はじめに
この記事で取り上げる映画
この記事の3つの要点
- 本作を観ながら私は、三崎亜記『となり町戦争』と中島京子『小さいおうち』の2小説を連想した
- 実在したという「政府発行のパンフレット」で紹介されていた、あまりにお粗末な「シェルター」とは?
- 40年近く前の作品が、2024年に改めて劇場公開された理由について
自己紹介記事
「老夫婦の穏やかな日常」を描く、核戦争がテーマになっているとは思えないアニメ映画『風が吹くとき』は、なかなかに恐ろしい物語だった
本作を観ながら思い出した小説2作と、約40年ぶりに劇場公開された経緯について
本作で描かれるのは「戦争の気配など微塵も感じられない日常生活に、核戦争の恐怖が突然降りかかる」という物語である。そしてそんな作品を観ながら私は、昔読んだ小説を思い出していた。
1つは、三崎亜記『となり町戦争』である。かなり昔に読んだので正確には覚えていないが、概ね次のような物語だったと思う。
ある町に住む男は、いつものようにポストに入っていた町の広報紙に目を通す。普段は他愛のない情報が書かれているだけだが、ある時から突然、「となり町で行われている戦争」に関する戦況が報じられるようになった。被害状況や死者数などが表記されており、死者が出るような戦争だと理解できる。しかし男は、まったく「戦争の雰囲気」を感じられないでいた。流血を目にすることもなければ、銃声を耳にすることさえないのだ。彼が「戦争」を意識できるのは、町の広報紙の記述だけ。そんな「見えない戦争」を描き出した作品である。
物語のテイストは大分異なるものの、「見えない戦争」という部分に共通項があると感じられた。『となり町戦争』では広報紙が「戦争」を伝えるが、本作『風が吹くとき』でその役割を担うのはラジオである。イギリス政府が国民に向けて、「戦争が起こる可能性があるから準備をしましょう」と呼びかけているのだ。夫はそれを受けて、政府発行のパンフレットに書かれている通りに準備を始めようとするが、妻は「戦争なんか起こりっこないでしょ」と楽観的である。本作では戦争が始まっていないところから物語がスタートするので、妻の楽観視も決して他人事とは言えないわけだが、いずれにせよ、「『戦争』の気配などまるで感じられない環境」の中で、「それでも『戦争』が進行している」という世界観を描いているという意味では近いものがあるように感じられた。
さて、もう1作は中島京子『小さいおうち』だ。
こちらもうろ覚えで、詳しいことは覚えていないのだが、物語の設定は印象に残っている。舞台となるのは、東京にある比較的裕福な家。主人公は、そこで働くお手伝いさんみたいな人だっただろうか。物語世界の中では、後に第二次世界大戦と呼ばれる戦争が始まっているのだが、一家は「戦争の雰囲気」を感じることがない。近くで戦闘が起こっているわけでも、空襲にさらされているわけでもないからだ。登場人物たちはもちろん「日本が戦争をしている」と理解してはいるものの、彼女たちにとって「戦争」はとても遠いものなのである。
なんとなくだが、「戦争」について思い浮かべる時は皆、「誰もが『火垂るの墓』のような世界を生きていた」みたいに考えがちではないかと思う。もちろん、そういう人たちもいた。しかし当然ではあるが、国民全員が同じ状況にいたわけではない。だから、同じ「戦争」を経験していても、まったく違った体験になるというわけだ。
そしてこの感覚もまた、本作『風が吹くとき』に通ずるものがあるように思う。本作で描かれるのはある老夫婦の日常だが、別の人に焦点を当てればまったく違う物語になるはずだ。だからこそ、「戦争について語るのは難しい」と言える。「共通の体験」がなければ「共通言語」は生まれず、「戦争を経験した者同士」でさえまったく異なる認識になってしまうからだ。本作では、そういう「分かり合えなさ」みたいなものも描き出しているように感じられた。
さて、内容を紹介する前にもう1つ、鑑賞後に公式HPを読んで知った「本作がどのような経緯から日本で公開されることになったのか」に関するエピソードにも触れておくことにしよう。これはなかなか興味深い話だった。
本作はそもそも、1986年にイギリスで制作され、翌1987年に日本で公開された作品だ。つまり、40年近く前の映画なのである。そして、「日本語吹き替え版」の監督は大島渚が務めており、その経緯が興味深かった。本作の主題歌はデヴィッド・ボウイが歌う『When the Wind Blows』なのだが(本作に合わせて作られたのか、映画のタイトルを曲から取ったのかは知らない)、1983年に公開された大島渚監督作『戦場のメリークリスマス』にデヴィッド・ボウイが出演していたことから、大島渚に声が掛かったのだそうだ。ちなみに、主人公夫婦の声を担当したのは森繁久彌と加藤治子である。どちらも声優をやることのなさそうな役者であり、そういう意味でも貴重と言えるだろう。
また、本作の時代設定がいつなのかはっきりした言及はないのだが、本作の原作絵本は1982年の発売である。作中には「戦後40年ですもの」というセリフが出てくるし、さらに、1982年というのは「冷戦の真っ只中で、核戦争の可能性がリアルに感じられていた時代」なわけで、そう考えれば、1982年頃が舞台というのが妥当な判断だろう。
そしてそのような物語が、2024年に改めて劇場公開されたというわけだ。その理由については後で触れるつもりだが、とにかく、「2024年の世界が1982年当時の状況に近くなっている」ということなのだと思う。そのような危機感を多くの人が抱くべきだろう。
映画『風が吹くとき』の内容紹介
ビルは仕事を引退し、それを機に妻ヒルダと共に郊外の一軒家へと引っ越した。長閑で穏やかな日々である。ビルは図書館へと通い詰めては新聞に目を通し、ヒルダは家事のためにいつも忙しく動き回っていた。そんなある日のこと、図書館から戻ってきたビルが突然「戦争が起こりそうだ」と言い始める。しかしヒルダは、政治とスポーツにはまったく関心がない。そのため、夫の話をまともに聞こうとはしなかった。
しかしラジオをつけてみると、ビルが言った通りのことを報じている。しかも「3日以内に戦争が始まる」というではないか。日々新聞を読んで動向を追っていたビルは、「これはマズい」と考える。第二次世界大戦の記憶しかない妻は慌てるでもなくのほほんとしているが、核爆弾でも落とされたらひとたまりもない。
そこでビルは、図書館でもらってきた「政府発行のパンフレット」を元に準備を始めることにした。パンフレットには「備蓄しておくもののリスト」や「放射能を防ぐために窓ガラスに白いペンキを塗る」といった対策など様々なことが書かれているのだが、その中でもビルが最優先で取り組んだのが「シェルターの制作」である。
しかし、政府がお墨付きを与えているというその「シェルター」は、実にお粗末なものだった。なにせそれは、「外した何枚かのドア板を、壁に対して60度の角度で立てかける」というだけの代物だったのである。そんなもので核爆弾や放射能が防げるはずもないのだが、ビルは「政府が言っていることだから」と信じ、記されている通りにシェルターを作り始めるのだった。
そしてどうやら、そんな”お粗末な”シェルターを他の市民も作り始めていたようである。というのも、ビルが買い出しから戻ってきた時、ヒルダに「分度器が売り切れていたよ」と報告していたからだ。ビルは「60度」を正確に測るために分度器が必要だと考えたのだが、それは他の市民も同様だったのである。ちなみに、文具店の店主は「60度に切った板」をくれたそうだ。これは「店主の優しさ」を示しているのと同時に、「多くの人が『60度』を測りたいと考えていた」という証でもあると言えるだろう。
さて、こんな風にして「3日以内に始まるらしい戦争」に向けて着々と準備を進めるビルに対し、ヒルダは頑なに「日常」に踏み留まろうとする。「戦争」が起こるなどとは微塵も信じていないのだろう。なので夫に対し、「ドア板で壁を傷つけないで下さいね」「クッションを汚さないで下さいね」と注意をするのである。戦争が始まってしまえば、壁の傷やクッションの汚れなど大した問題ではない。つまり彼女は、「これからも当然、今日と同じ日々が続いていく」と考えているというわけだ。
そんな風に考え方がまったく異なる2人の、「『戦争が始まる』と告げられてからの日常」を描き出す物語である。
「一軒家における夫婦の日常」だけから「戦争」を描く秀逸さと、「政府を信じてさえいれば良い」という皮肉的な描写
本作は、「一軒家の中」だけでほとんどが完結する物語であり、しかも登場人物もほぼ2人だけ。実にミニマムな構成である。しかしそれでいて、「核戦争」というハードな現実をリアルに描き出す作品になっており、まずはその点がとても素晴らしかったなと思う。ビルとヒルダは、「長年連れ添ってきたこと」が分かる軽妙なやり取りを繰り広げていてとても魅力的だし、そしてそんな穏やかな日常に「戦争」という非日常が否応なしに差し込まれていくというギャップもとても印象的だった。
さらに、会話から滲み出る「『戦争』に対する価値観」も興味深い。彼らは会話の中で、「スターリンは良い人だった」「前の戦争は良い思い出」みたいなことを言っていたのだ。第二次世界大戦においてイギリス市民がどんな状況に置かれていたのかは知らないが、日本人の感覚からすればやはり、このようなやり取りは違和感を与えるものではないかと思う。
ただ先程少し触れた通り、「戦争」は人々にまったく異なる体験を与えるものでもある。だからむしろ、戦争を知らない私たちのような世代こそ、「戦後の教育」によって「戦争」を一面的な形で捉えがちなのかもしれない。つまり、逆説的かもしれないが、「スターリンは良い人だった」「前の戦争は良い思い出」みたいな会話は、「『戦争を直接的に経験した人』だからこそのもの」と言えるんじゃないかとも思う。
さて、そんな本作においてとても印象的だったのが、「政府の言う通りにすれば何の問題もない」というビルのスタンスである。当然これは、皮肉的な描写と捉えるべきだろう。ビルが盲目的に政府の指示に従う姿を描き出すことによって、逆説的に「政府の言う通りになんかしていたらダメですよ」というメッセージを発していると受け取るべきだと思う。
先述した通り、「政府発行のパンフレット」には「ドア板を使ったシェルター」などの対策が載っているわけだが、なんとこのパンフレットは実在したものなのだそうだ。公式HPによると、「PROTECT AND SURVIVE(守り抜く)」という名前で、1974年から80年までの間、イギリス政府が配布していたのだという。さすがに、政府が「ドア板製のシェルター」なんかを勧めているとは思っていなかったので、鑑賞後にそれが事実だと知って驚かされてしまった。公式HPには、「こうした政府の姿勢に強い憤りを抱いたことも、ブリッグズが『風が吹くとき』を描いた理由の一つとなっている」と書かれている。あまりにもお粗末すぎて驚かされてしまった。
また、同じような話でもう1つ印象的だったのが、映画のラスト付近でビルが、「緊急サービス班が来るのを待とう。お上がわしらを助けてくれるはずだからな」と口にしていた場面である。ヒルダも、夫のこの意見に賛同していた。これがどのような状況下で発せられた言葉なのかは説明しないが、「とんでもない危機的状況下にいる」とだけは書いておこう。そしてそのような状況になってもなお、「政府を信じる」というスタンスを崩さないのである。この描写もまた、とても印象的だった。
40年近く前の作品が何故再び劇場公開されたのだろうか?
最近映画館では、「昔の名作の4Kレストア版」などが上映されることが多くなっており、私もよく観に行く。「4Kレストア」というのがどんな作業を指すのかよく知らないが、「技術的に劣っていた部分を補う」みたいなことだろうし、そういう形で改めて「名作」を鑑賞できる機会が増えているのは良いことだと思う。
しかし、本作『風が吹くとき』は「4Kレストア版」みたいなことではない。1987年に公開されたバージョンがそのまま上映されているのだと思う。「4Kレストア版が完成したから劇場公開する」のであれば分かりやすいが、本作の場合そういうことではないというわけだ。となれば、ここには何らかの意図が存在すると考えるべきだろう。
と回りくどく書いてはみたが、恐らく概ね想像出来るんじゃないかと思う。本作『風が吹くとき』が改めて劇場公開されているのは恐らく、「世界的に核戦争の危機が高まっているから」だろう。ロシアはウクライナ侵攻を機に度々「核の使用」に言及しているし、さらに、「核弾頭も搭載可能な長距離弾道ミサイル」を頻繁に発射している北朝鮮の存在も脅威である。
私は1983年生まれなので、リアリティをもって「冷戦を経験した」と言える世代ではないはずだ。たぶん、「冷戦」という言葉も学校の授業で習って知ったんじゃないかと思う。とはいえ、「キューバ危機」など様々な出来事について知識を得る度に、「冷戦時代は本当に、『核戦争まであと一歩』という感覚を全世界が共有していたのだろう」という気分になる。2024年はまだ、そこまでの「恐怖」に支配されているとは言えないだろうが、それでも、冷戦以降のどの時代よりも核戦争の危機が高まっているとは言えるのではないかとも思う。
また、本作のテーマである「核戦争」を「災害」の代わりと捉えると、また違った見え方になってくるだろう。私がこの記事を書く少し前に「南海トラフ地震臨時情報」が発表され、「普段よりも地震が起こる確率が高まっています」という報道をよく目にすることになった。「核戦争」にはリアリティが感じられないとしても、「巨大地震」はリアルに想像できると思う。そして、本作の老夫婦の姿は、「災害に対しての準備姿勢」を描き出すものとしても受け取れるはずだ。
このような点を踏まえると、本作『風が吹くとき』は今まさに観られるべき作品だと言えるのではないかと思う。
実に穏やかに始まる本作は、最終的にはなかなか恐ろしい展開になっていく。「核戦争への危機感」が高かったはずの公開当時に観てももちろん恐ろしかっただろうが、冷戦が過去のものとなった今観ると、また違った形で怖さが感じられるのではないかと思う。
最後に
SNSが広まったことで「危険を煽るような言説」が流布しやすくなったはずだし、それはあまり良いことには思えない。「正しく怖がる」ことが大事なのであり、対象がなんであれ「怖がりすぎる」ことはあまりプラスをもたらさないはずだ。
そういう意味で本作は、「正しく怖がる」ためにうってつけの作品と言えるかもしれない。ほのぼのした感じで始まるアニメ映画なのでとっつきやすく、それでいて深く様々なことについて考えさせる作品であり、「平和ボケしている」と言われがちな日本人を適度に引き締める良い作品ではないかと思う。
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