はじめに
この記事で取り上げる映画
この映画をガイドにしながら記事を書いていくようだよ
この記事で伝えたいこと
津田伸一は、「あまりに酷い現実」を覆い隠そうとしてこの小説を書いた
私は、「富山編」のほとんどすべてがフィクションだと考えています
この記事の3つの要点
- 「東京編」から、「秀吉一家失踪事件」と「3000万円の存在」は事実と言っていい
- ニセ札の存在やニセ札事件の発生には証拠がない
- 「本通り裏」や「本通り裏を牛耳る存在としての倉田健次郎」など実在するのか?
「ピーターパンの本は何故絶妙なタイミングで戻ってきたか」と「何故ラストで幸地秀吉と倉田健次郎が一緒にいたのか」がポイントです
自己紹介記事
どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください
記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません
映画『鳩の撃退法』を徹底考察!ネタバレを一切気にせず、1万7000字もの超長文でわかりにくい部分まで詳細に解説した
もの凄く面白い作品でした。非常に良く出来た構成で、「何が真実なのか」を考えながら展開を追っていくという鑑賞体験が非常に魅力的だと感じます。内容については後でネタバレ全開で詳しく触れますが、「小説家が執筆した物語の内容は事実なのか」という点が非常に重要なポイントとなる作品で、最後の最後まで「何が真実なのか」に揺さぶられ続けるでしょう。
特に、最後の最後で「えっ???」ってなるよね
それまで考えてたことが全部吹っ飛ぶようなラストの展開はお見事でした
原作がある映画で、私は原作も読んでいます。
上下巻という重厚な作品ですが、一気読みさせられてしまいました。読んだのが大分昔なので、正確なことを覚えているわけではありませんが、原作そのままを映像化するのはかなり困難なはずなので、恐らく原作と映画では内容に若干違う点があると思います。
上下巻という長い小説を2時間にまとめる場合、原作から要素を削りすぎてつまらない内容になってしまうことも多いのですが、『鳩の撃退法』はそんなことはなく、原作は原作として、映画は映画としてどちらも楽しめる作品に仕上がっていると感じました。
ちなみに本作は、作中の登場人物である小説家・津田伸一が「実在の事件をベースにしている」と書いているため、「実話をベースにした物語なのではないか」と考える人もいるようですが、そうではありません。あくまでも「津田伸一がそう言っているだけ」であり、佐藤正午が書いた小説『鳩の撃退法』も、それを原作とした映画も、すべてフィクションです。
映画『鳩の撃退法』の内容紹介
主人公の津田伸一は、かつて有名な文学賞を受賞したこともある作家だが、現在は文壇から離れており、どんないきさつがあったのか、富山県のデリヘルでドライバーとして働いている。「房州書房」という古本屋の店主と懇意で、日々他愛のないやり取りをしながら、とりたてて何もない日々を過ごしている。
すべてが動き出したのは、うるう年の2月29日のことだ。津田はよく行くコーヒーショップで、よく見かける男に声を掛けた。その男はいつも本を読んでいる。そのコーヒーショップで本を読んでいる者など他におらず、ずっと気になっていたのだ。
2人の会話は、どうということもない内容である。津田は房州書房で買ったピーターパンの本を持っており、男に「ピーターパンは実は女たらしなのだ」という話を始める。男は家にいる妻と娘のことに少し触れ、何か自分に言い聞かせるようにして2人の愛を語る。
去り際に津田は男に、「だったら別の場所で2人を出会わせるべきだろうな」と呟く。男が持っていた本の帯に書かれていたことに反応したのだ。
そんな他愛もないやり取りをした後、その男・幸地秀吉は家族と共に失踪した。しかし津田がその事実を知るのは、少し先のことになる。
失踪する直前の秀吉の足取りはこうだ。その日、彼は妻から妊娠を告げられる。それは秀吉にとって信じがたい告白であった。そしてその衝撃ゆえに、秀吉は店長を務めるバーに欠勤の連絡を入れ、バイトに店を任せた。そしてその後、コーヒーショップに行き津田と出会うことになるのだ。
さて、2月29日の津田の行動はどうだっただろうか。この日彼は非常に慌ただしい夜を過ごしていた。
秀吉と別れた後、津田はデリヘル嬢のまりこから呼び出される。なんでも、友人を駅まで送ってほしいというのだ。友人だと紹介された男(晴山)を車に乗せるが、ターミナル駅まで送ってあげてほしいというまりこの指示に反して、晴山はその先の無人駅へと向かうよう口にする。
その道中、デリヘルの社長から電話が掛かってきた。うっかり面接希望者とのアポイントをすっぽかしてしまったから、メシ代を払って家まで送ってやってくれないか、というのだ。津田は、まず晴山を無人駅へと送り(そこで晴山は別の車に乗り込み、女とキスをする)、それからファミレスへと向かった。
そこで待っていた「面接希望者」というのは、先日津田が房州書房の店内で見かけた女性だった(蔵書を売りに来ていたのだ)。恐らくシングルマザーなのだろう、2人の娘を連れて面接を待っていた。面接は後日改めてと伝え、彼女たちを家まで送り届ける。
これが、2月29日に起こった出来事である。
それからしばらくして、房州書房の店主が亡くなった。津田は、房州書房を管理する不動産会社の女性とセフレのような関係にあり、その女性から、店主が津田に遺したキャリーバッグの存在を聞かされる。そのバッグを受け取る際に、津田は女性から「秀吉一家が失踪した」という事実も併せて耳にしたのだ。
店主が遺したキャリーバッグには4桁のダイヤル錠がついていた。津田は「0000」から地道に数字を合わせ、なんとか解錠に成功する。
中にはなんと3003万円の現金が入っていた。いつどこで紛失したのかも覚えていないピーターパンの本と共に。
なんだこれは?
ここで物語は、舞台を東京へと移す。
実はここまで説明してきた「富山で起こった出来事」は、すべて「津田伸一が書いた小説の内容」である。その原稿に、出版社の編集者が目を通している。編集者は津田が働く高円寺のバーまでやってきて、彼の原稿を出版すべく検討しているのだ。
そんな彼女が何度も津田にぶつける質問が、「これはフィクションなんですよね?」である。
実は津田には厄介な過去がある。事実をそのまま小説にしたと訴えられたことがあるのだ。津田自身はそれを苦い記憶だと思っていないようだが、編集者は同じ轍を踏むまいと慎重になっている。
津田は言う。この小説は、「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」である、と。しかし、津田の小説に書かれたことの「続き」のような出来事が、津田や編集者がいるバーで度々繰り広げられることになり……。
「津田の小説が事実か否か」はなぜ「問題」なのか?
この映画では、津田の原稿をチェックする編集者による、「この原稿は事実なのかフィクションなのか」という疑問が、1つ大きな問題として取り上げられます。
もちろん、これが問題になるのは、内容紹介で説明した通り、かつて津田が訴訟問題に巻き込まれているからです。しかし実は、それだけではありません。編集者は、この原稿を出版したら訴訟問題などのトラブルに巻き込まれるのではないか、と心配しているだけではなく、この原稿を出版することで津田が直接的な被害を受ける可能性があるのではないか、という可能性まで考えています。
というのも、津田が小説に書いていることは、「裏社会」の実情を暴くようなものだからです。
富山で津田が住んでいた周辺には、「本通り裏」と呼ばれる「裏社会」の存在がまことしやかに囁かれています。その「本通り裏」を牛耳る「倉田健次郎」という男のことを誰もが恐れており、津田の小説はその「倉田健次郎」の悪事を指摘するような内容なのです。
「倉田健次郎」についての沼田の発言はなかなか良かったね
「誰か1人でもいると思っていれば、本当にいるかどうかに関係なく存在するんです」みたいなやつね
津田が受け取った3003万円の一部を使ってみたところ、それが「ニセ札」であることが明らかになり大騒動を引き起こすことになります。小説の中では、「この町で何か起これば、倉田さんが絡んでいる」という発言が出てくるので、当然この「ニセ札」も倉田健次郎と関わるでしょう。さらに津田の書いた小説は、「秀吉一家失踪」にも倉田健次郎が関係しているのではないか、という展開を見せることになります。
小説の中で津田は、「本通り裏」とはほとんど関係がないということになっています。津田の「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」という発言をそのまま受け取れば、津田の小説の成り立ちはこう推測できるでしょう。現実世界の津田自身は、ごく僅かな情報しか得ていないが、それらをつなぎ合わせ、抜けている部分を想像力で補うことで、「こんなことが起こったのではないか」という物語を紡ぎ出したのだ、と。
例えば、「お◯◯うご◯◯ま◯」のように歯抜けになっている文章の途中の文字を想像力で埋めて「おはようございます」という文章を再現している、というようなイメージでいいでしょう。
津田はバーの中で編集者に問われて、「『小説を書く前に自分が知っていた情報』はたったこれだけだ」と具体的に列記していました。本当にそれしか知らず、残りの部分を想像力で埋めているのだとすれば、津田にとっても編集者にとってもなんの問題もありません。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
津田の小説の続きのような出来事が編集者の目の前で起こるからね
「作家的想像力を駆使して生み出した物語がたまたま正解だった」なんて可能性、あるのかな?
編集者はバーで、「3000万円の寄付に感謝する人物」や「秀吉と思われる人物が返したピーターパンの本」などに遭遇します。これらは間接的に、「小説の中でフィクションとして描かれている、津田が本来的には知り得なかった出来事も、実際に起こったことである可能性」を示唆するわけです。
そうなってくると、津田の「現実の出来事を元にした、起こり得た物語」という主張を疑う余地が出てくるでしょう。津田は想像力で余白を埋めたのではなく、事実を知っていてそれを小説に書いただけなのではないか。もしそうだとすれば、その原稿を出版することによって津田も出版社も危険にさらされる可能性があるわけです。
そんな背景があるために、この作品では、「津田の小説の内容はどの程度真実であり、どの程度フィクションなのか」という点が非常に重要な問題として焦点が当たり続けることになります。
ネタバレ全開で『鳩の撃退法』の考察を行う
考察を始める前に押さえておくべき基本的なスタンス
ここまで書いてきたことは、この映画で提示される情報や押さえておくべき見方などについて私なりにまとめただけです。
それではここから、私なりにこの映画を考察していきたいと思います。
ちなみに、映画は1回しか観てません
原作を読んだのも大分前なので、「原作ではこうだった」という情報も含みません
まず、この映画を捉える際、確実に「支柱」になると言えるものを押さえておきましょう。それは、「編集者が絡む『東京編』で描かれることはすべて事実だ」という点です。
先ほどから書いている通り、この映画は「編集者が、津田の作品の真実性を見極めたいと考えている」という点がポイントの1つなので、「編集長が存在する場面で起こる出来事は、すべて事実だと捉えていい」ということになるでしょう。というか、そう考えなければ話が進みません。
津田の小説に関して、編集者が共犯となってウソをつく動機は一切ないので、「編集者が目撃したことは実際に起ったこと」と捉えていいでしょう。
一方で、「『富山編』はすべての描写が嘘である可能性がある」という点も重要です。富山で起こった出来事(津田が小説に書いている内容)にも事実は含まれているでしょうが、どれが事実であるか判定する術はありません。
なので考察を行う際には、「『富山編』で何が起こったか」から考えるのではなく、「『東京編』で何が起こったか」を軸足にする必要があるのです。
さらに私は、「『東京編』における津田の発言は嘘の可能性がある」と捉えています。「東京編」はほぼすべて事実と考えていいわけですが、津田の発言だけは信用できません。というのも私は、津田がこの小説を書いた動機は、「何らかの真実を覆い隠そうとするため」だと考えているからです。津田には、事実を捻じ曲げてでもこの小説を書かなければならない動機があり、そのためならいくらでも嘘をつく、という風に私は捉えています。
だから、「東京編」の内容であっても、「津田がどんな風に語っているか」についてはすべて疑問符をつける必要があると考えるわけです。
これが、私が考察を始める際のスタートラインになります。このスタンスに疑問を抱く場合、私の考察内容はまったく的外れということになるでしょうから、ここで読むのを止めていただくのがいいかと思います。
しかし、これ以外の考え方ってあるかな?
正直、ちょっと思いつかないんだよね
考察1:「秀吉一家失踪事件」
まず「秀吉一家失踪事件」について考えていきましょう。これは間違いなく起こったことだと断言できます。何故なら、編集者が富山まで行き確認しているからです。
編集者は富山で、津田が通っていたコーヒーショップの店員・沼本と会い、彼女から聞く形で「秀吉一家失踪事件」の事実を確認しています。沼本が編集者に嘘をつく理由も無いでしょうし、売りに出されている秀吉一家のかつての自宅も見ています。
ただ実際のところ、津田と沼本がどんな関係性なのかは分かりません。2人の関係は「富山編」でしか描かれないからです。
「富山編」の中で、津田が沼本の名前を間違える場面が繰り返し描かれます(本当は「ぬもと」と読むところ、津田は何度も「ぬまもと」と呼ぶ)。これについては、「津田が敢えて沼本の存在を印象付けようとしている」という可能性を考えることができるでしょう。
もしそこに意味があるとすれば、「編集者が小説の内容の事実確認を行う際に、まず沼本にアプローチさせるため」ぐらいしか思い付きません。そしてもしそうだとすれば、「あらかじめ沼本に、『編集者に良いように言っておいてくれ』と言い含めている」という可能性も考えられます。
しかし個人的な印象ですが、その可能性は低いのではないかと考えています。敢えてその理由を挙げるとすれば、「富山編」で沼本をバーに連れていくシーンを描いているから、でしょうか。
津田がもし「沼本の存在」を編集者に印象付け、最初にアプローチする人間に選ばせようとしているなら、「津田と沼本の関係性が一定以上のものである」という示唆を与えない方が安全でしょう。「富山での津田の行動についてある程度知っている」「しかしさほど親密ではない」という程度の描写に抑えておくべきだと思います。
しかしバーの場面では、津田と沼本のなんとも言えない距離感が描かれます。津田にもし意図がある場合、このバーの場面を入れる意味はあまりないんじゃないかと思っているのです。
あくまでも印象でしかないけど、沼本が津田のために嘘をついてる可能性は低いと思うんだよなぁ
「富山編」で描かれている沼本のキャラクターがあの感じだとしたら、他人のために嘘をつくタイプでも無さそうだしね
少し脱線しすぎましたが、このように考えて私は、「秀吉一家失踪事件」そのものは起こっていると考えています。
しかし、「秀吉一家失踪事件」の背景として描かれたあらゆる出来事は、実際には起こっていないだろう、というのが私の考えです。「妻から妊娠を告げられたこと」や「郵便局員(晴山)と妻の不倫」、「港で起こった乱闘騒ぎ」などはすべて津田の想像の産物だろうと考えています。
「東京編」をベースに考えれば証拠がない、というのが主な理由ですが、編集者が沼本と会った際のとある出来事からもそう感じました。
沼本が編集者に、津田の忘れ物としてSDカードを渡す場面があります。津田の小説を読んでいた編集者は、このSDカードの中身は「郵便局員が撮影したアダルトな映像」だと考えており、思わず沼本に「これ見たの?」と確認するわけです。それに対して沼本は「はい」と、大したことではないような返事をします。
もしSDカードの中身が本当に「アダルトな映像」だったとしたら、沼本の反応はもう少し違うものになったでしょう(というかそもそも、編集者に返却などしない)。そこから私は、「このSDカードの中身は、アダルトな映像なんかではない」と推測しました。
そしてそうだとすれば、「郵便局員の不倫にまつわるすべての出来事」が嘘である可能性が高まると判断していいだろうし、もしそうなら「秀吉一家失踪事件」に関する背景が基本的に成り立たなくなると言えるでしょう。妻が妊娠しなければ、あの日秀吉はバーを欠勤しなかったはずだからです。
このような考えから私は、「秀吉一家失踪事件は実際に起こったが、その背景として語られている出来事はすべて津田の創作」と考えています。
この「秀吉一家失踪事件」が、津田がこの小説を書いた動機の根底にあると考えてるんだよね
まあその話はもう少し後で
問題は、高円寺のバーで提示された「男女2人が死亡」という新聞記事です。これは明らかに「秀吉一家失踪事件」と関わるものですが、この「男女2人」が誰であり、どんな理由で死亡に至ったのか、については推測の糸口があまりないと感じます。可能性だけならいくらでも挙げられるかもしれませんが、その可能性の中から絞り込みを行う条件があるようには思えません。
ここまでが「秀吉一家失踪事件」に関する考察です。
さてそれでは続いて、「ニセ札」の話に移りましょう。
考察2:「3003万円とニセ札」
先ほど同様、「東京編」に軸足を置いて考察を進めた場合、確実なのは「3000万円」の存在だけです。
この「3000万円」が何なのかについての考察は少し後回しにするとして、先に「3万円」の話をしましょう。
この3万円は「富山編」で「ニセ札」として登場しますが、「東京編」では一切描かれません。「東京編」を事実とした場合、「富山でニセ札にまつわる騒動が起こった証拠は一切存在しない」と言っていいでしょう。編集者は富山へ調査に出向いた際、「理容室まえだ」が閉店している事実だけは確認しましたが、「理容室まえだの閉店」だけでは「ニセ札事件が起こった証拠」とはとても言えません。
映画では、「富山編」でも「東京編」でもいくつか新聞記事が登場しますが、それらは「秀吉一家失踪事件」に関するもののみで、私の記憶では「ニセ札事件」に関する新聞記事が出てきたことはなかったと思います。客観的な証拠は皆無と言っていいでしょう。
「富山編」では「ニセ札事件」は非常に大きなボリュームで描かれるので、「当然起こった出来事」だと考えたくなりますが、「東京編」をベースに考えれば「ニセ札事件が起こった証拠はない」というのが私の結論であり、「ニセ札にまつわるすべての出来事は津田の創作」だと考えています。
しかし「ニセ札」が本当に存在してないとしたら、津田伸一の想像力はなかなかのもんだよね
さすが文学賞を受賞した作家だけのことはある
それではここから、「3000万円」について考えていきましょう。
「東京編」で3000万円が登場するので、何らかの形で3000万円が絡んでいることは間違いないと言えます。しかしこの3000万円、本当に「古書店主の遺産」として受け取ったのでしょうか?
私は2つの理由から、「古書店主の遺産」ではない、と考えています。
1つ目の理由は単純で、「そんな理由で3000万円を受け取るなんてことがあり得るだろうか?」という印象の問題です。どれだけ古書店主と懇意の関係にあったとしても、赤の他人に3000万円を遺す理由はなかなか想像できません(「富山編」の中でもその理由は明確には描かれません)。そういうことが絶対に無いとは言えませんが、フィクションであるという方が納得できるでしょう。
また、より現実的な話をすれば、相続税などの問題を回避できる気がしません。もし古書店主が津田に3000万円を遺していた場合、税務署が絡まないはずがないでしょう。もしあんなお金の遺し方が実際にできるのなら、脱税のし放題ではないかと思います。そういう意味でも、「古書店主が津田に3000万円を遺した」と考えるのは無理があると感じるのです。
2つ目の理由は、「東京編」での3000万円の登場の仕方に関係があります。正確には覚えていませんが、「恵まれない子どもたちへの寄付」というような形だったはずです。そしてこれは、「倉田健次郎」を通じて津田の名前で行われた、ということが示唆されます。
「富山編」での倉田健次郎の描かれ方を考えた場合、「恵まれない子どもたちへの寄付」というのはあまりにも違和感があると言えるでしょう。そしてここから私は、「富山編で描かれるような倉田健次郎は実在しない」と考えているのですが、その話はもう少し後にしましょう。
ある意味では沼田の発言が伏線だったと言えるかもしれないね
「誰か1人でもいると思っていれば~」っていう発言が、「実は存在しない」ことを示唆するってことね
さて、「東京編」を事実と考えるので、「恵まれない子どもへの寄付を倉田健次郎が行った」というのは実際に起った出来事と捉えます。そしてこれをそのまま素直に受け取れば、「3000万円は元から倉田健次郎の元にあった」、つまり「津田の元に3000万円が存在したことは一度もない」という想像も可能でしょう。
これは、「3000万円が古書店主の遺産ではない」という想像と併せて考えることでより信憑性が増すと思います。「富山編」では、「津田が手にした3000万円が紆余曲折を経て倉田健次郎の手に渡った」ことになっていますが、そうではなく、「元々津田の手元に3000万円は存在しておらず、倉田健次郎が自らのお金である3000万円を寄付した」と考える方がどう考えても自然でしょう。
さてここまでの「3003万円」の話をまとめてみましょう。私の考察では、
- ニセ札は存在せず、当然ニセ札事件も起こっていない
- 3000万円は古書店主が遺したお金ではない
- 倉田健次郎は何らかの理由で、自分の3000万円を寄付した
ということになります。割と妥当な判断だと思うのですが、いかがでしょうか?
次の考察は、津田伸一・幸地秀吉・倉田健次郎の3人の関係性についてです。
考察3:「津田伸一・幸地秀吉・倉田健次郎の関係性」
まず倉田健次郎について考えてみましょう。
先ほどの考察で「倉田健次郎は何らかの理由で、自分の3000万円を寄付した」としました。これを素直に捉えれば「倉田健次郎=善人」となるでしょう。
後で詳しく触れますが、私の想像通り津田が「何らかの事実を覆い隠すためにこの小説を書いた」のだとして、その事実に「倉田健次郎」も絡んでいるならば、小説内では実際とは真逆の人物として描く方が安全、と考えるのはそう突飛な発想ではないでしょう。津田も同じように考えたかもしれません。
つまり、「本通り裏を牛耳る存在」として描かれている「倉田健次郎」は、実際にはそのような人物ではまったくなく、「恵まれない子どもたちのために寄付を行う善人」であるという風に考えてもいいのではないかということです。
まあ、そう考える証拠も特にないわけだけど
でも、そう考えると「3000万円」を説明しやすくなる気がするんだよな
そう、もし「倉田健次郎=善人」説が正しいとすれば、今度は「なぜ倉田健次郎は3000万円もの大金を寄付したのか?」という謎が出てきます。
そしてその理由に「秀吉一家失踪事件」が関係している、と私は考えているのです。
「東京編」のラストでは、秀吉と倉田が一緒にいるという衝撃的な展開を迎えます。「富山編」の物語が真実ならこんな展開は考えられません。このラストから、「津田が書いた小説はほとんどフィクションなのではないか」と推測できるわけですが、とりあえずまず確実に言えることは「秀吉と倉田には何らかの繋がりがある」ということでしょう。
ここまでの情報をまとめてみます。
- 幸地秀吉は何らかの理由で家族と共に失踪した
- 幸地秀吉と倉田健次郎には何らかの繋がりがある
- 倉田健次郎は何らかの理由で、自分の3000万円を寄付した
さてこれらの情報から、こんな想像をしてみるのはどうでしょうか。つまり、「3000万円は、幸地秀吉の失踪に関する『お礼』として存在した」と。
ここからは「東京編」で描かれる事実ベースではなく、妄想が多目の考察になっていきます。
まず私は、「秀吉の失踪に津田が関係している」と考えています。「秀吉一家失踪事件」は、津田の預かり知らぬところで起こっていたのではなく、津田自身が積極的に関与して行われた、という想像です。そう考えると、「津田がこの小説を書いた理由」も納得しやすいと思うのですが、その説明はもう少し後回しにします。
私の想像はこうです。
秀吉は何かトラブルを抱えており、津田はその窮状を知っていた。津田は秀吉をなんとか救いたいと考えるが、普通のやり方ではどうにもならないほど状況は錯綜している。だからこそ津田は最後の手段として、「秀吉一家が失踪したことにする」というアクロバティックな解決策を実行に移すことにした。
そして、「秀吉と何らかの関係性のある倉田が、『秀吉一家を失踪させてくれたお礼』として『3000万円』を用意した」というのが、私が考える「津田伸一・幸地秀吉・倉田健次郎の関係性」です。
コーヒーショップで出会う以前から、津田と秀吉は知り合いだったってことね
ってか、そうだとしたら、コーヒーショップで会ったって描写はフィクションだろうね
では、何故3000万円は「津田の手に渡る」のではなく、「寄付」という形になったのでしょうか?
ここで私が注目したのが、「面接希望者であるシングルマザー」です。社長から頼まれてファミレスでピックアップした、古本屋で会ったこともある女性の存在が、私には「富山編」の中でちょっと浮いているような印象だったのです。
「富山編」の中にも当然、実際の出来事や関係性が登場するでしょう。100%フィクションということはないはずです。そこで、この「シングルマザー」と津田は現実の世界で元々何らかの関係があった、と考えてみます。
「東京編」で、寄付先が「恵まれない子どもたち」だと判明するわけですが、それはシングルマザーとも結びつくでしょう。そして「『恵まれない子どもたちへの寄付』が『津田へのお礼』になる」と仮定するならば、このような物語を思い浮かべることができます。
つまり、「津田伸一は富山で、恵まれない子どもやシングルマザーを支援する活動を行っていた」と。
「富山編」で津田はデリヘルのドライバーとして登場しますが、これも事実かどうかは不明です。「支援活動の中で、デリヘルで働くシングルマザーと接する機会が多かった」というのが事実で、だから小説の舞台として「デリヘル」を選び、登場人物の1人として「シングルマザー」を登場させた、と考えることはそう難しいことではないと思っています。
そして、「そんな支援活動を行う津田」へのお礼として「恵まれない子どもたちへの寄付」が存在する、と考えると上手くまとまるのではないか、と考えているのです。
かなりの妄想だなぁ
でも、否定はできないんじゃないかと思う
では、このような前提を踏まえた上で、私が想像する津田伸一・幸地秀吉・倉田健次郎の関係性について改めてまとめてみましょう。
まず、幸地秀吉の身に何かマズいことが起こる。ここでもしかしたら秀吉は、倉田健次郎に助けを求めたかもしれないが、お金で解決できるような問題ではなく、倉田の手に負えない。そこで、何らかの形で津田伸一と知り合い、結果的に津田が秀吉の窮状をなんとかしてあげることになった。
あるいは、さらに想像力を逞しくすればこういう可能性もあるだろう。
津田は支援していたシングルマザーの一人から相談を受ける。それは、そのシングルマザーと親しい関係にある幸地秀吉(あるいはその妻)が危険な状況に陥っているから助けてもらえないか、というものだった。そのような形で津田は秀吉と知り合い、一家を失踪させるという形で窮地を救う。
いずれにせよ、何らかの形で津田が秀吉を救った、と考える。
そしてそれを知った倉田が、秀吉の代わりに津田にお礼を申し出る。津田はそれを固辞するが、倉田も引かない。ならばと津田が提示したのが、自身の活動に関係する先にお金を寄付してもらえないか、という案だった。倉田はそれを了承し、3000万円が「恵まれない子どもたち」へ寄付された。
もちろん、こんな出来事が起こったことを示唆する証拠はありません。ありませんが、こう考えることで「東京編」で「ピーターパンの本」が戻ってきたのはなぜなのか、という問題を解決することはできる、と思っています。次はその考察をしていきましょう。
考察4:「なぜピーターパンの本は津田伸一の元へ戻ってきたのか?」
この謎は、「どうして秀吉は津田の居場所を知っていたのか?」という問題に集約されると言っていいでしょう。「富山編」で起こったことを事実とするなら、秀吉は津田の消息を知り得ないはずです。となれば、ピーターパンの本を返却することもできなくなります。
ピーターパンの本の返却は「東京編」で起こったことなので事実です。つまり、なぜ秀吉が津田の消息を知っていたかを説明する必要があるでしょう。
「ピーターパンの本の返却」と「秀吉と倉田が一緒にいる」という2点が主に、「富山編」がフィクションであることを裏付ける証拠かなと思ってる
ラストのその怒涛の畳み掛けで、観客は混乱するよね
そして、最も自然な可能性が、「津田伸一と幸地秀吉は、コーヒーショップですれ違っただけの関係ではなく、元から何らかの繋がりがあった」というものでしょう。
秀吉一家は2月29日に失踪してしまいます(これは新聞記事などの証拠があるので事実でしょう)。津田が秀吉と失踪当日に初めて会ったとする場合、「秀吉が津田の消息を知っていること」が説明できなくなります。なので、以前から知り合いだった、と考えるのが真っ当だと思うのですがどうでしょうか?
もちろん可能性としては、「秀吉が必死で津田を探し当てた」という線もゼロではありません。しかし私は、ある理由からそれは否定されると考えています。というのも、津田が編集者に「もし秀吉が自分に会いに来るなんてことがあるとしたら?」と問いかけたその直後にピーターパンの本が届くからです。
もちろんこれは、「映画的な演出」でしかないかもしれませんが、そういう風に考えると元も子もなくなるのでその説は捨てます。あくまで私は、「高円寺のバーで津田が編集者に『もし秀吉が来たら?』という話をした直後にピーターパンの本が届けられた」という出来事を事実と捉えて考察していきます。
「絶妙なタイミングで秀吉がやってきたのはただの偶然」なんて可能性は非常に低いでしょうから、津田と秀吉があらかじめ打ち合わせをしていたと考えるのが自然でしょう。となれば、津田と秀吉は連絡を取り合える関係だ、ということになります。このシーンだけからも、津田と秀吉の関係性が想像できるでしょう。
あんまり記憶がはっきりしてないんだけど、「富山編」では結局、最後にピーターパンの本を持ってたのって倉田だっけ?
ちゃんと覚えてないけど、倉田でも秀吉でも、この説は成り立つから大丈夫
さて、私の考察通り、「津田と秀吉はあらかじめ打ち合わせており、非常に良いタイミングでピーターパンの本を返しに来た」とするならば、次に考えなければならないのは、「津田と秀吉はなぜそんなことをしたのか?」です。
「津田と秀吉は元々知り合いだった」という私の考察が正しいとすれば、わざわざ高円寺のバーまで来ているのにこそこそ本を返すのは変でしょう。連絡を取れるなら直接津田に返せばいいだけです。しかし彼らはそうせず、編集者と意味深な会話をした直後に返却するという行動をわざわざ取った、ということになります。
何故でしょうか?
私はその理由を、「編集者に、小説の内容を『真実』だと信じさせようとしたから」だと考えています。
あれ? 津田は、自分の小説が「真実」だと思われちゃマズいんじゃなかったっけ?
表向きはそうなのよ。でも私の考察では、実は津田は、小説の内容を「真実」だと編集者に信じ込ませたかったはず
その理由について、「津田が何故この小説を書いたのか?」と併せて考察していきましょう。
考察5:「津田は何故この小説を書いたのか?」
津田と秀吉2人の間で完結する話なのだから、普通に考えれば、秀吉と打ち合わせをしてバーでピーターパンの本を返却するタイミングを決める理由などありません。もしそこに理由が存在するとすれば、「編集者に何かをアピールしたかった」としか考えられないでしょう。そしてこの仕掛けによって編集者にアピールできることと言えば、「小説の内容が真実であること」だけだと思います。
この記事の初めの方でも書いたように、「東京編」の基本的な焦点は「津田の小説が真実かどうか」です。津田の過去のトラブルの経験から、編集者としては真実であっては困るので、津田からフィクションであるという確証を得ようとしている、というのが編集者の行動原理になります。
しかし津田は、編集者のそんな心配に、まともに対応する気配がありません。もちろんこれは、「小説家たるもの、自分が書いた物語で損害を被ろうが本望である」みたいなスタンスの可能性もあるわけですが、それよりは、「津田自身は小説の中身が真っ赤な嘘だと分かっているから」という方が自然な受け取り方ではないかと思います。
編集者は、「この小説の内容が事実なら、『本通り裏』の悪事を暴いていることになり、出版社だけではなく津田自身も危険なのでは?」と心配しているわけですが、津田は「『本通り裏』の悪事も、そもそも『本通り裏』も存在しない」と分かっているから安心している、と考えるわけです。
津田伸一って、何を考えているのか掴めないキャラだから、編集者の心配を受け流す感じが全然違和感ないんだよね
藤原竜也の演技も見事だってことだろうね
さて、もしそうだとしたら、また別の疑問が出てきます。それは「津田は何故この小説を書き、何故編集者に対して『内容は事実かもしれない』という曖昧な態度を取り続けているのか?」です。
私はその理由を、「秀吉一家失踪の真実を覆い隠すため」だと考えています。
秀吉(あるいはその妻)に何があったのか分かりませんが、彼らが失踪せざるを得なくなった本当の理由は、その一端でも明らかになったらヤバいような、とんでもない事態なのだとしてみましょう。秀吉一家が失踪したことは新聞でも報じられているので、その事実自体をなかったことにはできません。しかし、その理由を捻じ曲げることは不可能とは言い切れないでしょう。
そこで津田は、「起こり得たかもしれない物語」を書くことに決めます。
この「起こり得たかもしれない」というのは「東京編」で津田が発する言葉ですが、観客はこれを、「自分には知り得ない情報を作家的想像力で埋め合わせて物語を紡いだ」という意味だと受け取ります(津田もそのような趣旨の発言をしていました)。しかし、「津田はすべてを知っており、その真実を覆い隠すためにまったくの偽りの物語を生み出した」という意味だと受け取ることもできるでしょう。
津田はもしかしたら、「むしろこの小説のようなことが起こってくれた方がまだマシだった」みたいな意味も込めてたかもね
「だったら別の場所で~」っていう言葉も、津田のその想いを示唆するかもしれないよね
「富山編」の中で津田が秀吉に対して言った、「だったら別の場所で2人を出会わせるべきだろうな」という言葉は、非常に唐突感があります。秀吉が持っていた本の帯のフレーズに反応した、という設定ですが、初対面という設定の者同士のやり取りとしては不自然に過ぎるでしょう。
しかしこれを、「この物語は事実を捻じ曲げるために生み出された」という宣言を津田が小説の冒頭で行ったのだと捉えれば、さほど不自然ではなくなるかもしれません。「秀吉が一家で失踪しなければならなかった事情」に関わる者がこの一文を読めば、津田がやろうとしていることの意図を察するかもしれない、と津田が考えている可能性もあると思います。
そしてこのように考えた時、「この小説が『真実』だと思い込ませる」ことに意味が出てくると言えるでしょう。
ここまでの話を踏まえて、この小説を書くことで津田が何を目論んでいたのかをまとめてみます。
秀吉一家を無事失踪させた津田は、「秀吉一家が失踪した理由」をどうしても詮索されたくなかった。秀吉(あるいはその妻)が直面した現実があまりにも辛すぎるからだ。しかし「秀吉一家が失踪した」という事実は新聞でも報じられているし、隠すことはできない。
だったら、「秀吉一家が失踪せざるを得なかったもっともらしい理由」を作家的想像力ででっちあげ、それを小説として出版しようと考えた。小説に書いたことはほとんど嘘っぱちだが、「秀吉一家失踪事件」は本当に起こった出来事だし、それが物語の核として描かれているのだから、この小説の記述を信じる者は一定数出てくるはずだ。
そうなれば、それがあたかも「真実」であるかのように流布される可能性がある(沼本の「誰か1人でもいると思っていれば、本当にいるかどうかに関係なく存在するんです」というセリフも、津田自身のこんな想いを反映させたものかもしれない)。
しかし、この目論見が成功するためには、「小説の内容に書かれたことが『真実かもしれない』と受け取られること」が必要だ。そのための仕掛けを考えなければ。
そう、もしも津田がこんな思惑を抱えていたとすれば、「小説の内容が真実であっては困ると考える編集者にも『小説の内容は真実かもしれない』と思わせ、かつその小説が出版される」という高いハードルをクリアする必要があるのです。
そしてそのために、「編集者が小説の中身について調査することを想定して、『沼本』の名前を印象づける」「3000万円が本当に存在していたことを示すために、寄付先の人間が感謝を述べにやってくる」「ピーターパンの本が絶妙なタイミングで戻ってくる」などの仕掛けを用意して、編集者を信じさせようとしたわけです。
編集者が繰り返し「これはフィクションですよね?」と口に出すのは、津田にしてみれば褒め言葉だったってことだね
そう。編集者が「真実」だと思えば思うほど、津田の企みは成功するわけだからね
津田にとって、編集者が抱く「この小説は『真実』かもしれない」という心配は、まったく取るに足らないものです。何故なら津田は、小説の内容がほとんど嘘だと知っているからです。だから当然、「小説の内容が『真実』だと判明したせいで小説が出版されなくなる」なんて事態は起こるはずがない、と考えているでしょう。
一方で、最初の読者である編集者さえ信じさせられない小説だとしたら、他の多くの読者を騙すこともできません。だからこそ、「小説の出来事が現実に侵食してくる」ような仕掛けを用意してまで、小説の内容が『真実』であると思い込ませたかったのです。
これが私が考える、「津田伸一が小説を書き、それを『真実』だと思い込ませたかった理由」になります。
考察6:「幸地秀吉と倉田健次郎が一緒にいた理由と、『鳩の撃退法』というタイトルについて」
さてそう考えた時、ラストシーンで幸地秀吉と倉田健次郎が一緒にいた理由も想像することができます。それは、「編集者に対して『この小説は偽りである』とはっきり伝えるため」です。
津田からすれば、「編集者が『真実かもしれない』と思い込むだけの強度がこの物語にあるか?」を確かめることができれば十分なわけです。編集者が小説の内容を100%信じてしまえば出版されない可能性が出てくるわけですから、「この小説は偽りである」とはっきり伝える必要があります。
しかし、津田の口からそれを言ってしまうのは興ざめでしょう。小説家の矜持としてそんなやり方はしたくなかっただろうし、作家が「偽りだ」と言えば「真実」の余地はゼロになってしまいます。
だからこそ最後、秀吉と倉田が一緒にいる場面を編集者に目撃させたのではないか、というのが私の考察です。
そして、編集者が2人の姿を見た後で、津田は「タイトル決めた」と口にし、『鳩の撃退法』という映画のタイトルが表記されます。
津田はなぜそのタイミングで「タイトル決めた」と口にしたのでしょうか。私は、編集者への最後のダメ出しだったと考えています。
というのも編集者は、幸地秀吉の顔も倉田健次郎の顔も知らないからです。
観客の立場で見てると、「編集者は幸地秀吉と倉田健次郎の顔を知らない」という事実はちょっと失念しちゃうよね
ここまでの考察を踏まえると、秀吉と倉田の邂逅を理解してほしいだろうし、気づいてもらえないと困るってわけだ
私の考察では、「幸地秀吉と倉田健次郎が一緒にいるのは、編集者にその場面を見せて、小説の内容が偽りであると示すため」です。しかし2人の顔を知らない編集者は、この場面を見ても確証が持てないかもしれません。だからこそ、津田がまさにそのタイミングで『鳩の撃退法』というタイトルを示すわけです。
「鳩」というのはこの作品の中で「ニセ札」を指します。つまり、より広く考えれば「偽りのもの」と捉えることもできるでしょう。
つまり津田は、「今あなたが見たのは、『偽りのものを撃退した場面』だ」と編集者に伝えたのだという解釈も成り立つでしょう。「偽りのもの」というのは要するに「津田が書いた小説」です。津田の小説を読み込んでいる編集者は、「もし今目にした2人が幸地秀吉と倉田健次郎だとするなら、津田が書いた小説が偽りだと確定する」と理解するでしょう。そしてそのような推測から、「あの2人は幸地秀吉と倉田健次郎なのだ」と判断するかもしれません。
そしてこれまで経緯を総合的に踏まえ、「おそらく津田の小説の内容は『偽り』なのだろう」と編集者が判断すれば、津田の小説はきちんと出版され、それによって津田の本来の目的が達成される、というわけです。
長くなりましたが、これで「『東京編』で起こったことのみを事実と捉えた時に、どのような可能性があり得るか」という私の考察は終了です。
映画を観てこれほど考察したのは、『TENET テネット』以来だろうね
『TENET テネット』も、まあ考えに考えたもんね
最後に
映画を観終えた時点でここまで思考が展開されていたわけではないのですが、文章を書きながら、「論理的に考えるとこう捉えるのが妥当だよな」という思考が深まっていって、これだけ長くなってしまいました。ここまで読んでいただいてありがとうございました。
既に書いた通り、映画は1度しか観てないので、見落としや勘違い等あるかもしれません。何か気になる箇所があれば是非教えてください。
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