【冷戦】”アメリカのビートルズ”と評された、「鉄のカーテンを超えた初のロックバンド」を襲った悲劇:映画『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • ”アメリカのビートルズ”と評された大人気ロックバンドが、望んでもいないのに「東欧ツアー」に行かされた理由とは?
  • 西側の文化に初めて触れる観客の大熱狂と、それ故に起こったドタバタ
  • 帰国した彼らを待ち受けていた厳しい評価とその後の衰退

国家の都合に振り回されたロックバンドは、「鉄のカーテン」の向こう側でも、そしてこちら側でも、難しい判断を迫られた

自己紹介記事

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映画『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』が描く、”アメリカのビートルズ”と評されたバンドが「鉄のカーテン」を越えたために直面した悲劇とは?

本作『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』のざっくりした内容紹介

なかなか興味深い作品だった。例によって私は、「ブラッド・スウェット&ティアーズ(BS&T)」のことは何も知らずに本作を観たのだが、彼らは「米ソ冷戦」という、バンド活動とはまったく関係ない出来事に巻き込まれてしまったようである。彼らは「『鉄のカーテン』を越えた初のロックバンド」なのだが、そのツアーのせいで数奇な運命を辿ることになってしまったのだ。さらに、様々な事情から「当時は言えなかったこと」が多々あり、それ故に悔しい思いもしたという。

BS&Tは”アメリカのビートルズ”とも評されていたほど人気を集めていたバンドである。そしてただ人気があっただけではなく、「画期的なホーンアレンジ」「ジェネレーションギャップの時代に世代を越えられるバンド」と、その音楽性や存在感も高く評価されていたのだ。にも拘らず、政治の渦に巻き込まれたせいで状況が激変してしまう。超人気バンドだった彼らは結局、「鉄のカーテン」の向こう側から戻ってきた後は短命に終わってしまった

そして本作は、そんな彼らを捉えた当時の映像をベースにしながら、「あの時何が起こったのか?」をメンバーと共に振り返る作品だ。

彼らが訪れたのは、当時は「共産主義国」だった東欧の3国、ユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドである。どの国も、西側のロックバンドを迎え入れるのは初めてだった。そして、だからこそ様々なことが起こる。本作では冒頭で、「コンサート中、あるいはコンサート開催に至るまでの様々な出来事」についてダイジェストでまとめられているのだが、ちょっと信じがたい話ばかりだった。「空港を出ると銃を持った兵士がいた」というのは時代背景からまだ理解できるとして、「客席に警察犬を放ち、観客を追い払おうとする」なんてのはもはや意味不明だろう。ちなみに、冒頭で映し出される「ヤバい映像」の多くは、ルーマニアでのライブの出来事だと後に判明する。

本作ではその後、「BS&Tは一体なぜ東欧ツアーに行くことになったのか?」という説明が始まっていく。そしてその合間合間に、「BS&Tの結成秘話」「アル・クーパーの脱退」「ラリー・ゴールドブラッドという謎のマネージャーの存在」「BS&Tが大人気ロックバンドになった経緯」などが挿し込まれていくのである。本作においてはやはり、東欧ツアー中の話が最も面白いわけだが、挿入されるエピソードもなかなかのもので、話題に事欠かないバンドだなという感じだった。

そんな色んな意味で魅力的なバンドと、その数奇な運命を描き出すドキュメンタリー映画である。

BS&Tはなぜ「東欧ツアー」に行くことになったのか?

それではまず、本作における「核心」である「東欧ツアー」について、BS&Tが”行かざるを得なくなった”経緯から触れていきたいと思う。

先述した通り、このツアーの背景には「米ソ冷戦」が関わっている。1968年に、「ベトナム戦争からの撤退」を掲げたニクソン大統領が支持を集め当選したものの、実際には戦争を悪化させただけであり、結果としてアメリカ国民の分裂・分断を招いてしまった。そしてそのような時代の雰囲気を背景に、アメリカでは「カウンターカルチャー」が流行し始める。これは「高級文化に抵抗・反発する文化」みたいなものであり、BS&Tはまさに「カウンターカルチャーの旗手」のような存在として受け入れられていったのだ。

一方でアメリカは、「米ソ冷戦によるアメリカの軍事化が『冷酷な印象』を与えること」を危惧していたそうだ。そこで国務省は1954年から、「他国の人にアメリカの芸術に触れてもらう」という目的の国際文化交流プログラムをスタートさせた当初はクラシックがメインだったそうだが、後にジャズも組み込まれる。そして実は、BS&Tは「ジャズとロックを融合させる」という当時誰もやっていなかった試みに成功したバンドだったのだ。恐らくだが、「人気バンドである」という事実も込みで、このプログラムの趣旨に合うと判断されたのだと思う。

しかしそれだけではない。BS&Tは「東欧ツアー」に”行かざるを得なかった”わけで、そこにはより強い理由が存在したのである。

BS&Tは9人編成で、ボーカルのデヴィッドはカナダ人。彼はアメリカのグリーンカードを取得していた。しかしある時、アメリカが彼のグリーンカードを取り上げようとしたのだという。カナダにいる時の犯罪歴などが問題視されたのだそうだ。しかしバンドとしてはそれは困る。彼のグリーンカードが取り上げられたら、BS&Tが成り立たなくなってしまうからだ。

デヴィッドはBS&Tに後から加入したメンバーである。先に少しだけ名前を出したアル・クーパーが脱退した後、オーディションで選ばれたのだ。彼の歌声を聴いた瞬間に、バンドメンバー全員が「こいつだ!」と言ったぐらい、BS&Tには欠かせないボーカルなのである。また商業的にも重要な存在だった。アル・クーパー在籍時に出したファーストアルバムは、そのクオリティの高さから業界では称賛されたが、売上は芳しくなかったそうだ。しかしボーカルがデヴィッドに代わってから出したセカンドアルバムは、当時のアルバム販売記録を更新するほどの凄まじい売上を記録したのである。

つまりBS&Tとしては、何としてもデヴィッドのグリーンカード剥奪を阻止しなければならなかったのだ。

さて、彼らはこの事実について「当時は口止めされていた」と話していた。つまり、BS&Tとしては「デヴィッドのグリーンカードのために仕方なく参加を決めた」だけだったのだが、それは言えなかったので、「自ら望んで東欧ツアーに参加した」みたいな印象になってしまったのである。そしてこのことが結果として、帰国後の彼らを苦しめることになったというわけだ。

さて、デヴィッドのグリーンカードを守るために動いたのが、こちらも少し名前を出したマネージャーのラリー・ゴールドブラッドである。彼がバンドのマネージャーに就任した経緯の紹介は駆け足すぎてよく分からなかったが、「メンバーの1人が『こいつをマネージャーに』と言った時、ラリーは刑務所にいた」という事実だけは理解できた。そこから何があったのかはよく分からなかったが、何にせよ才覚のある人物だったのだろう。BS&Tのマネージャーに収まると、デヴィッドのグリーンカードの件で国務省と取引を行ったようだ。

そしてその条件こそが「東欧ツアー」だったのである。もし「東欧ツアー」を断ればデヴィッドのグリーンカードは剥奪され、BS&Tは解散するしかなくなってしまう。こうしてBS&Tは、望んだわけではないのに「『鉄のカーテン』を越えた初のロックバンド」となったのである。

BS&Tのメンバーは東欧各国で何を見て、どんなコンサートを行ったのか?

本作では、「東欧ツアー」から戻ってきたメンバーが記者会見に臨んでいる映像も使われていた。当時のことは詳しくないが、たぶん記者だって容易には「鉄のカーテン」の向こう側には行けなかったんじゃないかと思う。そのためだろう、その実際を生で目にしたメンバーに「共産主義国の実態」に関する質問が色々と飛んでいたロックバンドの記者会見とは思えないやり取りである。

そしてその中には、「共産主義国の独裁政治は、アメリカのプロパガンダでしたか?」というものもあった。さて、メンバーの1人は、記者会見でのやり取りを総合して「敵対的な質問」という表現を使っていたのだが、そこにはこんな理由がある。先の質問には表向き、「『鉄のカーテン』の向こう側ではホントに独裁政治なんか行われてるわけ? 冷戦を煽るためのアメリカの嘘なんじゃないの?」という意図が込められているわけだが、決してそれだけではない。加えて、「国務省のお抱えで東欧に行ったあんたらはどうせアメリカの犬なんだろ? だから、別に独裁政治なんか行われていないのに『独裁政治だった』って嘘ついてるんだろ?」みたいなニュアンスも含まれていたのである。そしてそのことを指して、彼は「敵対的な質問」と言っていたのだと思う。

当時は、記者からそんな質問(嫌味?)が出るぐらい、「鉄のカーテン」の向こう側のことはまったく知られていなかったのだろう。そして彼らは、西側諸国の人間がほとんど知らなかったそんな「現実」を目にしてしまったのである。

とはいえ、最初に訪れたユーゴスラビアでは、そこまで大きな混乱はなかった。もちろん、初めて見る西側のロックバンドに観客が熱狂しすぎたり、しかしそうかと思えば「つまらない」と判断して観客が帰ってしまったりみたいなことはあったものの、2ヶ国目のルーマニアと比べれば大したことではない

さて、ルーマニアでのライブは大いに盛り上がった。「ん?」と感じるかもしれないが、実は盛り上がりすぎたが故に問題が起こったのである。

ルーマニアでもやはり、初めて見る西側の文化に観客が熱狂した。本作には、このライブを実際に観たという人物のインタビューも収められていたのだが、「単なるコンサートではなく、『国境の向こうにある大いなる自由』を教えてくれた」「『チェコのように解放される、このコンサートはそこに向かっている証なんだ』と思っていたが、そうではなかった」など、単に「音楽を聴く」というだけではない強い想いを持つ観客が多くいたようである。

そしてそんな観客の熱狂を、時のルーマニア政権が危険視した。まあ、インタビューで語られた当時の人々の感覚を踏まえれば、そんな危惧もあながち間違いではなかったと言えるだろう。観客の盛り上がりは、もちろんBS&Tのライブそのものへの熱狂もあったわけだが、同時に「抑圧され続けた反動」でもあったのである。恐らくだが、現在の北朝鮮のように「自分の感情を表に出すこと」が危険な時代だったのだと思う。そしてそれ故に、「ライブに熱狂している」という体で「普段表に出せない感情を発散させる」みたいな感覚にもなっていたのだろう。当然、それらが過剰になれば、暴動のようなものに発展する可能性も十分あったはずだ。

そんなわけでルーマニア政権は、初日を終えたBS&Tに「ライブを継続する場合の条件」を提示したのである。その内容は、ロックバンドに示すものとは思えないようなもので、「音量を下げろ」「リズムを控えめに」なんてものが含まれていた。あるいは、「服を脱がない」「長髪のスタッフはステージ下に」など演奏とは関係ない注意や、「楽器を客席に投げない」なんてものまであったのだ。最後の指摘には、BS&Tの『微笑みの研究』という曲が関係している。この曲の始まり方は特殊で、ドラを3回鳴らした後、4回目のタイミングでドラを客席に投げ、それが落ちた音を合図に楽器の演奏が始まるのだ。つまり、それを止めろというのである。さて、こんな条件を提示されたBS&Tは、とりあえず受け入れることにしたようだ。

しかし、ロックバンドである彼らがそんな条件を守るはずもない。彼らはやはり、ドラを客席に投げたのだ。しかしそれでも、ライブは中止にならなかった。それどころか、アンコールを求める客が帰ろうとせず、客席で叫んだり歌ったりと興奮状態に陥っていたのだ。それで警察が客席に警察犬を放ち、観客を帰らせようとしたのである。やはり全体的に、ルーマニアの対応がイカれているように見えた。凄まじい状況だなと思う。

撮影フィルムを国外に持ち出せた理由、そして帰国した彼らを待ち受けていた不遇

さて、ルーマニアでの2度目のライブの様子は写真しか記録が残っていない。「映像の撮影禁止」というのも、ライブ継続の条件だったからだ。しかし、BS&Tの「東欧ツアー」の様子は概ね映像に残っている。何故なら、BS&Tには「ドキュメンタリー映画の撮影隊」も同行していたからだ。ライブツアーの関係者は国務省のスタッフも含めて57人だったそうだが、その中に撮影隊もいたのである。

そして、ルーマニアから3ヶ国目のポーランドへと移動する際に、またしても信じがたい出来事が起こった。なんと、ルーマニアの空港スタッフが、撮影済みフィルムをX線検査機に通せと指示してきたのである。もちろん、フィルムをダメにして流出を阻止しようということなのだろう。

2日目のライブこそ映像は残っていないものの、初日は普通に撮影が出来た。そして初日のライブでも観客を抑え込むために警察が動員されており、そのような様子が映っているとマズいという判断になったのだと思う。しかし本作では、ルーマニアでの初日の映像は普通に使われている無事にルーマニアから持ち出せたというわけだ。もちろん彼らは、X線での検査を避けられなかったはずである。では、どのようにこの難題を乗り越えたのだろう?

その秘密は実は前日の行動にある。ライブ終了後、撮影隊はフィルムをホテルではなく、なんとアメリカ大使館に持ち込んだというのだ。そしてそこで「撮影済みのフィルム」と「未使用のフィルム」を入れ替え、空港には「未使用のフィルム」を持っていったのである。「撮影済みのフィルム」は大使館の冷蔵庫で保管し、しばらくしてから回収したというから、本当にスパイ映画みたいな話だなと思う。ちなみに、ポーランドでのライブは大成功だったらしく、メンバーの1人は「素晴らしい観客だった」と当時を振り返りながら語っていた。平和に終わったのなら何よりである。

こうして、ルーマニアでこそゴタゴタはあったものの、ライブは概ね成功と言っていい形で終わり、彼らはようやく帰国の途についた。しかし先述した通り、彼らは「アメリカの犬」みたいな扱いをされてしまうことになる。恐らくだが、「国務省の言いなりになって東欧までライブに行ったダサい奴ら」みたいなイメージで見られたのだろうと思う。

メンバーの1人は当時のことについて、「政治的に批判される時は大体、左派か右派のどちらかから攻撃を受けるものだけど、僕らは両方からだった」みたいに言っていた。当時はまさにニクソン大統領への不満が高まっていた時期であり、メンバーが帰国後の記者会見で言っていたように、「『国民』と『政府』の二項対立にしたがる」みたいな雰囲気が、マスコミを始め国中に蔓延していたのだと思う。だからこそ彼らは、「政府側の人間」として、あらゆる層から嫌われてしまったのである。なんと、ライブ中に馬糞を投げつけられたこともあったそうだ。

しかし、この話は単に「政治的に嫌われた」というだけのことであり、もちろんそれも大変なことではあるのだが、彼らにとって致命傷になったわけではなかった決定的だったのは、「カウンターカルチャー層からの支持を失ってしまったこと」である。先述した通り、「カウンターカルチャー」というのは「高級文化に対するアンチテーゼ」なわけで、「国のお墨付きを得てライブに行く」なんてまさに対極にあるような行為なのだ。

ただ彼らは、事前にそうなる可能性については予見出来ていたはずである。彼らは「東欧ツアー」以前にラスベガスのシーザーズ・パレスで行われたライブに出演したことがあり、その際も同じようにカウンターカルチャー層からの支持を失う経験をしていたからだ。しかしそれでも、デヴィッドのグリーンカードが取り上げられるのをただ座して待っているわけにはいかなかったのだろう。そしてやはり、改めてカウンターカルチャー層からの不支持に直面させられたというわけだ。

こうして彼らは、超人気バンドだったにも拘らず、「冷戦」という「ロックバンドとは最もかけ離れている」と言っていいだろう時代背景に巻き込まれる形で、その人気を急速に失ってしまったのである。メンバーの1人は、彼ら自身に起こった出来事について「ハメられた」「フェアじゃない」と話していたが、そう言いたくなるのも当然だなと思う。とても「不運」などという言葉ではまとめられないが、とにかく「不運」と言うほかない状況だったのである。「やってらんねぇ」って感じだっただろうなぁ、ホント。

さて、帰国後の話として、「アビー・ホフマンという人物がBS&Tのライブの会場前で『血と汗とデタラメ野郎』というビラを配っていた」という話が出てきた。「アビー・ホフマン」という名前から、「映画『シカゴ7裁判』に出てきた人だった気がする」と思ったのだが、やはりその記憶は合っていたようだ(鑑賞後に調べた)。彼は、自身の主張を広く伝えるためにBS&Tのライブが利用出来ると考え行動したという。ちなみに本作である人物が、「アビーは写真の撮り方が分かっていた」「インスタグラムが登場する以前に存在したインスタアーティストだ」みたいな表現をしているのが印象的だった。

ちなみに本作には、BS&Tのドキュメンタリー映画制作のために東欧に同行した監督も出演している。彼によると、ドキュメンタリー映画は結局お蔵入りになってしまったそうだ。編集や上映に国務省の許可が必要だったのだが、その国務省が「アメリカ・東欧どちらでも上映できる内容にするように」と指示を出したため、「そんなこと不可能だ」と匙を投げざるを得なかったという。まあ、そりゃそうだろう。ドキュメンタリー映画的には「東欧諸国が見せたくないと感じる映像」にこそ価値があるからだ。それが使えないのであれば、監督が言うように「つまらない単なる旅行記」のような内容にするしかない。さすがにそれは、許容できなかっただろう

とはいえ、その時に撮影した素材は本作『ブラッド・スウェット&ティアーズに何が起こったのか?』でようやく日の目を見ることになったわけで、それで御の字とするしかないだろう。何にせよ、関わった全員が不幸になってしまったというわけだ。

そんな不遇なロックバンドの「知られざる真実」を描き出す作品である。

最後に

音楽のことはよく分からないものの、もしもこんな騒動に巻き込まれなかったら、彼らは「ビートルズ」や「クイーン」のように、今でも広く知られるミュージシャンとして名を残したのかもしれない。そう考えると、実に残酷だなと思う。しかしだからこそ、そんな数奇な運命を辿った彼らを映し出す本作は面白いとも言える。なかなか興味深いドキュメンタリー映画だった。

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