【家族】ゲイの男性が、拘置所を出所した20歳の男性と養子縁組し親子関係になるドキュメンタリー:映画『二十歳の息子』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:網谷勇気, 出演:渉, 監督:島田隆一
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • ほぼ何の説明もされないまま展開される構成が、ドキュメンタリーなのにフィクションっぽくもあり、面白い
  • カメラの存在がほぼ透明になっている点も、フィクションっぽさを感じさせる要素になっている
  • マイノリティである主人公が突きつける「『無関心であること』に対する憤り」に共感させられた

なんとも説明が難しい”変な”映画なのだが、観て良かったと感じる、実に興味深い作品

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「ゲイの男性」を主人公にしながら、「LGBTQ」「マイノリティ」といった要素が前面に押し出されない、ちょっと変わったドキュメンタリー映画『二十歳の息子』

想像していたよりもずっと、好きなタイプの映画だった。しかし、かなり変わった作品である。

冒頭からしばらくの間、何が描かれようとしているのかさっぱり理解できなかった

私は普段から、これから観ようと思っている映画について情報も評価も特に調べないことにしている。なので、私がこの映画を観る前に知っていた情報は、『二十歳の息子』というタイトルと、ポスターなどに書かれていた「ゲイの私が、父親になった。」というフレーズだけ。そしてそれらから漠然と、「カミングアウト」が描かれる映画なのかなと想像していた

その予想は、大外れだったと言っていいだろう。まさに『二十歳の息子』というタイトルそのままの映画だったのである。

私は今回、記事タイトルで既にどんな内容なのかを書いてしまっているので、この記事を読んで観ようと思ってくれた人は無理だが、私と同じように、内容をまったく知らない状態で観に行くのも面白いだろう。とにかく冒頭から、ほぼなんの説明もないまま主人公となる男性が映し出され、そのまま展開していくのだ。その「分からなさ」を楽しんでみるのも、アリだと私は思う。

冒頭からしばらくは、中年男性が引っ越し作業をしている様子が淡々と映し出されていく。彼が引っ越しをするのには、当然、その後の展開に関係する理由があるのだが、冒頭の時点ではそれはまだ分からない。その中年男性が、この映画においてメインで映し出される人物の1人であり、しばらく観ていると、彼が「網谷勇気」という名前であることが分かってくる

引っ越しの準備を終えた網谷勇気が向かったのは、なんと東京拘置所だった。年若い男性と一緒に出てくる。2人は、あるアパートの1室へと入っていった。そして、網谷勇気が引っ越し作業をしていたのは、東京拘置所へと迎えに行った男性と一緒に住むためだということが、ここで明らかになる。階段が急であることを除けば、2人で暮らすには十分な部屋だろう。

しかしそもそも、彼らの関係性も分からないし、何故一緒に住むことになったのかも分からないままだ。いや、その説明は正しくはないか。この時点では「親子なのだろう」と考えるのが自然だし、私もそう認識していたと思う。年齢的にも、網谷勇気には、拘置所へ迎えに行った男性ぐらいの息子がいてもおかしくなさそうだ。「刑期を終えた息子を迎えに行った」と考えるのが、状況としては一番しっくり来るだろう

しかし次に続くシーンで、そうではなさそうだということが明らかになった

網谷勇気を含む何人かの男性が、車座になって雑談をしている。それが何の集まりなのかは説明されない。しばらくとりとめのない話をした後で、網谷勇気がおもむろに「養子縁組をした」と話し始める。さらに、それを受けての周囲の人々の反応から、網谷勇気が「ゲイ」であることが分かるのだ。ただし、何の集まりなのか不明なため、その場にいる全員がゲイなのかは分からない

こうして観客は、網谷勇気が、「ゲイでありながら、拘置所から出所した男性と養子縁組して親子関係となり、一緒に暮らすことになった」と理解することになるのだ。まさに『二十歳の息子』というタイトルがピッタリだと言えるだろう。もう1人の主人公である若者の名は、「網谷渉」である。

そんな2人と、彼らを取り巻く様々な人たちを映し出すドキュメンタリー映画というわけだ。

「カメラの透明さ」、そして「『ゲイであること』に焦点が当たらない構成」

映画を観ながら印象的だったのは、「カメラの存在が透明だったこと」だ。

私は結構ドキュメンタリー映画を観ているが、普通は「そこにカメラがあること」は大前提の事実として存在しているように思う。特に、「状況」にではなく「人物」に焦点を当てて撮影を行うドキュメンタリーであればなおさらだ。「カメラがあるという事実」は通常、「出演者のカメラ目線」や「撮影者との会話」、あるいは「出演者がカメラを意識する素振り」などによって強調されることになるのだが、『二十歳の息子』ではとにかく、「カメラの存在の希薄さ」が目立つように感じられた。

網谷勇気と網谷渉がカメラに向かって話す場面はある。しかし私の記憶では、そのような場面は2回ずつの計4回、時間にして2分もなかったんじゃないかと思う。そしてそれ以外の時間はすべて、「そこにカメラなど存在しない」かのように撮影がなされていたのだ。

同じようなやり方をしていて驚かされた作品が、映画『14歳の栞』である。ある中学校に長期密着したそのドキュメンタリー映画でも、カメラの存在をまったく感じさせない演出に驚かされた。

私は色々あって、テレビの取材を受ける経験を何度かしたことがあるのだが、やはり「カメラを向けられた状態」で「自然に振る舞う」ことは結構難しい。現代であれば、YouTuberや配信者みたいな人たちが増えているから、そういう状況に慣れている人も多いかもしれない。ただ映画『二十歳の息子』では、網谷勇気の両親や妹、あるいは彼が所属するある団体にもカメラが入り込む。そういう状況でも、常に「カメラの存在」が無いかのように撮り続けるのはかなり困難だろう

『14歳の栞』をどんな風に撮影したのかは未だに謎だが、『二十歳の息子』の場合は、メインとなるのは網谷勇気と網谷渉だけなので、彼ら2人がカメラの存在に慣れてくれさえすればどうにかなりそうな気はする。他の場面については、「カメラに干渉したシーンはすべてカットした」と考えればいいからだ。

しかし、もしもこの想像が正しいなら、その演出は意図的なものと受け取るべきだろう。恐らくだが制作側はこの作品を、「ドキュメンタリーっぽく仕上げる」のではなく「フィクションっぽく仕上げる」ことを意図していたのではないかと思う。そう考えないと、「カメラの透明さ」の説明がつけられない気がするのだ。

冒頭で「変わった映画」と書いたが、それは、「ドキュメンタリー映画なのに、フィクションっぽい」という、この映画が有する特徴に依るところが大きかったのかもしれない。

またもう1点、良い意味で奇妙さを感じさせられたポイントがある。それは、「『網谷勇気がゲイである』という事実に、作中ではほぼ焦点が当てられない」ということだ。どうしてこれを「良い」と感じたのかと言えば、1つには、現代の「ポリティカル・コレクトネス」への”過剰な”配慮が挙げられる。

「ポリティカル・コレクトネス」とは「差別的な意味や誤解が含まれてしまわないように配慮された態度・表現」ぐらいの意味で捉えておけばいいだろう。いつ頃からかは分からないが、映画に限らずあらゆる表現において、「ポリティカル・コレクトネスを念頭に置いているだろう描写」が出てくるようになった。それ自体は決して悪いことではないものの、「過剰」「あからさま」と感じさせるものもあり、正直、あまり気分が良いものではない「我々は差別に配慮していますし、差別的な感情なんてまったく持っていませんよ」という「圧力」みたいなものが強すぎて、その表現が伝えるべき本来の意味を的確に受け取れなくなってしまうからだ。

しかしこの映画に、そのような雰囲気は一切ない。というか、「網谷勇気がゲイであろうがなかろうが、どっちでもいい」ぐらいのスタンスにさえ感じられた。もちろん、そんなわけはない。ゲイではない男性が養子縁組をしたところで、恐らく「映画にしよう」とは思わなかったはずだからだ。「ゲイの男性が養子縁組をする」からこそ、この映画の制作が決まったと考えていいはずである。しかし、制作側のそのようなスタンスは、少なくとも画面からは滲み出て来なかった。その点がとても良かったと私は思う。

そのような雰囲気の作品に仕上がったのは、もちろん、網谷勇気自身が「ゲイであること」を大したことだと捉えていないような振る舞いをしているからだろう。そしてさらにその背景には、彼の両親の存在が大きかったように思う。

網谷勇気には、ゲイである自身の様々な体験談を講演などで話す機会があるようだ。映画でも、そのいくつかが映し出されていた。その中で、彼が初めて両親にカミングアウトした際の話が出てくる。彼がゲイであることを自覚したのは14歳の頃だった。そしてその後様々に悩んだ末、「死にたい。でも、どうせ死ぬならカミングアウトしてダメだったら死のう」と考え、両親に打ち明けたのである。

その際の両親の反応が実に興味深かった。父親は、「ゲイ雑誌があるから知ってた」と、そして母親は「そんなことより学校の成績は大丈夫なの?」と言ったのそうだ。きっと本人も拍子抜けしたことだろう。そして恐らく、最初に打ち明けた両親がそんな感じだったから、彼も「ゲイである」という自身のアイデンティティについて「大したことじゃない」と思えるようになったのではないかと思う。

また作中では、網谷勇気が「息子」である網谷渉を連れて実家を訪れる場面も映し出されていた。みんなで鍋をつつき、途中から妹も加わり、妹から問われるような形で、網谷渉は「生まれた時から親がいなくて……」と自身の身の上を語っていく。恐らく網谷渉にとっては、「初めての家族団らん」だったのではないかと思う。

「ゲイの息子が、養子縁組した『孫』を連れてくる」という状況は、なかなか普通には起こり得ないと思うのだが、妹はともかく、網谷勇気の両親はさも当たり前かのように網谷渉を受け入れていた。また本作には、網谷渉と父親がベランダでタバコを吸うシーンもある。恐らくこの日が初対面のはずだが、とても普通に接していた。一般的には、年配の男性の方が「頭が固い」ような先入観を抱いてしまうだろうが、網谷勇気の父親には当てはまらないようだ。

網谷渉がなぜ網谷勇気と養子縁組をしたのかは分からない。単に、「拘置所から出るには身元引受人が必要だから」みたいなことだったのかもしれないが、私はなんとなく、「網谷勇気の人間としての凄さ」みたいなものをどこかで感じて惹きつけられたのではないかと勝手に想像している。そしてその根源はきっと、彼の両親にあるのだと思う。

父親はタバコを吸いながら、網谷渉にこんな風に言っていた

母さんも俺も、子どもが大好きだから、子どもがこうしたいと言ったことはやらせてあげたいし、君のことも、「勇気が信じている渉」なら信じられる。

そのシンプルな力強さに、私は少し圧倒されてしまった

「マイノリティであること」に関する網谷勇気のとある主張について

そんなわけで、「網谷勇気がゲイであること」には特段焦点は当たらないのだが、「マイノリティであること」については映画全体のテーマとしても浮かび上がらせようとしている感じがした。「ゲイ」である網谷勇気も、「両親がおらず、拘置所から出てきた」網谷渉もマイノリティと言っていいだろうし、彼らの周りにいる人たちも実は「マイノリティと関わる当事者」なのだ。というのも、網谷勇気は「ブリッジフォースマイル」というNPOを立ち上げており、その活動内容が「児童養護施設から巣立つ子どもたちの自立支援」なのである。網谷渉とも、その活動を行う中で知り合ったのだろう。

このように、映画『二十歳の息子』は、「マイノリティであること」が「当たり前」と言える環境で展開される物語なのである。そしてそのような作品において、私が最もグッと来た場面を紹介したいと思う。

先に書いておくが、このシーンは本作において、決して重要な場面というわけではない。そもそもが網谷渉が絡まないシーンであり、あくまでも「網谷勇気という人物」に関する描写でしかないのだ。ただ、「この感覚はとても良い」と感じたので、紹介したいと思う。

それは、「ブリッジフォースマイル」のメンバーが次回のイベントについての話し合いをしている場面でのことだ。彼らは、恐らく毎年アートイベントを行っているようで、今回のテーマは「グレー」らしい。そしてその「グレー」というテーマの切り口の1つとして「罪」が挙げられ、それをどう掘り下げていくのかが話し合われているという状況だ。

意見の1つとして、「実際の事件を取り上げる」という案が出る。そしてこれに対して、「実際の事件には被害者がいるのだから、それを素材のように取り上げるのはNPOとしていかがなものか」「単純に、『殺人事件を扱う』ことに『重い』って感じてしまった」みたいな、比較的否定的な意見がいくつか出た。その後、この点についてどう思うかと話を振られた網谷勇気が、こんなことを言うのである。

俺は「無関心」こそ「罪」だと思うのね。つまり、ここにいる全員、誰かの死に間接的に関わってるわけよ。そういう自覚がない奴とは、喋りたくないんだよね。そういうことを自覚できもしないのに泣くな、とか思っちゃう。

このセリフはとても良かった。もちろんその「良さ」は、NPOのメンバーというある種の「仲間」に対しても厳しいことが言える網谷勇気という人物に対する評価でもあるのだが、やはり何よりも、その発言内容そのものにグッときたと言っていい。

言語学的な知識に明るいわけではないのだが、しかし普通に考えて、「言葉」や「概念」というのは「何かと何かを区別する」ために生まれるはずだろう。例えば、目の前に「犬」がいるとして、その隣に見慣れない動物がいる場合、「犬」と区別するために、例えば「猫」のような言葉を必要とする。このようにして、言葉や概念はどんどん生まれていったはずだ

そして私は、言葉を”使う”際にもこのことを意識する必要があると思っている。つまり、「区別するために言葉を使っている」のだと自覚すべきということだ。そしてより重要なことは、「『何のために区別するか』をきちんと意識できているか」だと私は考えている。

例えば「マイノリティ」という言葉は、状況によっては「私には関係がない、理解できない存在」のように「区別する」ために使われるだろう。つまり、「『自分の領域から”切り離す”』ために、ある概念で括るような言葉を使う」ということだ。まさにこのような言動こそが「無関心」の正体だと私は考えている。世の中にはこのようなタイプの人間が多いようにも感じられるし、先ほどの「ポリティカル・コレクトネス」にしても、それを過剰に打ち出そうとする人に対しては同じような印象を抱いてしまう

私はなるべく、言葉をそんな風に使わないように意識しているつもりだ。「自分の領域から切り離す」ためではなく、「可視化して他の人にも見えやすくする」ために言葉を使いたいと私は思っている。こんな風にブログで文章を書き続けているのには、そんな動機も少しはあったりするというわけだ。そして、似たような感覚を持っていると思える人とじゃないとなかなか話が合わないし、網谷勇気が言うように「喋りたくない」とさえ感じてしまうのである。

なかなかこういう感覚が“通じる”人に出会うのは難しいので、網谷勇気のこの発言は、私にはとても響いた。網谷勇気ほどの強さで同じことを考えているのかについてはなんとも言えないが、少なくとも同じライン上にいるだろうなとは思えたし、そういう人にはやはり興味が持てる

このような感覚は、まさに「マイノリティ」に分類される人が斬り込んでいかなければなかなか可視化されないものであり、そういう意味でも彼には頑張って欲しいと感じさせられた。

最後に

映画全体に対する印象を一言でまとめるなら、「不協和音」という言葉がちょうどいいと思う。「なんとなく噛み合わない」みたいな感覚が、そこかしこに漂っていた気がするのだ。それは決して、網谷勇気と網谷渉の関係だけに限らない。先ほど触れた「無関心こそ罪」の話が出てくるシーンもまさに「不協和音」が鳴り響く場面だったし、そういう「なんとも言えない違和感」が散りばめられている作品だと感じた。

そしてだからこそ「リアルさ」を感じさせられたとも言えるだろう。現実というのは物語のように綺麗にはまとまらないものだし、そりゃあ違和感が漂って当然だよなと、妙に納得させられもしたのだ。ドキュメンタリーでありながらフィクションっぽい映像であり、しかし作中に漂う「不協和音」が、やはりドキュメンタリーであることを思い起こさせてくれるような、そんなとても「変な」映画だった。

正直、さほど期待せずに観たのだが、思っていた以上に興味深い作品であり、観て良かったと思う。

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