【奇妙】映画『画家と泥棒』は、非日常的なきっかけで始まったあり得ないほど奇跡的な関係を描く

目次

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この記事の3つの要点

  • 自身の絵を盗まれた画家は、盗んだ泥棒の裁判を傍聴し、「あなたの絵を描かせてほしい」と申し出た
  • アートに対する感性や、「常識的なもの」との向き合い方など様々な要因が重なり、2人は心が通じ合うほどの関係性になっていく
  • 色んな要素から「ドキュメンタリーっぽくない」と思わせる作品であり、これが現実に起こったことだとはとても信じられない

私はずっと、彼らのように心の深いところで繋がれているような関係性に憧れてきた

自己紹介記事

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記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

ドキュメンタリー映画『画家と泥棒』は、「『自身の絵を盗んだ泥棒』と仲良くなった画家」の物語であり、あまりにも非日常すぎて驚かされてしまった

あまりにも奇妙なドキュメンタリー映画で、実に興味深かった。というか正直なところ、最後の最後まで「これはホントにドキュメンタリー映画なんだろうか?」と疑っていたぐらいの奇妙さである。「こんなことが実際に起こったのか」と、放心させられるぐらい異様で美しい関係性だった。

自身の絵を盗んだ泥棒に惹かれてしまった画家

本作『画家と泥棒』の主要登場人物は2人画家のバルボラ・キシルコワ泥棒のカール・ベルティルである。そして2人は、「バルボラが描いた絵をベルティルが盗んだ」という形で関係がスタートした。それだけで、本作の「奇妙さ」が伝わるのではないかと思う。

というわけでまずは、2人がどう出会い、どう関わっていくようになったのかという話から始めよう。

チェコ出身のバルボラは、「元彼によるDV被害」から逃れるために、ボーイフレンドと共にノルウェーへと移住してきた。そして、「リアリズム画家」と呼ばれていた彼女が移り住んで最初に描いた絵が「白鳥の歌」である。その絵が何か賞を受賞したため、その記念にしばらくの間、「クロエとエマ」という作品と共にギャラリーで展示されていた。そしてある日、その2作品を白昼堂々2人の男が持ち去ったのである。

その様子は防犯カメラに記録されており(その映像は本作中でも流れる)、2人はすぐに逮捕・起訴された。しかし、2人が盗んだ絵の行方はなんと今も分からないままである。そのためバルボラは、「絵は一体どこにあるのか」という興味から、犯人の1人であるベルティルの裁判を傍聴することにした。

当然カメラを持ち込めないのだと思うが、ノルウェーではどうも録音は可能なようだ。その時の音声記録が残っており、本作でも流された(その間、恐らくバルボラが描いたのだろう「裁判の様子を再現した絵」が映し出される)。その中で彼女は裁判官に、「彼と話してもいいかしら?」と断りを入れた上で(この辺りも、日本の裁判の仕組みとは違うなと思う)、被告人席にいるベルティルに次のように話しかけていたのである。

画家として聞くわね?
また会えるかしら?
あなたを描かせてほしい。

ベルティルには75日間の刑の執行が言い渡された。そしてバルボラは本当に、刑期を終えたベルティルを自身のアトリエへと呼び、彼の絵を描くのである。このような形で始まった2人の関係性を追うドキュメンタリー映画というわけだ。

さて、本作は冒頭からしばらくの間、基本的にバルボラ視点で進んでいく「バルボラがベルティルをどう見ているのか?」という描写が続くというわけだ。しかし中盤ぐらいから少しずつ、ベルティルの内心も組み込まれていく。そしてその中で彼は、初めて彼女のアトリエに呼ばれた時のことについて、「晒し者にしたいのか?」「どうせ仕返しするつもりだろう」みたいに思っていたことを明かしていたのである。

しかしバルボラには、そんな考えはまったくなかった。彼女は純粋にベルティルという人間に惹かれていたのである。

泥棒が画家の内心を語り、画家が泥棒を献身的に支える

さて、「本作において、バルボラについて詳しく語るのはベルティルである」という事実は、少し奇妙に思えるかもしれない。変わった出会い方をしているし、また、撮影期間が何年に及んでいるのかよく分からないが、言ってもそう長い関係性ではないはずだからだ。つまりこれはやはり、「バルボラがベルティルに対して心を開いている」という事実を示していると考えていいだろう。

また先述した通り、ベルティルにはボーイフレンド(オイスタイン)がいる。彼は、決して売れているとは言えないバルボラの創作活動を、金銭面でも精神面でも支えてくれる人物だ。しかしオイスタインは彼女を心配するあまり、バルボラとはどうも口論ばかりしているようである。少なくとも、作中でバルボラとオイスタインが一緒に映る場面では、言い争いをしていることが多かったように思う。オイスタインが心配してくれていることは当然理解しているだろうが、やはりあれこれ言われるのもしんどいのだろう。そういう事情もあり、ベルティルに内心を打ち明けているみたいな側面もあるのだと思う。

ベルティルが言うには、バルボラは「死に惹かれている」のだという。「名前のない墓石」を見つけた際は、それが1939年に亡くなったユダヤ人のものだと知って花を手向けたし、また、チェコの路上で人が倒れているのを見た10歳の時に初めて「死」に触れたらしく、「とても惹きつけられた」とバルボラは語っていたそうだ。

さらに、「バルボラがDV男に殴られていた」という事実を観客が最初に知るのは、ベルティルの語りによってである。本作ではその後で、オイスタインがバルボラの元彼について詳しく話すのだが(これもまた実に奇妙な話であり、後で触れようと思う)、普通に考えて「バルボラがDV男から逃げるようにしてノルウェーにやってきた」みたいな話は、ベルティルが語るよりも早くナレーションなどで紹介されてもおかしくないだろう。ここにどんな意図があるのか(あるいはないのか)は分からないものの、このような構成も相まって、「バルボラがベルティルに心を許している」みたいな印象が強まっているんじゃないかと思う。

一方のバルボラは、「献身的」と言っていいぐらいベルティルに寄り添っていた

ベルティルはそもそも薬物の中毒者だそうで、バルボラの絵の行方が分からないままなのもこの点に関係している。ベルティル曰く、絵を盗んだ日は「4日間寝ておらず、覚醒剤20gと薬剤100錠を摂取していて頭がラリっていた」のだそうだ。だから絵をどこに持っていったのか覚えていないというのである。この点に関してバルボラは、かなり親しい関係になってからも何度も尋ねているのだが、ベルティルの返答は変わらなかった本当に覚えていないようだ。

そんなわけでベルティルは、恋人に無理やり薬物治療の施設に入れられそうになるのだが、それはどうしても嫌だったようで、施設に行く前に逃げ出してバルボラの元を訪ねたりしていた。さらに映画の後半では、もっと大変な状況に陥ったりもしていたのだ。そしてそんなしんどい状態にあるベルティルを、基本的にはまったく無関係なバルボラ(というか、彼女は「被害者」である)が支え続けるのである。

そんな2人の関係性はとにかく奇妙で、しかし言葉では表しにくい美しさもあり、だからこそ、そこから放たれる「何か」に強烈に惹きつけられてしまうのだと思う。

画家が描いた絵を見て涙する泥棒

そんな2人の関わりの中で個人的に一番印象に残っているのは、バルボラが採捕に描いたベルティルの絵を初めて彼に見せた時の反応だ。ベルティルはなんと、その絵を見て号泣したのである。そして恐らくだが、その涙には大きく2つの意味が込められていたのではないかと思う。これは、ベルティルが後にバルボラに宛てて書いた手紙からの推測である。

1つは、「アートに対するベルティルの感性」から来るもの。先述の通り、バルボラはベルティルを家に呼ぶようになったわけだが、バルボラがベルティルの自宅を訪れることもあった。そしてベルティルの部屋の壁にはぎっしりと絵画が飾られており、棚にはアート作品が並べられていたのである。元からアートに対する感性みたいなものを持ち合わせていたのだろうし、「ラリった頭で盗んだのがバルボラの絵だった」のもそんな理由からだったのかもしれない。そして「そんなアートに自分も関わることが出来た」みたいな嬉しさがその涙には込められていたのだと思う。

そしてもう1つが、「『誰かに認めてもらえた』という嬉しさ」からくる涙である。

学生時代のベルティルは、勉強が出来る優等生だったそうだ。しかし、8歳の時に両親が離婚する。弟と妹は母親が連れていったため、ベルティルは父親と2人で暮らすことになったという。父親は仕事のためにほとんど家におらず寂しい子ども時代を過ごしたそうで、その経験が今もトラウマとして残っているそうだ。ベルティルの身体はタトゥーだらけなのだが、全部で7つ彫ったという「赤いバラ」は、そんな子ども時代のトラウマを象徴したものだと話していた。

そしてそういう環境だったことも関係しているのだろう、彼は結局落ちぶれてしまい、「周りの人を失望させてきた」「幸せになっていいなんて思えない」みたいな感覚を抱くようになる。やはり、根が真面目なのだろう。そしてそんな感覚から逃れたい気持ちが強くなり、薬物に手を出すようになってしまったのだそうだ。

バルボラの絵を盗んだ時、ベルティルはそのような状況にいた。そして、「その人の絵を盗んだ」などという奇妙すぎる形で関係が始まったバルボラが、自分の存在を奥底から認めてくれているような絵を描いてくれたのだ。その事実が、彼の心を打ち震わせたのだと思う。

私は、意識的にアート作品を観に行くようにしているのだが、「アートを見て涙する」という感覚になったことがない。確かにベルティルはかなり特異な状況にいたわけだが、それでも、バルボラが描いた絵を見て涙を流す姿には「純真」という言葉が似合う気がした。さらに、涙を流しているのが「タトゥーだらけで薬物中毒の窃盗犯」であるというギャップも非常に大きいため、なんとも言えない気分にさせられたし、非常に興味深い存在だなと思う。

本作は、そんなあまりにも特異的な関係性を映し出すドキュメンタリー映画であり、その「奇妙さ」に強く惹きつけられてしまった

泥棒以上に奇妙なのは、実は画家の方である

さて、ここまでの記述をシンプルに捉えれば、「奇妙なのはベルティルの方であり、そんなベルティルに焦点が当てられた作品」みたいに感じられるんじゃないだろうか。しかし実際には、本質的により奇妙なのはバルボラの方だと私は思う。もちろん、「法廷で自分の絵を盗んだ被告人に『また会えるかしら?』と問いかける」というだけでもその奇妙さは十分伝わるかもしれないが、そういうレベルではない「歪み」みたいなものが節々で感じられたのだ。

そしてその最たるものが、先ほど少し触れた「DVの元彼との関係性」である。

この話が出てくるのは、バルボラとオイスタインが「カップルセラピー」を受けている時のことだ。そもそもバルボラは、この「カップルセラピー」をけちょんけちょんに貶していた。そう言っているということは、このセラピーはオイスタインの提案によるものなのだろう。バルボラは全然乗り気ではないようで、というか「話せば話すほど『自分がクソだ』と思えてきて嫌になる」とさえ言っていた。

さて、そのカップルセラピーの少し前のシーンで、オイスタインが「ベルティルのような人物と関わることはリスクだ」と諭そうとする場面が出てくる。いや、「諭そうとする」と書くと少し違うだろうか。ノルウェーなどの北欧の国には「人権への配慮が高い」という印象があるし、あるいはそもそもオイスタインがそういう性格なだけかもしれないが、彼は決してバルボラを真っ向から否定するような言い方はしない。しかしそれでも、「バルボラにはベルティルと関わってほしくない」とオイスタインが思っていることがはっきりと伝わるようなやり取りだった。

そして恐らくだが、オイスタインがそのように感じる理由の1つがバルボラの元彼の話と関係しているのだと思う。

オイスタインはカップルセラピーの中で、「自分たちがどうしてチェコからノルウェーへと逃れてきたのか?」という話をする。観客はこの時点で既に、ベルティルの口から「バルボラが元彼から殴られていた」という話を聞いているわけだが、実はそんなレベルの話ではなかった。バルボラはなんと、元彼から殺されそうになったのである。

しかしその時点で既に、バルボラは元彼と別れオイスタインと付き合っていた。恐らく恋愛中から元彼の暴力を受けていたはずなので、私は当然「元彼がストーカーみたいになりバルボラを殺そうとした」のだと思っていたのだが、そうではなかった。バルボラはなんと、「絵を描く場所を元彼から提供してもらっていた」というのである。この事実はちょっと信じがたいものだった。もちろん、オイスタインも同じだろう。単に「元彼から場所を借りていた」というのではない。「暴力を振るう元彼から場所を借りていた」のだ。

この点についてオイスタインは、「子どもが道の真ん中で遊んでいるようなものだ」と指摘し、「大切な人がそんな危険なところにいたら心配して当然だ」と主張していた。実に真っ当な意見だと思う。そして、このオイスタインの主張に対するバルボラの返答がなかなか狂気的だった。彼女は、「私が子どもだったら、絵を描きたいかもね」と言っていたのだ。これはつまり、「『絵を描く』という自分にとって優先順位の高いことのためなら、多少の危険は許容するしかない」みたいな意味なのだと思う。その意見も分からないではないが、しかし問題は、「暴力を振るう元彼に場所を借りること」が「多少の危険」とは言えないことだろう。

バルボラとオイスタインのやり取りを聞いていると、オイスタインは実に常識的な人物だと分かる。そしてだからこそ、ある種の狂気を内包したバルボラとは相容れない部分が浮き彫りになってしまうのだろう。一方で、ベルティルは色んな意味で常識外れの人物なので、バルボラを「常識」の枠組みに嵌め込んだりはしないし、だから「心が通じる」みたいな感覚にもなれるのだと思う。

ただだからといって、「バルボラがオイスタインから離れる」みたいな選択をすることはまずないだろう。正直なところ、バルボラがオイスタインに対してどういう感情を抱いているのか上手くは推し量れなかったのだが、はっきりと言えることは、「バルボラが創作活動を続けるためにはオイスタインの支援が必要不可欠である」ということだ。別に「バルボラがオイスタインを『金づる』だと思っている」などと言いたいわけではもちろんないのだが、そのような要素がまったく無関係だとは思えない

「私が子どもだったら、絵を描きたいかもね」という発言からも分かる通り、バルボラにとっては何よりも「『絵を描く』ための環境が整うこと」が重要であるようだ。作中では確か、「1日も欠かさずに絵を描いている」と話していたように思う。もちろん、描いた絵を売って生計を立てられればそれが最善だろうが、現状ではそういう状況にはない。というか作中では、「督促状を開封するシーン」や「アトリエの家賃を滞納している事実を語る場面」などもあった。オイスタインの心情もよくは分からないものの、彼はバルボラを支える意思が強くあるようなので、とりあえず良い関係なのだと思う。しかしバルボラは、オイスタインの手には余るだろうなぁ。

さて、本作はラスト、ちょっと思いもよらない展開になっていく。このような展開もまた、「ホントにドキュメンタリー映画なんだろうか?」と感じさせるポイントだった。こんなことが実際に起こる得るものだろうか。信じがたい気持ちもあるのだが、ドキュメンタリーだというのだからそう受け取るしかない。本作は、始まりも奇妙ならその後の展開も奇妙なわけで、まさに「事実は小説よりも奇なり」と言った感じだなと思う。

本作『画家と泥棒』のその他感想

この記事の中で私は、「本作はドキュメンタリー映画だとは思えない」みたいなことを何度か書いたが、その理由の1つに「刑務所にいるベルティルを撮影している」という事実も挙げられる。食事をしている様子や、中庭らしき場所を歩いている姿を、すべて刑務所内部から撮影していた。さらに、ベルティル以外の囚人にも一切モザイクが掛かっていなかったのだ。個人的には「そんなことあるだろうか?」と感じてしまった。

しかしそもそもだが、ノルウェーの刑務所は雰囲気からして日本のものとはまるで違う。「日本のちょっと狭い単身者向けアパート」みたいな部屋なのだ。かなり快適そうだし、また、監視付きではあるが外部と電話のやり取りも可能らしい。そういう刑務所であれば、撮影許可も特に問題なく出るのかもしれない。しかし、日本の感覚ではまずあり得ないことだと思うので、ちょっとびっくりしてしまった

また、ドキュメンタリー映画の場合、「対象者がカメラに向けて何か話す」みたいな場面があってもおかしくない。「情熱大陸」なんかでよくある映像だ。しかし本作は、そういう「カメラ目線の映像が一切無い構成」であり、そのこともフィクション感を高めていたと言えるかもしれない。

あと最後にどうでもいいことを1つ。本作では、「バルボラはずっと英語で喋っていたな」と感じた。内容までちゃんと聞き取れるわけではないが、英語かどうかは分かる。そしてバルボラは、チェコからの移住者だからだろうか、ノルウェー国内でもずっと英語で喋っていたと思う。一方ベルティルは、バルボラとは英語で話していたと思うが、別の場面では聞いたことのない言語(恐らくノルウェー語だろう)のこともあった日本人として生きていると、2言語を当たり前に切り替えるみたいな感覚はよく分からないので、どんな感じなのだろうといつも思っている。

というわけで、かなり奇妙な状況を奇妙な形で切り取っていく、実に興味深い作品だった。

最後に

この記事を書いている時点の私は、あまりドキュメンタリー映画を観れていない。それは「映画館で上映してはいるが、私が観ていないだけ」なのではなく、「ドキュメンタリー映画があまり公開されていない」というのが私の実感だ。私の勝手な憶測だが、「本来であれば数年前に撮影したドキュメンタリーがそろそろ公開されるはずだが、コロナ禍でドキュメンタリー映画の撮影が出来なかったのではないか」と思っている。

そんなわけで本作は、そんな「ドキュメンタリー映画があまり公開されていない状況」において、私が久々に出会った「かなり興味深い作品」となった。こういう奇妙な世界を知れるからドキュメンタリー映画は面白いなと思うし、これからも様々な「狂気」に触れたいと思っている。

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