【傑物】フランスに最も愛された政治家シモーヌ・ヴェイユの、強制収容所から国連までの凄絶な歩み:映画『シモーヌ フランスに最も愛された政治家』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:エルザ・ジルベルスタイン, 出演:レベッカ・マルデール, 出演:オリヴィエ・グルメ, 出演:エロディ・ブシェーズ, 監督:オリヴィエ・ダアン, Writer:オリヴィエ・ダアン
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この記事の3つの要点

  • 「中絶が違法である社会」を覆し、後に「欧州議会初の女性議長」に選出されたシモーヌは、間違いなく現代史にその名を刻む傑物である
  • フランス国内では良く知られた人物を描いているためだろう、時系列がグチャグチャになった構成は、外国人には少しハードルが高い
  • 強制収容所での凄まじい経験、そしてそこから生還してから感じた「沈黙を強いられること」の息苦しさも描かれる

すべての人間がシモーヌ・ヴェイユのようには生きられない以上、せめてその凄まじい功績を積極的に知ろうとすべきだと思う

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

「フランスに最も愛された政治家」であるシモーヌ・ヴェイユを描く映画『シモーヌ』から、その凄まじい生き様を知る

ナチスの強制収容所を生き延び、後にEUの欧州議会議長に選出された女性の生涯を描く映画

やはり世の中には凄い人がまだまだいるものだと思う。映画『シモーヌ』で取り上げられるシモーヌ・ヴェイユという女性政治家のことは、この映画を観るまで知らなかった。しかし、「現代史に名を刻む人物の1人」であることは間違いないと言えるだろう。

映画の公式HPに、「著名人・有名人 人気ランキング」が載っている。もちろん、フランス国内で行われたアンケートだろう。ランキングには、俳優、コメディアン、シンガーソングライターなどジャンルレスな人物が並ぶが、その中でシモーヌ・ヴェイユは2位に位置するのだ。もちろん、政治家では唯一のランクインであり、というか、文化人という枠で考えても唯一である。

まさに、映画の副題にある通り、「フランスに最も愛された政治家」だと言っていいだろう。そしてこの映画は、その凄まじい女性政治家の生涯を、”時系列をグチャグチャにして”描き出す作品である。後で詳しく触れるが、この点は少し、フランス人以外の観客にはハードルの高さを感じさせるポイントだと言えるかもしれない。

さて、映画の内容に触れる前にまず、彼女の功績についてざっと触れておこう。本作では、「強制収容所」の描写は最後に位置する。冒頭で描かれるのは、彼女がその成立に尽力した「中絶法」(フランスでは「ヴェイユ法」という通称で呼ばれている)についてだ。当時保健大臣だった彼女は、「中絶が違法とされている社会」に異議を唱え、あらゆる反対を押しのけて「中絶法」を成立させたのである。そしてその後、EUの主要機関の1つである欧州議会において、女性初の議長に選出された

彼女は、子育てをしながらパリ政治学院を卒業し、その後家庭に入ったものの、子育てだけで終わりたくはないと、自らの意思で女性初の司法官に志願する。彼女は刑務所における受刑者の扱いの酷さを知り、誰からも求められていないにも拘らず、その待遇改善に尽力した

彼女の活躍は、「女性である」という事実を抜きにしても凄まじいものである。さらにそれらは、「政治と司法への女性の参画は誤りだ」と面と向かって言われるような時代のことなのだから、なおさらだと言えるだろう。

映画は、そんな彼女が「晩年に回顧録を書いている」という設定で展開される。恐らく既に政界を引退したのだろう彼女が、家族と共に過ごしながら過去を振り返り回顧録をしたためるのだ。その執筆の過程を追体験するかのような構成の作品に仕上がっている。

さて、続いて内容を紹介しようと思うが、この記事では「映画で描かれた順番」ではなく、「シモーヌにとっての時系列順」に並べ替えて出来事を書いていくつもりだ。もしこれから映画を観る予定だという方は、時系列順の流れをざっとでも頭に入れておくと混乱しないで済むかもしれない。

映画『シモーヌ』の内容紹介

幼いシモーヌは、4人の兄弟と両親と共にニースで暮らしていた。強制収容所に入れられる前のことだ。一家は「同化ユダヤ人」であり、特に両親はフランスへの愛国心を抱いていた。兄弟は皆、両親から「世俗主義を重んじるように」と言われており、「フランス共和国が私たちのことを見捨てるはずがない」と教え込まれていたのである。

しかし、そんな希望は儚くも打ち砕かれた。戦争が始まり、一家は無惨にも強制収容所に送られてしまったのだ。男女別に分けられたため、収容の時点で父と兄とは離れ離れになってしまう。また、収容所に送られた時点で、姉ドゥニーズの姿はなかった(映画の後半で、その理由がそれとなく示唆される)。シモーヌは、母イヴォンヌともう1人の姉ミルーの3人で、劣悪としか言いようがない収容所生活を経験することになる

その後、なんとか生きて収容所を出ることが出来たシモーヌだったが、その時の記憶があまりにも強烈だったため、ベッドの上では寝られない身体になってしまっていた。そんなシモーヌは、昔から本を読むことが大好きだったこともあり、弁護士になることを目指しパリ政治学院に通うことに決める。そしてそこで、後に夫となるアントワーヌと出会ったのだ。彼の一家もユダヤ人であり(ただし、映画を観る限りにおいては、アントワーヌの一家は戦時中にそれほど苦労しなかったようだ)、招かれて彼の家で食事をしていたシモーヌは、両親の口癖だった「世俗主義」という言葉を耳にして思わず微笑む。

その後2人は結婚し、彼女は大学に通いながら子どもを育てることになる。なんとか卒業するも、子育てのこともあり、弁護士になるという夢は一旦諦めることにした。しかしその後、アントワーヌが人民共和派で働くことが決まる。これによって、政治の世界とは縁遠かったシモーヌも政治に関わるようになっていった

その後保健大臣として、男性議員ばかりの議場で堂々たるスピーチを行い、見事「中絶法」を成立させる。その後も国内だけではなく世界にも目を向けながら、常に「弱き者」に寄り添うような活動を骨身を削りながら続けていくのだが……。

外国人が観るには、もしかしたら少しハードルが高いかもしれない

先程も書いた通り、上述の内容紹介は、実際に映画で描かれる順番とはまったく異なる。とにかく、時系列はあっちこっちに飛んでいくのだ。「メインとなる流れがあり、その中に回想シーンが挟まれる」みたいな構成というわけでもない。とにかく、「映画の展開を書いたトランプを無作為にシャッフルしたかのような構成」になっているのである。若い頃と晩年とで、シモーヌ・ヴェイユを演じる女優が変わるので、「いつの時代の話なのか」で混乱することはないものの、シモーヌ・ヴェイユという人物について詳しくない人にはなかなか追うのが難しい物語と言えるかもしれない。

もちろんここには、「フランス国内では、シモーヌ・ヴェイユはとても良く知られている」という事実が関係しているのだろう。日本で言うなら「小泉純一郎」みたいなものかもしれない。日本人向けに「小泉純一郎」を描く映画を作るなら、基本的な事実はそれなりに知られているだろうから、端折ったり時系列を入れ替えたりしてもさほど問題にはならないだろう。映画『シモーヌ』も、そういう発想で作られているのだと思う。そしてそういう作品であるが故に、フランス人以外の人が観る場合には、少し集中力を要するかもしれない。決して構成に文句があるわけではないし、フランス国内向けに作るのであれば当然こういう構成になってもおかしくないと理解できる。ただ、「外国人が観る場合は、少し気合を入れましょう」というわけだ。

なので、少なくともこの作品に関しては、シモーヌ・ヴェイユという人物や映画のざっくりとした流れについて、観る前にあらかじめ予習しておくのもいいかもしれない。そんな風にしてでも観た方がいいと感じるほど、その凄まじさに圧倒される女性の生涯が描かれる作品なのである。

「ホロコーストの生き残り」という息苦しさ

映画では、シモーヌ・ヴェイユに関する様々な事柄が描かれるのだが、やはり最もインパクトがあるのは、「強制収容所にいたことがある」という事実だろう。そして映画での描かれ方から、「ホロコーストを生き延びた」ことを「恥」だと感じるような感覚についても理解することが出来るはずだ。そのような捉え方には驚かされてしまった。

「シモーヌが強制収容所に入れられていた」という事実は、かなり早い段階で情報としては提示される。しかし、映画で実際に描かれるのは、「シモーヌがその事実をほとんど周囲に明かそうとしない」という現実だ。姉ミルーも同様だったそうだが、彼女たちは周囲の親しい人間にも、なかなかその過去を告げることが出来ずにいた。ミルーはシモーヌへの手紙の中で、今付き合っている相手について、「優しくはしてくれるけど、昔のことは言えない」みたいに書いている。一方シモーヌは、夫であるアントワーヌにその事実を話しているが、しかし作中のある描写を考慮すると、シモーヌとしては「言わざるを得なかった」というような打ち明け方だったのではないかと思う。

映画には時々、シモーヌによるナレーションが挿入される。そして特に根拠はないのだが、「シモーヌが過去を振り返りながら回顧録を書いている」という映画の設定から考えれば、彼女が出版した回顧録内の文章をそのままナレーションとして使っているのではないかと思う。その中に、こんなナレーションがあった。

生存者や目撃者は沈黙を強いられている。
「黙って生きろ」という雰囲気を感じる。

「ホロコーストに加担した国家」の戦後の様子など知る由もないが、ただ誰だって、その関わりを大っぴらに披瀝したり、公の場で謝罪したりしたいはずがないだろうことは容易に想像できる。恐らく、シモーヌが若い頃のフランスもそのような雰囲気にあったということだろう。反省よりも忘却を積極的に選んだというわけだ。そして結果的には、そのような社会の中にいたことが、シモーヌ・ヴェイユという傑出した政治家を生み出すことに繋がったと言えるのかもしれないとも思う。

「抑え込まれたやるせなさ」が後年爆発していく

シモーヌはある場面で、

無視されて、今も苦しい。

と口にする。自身が経験した出来事はあまりにもおぞましいものであり、叶うことならすぐにでも忘れてしまいたいはずだと思う。しかし、やはりそんなことは不可能だ。もう安全だと分かっていても、ベッドで寝ることを身体が拒絶してしまうほどなのである。そうであるならばせめて、「こんなことがあったのだ」と広く伝えたい、あるいは、身近な人には気軽に話せる世の中であってほしい、と考えてしまうのは当然だろう。しかし、それさえも容易ではない。「沈黙を強いられている」という雰囲気を感じ取ってしまうからだ。このようにして彼女の中には、「鬱憤」や「怒り」といったものが積み上がっていったのだと思う。

彼女は、

時に、生還したことが失敗に思える。

とさえ口にしている。

親衛隊と寝たから生還できたのかと、老婦人に尋ねられたことがあった。

みたいな状況に度々置かれれば、「失敗」と感じてしまうのも無理はないだろう。強制収容所を経験しなかった者たちからの「無知ゆえの非難」に晒され、しかしそれに対して何か対応が出来るわけでもなく、「黙って生きろ」という雰囲気に呑まれたまま生きていくしかなかったというわけだ。

だからだろう、彼女は「女性初の司法官」に就任して以降、それまでの鬱憤を爆発させるかのように突き進んでいく。そしてその延長線上に「中絶法」があり、欧州議会初の女性議長就任があるというわけだ。

映画の冒頭で、いきなり「中絶法」成立の場面が描かれるのだが、この時点ではまだ、シモーヌ・ヴェイユがどんな過去を経験してきたのか(外国人の)観客は知らないので、彼女の「闘いに挑む力の源泉」が何なのか上手くは掴めない。しかし物語を追うことで、その源泉が「強制収容所での凄まじい経験」と「そこから生還した後の社会からの抑圧」にあると理解できるようになっていく。良いか悪いかで言うなら、「強制収容所」という現実はもちろん悪いに決まっているのだが、結果としてシモーヌ・ヴェイユという傑物を生み出したことを考えると、すべての物事に意味があるのだなとも感じさせられた。

強制収容所での経験がシモーヌ・ヴェイユに与えたもの

前半では、シモーヌ・ヴェイユの政治家としての奮闘や、そこに至るまでのパリ政治学院時代の話などが描かれるのだが、後半はほとんど強制収容所のシーンになる。大量の女性エキストラを裸にし、髪まで切ってしまうなど、その実態をリアルに描き出そうとするし、セットの規模もかなりのスケールであるように思う。前半と後半の落差が大きすぎて、「同じ物語なのだろうか」、つまり、「1人の人間が経験したことなのだろうか」とさえ感じてしまうのではないだろうか。「政治の世界を威勢よく突き進み、正義を体現する」という前半の描写とは何もかもが逆になったような強制収容所のシーンには、やはり圧倒させられた。

ホロコーストに関してはこれまでも、様々なドキュメンタリー、フィクション、ノンフィクションなどで色んな事実に触れてきたつもりだ。しかしこの映画は、「シモーヌ・ヴェイユという傑出した政治家の経験であること」、そして「女性視点の経験であること」など、それまで私が触れてきたホロコーストとはまた異なる要素に満ちており、受け取り方もやはり違ったものになったと感じる。いずれにしても、やはりホロコーストに対しては、「胸糞悪い現実だ」という感想を常に抱かされてしまう。よくもまあ、人類の歴史に、これほどの醜悪さが横たわったものだと思う

シモーヌは晩年、強制収容所での経験をカメラの前で語る決断をする。その様子も映画の中で描かれるのだが、そのような状況に至った経緯が実に興味深かった。先程も触れた通り、シモーヌは自身の経験を夫には伝えていたが、一方で、政治家になってからもその事実を公にはしていなかったのだと思う。時系列がグチャグチャの物語なので、「中絶法の成立」と「強制収容所での経験の告白」のどちらが先だったのかちょっと判断出来なかったが、いずれにせよ、かなり晩年になってからの告白であることは間違いないだろう。

きっかけは、何かの記念式典の場で、シモーヌが礎石の設置をするセレモニーを行ったことだった。礎石とは、建築工事の開始を記念して設置される石のことであり、彼女は慣れた手付きでセメントコテを操り、セメントを塗り拡げていく。それを隣で見ていた軍人から「上手ですね」と声を掛けられた彼女は、それに対してこう答えたのだ。

ええ、やってましたから。収容所で。

この記念式典の場にはマスコミも招かれており、「収容所で」と口にした場面もカメラで撮られていた。恐らくだが、この時彼女は初めて、強制収容所での経験を公に認める発言をしたのだと思う。これを受け改めて、その経験を語るインタビューの場が設けられることになったというわけだ。

映画の中では、「強制収容所での経験」が「自身の政治家としての活動」にどう影響したのかについて語られる場面はない。なのであくまでも私の想像に過ぎないが、仮に強制収容所に入れられなかったとしても、「不正義を許せない」という性格が貫かれたことに変わりはなかっただろう。強制収容所における描写から、その性格が彼女の生来のものであることが示唆されているように感じたからだ。

しかし一方で、もし強制収容所での経験がなかったとしたら、夫に「綺麗に着飾った主婦なんかになりたくない」と啖呵を切ってまで司法官に就任したり、欧州議会において「優先順位がある。そして、終戦を優先にしてはならない」と熱弁を振るったりすることもなかったかもしれないとも思う。やはり「シモーヌ・ヴェイユ」という政治家にとって、強制収容所での経験は凄まじいターニングポイントになったと言えるだろう。

ここが難しいところだ。先程も書いたが、仮に強制収容所での経験が「傑物シモーヌ・ヴェイユ」を生み出したのだとしても、到底、強制収容所という現実を肯定する気にはならない。当然のことだ。しかし、そのクソみたいな現実をシモーヌ・ヴェイユが生き延びたことで、多くの女性を救う「中絶法」が生まれ、またヨーロッパを1つにまとめる欧州議会を率いることが出来たと言えなくもないのである。ホロコーストという歴史はいかなる意味においても許容出来るものではないが、しかし、今さら過去を変えることは出来ないのだから、「そんなクソみたいな現実にも意味はあった」という形で、そこに慰めを見出すことぐらいはしてもいいのかもしれないとも思わされた。

そんな風にさえ思わせる凄まじい人物を描き出す映画である。

出演:エルザ・ジルベルスタイン, 出演:レベッカ・マルデール, 出演:オリヴィエ・グルメ, 出演:エロディ・ブシェーズ, 監督:オリヴィエ・ダアン, Writer:オリヴィエ・ダアン
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最後に

このような映画を観る度に私は、「今も世界のどこかで、第2第3のシモーヌ・ヴェイユが世界を変えるべく奮闘しているかもしれない」と想像させられる。少なくとも私は、この映画を観るまでシモーヌ・ヴェイユのことを知らなかったのだから、私が知らずにいる傑物が世界のどこにいたっておかしくはないと思う。足元の日本にだって、きっとたくさんいるはずだ。

世界の変革を個人の双肩に委ねるようなスタンスは、あまりに身勝手だと自覚している。しかし当然のことながら、誰もがシモーヌ・ヴェイユのように生きられるわけではない。となればやはり、傑出した個人の馬力に期待したくなってしまうものだろう。

だからこそ、いつも書いていることではあるが、凡人である私たちは、せめて「積極的に知る」という行動によって、「世界を双肩に載せた個人」の後押しをすべきなのだと思う。それぐらいのことは当たり前のように出来る人間でありたいと、常に考えている。

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