【権力】コンクラーベをリアルに描く映画『教皇選挙』は、ミステリ的にも秀逸で面白い超社会派物語(監督:エドワード・ベルガー、主演:レイフ・ファインズ)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:エドワード・ベルガー, Writer:ピーター・ストローハン, 出演:レイフ・ファインズ, 出演:スタンリー・トゥッチ, 出演:ジョン・リスゴー, 出演:イザベラ・ロッセリーニ

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 枢機卿を辞めようかとも考えている首席枢機卿ローレンスがコンクラーベを取り仕切り、さらに自身も被選挙人になるという設定が興味深い
  • 「権力争い」が描かれているのだが、宗教がベースにあるが故に「権力にギラギラした者ばかりじゃない」という状況が必然的に生まれている点も面白い
  • 「信仰・教会とはどうあるべきか」という深遠な問いにも踏み込んでいて、深く考えさせられる

荘厳なビジュアルや印象的な音楽も含め、あらゆる要素をひっくるめて凄く良かったなと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『教皇選挙』は、コンクラーベという馴染みのない異世界を描く、ミステリとしても社会派としてもメチャクチャ面白い作品である

凄まじく面白い映画だった。これはホントによく出来てるなぁ。

さて、まず私が書いておきたいのは、「劇場が満員で驚いた」ということだ。私が本作『教皇選挙』を観たのはTOHOシネマズシャンテで、劇場はかなり広い。そしてなんと、私が観た上映回は満員だったのだ。チケット売り場に「満員です」と貼り出されていたので間違いない。私はまず、そのことに驚かされてしまったのだ。

私の中で、本作を観る優先順位は決して高くなかったのだが、公開直後から凄まじく高い評判が目に付くようになり、それで自分の中の優先順位を上げることにした。そんなわけで、公開から数日経って観に行ったのだが、そしたら満員だったというわけだ。まだ公開して数日のタイミングである。にも拘らず、こんな広い劇場を満員にするだけの口コミが飛び交っているのか、と思うと驚きだった

何せ本作のテーマは「コンクラーベ」、つまり「教皇を選ぶ選挙」である。本作の公開は3月だったが、その後4月にフランシスコ教皇が亡くなったことが発表され、2013年以来のコンクラーベが開かれることが決まったそれを伝えるニュース番組の中で、実に絶妙なタイミングで公開された本作『教皇選挙』が紹介されたこともあり、さらにそこからブーストが掛かっているのかもしれないが、私が観たのはそれよりも前である。

そもそもカトリックの信者は割合で言えば日本にはそう多くないだろうし、だから「コンクラーベ」に関心を持っている人も多くはないはずだ。そんな「一般の日本人にはどうでもいいこと」がテーマになっている作品を観ようと、これだけ多くの人が詰めかけているのだから、私にはちょっと異様な光景に見えた。監督や役者が有名ならともかく(私は詳しくないので判断できないが)、この内容でこの集客力はちょっと異常だなと思う。

ただ、観終えて「カトリックに興味がない人間をも惹き付ける要素が散りばめられている」という上手さは印象的だった。「舞台装置の荘厳さ」みたいなものはちゃんと保ったまま、ストーリーを徹底的に「観る側」に寄せている感じがあり、だから子どもはともかくとして、「誰が観ても面白いと思える作品」に仕上がっているなと思う。その辺りの作り方はとても上手いなと感じた。

というわけで、本作はある程度物語の説明をしておかないと内容の紹介が不可能なので、まずはその辺りから始めたいと思う。

映画『教皇選挙』の内容紹介

ある夜のこと、心臓発作によりローマ教皇が逝去された。教皇は体調の悪化をごく一部の人間にしか伝えていなかったため、多くの人が「突然の死」として受け止め、それは、首席枢機卿のローレンスも同様である。彼はある場面で「教皇は長寿だと思っていた」と発言していた。誰にとっても寝耳に水だったのだ。

教皇が亡くなったため、次の教皇を選ぶ「コンクラーベ」の準備が必要になった。それを仕切るのが、首席枢機卿のローレンスである。3週間後の開催に向けて、急ピッチで準備が始まった。ちなみに、教皇選挙における被選挙人は世界中にいる枢機卿であり、ローレンスは運営側でありながら同時に被選挙人でもあるという複雑な立場にいる。

そしてようやく初日を迎えた。コンクラーベでは、世界中の枢機卿がバチカンのシスティーナ礼拝堂に集められ、そこで外界との連絡を一切絶たれた状態で隔離される。そしてその状態が、教皇が選出されるまで続くというわけだ。しかし初日の朝、隔離が行われる前に、ローレンスは「ウォズニアック枢機卿が話したいと言っている」と報告を受ける。ローレンスは「隔離が始まったら会えなくなる」と言っており、何らかの理由でウォズニアック枢機卿が「被選挙人」ではないことが示唆されていた(「酒浸り」という話が出たのでそのせいかもしれない)。ローレンスは一度は彼との面会を断ったのだが、やはり気になって隔離が始まる前に話を聞いてみることにしたのである。

すると彼は、亡くなる直前の故教皇によってトランブレが枢機卿を辞任させられていたと言うのだ。もしもその話が本当であれば、トランブレは被選挙人として相応しくないことになる。しかし隔離の時間は迫っているし、そんな短い時間で真偽の判断を下すのも難しい。ローレンスは一旦この件を保留にせざるを得なかった

さらにトラブルは続く名簿に名前が載っていない枢機卿が現れたというのだ。決して名簿の不備などではない。その枢機卿は、存在を知られていなかったのである。どうやら去年、故教皇が秘密裏に任命したのだという。それが、メキシコ出身で、今はアフガニスタンのカブールで奉仕しているベニテスである。正式な委任状を持っていたこともあり、ローレンスは皆に、「新たな枢機卿であり、教皇選挙にも参加する」と紹介した。このようなドタバタを乗り越え、どうにか準備を整える

こうして隔離が始まるとローレンスは、運営者としての動きとは別に、仲間内での「どうやってベリーニに票を集めるか」という作戦会議にも顔を出す。今回、有力候補としてテデスコの名前が挙がっているのだが、ローレンスらは彼が教皇になることだけはどうしても避けたいと考えているのだ。

テデスコは常々、「ローマあっての伝統」「過去40年間、イタリア出身の教皇が出ていない」と主張しており、教会が60年来進めてきた「相対主義」を真っ向から批判する人物である。「相対主義」については作中で詳しく触れられなかったが、恐らく「カトリック以外の宗教も許容しましょう」みたいな意味だと思う。そしてテデスコはそんな「相対主義」を否定し、「カトリックこそ絶対」という価値観を推し進めようとしているというわけだ。

テデスコは故教皇のことも生前から平然と批判しており、そういう様々な要因を踏まえ、「テデスコは教皇として不適格」だとローレンスらは判断している。そこで彼らは、「テデスコを阻止する」という目的で、本人は「教皇の椅子を望んでいない」と言っている仲間のベリーニに票を集めようと考えているのだ。

こうして、最初の投票が始まった。ルールはシンプルだ100名を超える枢機卿が一同に介し、「教皇に相応しいと思う者の名前」を紙に書いて壺に入れる。そして、投票総数の2/3以上を獲得する候補者が出れば教皇選出出なければ時間を空けて同じ投票を何度も繰り返すのだ。最初の投票では決まらず、そんな中で最も票を集めたのはナイジェリア教区に務めるアデイエミだった。もしも彼が選出されれば、アフリカ系初の教皇となる。

さらに何度目かの投票の最中、建物全体が揺れるアクシデントが起こった。コンクラーベ中は中の情報を外に出さないだけではなく、外の情報も中には入れないことになっているため、枢機卿たちに事情は説明されなかったのだが、コンクラーベを取り仕切るローレンスには報告が入る。なんと、近くにあるバルベリーニ広場で爆破事件が起こったというのだ。世情がどんどんと不安定になっている中でのコンクラーベなのである。

さて、投票の度にローレンスにもいくつか票が入った。しかし彼自身は、「自分は教皇の器ではない」と考えている。それどころか、コンクラーベを無事に終えたら枢機卿を辞任するつもりでいるのだ。コンクラーベの最中、そんなやり取りをベニテスとしていた。ベニテスは、それまで存在さえ知られていなかったからだろう、誰とも利害関係がなく、選挙でもノーマーク。だからローレンスは”本音”で話してもいいと思えたのだろう。彼はベニテスに「信仰に困難を感じている」と吐露していた。別に「神に対して疑念を抱いている」という話ではない。「教会に対しての疑念をどうしても拭えずにいる」というのだ。故教皇が長生きしていれば、ローレンスは恐らくコンクラーベを取り仕切るなんて大役を果たさずに枢機卿を辞めていたのだろう。これもまた数奇な運命である。

その後もローレンスは、投票の合間合間に様々な報告を受けた。それらは、有力候補であるアデイエミやトランブレ、あるいは突然現れたベニテスに関するものであり、そしてそれらの真偽が選挙の情勢を大きく左右するようなものでもある。ローレンスは、コンクラーベを取り仕切る中立な立場として、あるいは、ベリーニを当選させたい勢力として、さらに、もう教会と関わりたくないという想いを抱える者として複雑な気持ちでそれらの事態に対処していく

そんな混迷を極めるコンクラーベでは、一体誰が教皇に選出されるのだろうか?

本質は「権力争い」なのだが、「権力争いっぽくない要素」が散りばめられているために受け入れやすい

本作の提示の仕方としてまずとても上手いなと感じたのが、「カトリック云々ではなく、『権力を欲する者たちによる争い』というシンプルな物語に仕上げたこと」である。物語全体が「カトリック」や「宗教」の話に寄りすぎていると、どうしても「カトリック教徒」以外の関心を集めにくくなるだろうが、本作『教皇選挙』は「あくまでも舞台がカトリックなだけ」であり、その本質は「権力争い」なのだ。宗教の知識がゼロでいいということではないが、宗教に対する知識・関心を大して持っていなくても(私もそうである)面白く観られる作品に仕上がっているという点が、まずよく出来ているなと感じた。

そして、その中にエッセンスとして「宗教的な要素」が組み込まれるという構成によって、「単なる『権力争い』ではない」という見え方にもなるわけで、その点も凄く良かったなと思う。

一般的に「権力争い」と聞くと、「金・地位・名誉を欲するギラギラした者ばかりが出てくる」というイメージになると思うが、本作の場合はそこに「私は神に仕える者である」という認識が加わることで、見え方が少し変わってくることになる。普通なら「権力争い」には「ギラギラした者」しか関われないわけだが、本作では「無欲な者が否応なしに『権力争い』に巻き込まれる」という状況が自然と設定されているというわけだ。

これによって物語は一層複雑になっていくただの「権力争い」なら、策略を駆使してどうにか状況を変えられるかもしれない。しかしコンクラーベにおいては、「『神に仕える者』としての正しい振る舞い」みたいな行動原理も組み込まれることになる。そういう状況を策略だけでどうにか動かしていくのはなかなか難しいだろう。こんな風に「権力争いっぽくない要素」が「権力争い」の中に自然と組み込まれていくことで、物語が非常に面白くなっているというわけだ。そういう意味で、「『権力争い』としてコンクラーベを描く」という本作の設定は、実に絶妙だったなと思う。

そして本作においてはやはり、主人公のローレンスの存在が際立って興味深いと言っていいだろう。既に触れている通り、彼は「コンクラーベの仕切り人」でありながら、同時に「教皇選挙の被選挙人」でもある。そして、この特殊な立ち位置が彼を複雑な状況に追い詰めるのだ。

この点について、具体例を排して説明してみたいと思う。例えば、被選挙人である枢機卿が何らかの「不正」を働いていたことが明らかになったとしよう。ローレンスは「神に仕える者」としての自覚を強く持つ真面目な人物なので、シンプルに「不正を働くような不適格な人物が教皇に選ばれるべきではない」と考える。しかし、だからと言ってその枢機卿をさっさと排除すればいいという話にはならない。というのも、「ローレンス自身も被選挙人だから」だ。つまり、「有力候補である枢機卿を排除すること」は、「ローレンスが票を集めること」に有利に働き得るのである。

観客はきっと、「ローレンスは教皇になりたいなんて思っていないし、だから被選挙人としての適格判断も客観的に行うだろう」という理解で本作を観るはずだが、他の枢機卿視点ではそうではないだろう。ローレンスの内心など知る由もないのだから、「ローレンスもまた、虎視眈々と教皇の椅子を狙っている」という風に見ているはずだ。そういう中で「不正があったから排除します」などと言えばどう受け取られるか。ローレンスはまず、こういうややこしさに苛まれるのである。

主人公ローレンスが直面する様々な問題とそれらに対する葛藤

さらにローレンスには別種の葛藤もあったはずだと思う。それは「自分だけで被選挙人の適格判断をしていいのだろうか?」である。

本作の物語の大半はコンクラーベが始まって以降のものであり、つまり隔離されているローレンス以外の枢機卿は基本的に、外部とのやり取りが一切出来ない。首席枢機卿であり、コンクラーベを取り仕切っているローレンスだけが唯一外部と接触出来るというわけだ。

そのため当然、何か事態が起こった際の一報はローレンスへともたらされる。普段であれば恐らく、様々な事態への対処は他の枢機卿と相談しながら決めていくはずだ。しかし、選挙に影響を与えるかもしれない情報は簡単には開示出来ない(そのため、広場での爆破事件についても他の枢機卿には伏せられたままだった)。さらに、「選挙に影響を与えるとしても報告すべき」だと判断される情報なのだとしても、100%の確証を得ない限り他の枢機卿には伝えられないのだ。

そしてコンクラーベ中にもたらされる情報のほとんどが「被選挙人に関係する真偽不明な過去についてのもの」であり、つまりローレンスは「それらの情報をたった1人で精査し、『その被選挙人が教皇として適格か否か』を判断しなければならない」という状況に置かれていたのである。これはシンプルに、荷が重すぎると言っていいだろう。

しかし決してそれだけではない。繰り返しになるが、ローレンスには「神に仕える者」としての意識が強くあり、それ故に「裁きを行うのは神であるべきだ」という感覚を持っているようにも見える。通常であればそのような態度でも問題ないのだろうが、コンクラーベ中はそうはいかないローレンス自身がある種「神」のように振る舞って裁きを与えなければならなかったわけで、そんな状況もまた、ローレンスには苦痛に感じられていたのではないかと思う。

そしてローレンスは、さらに困難な立場に置かれることになる。これは後半の展開に関わってくるので具体的には書かないが、「テデスコの選出を阻止するために苦渋の決断を迫られる」という状況に陥ってしまうのだ。外部からもたらされる様々な情報によって投票の結果は毎回大きく変動するわけだが、その結果「このままではテデスコが選ばれる」という情勢になってしまう。そしてそのせいでなんと、ローレンス自身が思いがけない状況に置かれてしまうのである。

そんなわけで、ローレンスは本当に忙しない「コンクラーベをつつがなく運営する」という責務を負いながら、「テデスコを阻止する」という仲間内の対策にも関わり、さらに「神への信仰」や「故教皇への信頼」など様々な感情を踏まえつつ自らの進退についても考えなければならないわけで、気が休まる時がないという感じなのだ。

そしてそんな紆余曲折を経て、ついに教皇が決まる。この「誰が教皇になるのか?」という展開も実に興味深かったのだが、さらにその後の展開がとにかく見事だったのだ。本作のようなある程度の着地点が見えている物語(本作の場合は「教皇の選出」)の場合、「物語として全体をどう閉じるのか?」という関心を持って作品を鑑賞することになると思うし、だからラストの展開に対するハードルもちょっと高くなるように思う。しかし本作では、「そんな展開になるのか!」という着地を見せるので、結構高くなっていたハードルをあっさり飛び越えるようなインパクトがあったなという感じだった。実に素晴らしかったなと思う。

「教会」や「信仰」に対するメッセージ性が含まれている点も興味深い

このように本作『教皇選挙』は「『権力争い』を魅力的に描いた物語」であり、エンタメとしてシンプルに面白い作品だ。そしてその上で、社会派的なメッセージが含まれている点も興味深いと思う。それは作中の様々な描写から滲み出るのだが、最も分かりやすい場面を取り上げるなら、ローレンスの演説だろう。最初の投票前にコンクラーベの開会を宣言するかのように行った演説の内容が、まさに本作全体が伝えようとしているメッセージを凝縮したものであるように感じられたのだ。

それはざっくりと次のような内容だったと思う。

教会を、一個人や一派が支配するようなことがあってはいけない。今の時代は、多様性こそが教会に力を与えるのだ。
最近私には、強く恐れるようになった罪がある。それが「確信」だ。確信は寛容にとっての大敵であり、私はそれを強く罪だと感じるようになってきた。
信仰とは生き物です。そして信仰は、疑念と共にあるべきだと思う。確信だけを抱き疑念を持たないとしたら、信仰など消えてしまうでしょう。
だから今求められているのは、疑念を抱く教皇だ。

本当はもう少し長いのだが、劇場でのメモ(私はメモを取りながら映画を観ている)が追いつかずに要点だけを捉えた引用になっている。この演説には間違いなく、「相対主義」をはっきりと否定する立場を取るテデスコを牽制する意図が含まれていると言えるだろう。演説の後でローレンスは「今の演説が波紋を呼んでいます」と報告を受けるのだが、恐らく狙い通りだったんじゃないかと思う。さらにこの「多様性」の話は、ローレンスが教会に対して疑念を抱くきっかけでもあったように思うし、それ故に彼は枢機卿を辞めてローマを離れようとしているのだと私には感じられた。

さらに、ラスト付近の話なので状況を具体的に示しはしないが、ある人物が口にする「教会とは前進するものです」という言葉もとても良かったなと思う。

教会のような歴史ある存在ならなおさらだと思うが、多くの状況で「伝統」という言葉によって現状を覆い、「変化しないこと」を正当化しようとする力が働き得る。もちろんそれが、「歌舞伎」のような芸能や「祭り」のような娯楽であれば別にいいだろう(歌舞伎や祭りが進化していない、という話ではない)。しかし「信仰」となるとやはり違ってくるんじゃないだろうか。私は宗教に親和性がないので分からないが、「信仰」というのはやはり「生活・日常」に関わってくるものであり、だからこそ「人々や時代の変化」に並走しなければならない部分も出てくるはずだ。特に、「人々が抱え得る痛み・苦労」は時代と共に大きく変わっていくのだから、その受け皿となり得る「信仰」や「教会」も変化に躊躇している場合ではないと思う。

本作でこの「教会とは前進するものです」というセリフが出てくるのは、ある衝撃的な出来事が起こってからである。そして、その出来事が起こったことによってより響きやすくなったとも言えるだろう。その出来事はとても「現代的」というか、「私たちが生きている世の中の雰囲気を反映したもの」であり、その出来事を通じて「あまりにも古臭い世界」と「現代の世相」が繋がったような感じになるのも興味深いポイントだと思う。

ただ本作では、「時代の変化」もちゃんと描かれていた。例えば、コンクラーベ自体はシスティーナ礼拝堂で行われるが、枢機卿が宿泊するのは(恐らく)システィーナ礼拝堂と直結する形で作られているホテルである。電子キーで扉が開くような現代的なホテルだ。またシスティーナ礼拝堂についても、「窓を振動させることで情報を内外に伝える」みたいな盗聴を阻止するためだろう、電波シールド云々みたいな対策についても話し合われていた。これらは、否応無しに時代の変化に対応せざるを得なかった部分と言えるだろう。

さらに「煙発生装置」も興味深い。コンクラーベでは昔から、教皇の選出結果を煙突から出る煙で外部に知らせていた黒い煙なら未決白い煙なら教皇の選出というわけだ。また作中では、「投票が終わると、全員の投票用紙に火をつけて燃やす」というシーンが出てくるので、恐らく大昔は、投票用紙を燃やした際の煙で選挙の結果を伝えていたんじゃないかと思う(どのようにして煙の白黒を切り替えていたのかは分からないが)。

ただ現代では、投票用紙は確かに燃やすのだが、その後「煙発生装置」みたいなスイッチを押すシーンが映し出されていた。恐らくだが、「煙をそのまま放出するのは環境に悪い」みたいな理由から、「投票用紙を燃やす(その煙は環境に配慮して処理される)」という伝統と「選挙結果を伝える煙を出す(環境に配慮した煙が放出される)」という手続きを切り分けたのだろう。このように、「伝統」と「テクノロジー」が融合された描写がいくつかあって、それも面白かったなと思う。

そんなわけで、全体的にとても満足出来る非常に面白い作品だった。

監督:エドワード・ベルガー, Writer:ピーター・ストローハン, 出演:レイフ・ファインズ, 出演:スタンリー・トゥッチ, 出演:ジョン・リスゴー, 出演:イザベラ・ロッセリーニ

最後に

私は映画を観る際、普段は映像や音楽にあまり意識が向かない。しかし本作では、システィーナ礼拝堂(で実際に撮影しているのかは知らないが)の壮大・荘厳なビジュアルは圧倒的だったし、さらに作中で流れる音楽も結構印象的で、そういう部分にも惹きつけられた。いやホント、凄い世界が存在するものだなと思う。

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