『死んでも良い命などない』と言う。しかし、ベジタリアンでもない限り、豚や牛などを食べているはずだ。死んでも良い命がないというなら、なぜ豚や牛は良いのか? そして、なぜイルカを食べてはいけないのか?」

高宮の問いに教誨師は「イルカは知能が高いから」と答える。この返答に、高宮はニヤリと笑う。「だったら僕と同じ考えです」と返した高宮は、「知能が高ければ生きていていいが、低ければ殺していい」というわけですよねと問う。教誨師は「人間はそんな風に判断すべきではない」と反論するが、「だったら死刑はどうなんですか?」と高宮に問われ、答えに窮してしまう。

よくあると言えばよくあるが、高宮がふっかけるこの議論はなかなか難しい。皆さんならどう答えるだろうか?

理由はともあれ私たちは、豚や牛を殺して食べているのだ。この現実をどのように正当化しようとも、同じ理屈によって、「死刑制度」の矛盾があぶり出されることになるだろうと思う。

まさに高宮は、「知能の低い人間は殺していい」という考えを実行する形で殺人を犯した。「社会を良くするために、知能の低い人間は死ぬべき」という理屈で、17人もの命を奪ったのだ。もちろんその行為は許されるものではないし、私もはっきりと否定する。しかし行為の是非ではなく、高宮の論理の是非となると、ベジタリアンではない私たちが正面切って彼に反論することはなかなか困難に思えてしまう

「豚・牛は殺していいが、イルカ・犬は殺してはいけない」という考えを、皆が積極的に支持しているわけではないはずだ。しかしそのような社会を許容している時点で、そこになんらかの線引きをしていることにはなってしまう。そして、どれだけ中身が違うように見えても、その線引きは本質的に、高宮の論理とそう大差ないものであるはずなのだ

高宮はこんな風に「論理」で矛盾をあぶり出していくのである。

また彼は、こんな発言もしている。

刑務所で一番されちゃ困ることは、自殺。だから一番大事なことは「心情の安定」なんだって。でも、何年もこんなところに閉じ込められてたら、そりゃ気も狂うって。

繰り返すが、17人もの命を奪った彼の行為は一切擁護できないし、自らの行為によって「閉じ込められる」という状況に陥っているのだから、自業自得だろうという意見があればその通りである。しかし、自業自得だという感覚を一旦脇に置いて、その主張内容だけを捉えてみれば、その通りだろうと感じさせることを言っていると思う。

死刑確定囚は「死刑執行」によって命を落としてほしいわけで、自殺されては困る。しかし、「死刑執行」まで長期間拘束し続けることで、自殺の誘惑に駆られてしまう、というわけだ。まあ、そんな事態を避ける目的もあって、教誨師との接触が許容されている、という側面もあると思うが。

このようにこの作品は、様々な形で「死刑という現実」を照らし出していく。問題は山積しているように思うが、状況が変わる気配はない。それについて高宮は、「誰も俺たちのことなんか知らないんだから、良いも悪いも判断しようがない」と捉えている。これもまた真っ当な理解だと言えるし、高宮のこの主張は、真っ直ぐ観客に突きつけられた刃であるようにも感じさせられた。

確かに「死刑制度」そのものは、ほとんどの日本人にとって無関係なものだ。議題に上がるはずもない。しかし、「死刑制度」について突き詰めることで、「生きるとは?」「死ぬとは?」「社会とは?」「法とは?」など、様々な問題が浮き彫りになるのだ。考えるべきことは、「死刑制度」だけに留まらない。

たとえそれが凶悪な犯罪者であるとしても、「人の命を奪う」という仕組みであることに変わりはない。そんな不可逆的な制度が本当に成立し得るのか、成立すると言うのならそれを可能にする理屈はなんなのか。これを機に改めて考えてみるのもいいだろう。

映画『教誨師』の内容紹介と感想

主人公は、教誨師になって半年の牧師・佐伯保。新人ではあるが、既に「若い」と言えるような年齢ではない。

彼は6人の死刑確定囚の担当をしている。希望する者だけが教誨を受けることができ、この6人は「牧師の教誨を受けたい」と自ら希望した。しかし、皆が友好的かと言えば当然そんなことはない。話を一切しない者、自分の話ばかりを滔々と捲し立てる者、聖書に興味を持たない者。なかなか一筋縄にはいかない。

「心を入れ替えて安らかに死に向かえるように」という気持ちで教誨師を続ける佐伯だが、「『心を入れ替えて安らかに死ぬ』のを望んでるのはお前たちの方だろう」と、その”偽善”を突きつけられることもある。遠くない将来に死ぬことが確定している者の心を安らかにするという、矛盾に満ちた日々の中で、佐伯は出来る限り死刑確定囚たちに寄り添おうとする。

映画のほぼ全編が教誨を行う室内で展開され、登場人物も非常に限られるので、舞台を見ているような印象さえある。物質も概念も否応無しに排除されてしまう無機質な空間で展開されるからこそ、登場人物たちの議論の応酬や言動の奇妙さがより際立ち、非常に印象深い作品に仕上がっていると感じた。

映画では死刑判決を受けた理由など、登場人物たちの背景的な描写はほとんどなく、「教誨師と対話する」という部分にのみ強烈に焦点が当てられていく

限られた登場人物だけで展開され、しかも死刑確定囚同士は接触できないので、「各死刑確定囚と教誨師」という6パターンのやり取りしか存在しない、かなり制約の多い作品だが、そんなことを感じさせないくらい濃密で人間臭さを感じさせる作品だった。

出演:大杉漣, 出演:玉置玲央, 出演:烏丸せつこ, 出演:五頭岳夫, 出演:小川登, 出演:古舘寛治, 出演:光石研, 出演:青木柚, 出演:杉田雷麟, Writer:佐向大, 監督:佐向大, クリエイター:—, プロデュース:松田広子
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最後に

普段窺い知ることのできない世界を体感出来る映画であり、人間の矛盾や不合理さを実感させてくれる作品でもある。「自分には関係ない」と思考を止めてしまうのではなく、先進国では数少なくなった”野蛮”な制度を維持し続ける理屈があるのかについて考えてみるべきだろうと思う。

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