【死】映画『湯を沸かすほどの熱い愛』に号泣。「家族とは?」を問う物語と、タイトル通りのラストが見事

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:宮沢りえ, 出演:杉咲 花, 出演:篠原ゆき子, 出演:駿河太郎, 出演:伊東 蒼, 出演:松坂桃李, 出演:オダギリジョー, Writer:中野量太, 監督:中野量太
¥400 (2022/04/18 06:07時点 | Amazon調べ)
いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「テーマ」「映像美」「タイトル」がすべて完璧に混ざりあったラストが何より見事

犀川後藤

これでもかというくらい号泣させられてしまいました

この記事の3つの要点

  • 「死」はもっとさらさらとした重みのないものであってほしいとずっと思っている
  • 「血の繋がり」や「物理的な距離」を超えて「家族」になることができる
  • あまりに間違っているが、あまりに美しいラストから「死」や「家族」を考え直す
犀川後藤

「家族」にあまり興味が持てない私も、「こういう『家族』ならいいかも」と感じられた作品

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「家族」も「死」も、「よくある捉え方」から外れてみれば違う生き方が見えてくるのだと、映画『湯を沸かすほどの熱い愛』を観て思う

もの凄く号泣させられた映画でした。自分でも、信じられないくらい。

泣ければ良い映画だ、なんて思ってるわけではありませんが、『湯を沸かすほどの熱い愛』はとにかく素晴らしい映画でした。

「死」はもっと、さらさらしたものであってほしい

私はこれまでずっと、誰かの「死」に感情が動いたり、心が乱れたりしたことがありません。大学時代の先輩や祖父母、あるいは少し前に父親も亡くしましたが、その度に、「自分の心の動かなさ」みたいなものに直面し、驚かされるのです。

昔は、そんな自分のことを「ダメだ」と考えていました。誰かが死んで「悲しい」と思えないなんて、人としてマズイんじゃないか、と思っていたわけです。

いか

まあ、マズイよねぇ

犀川後藤

私は基本的に「変わった人間」が好きで、普段関わる人にも普通から外れているタイプの人が多いけど、私みたいな人はあんまりいないんだよなぁ

ただどこかのタイミングで、「別にそれでもいんじゃないか」と思うようになりました。無理に悲しんだって仕方ありません。それに私は、「死」というものを軽んじているつもりもなかったので、「自分はこういう人間なんだ」と考えを切り替えたのです。

人の死に心が動かない理由には、色んな要素が絡んでいると思うので、何か1つ挙げることに意味はないでしょう。ただ確実に、「『私自身の死の際もそうであってほしい』と願っている」とは言えます。つまり、「私の死によって、感情が動かされてしまう人がいなければいい」と考えているのです。

私がとても嫌だなと感じるのは、「死」を尊重しているように見せて、実は「死」を遠ざけているだけの人です。「『死ぬ』なんて言うなよ」「『自分が死んだら』なんて話聞きたくない」みたいな言葉は、「『死』など考えられないほどあなたのことを大事に考えている」という意味として流通しているように思います。ただ、本当にそんな風に考えているのでしょうか? 私には、ただ「死」の話題を避けているようにしか見えません。

話題が「起こる確率の低いこと」であるならまだ理解できます。例えば、「戦争で人を殺す」というのは、少なくとも今の日本ではかなり起こる可能性が低い出来事でしょう。だから「そんな話したくない」と拒絶するのも自然だと思います。

ただ、「死」は誰にでも平等に訪れます。死なない人間はいませんし、死ぬ確率は100%です。そんな、「いつかは分からないけれど未来に確実に起こる出来事」の話題を避けることが、果たして「尊重」と言えるのか、私には疑問でしかありません。

私はもっと、日常的に当たり前のように「死」の話題に触れる方が自然だと感じるし、その方が「尊重」という言葉に近づくような気がしています

犀川後藤

だから、自分から積極的に「死」の話はしないけど、「死」の話題が出てくればフラットに聞こうといつも意識してる

いか

「会話に出すのはタブー」みたいな扱いになってしまうと、そのこと自体が息苦しさに繋がることもあるしね

さて、さらに穿った主張をしてみることにしましょう。

例えば、「葬儀をし、墓を立て、何周忌かで集まる」みたいな、当たり前のように行われている儀式は、私にはとても不自然なものに感じられます。もの凄く嫌な言い方をすれば、「そういう時だけ、言い訳のように故人を思い出せばいい」みたいなニュアンスを感じてしまうのです。

あるいは、「誰かの『死』に直面して悲しみを表明すること」は、「それまでの自分の不実を帳消しにする」ような振る舞いに見えてしまいます。繰り返しになりますが、人間はいつか必ず死ぬのだから、「誰かが死んで悲しい」と感じてしまうなら、「その人がいつ死んでも後悔せずにいられるような関係性」をまずは目指すべきではないか、と感じてしまうのです。もちろん毎日一緒にいたって死んだら悲しいのかもしれないし、毎日一緒にいたくてもそれが叶わない人もいるのでしょうが、「その人との関係性をサボっていた自分自身を許すために泣いている」みたいな人も中にはいるのではないか思っています。

あー、嫌な話になってきましたね。さすがに不快に感じる方もいるかもしれません。ただ、かなり少数だろうとは思いますが、私の言っていることに共感できるという方もいるはずだと信じています。

いか

いるかなぁ???

犀川後藤

こういうセンシティブな話は、敢えて口に出したりしないことが多いから、多少はいると信じてる

別に、「誰かの死を悲しむことが間違いだ」などと言っているわけではありません。そうではなくて、「『死』を『感情を喚起させるもの』と捉えると、必然的に『特別なもの』だと感じられてしまう。そしてそれゆえに、『死』が『日常』から遠いものになってしまっているのではないか」と提起したいだけです。

私が思うこの映画の素晴らしさは、まさにこの点、つまり「『死』を日常の中に組み込んでいく振る舞い」にあります。特に、映画のラストはあまりにも素晴らしいと感じました。もちろん、同じことを現実でやれば様々な問題が生じることは分かっています。それでも、「『死』を日常の中に組み込むことを、家族が当たり前のように共有している」という部分にグッときてしまいました

その「死」が「家族」のものである場合、余計に「特別感」が出てしまい、そのことによって結果的に「死」は遠ざけられることになってしまうと私は考えています。果たしてそれは、本当に「唯一の正解」と言えるでしょうか? 「正解」であることを疑っているわけではありません。それもまた正解の1つだと認めた上で、別の正解は存在しないのか? と問いたいのです

私は本当に、「死」というものは、もっとさらさらとしたした何かであってほしいと感じています。砂や水のように手のひらからどんどんとこぼれ落ちて、手のひらにはほんの僅かな痕跡しか残らないみたいな、そんな存在であってほしいと考えているのです。

そういう感覚を共有できるような人と「家族」になることができたら、それはとても素晴らしいことのように思えます

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』の内容紹介

銭湯「幸の湯」は、もう1年近く休業状態のままだ。理由は、夫の失踪。幸野双葉の夫・一浩が、ある日突然失踪してしまい、それ以来閉まったままなのだ。一人娘の安澄を育てる双葉は、パートで生計を立てながら持ち前のパワフルさでなんとか生活を続けている。高校生の安澄がどうやら学校でいじめられているらしいということも知っており、双葉は気弱な安澄になんとか「闘う勇気」を持ってもらおうと奮闘しているのだ。

そんなある日のこと、双葉はパート先で倒れてしまい、運び込まれた病院でステージ4の末期がんと診断される余命は、あと2ヶ月。あまりのことに言葉を失いそうになる双葉だが、立ち止まってはいられない。死ぬ前に、どうしてもやらなければならないことがあるのだ。

双葉は決意し、探偵を雇う。一浩の居場所を突き止めてもらったのだ。そして双葉は強引に、一浩とその娘である鮎子との同居を決めてしまう。さらに、ずっと閉めたままだった銭湯の再開も宣言、みんな手伝ってもらうよと仕事を割り振っていくのである。

あと2ヶ月の命だというのに、安澄の制服が紛失したり、鮎子が失踪したりと問題は山積みだ。それでも、今の状態のまま死ぬわけにはいかないと、双葉は「ある目的」を胸に、安澄と鮎子を旅行へと連れ出していき……。

映画『湯を沸かすほどの熱い愛』の感想

もの凄く良い映画でした。この記事の冒頭では「死」を軸にその理由に触れましたが、ここからは「家族」を軸に書いていくことにしましょう。

幸野家が、とにかく面白いのです

幸野双葉という女性の凄さは、「関わる人間を皆『家族』にしてしまう」という点にあると言えるでしょう。それが、「血の繋がり」や「生活を共にした時間」を超越した「家族のまとまり」を生み出し、「家族」という概念を押し広げてくれる感じがありました。

犀川後藤

狭い意味でしか「家族」って言葉を使えない人って、なんか寂しい人に見えちゃう

いか

今の時代、「家族」って言葉は、「他人を排除する」ためのものになっちゃってる気もするしね

双葉の振る舞いを見れば誰もが、「この人の前では、『血の繋がり』も『物理的な距離』も関係ない」と思わされるでしょう。彼女には、そういう「何か」があるのです。

双葉は、「家族とはこういうものだ」を起点にしません。映画では、「幸野双葉の輪の中にいることが家族なのだ」みたいな”反転”が、まったく無理のない説得力で展開されるので、観る者は様々な場面で「家族ってなんなんだろう?」という問いにぶつかることになると思います。そして結局のところ、「この人と家族でいたい」という気持ちこそが「家族であることの本質」なのだと実感できるでしょう。

多くの人がそんな風に考えることで、「家族であること」の幻想がもっと崩れればいいと感じるし、「形を整えなければ家族にはなれない」なんていう強迫観念みたいなものから解放されてほしいとも思います。

映画全体から、「死」や「家族」といったテーマが見え隠れする作品ではありますが、そんなことを考えずとも非常に楽しめるでしょう。特に、ミステリ作品ではないのに、様々な場面に「伏線」が張り巡らされ、それらが後々回収される展開は非常に面白いです。様々な場面で「ん?」という違和感が散りばめられており、しかしそれらにちゃんと理由があることが後々明らかになっていきます。しかもその伏線は、ミステリのような「驚かせる」役割ではなく、底流するテーマに繋がったり、あるいは感動を呼び起こしたりするのです。細部に渡って非常に上手い作品だと思います。

細かくは触れませんが、もう随所で泣かされてしまいました。「伏線」が回収される場面も良いし、役者の演技も素晴らしいし、とにかくグッとくる場面が多すぎます。

「死」や「家族」といった、「直球ど真ん中」のテーマを扱った作品で、正直私はそういう作品をあまり好きになれません。しかし『湯を沸かすほどの熱い愛』は、「直球ど真ん中」を描きながらも、私のようなひねくれ者も感動させる素晴らしい映画でした。

出演:宮沢りえ, 出演:杉咲 花, 出演:篠原ゆき子, 出演:駿河太郎, 出演:伊東 蒼, 出演:松坂桃李, 出演:オダギリジョー, Writer:中野量太, 監督:中野量太
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最後に

とにかくこの映画は、あまりにも”異常”で”美しい”ラストが見事だと思います。しかも、この映画のタイトルがまさにドンピシャで、すべての要素が絡み合って「最高」に仕上がっている、とても素敵な映画だと感じました。

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