【評価】のん(能年玲奈)の映画『Ribbon』が描く、コロナ禍において「生きる糧」が芸術であることの葛藤

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:のん, 出演:山下リオ, 出演:渡辺大知, 出演:小野花梨, 出演:菅原大吉, 出演:春木みさよ, Writer:のん, 監督:のん, クリエイター:—, プロデュース:宮川朋之
いか

この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ

この記事で伝えたいこと

「生きていくのに必要なもの」は人によって全然違うのだと、コロナ禍で改めて思い知らされた

犀川後藤

そういう想像力こそ、私たちは失ってはいけないのだと思う

この記事の3つの要点

  • コロナ禍において、「身体機能の維持優先」に世界中が舵を切ったことで、「魂を生き延びさせる」ために何が必要か改めて気付かされた
  • 「『他人の価値観』を『自分の判断基準』で裁くこと」に対する強烈な嫌悪感
  • 特にのんのファンというわけではないが、のんの姿を見ると嬉しくなってしまう
犀川後藤

のん演じる主人公・浅川いつかの存在感もとても素敵な、見事な映画でした

自己紹介記事

いか

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません

映画『Ribbon』は、「コロナ禍において芸術を志すこと」の葛藤を通じて、「生きる糧」について考えさせる

私は、「芸術」には縁遠い人間ですが、興味を持って美術展に足を運んだり、デザインに関わる友人がいたりと、少しだけそういう世界を垣間見れる機会があります。この映画を観る直前に、芸術系の専門学校に通っている友人から卒展に誘われたこともあり、なおさら映画で描かれる人たちにより強く思いを馳せてしまいました。

犀川後藤

このブログの記事でも書いたけど、森美術館の「Chim↑Pom展」は衝撃的だった

いか

引用含めて4万字の文章を書いちゃうぐらい、脳みそ沸騰してたもんね

主人公がこんな風に言う場面があります。

世の中の人みんな、芸術なんかなくたって生きていけるんだって。
異常だよね。

「芸術を愛でない者は人間ではない」とでも言いたげなこのセリフは、視野狭窄に陥っているとも捉えられますが、しかし一方で、「『これがなければ生きていけない』と感じるものを誰もが持っている」という事実を浮き彫りにもするでしょう。コロナ禍は、まさにその事実を如実に浮かび上がらせたと私は感じています。

「生きていくのに必要なもの」は人によって違う

今でも印象的に覚えている話があります。かつて同じ職場で働いていた女性は、いわゆる「腐女子」で、ボーイズラブが大好きでした。とにかく日々、ボーイズラブの漫画を読み耽っている女性です。しかし彼女は、「ボーイズラブがこの世から消えても、きっと私は生きていける」と言っていました。その言葉はとても意外なものだったので、さらに話を聞くと、「『自分の心がぐわんと動く瞬間』があれば生き延びられる」というのです。例えば彼女は、バスに乗っている時、外を眺めていると、恐ろしく美しい、自分の内側に突き刺さるような光景に出会えることがあるといいます。そして、ボーイズラブが残っていたとしても、そういう「自分の心がぐわんと動く瞬間」がまったくゼロになってしまったら、きっと生きてはいられないだろう、と言っていました。

これは、私が「生きていくのに必要なもの」について考える時、いつも思い返すエピソードです。今でも印象的に記憶しています。

犀川後藤

この話をしてくれたのが、生きていくことにナチュラルに苦しさを覚えちゃうタイプの女性だったから余計覚えてる

いか

そういう人の話を聞く機会が結構あるから、「外からどう見えても、内面は想像できない」っていつも思ってるよね

映画『Ribbon』の主人公・浅川いつかにとっての「芸術」のような、「それ無しでは生きていけない」と感じるものは、誰しもが持っているでしょう。「推し活」や「食」など分かりやすいものから、なかなか人には理解してもらえないだろうものまで、様々なものが挙がるでしょうが、とにかく、「『人間の身体機能を維持するのに必要不可欠』とは言えないが、『人間の魂を生き延びさせるのに絶対に欠かせない』と感じるもの」は、きっと皆持っているはずです。

私の場合は、「『私の頭の中からは到底生まれ出ないような何か』に触れること」がそれに当たると言えるでしょう。例えば、先程挙げた「Chim↑Pom展」からは、久々に頭をガツンと殴られたような途方もない衝撃を受けたことを覚えています。賛否両論渦巻くアーティスト集団の作品ではありますが、「アートの手法を使って、鮮やかに社会批評をやってのける」というスタンスには、とても驚かされました。また、最近は映画をよく観ていますが、なるべく事前情報を調べないまま映画館で観るようにしているのも、「思ってもみなかったものに出会いたい」という欲求ゆえです。

さてこのように、恐らく誰もが「生きていくのに必要なもの」を持っていると思うのですが、コロナ禍はそのことに対する価値観を大きく揺さぶったと私は感じています。とにかく社会のあらゆる場面で、「身体機能の維持を優先しましょう」という措置が取られたからです。身体が傷ついたり悪化したりする様は見て分かりますが、魂が壊れていく様は目に見えません。だから、「魂を生き延びさせる行為」はことごとく「不要不急」という枠組みの中に入れられることになりましたす。

犀川後藤

私の場合は、コロナ禍でも「生きていくのに必要なもの」はほぼ制約されることはなく、ホントにラッキーだったわ

いか

外に出たり、みんなで集まったりすることが好きな人には、マジで辛かっただろうね

もちろん、「身体機能の維持優先」というスタンスは間違いなく正しかったと思います。決してそのことを批判したいわけではありません。ただ一方で、「魂を生き延びさせること」があまりにも軽んじられているように思えてしまう風潮には強く違和感を抱かされました。「頑張っている人がいる」「苦しんでいる人がいる」「みんな我慢している」みたいな言葉で、さも当然であるかのように「魂を生き延びさせる行為」が蔑ろにされてしまう状況に嫌悪感を抱いてしまったのです。

さらに、「『魂を生き延びさせる行為』は千差万別だ」という想像力も欠けているように私には感じられました。もちろん、公共の場を個人が専有したり、意図して他人を傷つけたりする行為はどんな理由があれ制約されるべきです。しかしコロナ禍においては、「それぐらい、目くじら立てずに許してやれよ」と感じる状況を多く目にしたようにも思います。

私はそういう「想像力の欠如した世界」に対して、大きな失望を感じていました

今は少しずつ、人々の行動を可能な限り制約せずにウイルスとどうにか折り合いをつけていこうというフェーズに入っている気がします。まだ先は長いかもしれませんが、少しずつ社会は、コロナ前を取り戻していくでしょう

犀川後藤

まあ、まったく同じには戻らないだろうけどね

いか

良くも悪くも、コロナウイルスは私たちに「生き方の変更」を強いたからなぁ

そんな中、「生きていくのに必要なもの」を制約された人たちはきっと、自分の何かを少しずつ欠損させながら今を生きているはずです。そういう人たちが社会にたくさんいて、ポストコロナの時代を生きていくことになります。

であれば、「自分は一体何を欠損したのか」を的確に把握しておくことはとても重要ではないかと思うのです。

こんなにも誰かに見てほしかったんだなって実感した。

卒展の中止を告げられた浅川いつかが、残念そうにそう語る場面があります。卒展の中止はとても悲しい事態ですが、中止が決定した以上、「自分はこんな感覚を抱いていたんだ」と気づくきっかけになったと、前向きに捉える他ないでしょう。コロナ禍で、「自分が一体何を大事にしているのか」について改めて考えさせられたという方も多いでしょうし、まさにそれが映画『Ribbon』の主題の1つと言っていいと思います。

「他人の価値観」を「自分の判断基準」で裁くんじゃない

映画を観ながら感じたことがもう1つあります。それは、「『他人の価値観』を『自分の判断基準』で裁くんじゃない」ということです。

いか

ホントに、こういう振る舞いにはイライラさせられるよね

犀川後藤

他人にされて、一番不愉快に感じる行為かもしれない

映画の中で、私が最もイライラさせられ、だからこそとても印象に残ったシーンがあります。主人公・いつかの部屋を片付けるために母親がやってきた際、母親がいつかの絵を勝手に捨てたのです。ゴミ捨て場から絵を救い出したいつかは母親に、「どうして謝らないの?」と詰め寄るのですが、それに対する返答として母親が言い放った言葉には驚愕させられました

お母さん、そんな悪いことしたぁ?

ホントに一刻も早く、こういう人種は世の中から滅んでほしいと思ってしまいました。

母親は娘の絵を見て、「子どもが遊んで描いたような絵」という感想を抱きます。それ自体は別に構いません。思っていることを口にすることが常に正しいとは限りませんが、どんな場合であれ「思うこと」は自由です。自分の内側に沸き起こった感覚を誰かが否定する権利などないでしょう。

しかし母親は、さらに先へ進みます。彼女は、「『子どもが遊んで描いたような絵』なんだから別に要らないよね」と勝手に判断し、いつかに確認もせずにゴミとして処分してしまうのです。その上で母親には、「自分が悪いことをした」という自覚がありません。そう口にするわけではありませんが、彼女は「『私が要らないと思ったもの』を捨てて何が悪いわけ」とでも考えているのでしょう。

本当に許容し難い存在だと感じました。

いか

そういう人間が、自分の「親」なんだって思うと、余計にしんどいよね

犀川後藤

私は、家族なんて「血が繋がってるだけの他人」ぐらいにしか考えてないけど、だからこそ、価値観があまりに合わないとしんどすぎる

コロナウイルスという、人間には太刀打ちできない自然の脅威が何かを制約するという状況は、まだ仕方ないと思えるかもしれません。しかし、誰かの価値観が誰かの行動を制約することは、私は許しがたいと感じてしまうのです。繰り返しますが、多くの人が社会の中で生きている以上、「どんなことでも許容されるわけではない」し、法律やルールといった最低限守るべき約束事は設定されるべきでしょう。しかし、その範囲に収まっているのであれば、誰のどんな行動も「他人の価値観」ごときで制約される謂われはありません

映画の冒頭は、卒展が中止になったことを受けて、家に持ち帰れないほどの大きな制作物を学生が自ら壊す場面から始まります。これはなかなか絶望的な場面だと言えるでしょう。まったく同じ状況に陥った人はそう多くはないでしょうが、コロナ禍において、自身の希望に反して意に染まない行動を余儀なくされた人はたくさんいたはずです。

そして、だからこそ私たちは、「人間による制約が、そのような悲劇を引き起こす状況」を回避する努力をすべきだと感じます。コロナ禍で多くの人が痛みを共有したからこそ、より高度な「想像力」を駆使して社会生活を送っていくべきではないか。そんな風に強く感じさせられました。

映画『Ribbon』の内容紹介

美大に通う浅川いつかは、新型コロナウイルスの蔓延を受けて、準備を進めてきた卒展の中止が決まったことを知る。校内アナウンスで、「翌日から校舎に入れません」と繰り返しアナウンスされた。いつかは、画材や絵をどうにかまとめて持ち帰ることに決める。家で続きをやるためだ。

学校から、親友の平井と一緒に帰るのだが、彼女は何も持っていない。あまりにも絵が巨大なため、持って帰って制作を進めることができないのだ。重い荷物を必死で運ぶいつかがその大変さを口にすると、「持って帰れるだけいいじゃん」と嫌味を言われてしまうが、平井の苦しさもよく分かる。

絵を持ち帰り、制作の続きをと考えたいつかだったが、平井の言葉が頭の中でグルグル回り、何も進まない。卒展が中止になったことで情熱が失われてしまったこともあり、絵をイーゼルに掛けてはみたものの、結局まったく手つかずのままだ。一人暮らしの部屋には何故か、母・父・妹が別々にやってきて、コロナ禍らしい、少し奇妙で、少し悲しいやり取りをする。

いつかは、気分転換を兼ねて、人気のなくなった公園でお弁当を食べてみることにした。しかしそこにはいつも、謎の男がいる。そしてどうも、自分が見られているような気がしてしまうのだ。なんとなく、その男の人がいる時には公園に立ち寄るのを避けるようになってしまった。

しかし、ふとしたきっかけから、いつかはその男の人と関わろうと決意するのだが……。

映画『Ribbon』の感想

何よりもまず「のん」が素敵

のん(能年玲奈)が出てくる作品を観る度に、何はなくともまず「のんって良いよなぁ」と感じてしまいます

犀川後藤

この前、映画『20世紀ノスタルジア』を観て、主演の広末涼子にも似たようなことを感じたなぁ

いか

やっぱ、広末涼子って、若い頃は特に凄かったよね

私は別に、のんのファンというわけではありません。それでものんの姿を見ると、なんだかウキウキしてしまうのです。どうしてなのかと色々考えてみるのですが、恐らく「『のんのような人がこの世界で生きていること』に対する嬉しさ」みたいな感覚ではないかと思っています。

別にのんについて詳しいわけではありませんが、のんが出ている映画を観る度になんとなく、「演じている役柄」と「のん本人」がイコールであるかのような錯覚を抱いてしまうことが多いです。制作側がのんに寄せてキャラクターを造形したり、のんにドンピシャでハマるキャラクターを見つけ出してくるのかもしれないし、あるいは、私たちののんに対するイメージが強すぎるのかもしれません。理由ははっきり分かりませんが、のんが演じる役柄は何故か、のんその人であるような気がしてしまうのです。

そして、私が知る「のんが演じる役柄」はどれも、「社会の中に上手くハマれないややこしさ」を抱えているように見えます。だから、そんなのん(のんの役柄)が、「特殊かもしれないけれど、彼女自身がそこそこハマれている環境」の中で生きている様を観ると、なんだか嬉しい気持ちになってしまうのでしょう。

特に映画『Ribbon』の場合、主演だけではなく、脚本・監督ものんなので、余計に「浅川いつか=のん」という風に捉えたくなってしまいます

いか

のん自身も、芸術方面の活動をやってたりするから、この映画には結構、自分の感覚を入れ込んでる気がするしね

犀川後藤

テレビが彼女を取り上げないっていう状況も、「コロナ禍における制約」を描くのに絶妙な背景って感じするし

そんなわけで、何はなくともまず「のんが素晴らしい映画」だと感じました。

浅川いつかと、周囲の人間との関わり合いがとても良い

この映画は、冒頭から最後まで、私にとって凄く良い雰囲気で展開される作品です。そしてやはりそれは、主人公の浅川いつかが私にはとても素敵な存在に感じられるからだと思います。

特に、彼女が周囲の人たちと関わる場面が素晴らしいと感じました。どういう経緯で仲良くなったのか分かりませんが、親友の平井とは、「本当になんでも打ち明けられるんだろう」と感じさせるやり取りをしています。また、妹とのやり取りもとても面白いです。妹はコロナウイルスをとても怖がっていて、いつかが引くぐらい消毒など念入りに行っています。そんな妹とのワチャワチャしたやり取りもとても面白かったです。「浅川いつか」でありながら同時に「のん自身」でもあるような振る舞いに感じられる、自然体な雰囲気が凄く良かったなと思います。

場面としては、先程も触れましたが、母親がいつかの絵を捨てるシーンが最も印象的でした。ホントに、「虫酸が走る」という表現が一番しっくり来るぐらい、耐えがたいと感じる場面です。私は、「他人と意見が合わないこと」は当然だと思っているし、そのこと自体は全然許容できます。しかし、「意見・価値観を押し付けられること」には我慢ならないので、本当にこの母親のような存在は、この地球上から駆逐されてほしいと感じてしまいました。

犀川後藤

ホントに、この点については、何度繰り返しても言い足りないぐらい、腹立たしかった

いか

こういう人が、実際に当たり前に存在するって事実に絶望するよね

また、具体的には触れませんが、物語の展開でアツかったのは、平井の絵に関する顛末です。まさかあれがあんな風になるとはという驚きがあって、なんとなく清々しい爽快感を抱かされました。犯罪行為も描かれるし、ルール違反は咎められるべきだと思っていますが、「実害」と呼べるものがほとんどなかったことを踏まえると、彼女たちの行動は許容したいという感覚にもなるでしょう。褒められる行為ではもちろんありませんが、「青春だな」と感じさせる場面でもありました。

出演:のん, 出演:山下リオ, 出演:渡辺大知, 出演:小野花梨, 出演:菅原大吉, 出演:春木みさよ, Writer:のん, 監督:のん, クリエイター:—, プロデュース:宮川朋之

最後に

タイトルの通り、映画の随所で「リボン」が映し出される演出があります。この意図は正直、私には上手く受け取れませんでした。しかし、そんなことはどうでもいいと感じるほど、「のん」も「浅川いつか」も素敵な映画です。

コロナ禍で誰もが経験してしまった「欠損」を直視してみよう。そんな感覚になれる作品とも言えるかもしれません。

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