【あらすじ】映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観てくれ!現代の人間関係の教科書的作品を考察(出演:細田佳央太、駒井蓮、新谷ゆづみ)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:細田佳央太, 出演:駒井蓮, 出演:新谷ゆづみ, 出演:真魚, 出演:細川岳, 出演:上大迫祐希, 出演:若杉凩, Writer:金子鈴幸, Writer:金子由里奈, 監督:金子由里奈, プロデュース:髭野純
いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

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この記事で伝えたいこと

「相手を辛い気持ちにさせたくないからぬいぐるみに話す」という設定がとにかく絶妙

犀川後藤

私自身はぬいぐるみに話しかけたりしませんが、感覚的には凄く理解できると感じました

この記事の3つの要点

  • 「マイノリティ」という言葉が使われる時のその「狭さ」に、私は違和感を覚えてしまうことが多い
  • イベントサークルにも所属している登場人物が持ち込む「マジョリティ視点」こそが、この作品を成立させている
  • 私が普段から強く意識している問題意識を含め、設定や導入からは想像できない展開に至る物語に驚かされた
犀川後藤

「『優しさ』って何だっけ?」とも考えさせられる、他者との関係性を繊細に深掘りする見事な作品

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』はあまりに衝撃的だった。大げさではなく、現代を生きるあらゆる人に観てほしい教科書的作品

メチャクチャ素晴らしい映画でした。ただ、友人からタイトルを聞くまで存在すら知らない作品だったし、そのままだったらまず観ることはなかっただろうと思います。また、普段から幅広く色んな映画に興味を示すようにしているつもりですが、それでも、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観ようとは思わなかったかもしれません。なので教えてくれた友人に感謝しているし、こういう出会いがあるからこそ、「自分の興味関心だけで何かを選ぶのは良くない」と改めて実感させられた気もします。

犀川後藤

まあその友人も、私に話をしてくれた時点ではまだ観てなかったんだけど

いか

でも面白いことに、お互いに「これは観るべき映画だね」って感覚が共通したんだよね

ただ、冒頭からしばらくの間は正直、「一体ここから、どう物語が展開していくんだ?」みたいに感じていました。そのような状態が、体感では1時間ぐらい続いたように思います。「ぬいぐるみに話しかける」ことが活動内容の大学サークルを舞台にした物語であり、最初は「ちょっと変わった青春モノなのか?」ぐらいの印象でした。ただ中盤から後半に掛けて物語が大きく動き、「なるほど、そういう話なのか!」という展開になっていくのです。さらにその過程で、私の頭の中に普段からある問題意識に焦点が当てられることもあって、その刺さり具合はえげつないほどでした。

とにかく、映画全体が描こうとしている「何か」にとても共感できてしまったのです。普段あまりこんな風には思わないのですが、「この映画の監督や脚本家とメチャクチャ喋りたい」という感じになりました。

犀川後藤

あくまで予想だけど、こういう作品を作る人とは、永遠に喋っていられそうな気がする

いか

日常生活の中で話しても通じないことの方が多い話題だったりするから、余計にね

映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の内容紹介

七森剛志は京都の大学に入学した。彼は「男らしい振る舞い」みたいなものにどうしても違和感を覚えてしまうことが多く、そのせいで高校時代にも「不器用な瞬間」を経験している。自分自身の存在やアイデンティティがあやふやで、彼自身モヤモヤすることが多いのだが、かといって、自身のスタンスが「間違っている」と思っているわけでもない。

そんな七森は、学科の懇親会でとある女性と意気投合した。麦戸と名乗ったその女性とは、空気感が似ている感じがする。「男らしさ」みたいなことを感じずに一緒にいられる心地良さがあり、すぐに仲良くなった。

2人は、学内に貼られたサークル募集のポスターを見ながら、「ぬいぐるみサークル(ぬいサー)」に目を留める。ぬいぐるみと喋るサークルらしいが、良く分からない。とりあえず見学に行くと、まさにそのままのサークルだった。部室には大量のぬいぐるみがあり、部員たちはそれぞれぬいぐるみに何か話しかけている。部室にいる時は、基本的にヘッドホンをするのがルール。他の部員がぬいぐるみに何を話しているのかを聞かないようにするためだ。

2人はぬいサーに入ることに決めた。そして、同じタイミングで入った白城ゆいも含め、ぬいサーのメンバーと仲良くなっていく。

ぬいサーの部員たちがそれぞれに秘めている秘密や葛藤、ぬいサーに所属しながらぬいぐるみには話しかけない白城、唐突に提示される「不在」、そして七森が抱えているどうにもしようがない「息苦しさ」。様々な要素を取り込みつつ、世間の「それって当たり前だよね」からするりと抜け落ちてしまう者たちが、「他者といかに関わるか」に悩む様が描き出されていく。

「人と話すのが難しいからぬいぐるみに話す」という設定の絶妙さ

さて、いきなり本作とは関係のない話から始めましょう。

本作を観るちょうど前の日の夜、寝ようかなと思っていた直前に女友達からLINEが来ました。ざっくり要約すれば、「生きづらくてしんどい」という内容です。さらにそのLINEには、「こんなマイナスな話は人を不愉快にするだけですよねすいません」「休みの前の日なのにこんな話してごめんなさい」みたいなことも書かれていました。その子は時々メンタルが落ちたような状態になるので、「しんどい感情は、出せる時に出せるだけ出しておいた方がいいよ」みたいに言うようにしています。

犀川後藤

私は、割とこういう「辛いんです」「話を聞いて下さい」みたいな相談を聞く機会が結構ある

いか

昔からそういうタイプだよね

さて、彼女は本心から「こんな話してすいません」みたいに思っているわけですが、同時に、「誰かに話を聞いてもらわずにはいられない」という状態にもあるわけです。そしてそういう時、自分で言うのも何ですが、私は結構「喋りやすい相手」なのだと思います。というか昔から、「こいつには何でも話せる」みたいな雰囲気を醸し出せるように頑張ってきたつもりなので、そういう意識的な振る舞いがきっと上手くいっているのでしょう。

そして、これも「自分で言うのも何ですが」という話なのですが、私のように「何を話しても大丈夫」みたいな雰囲気の人は、なかなかいないと思います(本当に、こんなこと自分では言いたくないのですが)。私は色んな人から、「他人に相談して失敗した話」を聞く機会もあるのですが、やはり「誰かの相談事を、その人が望むようなスタンスで聞く」というのは、かなり難しいことみたいです。特に「マイノリティ的マインドを持つ人」の場合、マジョリティ側の人に話が通じないのは当然として、マイノリティ同士でも、問題や葛藤が重ならないと上手く話が通じなかったりもするでしょう。そんなわけで、「自分の話を良い感じに聞いてくれる人」を見つけるのはかなり難しいのだと思います。

犀川後藤

私も、「この人になら話してもいいな」みたいに感じる人って、相当限られるからなぁ

いか

大体の場合、「話してはみたものの、この人には何も伝わってないな」って感じちゃうよね

だからこそ、「ぬいぐるみに話す」という設定は非常に絶妙だと感じました。もちろん、「人と話すのが難しいからぬいぐるみに話す」というのは決してベストな方法ではないでしょうが、かなりベターなやり方だとは思います。

さらに、「ぬいぐるみに話すこと」の良さとしては「話す側の負担が減る」という点も挙げられるでしょう。というのも、私にLINEをくれた子のように、「こんな話をして申し訳ない」みたいに感じてしまう人は結構いるからです。あるいは、作中でぬいサーのメンバーが口にした、「誰かに辛い話を聞いてもらうと、その相手のことを辛い気持ちにさせてしまう。だからぬいぐるみに聞いてもらうんだ」というセリフも印象的でした。「『上手く話を聞いてくれる人』を探すのは難しいから、『誰にも負担をかけずに済む方法』を選択する」というのは、理にかなっていると言えるでしょう。

そんなわけで、「ぬいぐるみに話す」というこの設定はとても絶妙だと思うし、さらに私は本作の随所でそのような「絶妙さ」を感じました。設定も登場人物のキャラクターも物語の展開もすべて良いのですが、中でもやはり「会話」が素晴らしかったなと思います。「沈黙」や「間」も含めた彼らの会話がもう「絶妙」としか言えないもので、会話を聞いているだけでも心地よさを感じるような作品でした。是非観てほしいなと思います。

犀川後藤

まあ、若いかどうかよりも、「マイノリティ的なマインド」を持っているかどうかで親和性が決まる感じもするけど

いか

今の若い世代って、「誰もが何らかのマイノリティ」みたいな感じがするから、そういう意味でも合いそうだよね

「マイノリティ」という言葉の「狭さ」

本作を観ながら、普段から問題意識を抱いている様々な事柄について改めて考えさせられました。その1つが「『マイノリティ』という言葉の『狭さ』」です。私は「『マイノリティ』という言葉が使われる状況で、『なんか違うんだよなぁ』という違和感を抱いてしまう」ことが多く、その点についての思考が刺激されました。

「マイノリティ」という言葉は一般的に、「『分かりやすい何か』を持っている人」という意味で使われることが多いと思います。「分かりやすい何か」というのはつまり、「障害者」「LGBTQ」などのことです。大雑把に、「『名称が与えられている概念』のことを『分かりやすい何か』と呼んでいる」と考えてもらえばいいでしょう。

誤解されたくないのであらかじめ書いておきますが、私は決して、「障害者やLGBTQは『分かりやすいマイノリティ』である」などと言っているのではありません。そうではなく、「いわゆる『マジョリティ』の人たちが『マイノリティ』という言葉を使う時には、『障害者』や『LGBTQ』のような『名称が与えられている概念』しか想定してないんじゃないだろうか」と疑問を呈したいのです。そしてそういう状況に出くわす度に、「それは何か違うんじゃないか」と感じてしまいます。

犀川後藤

もっと酷い言い方をするなら、「自分には理解できないもの」って意味で「マイノリティ」って言葉を使ってる人もいるんじゃないかと思ってる

いか

まあ、そういう人はちょっと論外だけどね

そういう「『分かりやすい何か』を持っている人」はもちろん「マイノリティ」に含めていいでしょう。「含めていいでしょう」と書いたのは、「『分かりやすい何か』を持っている人」の中にも「『マイノリティ』に分類されたくないと思っている人」が一定数いると考えているからです。私は基本的に、「マイノリティか否か」を決めるのは「その人の気分」だと思っているので、「分かりやすい何か」を持っていたとしても、マインドが「マイノリティ」でなければ、私の中でその人は「マイノリティ」ではありません。

さて一方で、「マイノリティだなぁ」と感じる人の中には、「分かりやすい何か」を持っていない人もいます。私の判断はやはり「気分(マインド)」基準なので、たとえ「容姿に恵まれ、大金持ちで、友人も多く、何不自由なく暮らしている人」であっても、その人のマインドが「マイノリティ」なら、私の中では「マイノリティ」です。実際私の友人にも、「どう考えても見た目や行動が『リア充』なのに、マインドは明らかに『マイノリティ』」という人がいて、私は彼女を「マイノリティ」に分類しています。

犀川後藤

一応書いておくけど、今私が言っている「マイノリティか否か」って話は、法律が絡むような厳密な場面に当てはまることじゃない

いか

そうじゃなくて、「どういう人のことを『マイノリティ』だと感じるか」っていう、個人の感覚の話だよね

そしてぬいサーの面々はまさに、そのような「分かりやすい何か」を持たない「マイノリティ」なのです。部員の中に1人だけ「分かりやすい何か」を持っていると言える人がいますが、他のメンバーは「名称が与えられている概念」とは接していないと言っていいでしょう。しかし間違いなくマインドは「マイノリティ」であり、だからこそ私の中では、彼らは皆「マイノリティ」なのです。

そして、いわゆる「マジョリティ」の人たちが「マイノリティ」という言葉を使う場合、ぬいサーの部員のような人たちのことはきっと頭に浮かんでいない気がします。特に、「マイノリティ」という言葉を「自分たちとは違う」という含みを持たせて使っているとしたら、違いが分かりやすい「名称が与えられている概念」しか捉えられないのも当然でしょう。ただ個人的には、「マイノリティ」という言葉のこの「狭さ」こそが色んな息苦しさや無理解を生み出す要因なのではないかと考えているし、本作を観て改めてそのように感じさせられました。

いか

もちろん、「マジョリティ」側としてずっと生きてきたとしたら、同じ状況にいただろうけどね

犀川後藤

「マイノリティが抱える問題」って結局、「マジョリティがどう振る舞うか」によってしか変わらない部分も結構あるから、難しいだろうけど、この「狭さ」が解消されてほしいなとは思う

「マジョリティ視点」こそが、この映画を成立させているポイントである

さて、本作『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』において実に興味深かった点は、作品の中にきちんと「マジョリティ視点」が含まれていたことです。ぬいサーという「マイノリティのための場所」と言ってもいい空間を舞台にしながら、そこに無理なく「マジョリティ視点」を入れ込む作りはとても見事だったなと思います。そして、その「マジョリティ視点」のキーパーソンこそが、ぬいサーのメンバーである白城ゆいであり、私には、「本作は白城ゆいの存在によって成立していると言っても過言ではない」と感じられました。

白城はぬいサーだけではなく、イベントサークルにも所属しています。そのイベントサークルについてはあまり詳しくは描かれませんが、彼女は「セクハラまがいのことも多い」と口にしていました。「『リア充の大学生』をステレオタイプ的にイメージする際、頭に思い浮かぶような人がたくさんいる集団」みたいに理解しておけばたぶん大きくは外れないでしょう。

犀川後藤

私が苦手なタイプだな

いか

まあ、大体のマイノリティが、そういうタイプを苦手だって思うだろうね

白城は本作全体において「客観視」的な立ち位置を取ることが多いため、彼女自身はそこまで深くは描かれません。なので、七森や麦戸と比べるとどんな人物なのか分かりにくいのですが、確実に言えることは、「超マイノリティ側の『ぬいサー』にも、超マジョリティ側の『イベントサークル』にもそれなりに馴染める人物」だということです。作中においては、「両者の視点を持ち得る唯一のキャラクター」だと言えるでしょう。

そして、そして白城の感覚や価値観を通じて、本作には「マジョリティ視点」が入り込むのです。「マイノリティ視点」だけではどうしてもバランスが悪くなるでしょうが、そこに白城の「マジョリティ視点」が組み込まれることで、ぬいサーの面々が抱える葛藤の輪郭が分かりやすくなり、全体として伝わりやすさが増していると感じました。

いか

七森も麦戸もとてもいいけど、やっぱりキャラクターとしては、白城が一番良かったよね

犀川後藤

私自身が割と、白城のような「バランサー」タイプだってことも、彼女のことが気になったポイントだと思うけど

さて本作には、彼女が七森に「どうしてセクハラまがいのイベントサークルなんかに所属しているのか?」と聞かれる場面があります。そして彼女はその問いに、「世の中は安心できる場所の方が少ないんだから、ぬいサーみたいな環境だけにいたら、生き抜けないほど弱くなってしまう」みたいに返していたのです。

その上で私は、「『こんな風に認識せざるを得ない』という事実こそが、世の中のあらゆる場面における『問題』の根本にあるんじゃないか」と考えています。「安心できる場所の方が少ない」と感じるのは、「そのまま社会を渡り歩くのはしんどいぐらい自分もマイノリティ側の人間だ」と認識しているからでしょう。そしてそれ故に、「『マジョリティの世界に潜り込める自分』を保っておかなければならない」と考えているわけです。こんな思考に囚われてしまう人は結構いるんじゃないかと思っています。

犀川後藤

結局大体の問題って、「マジョリティ」とか「強い側」に「どう取り入るのか」みたいな話に集約されちゃうからなぁ

いか

マイノリティは、「マイノリティである」が故に、どうしたって「マジョリティの社会」で生きていくしかないんだよね

そして結局、マジョリティの世界との関わりはどうしたって避けがたいわけで、その接点で様々な摩擦が生まれてしまうというわけです。

「マジョリティ」が無意識に作り出している「制約」

本作に、その「摩擦」がとても印象的に描かれているシーンがありました。ぬいサーのメンバーで唯一「分かりやすい何か」を持つ人が、その「何か」をさらっと告白した場面で、こんな風に語っていたのです。

その場の言葉遣いが制約されたような感じがあった。「私は尊重してますよ」みたいな空気を出すの。なんか「自分自身」として見られていないような感じだった。

具体性を排して説明しているので上手くイメージ出来ないかもしれませんが、私はとても共感させられました。

犀川後藤

ホントにこういう感覚、私も日常的に抱くことがあるからなぁ

いか

相手は良かれと思ってそういう振る舞いをしているわけだから、余計に厄介だよね

つまり、こういうことです。その人物はある状況で「言葉遣いが制約されたような感じ」になったわけですが、それは「名称が与えられた概念」としてしか見てもらえなくなったからだと思います。その人物の名前を仮に「山田田中」とすると、その人物は「山田田中」という個人ではなく、「『名称が与えられた概念』の人」でしかなくなってしまったというわけです。そして、「マジョリティがイメージするその『名称が与えられた概念』の範囲内の会話しか許容されなくない雰囲気になってしまった」ということなのでしょう(分かりにくいですよね。すいません)。

私もこのような感覚を抱くことが結構あります。私は別に「分かりやすい何か」を持っている人間ではないのですが、会話の中で、相手の反応から「こういうことは言わない方がいいんだろうな」という雰囲気を感じることがあるのです。私はそれでも敢えて話し続けたりしますが、「言葉遣いが制約された」と感じて言いたいことが言えなくなる人もいるだろうと思います。

いか

こういう状況は辛いよねぇ

犀川後藤

気を遣っているつもりなんだろうけど、「真逆の結果になってるよ」っていつも思っちゃう

さて、「LGBTQ」が分かりやすいと思いますが、世の中的に今、「LGBTQの人に言ってはいけないこと、やってはいけないこと」がかなり“マニュアル化”されつつある気がしないでしょうか。「こういう状況ではこうしましょう」みたいな対応が整備されつつあるように思います。良い風潮だとは感じますが、とはいえ人それぞれ受け取り方は様々です。一律化された「配慮」に違和感を覚える人がいてもおかしくありません。

また、LGBTQとは違いますが、「テレビの世界では女芸人の“ブサイクいじり”が許容されなくなり、“笑い”に出来なくなっている」みたいな話を聞いたことがあります。関係性や状況次第では、「ブサイク」という言葉を使っても問題ないはずです。しかし、世の中の「マニュアル化」の流れの方が強いせいで「ブサイク」という表現が一律で制約されているような気がするし、そんな状況にはどうしても違和感を覚えてしまいます。

もちろん、昔ほどではないとはいえテレビはまだまだ影響力のあるメディアなので、「テレビの世界で当然のように”ブサイクいじり”をすると、観ている人に悪影響を与えかねない」という理屈は理解できるし、間違っているとも思いません。ただ、そういう「外部への影響力」など微塵も関係ない状況でも、同じような「マニュアル化」が進んでいるような気がしているのです。私には「言葉狩り」にしか感じられないのですが、マジョリティはそのような振る舞いを「配慮」と表現して推し進めている感じがします。しかし結局それは、「目の前の個人」を見ているのではなく、「『名称が与えられた概念』の人」という捉え方をしているだけのことです。そしてそのようなスタンスは、むしろ「配慮」から遠ざかっているように思えてしまいます。

いか

ちょっと前に観た映画『炎上する君』でも、似たような場面が描かれてたよね

犀川後藤

居酒屋で、「私女子校だったから、レズとかには全然理解あるよ」とか言ってた登場人物がいたなぁ

あるいは別の人物が、マジョリティに対するまたちょっと違う種類の違和感を次のような言葉で表現していたのも印象的でした。

ヤなこと言うヤツは、もっとヤなヤツであってくれ。

これも、具体的な状況を排してセリフだけを抜き出しているので上手く伝わらないとは思うのですが、私にはとても共感できました。このセリフは「良い人っぽいのに配慮に欠けたことを言ってくる」ということであり、要するに「マジョリティであれば誰でも、『無理解』や『配慮の無さ』を有している」みたいに理解すればいいでしょう。「マジョリティの一部」に問題があるのではなく、「無理解」や「配慮の無さ」は「マジョリティ」全体に薄く広く蔓延っているというわけです。この状況を何とかしようとしたら、「ミルクティーからミルクだけを取り除く」ような難しさがあるのだろうし、これも「マジョリティ」が生んでいる「制約」という感じがしました。

私の中にもある「ズルさ」が引きずり出される

前半から中盤に掛けてはこのように、「マイノリティを描くことによって、マジョリティへの違和感を浮き彫りにする」みたいな受け取り方をしていたのですが、後半に進むにつれて、また少し違った部分に焦点が当たるようになります。これもまた、私が普段から意識している問題の1つです。しかもそれは私自身の「ズルさ」とも関係しているため、「積極的には直視したくない」と感じるものでもありました。

犀川後藤

ちょっとこの展開には驚いたなぁ

いか

映画の冒頭からは想像できないような物語の展開だよね

ここでも具体的な状況の説明は省きますが、そのことが描かれるシーンでは次のようなセリフが出てきます。

でも結局のところ、傷つきたくて傷ついてるだけなんじゃないかって思うんだ。傷ついている自分は、加害者じゃないって思い込みたいだけなんじゃないかって。

このセリフは、なるべく見ないようにしている自身の「ズルさ」をズバッと指摘するものだったので、ちょっとドキッとさせられました。私は前々からこの「ズルさ」に気づいてはいたのでそこまでのダメージではなかったのですが、今まで気づかなかった人からすれば、「痛いところを突かれた」みたいな感覚になるんじゃないかと思います。

そして、さらに具体性を排して書きますが、このセリフの後に続く「私は◯◯だから……」という認識は、私が昔から対人関係において最も気をつけていたことであり、そんな話が展開されることにも驚かされました。この話は正直、自分の周りの同性に話してもまず話自体が通じません(もちろん、異性には通じます)。なので、そんな話が物語後半の核として描かれる展開にかなりビックリさせられたのでした。

犀川後藤

「◯◯であること」自体が持つ加害性みたいなものに自覚的でない人ってメチャクチャ多いからなぁ

いか

若い世代は大分変わってる感じするけど、同年代とかは「なにそれ?」って言って話を終わらせそうな感じだよね

私が「◯◯であること」はもはやどうやっても避けられないことであり、この状況に対処するとしたら、先述の「ミルクティーからミルクだけを取り除く」以上の難しさがあるかもしれません。ただそもそも、「ここに問題が内在している」という事実に気づかない人が多すぎるので、それ故に「無理解」や「配慮の無さ」が生まれていることもまた確かでしょう。私は普段から、そのようなある種の「加害性」を自覚しつつ生きているつもりですが、同時に、私が「◯◯であること」はほぼ変えようがないので、「他者からの見られ方」において難しさを感じることも結構あります。

また、これも具体的な状況説明なしでは理解しにくいでしょうが、

みんな笑いながらそういう話をするんだよ。真剣に話せない空気があるっていうか。

というセリフもとても印象的でした。本作を観る直前に、友人から似たような状況について話を聞いていたこともあり、余計刺さったのかもしれません。これは広く捉えるなら、「被害者を『被害者』と認識せずに済むための雰囲気作り」みたいな話であり、「ジャニー喜多川の性加害問題」を例に挙げるまでもなく、このような状況は社会のあちこちに蔓延っているでしょう。私はそのような雰囲気作りに加担しないように意識しているつもりですが、だからと言って、既に存在している雰囲気を無くすような行動が出来ているかと言えば、もちろんそんなことはありません。

犀川後藤

昨日もテレビのニュースで、セクハラ的な行為を指摘されている人が「冗談のつもりだった」みたいに言ってる映像を見たなぁ

いか

そういうのを見る度に、「お前の『つもり』なんかクソどうでもいいんだよ」って感じちゃうよね

私は「◯◯であること」から逃れられはしないので、「気をつけていないと『加害側』になってしまうかもしれない」という自覚を常に持つようにしています。そして、私のように考える人が社会に増えることで、みんなが生きやすい世の中になるはずだと信じたいところです。

「優しさ」とは一体何を指すのか?

多くの人にとって、ぬいサーの面々は恐らく「とても奇妙な人たち」に見えるだろうと思います。あるいは、「ぬいぐるみに話すなんて気持ち悪い」みたいに受け取る人もいるかもしれません。しかし私は、特に「優しさ」に関していえば、ぬいサーのメンバーの方が世の中の大多数の人よりも「真っ当」だと思っています。

作中では、色んな人が様々な場面で「優しさ」について言及していました。それらをここで取り上げたりはしませんが、私なりの捉え方を1つ書くと、「『私には優しくしなくていい』と相手に感じてもらえるように振る舞うこと」が「優しさ」だったりします。そしてそのようなスタンスは、広く括れば、ぬいサーの部員たちのものと同じだと言えるかもしれません。

いか

「分かりやすく優しい振る舞いをされる」のとかって、かなり嫌いだもんね

犀川後藤

「相手の優しさに気づいてしまう」ってのが、思いの外しんどく感じられるんだよなぁ

さて、「どうしたら相手が『私には優しくしなくていい』と感じてくれるのか」は、その時々でまったく違うでしょう。つまり、「どんな状況なのかによって『優しい振る舞い』は異なる」というわけです。しかし私には、多くの人が「優しい振る舞い」を固定的に捉えているように感じられます。要するに「こういう時にはこうすればいい」みたいな発想であり、その上で、「そんな風に振る舞っていれば優しい」みたいに考えているように思えてしまうのです。

確かに、そういう生き方はシンプルで分かりやすいでしょう。「誕生日にプレゼントをくれたから優しい」とか、「ダイエットを頑張ったのに褒めてくれなかったから優しくない」みたいに、相手の行動だけから「優しさ」を判定出来るようになるからです。しかし私は、そんな想像力の欠如した捉え方が好きではありません。同じ行為が、ある人には「優しさ」として受け取られ、別の人にはそう受け取られないなんてことは当然起こり得るはずです。しかし、どうもそんな風には考えない人が多いような気がしています。

いか

ホントに、これは不思議でしょうがないよね

犀川後藤

「優しさ」が「固定的な振る舞い」でしか判断されないんだとしたら、むしろ「優しさ」を発揮したくないって感じちゃうんだよなぁ

そして、そういう世の中に生きざるを得ないと分かっているからこそ、ぬいサーの面々はぬいぐるみに話しかけるのです。それは、「優しさ」を大いに履き違えた世界における「真っ当な振る舞い」だと私には思えるのですが、皆さんはどう感じるでしょうか?

出演:細田佳央太, 出演:駒井蓮, 出演:新谷ゆづみ, 出演:真魚, 出演:細川岳, 出演:上大迫祐希, 出演:若杉凩, Writer:金子鈴幸, Writer:金子由里奈, 監督:金子由里奈, プロデュース:髭野純

最後に

あまりにも映画の中身について具体的に触れていないので、最後に少しだけ書いておきたいと思います。

まずとても印象的だったのが、「違和感を覚えるぐらい、物語がかなりスキップされていく」という構成です。観ている最中に、「あれ? ちょっと寝ちゃったんだっけ?」と感じたほど、「説明がなされないまま状況が唐突に変わっている」みたいになることが、特に前半は多かった気がします。もちろん、その欠落部分は後半できちんと説明されるわけですが、そういう「違和感」さえも、映画全体の雰囲気に合っていると感じさせるような物語でした。

いか

麦戸に関する描写には、特にそんな風に感じたよね

犀川後藤

「あれ? 麦戸ちゃん???」みたいな感じになるよなぁ

あとは何にせよ、「双子みたい」と評される七森と麦戸の関係性がとにかく素敵だったなと思います。現時点において私が考える、異性と関わる際の理想的な関係性だと言っていいでしょう。さらに言えば、「こういう関係性が『なんかちょっと変なもの』みたいに受け取られないような世の中であってほしい」とも感じました。

そんなわけで、とにかくメチャクチャ素晴らしい映画です。是非観てみて下さい。

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