はじめに
この記事で取り上げる映画
「アイアム・ア・コメディアン」公式HP
この記事の3つの要点
- 「大衆に問題がある」からこそ村本大輔はテレビから消えたのではないだろうか
- 村本大輔は、現地に足を運んでまで様々な社会問題を目にし、色んな人から話を聞いていく
- 非常に伝わりにくいが、村本大輔は本質的にとても「優しい」のだと私は思う
自己紹介記事
記事中の引用は、映画館で取ったメモを参考にしているので、正確なものではありません
映画『アイアム・ア・コメディアン』が追うのは、”テレビから消えた”ウーマンラッシュアワー・村本大輔。観たらイメージが変わると思う
とても良い映画だった。先に書いておくと、私にとって村本大輔は別に好きでも嫌いでもなく、「特に興味はない」ぐらいの存在で、彼がライブの中で口にした表現を使うなら「目が合っていなかった」という感じかなと思う。ただ本作を観て私は、彼と「目が合った」ような気分になれた。なかなか興味深い人物である。
”テレビから消えた”村本大輔には、一体何が起こっていたのか?
本作は、お笑いコンビ・ウーマンラッシュアワーの村本大輔に密着したドキュメンタリー映画である。そして作中で彼は「テレビから消えた男」として形で紹介されていた。というわけで、まずはその辺りの事情から説明していこうと思う。
本作には吉本興業のマネージャーが登場し、「ウーマンラッシュアワーのテレビ出演本数」について説明する場面がある。彼らは2013年のTHE MANZAIで優勝を果たし、翌2014年に130本、2015年に200本、2016年に250本と、安定してテレビへの露出を増やしていった。しかし2020年、恐らくこれが「今」(つまり、密着のカメラが回っている時)だと思うのだが、テレビ出演はたった1本に減ってしまったのである。
本作では、そのたった1本になってしまったテレビ出演の様子も映し出されていた。それはフジテレビのお笑い番組で、確か生放送番組だったと思う。そしてその放送の2日前、村本の携帯電話に番組関係者から連絡が来た。その日、ウーマンラッシュアワーは劇場でネタをやる予定があり、それがフジテレビの番組で披露するのと同じだ知った番組関係者が「撮影させてほしい」と言ってきたのである。
さて、この行動の意味が理解できるだろうか? ここには実は、「村本大輔がテレビで”変なこと”を言わないか、事前に確認したい」という意図があるのだ。いや、もちろんフジテレビ側がそんな言い方をしたわけじゃないはずだし、単に彼がそう受け取ったという話に過ぎないと思うのだが。
電話を切った村本は、番組関係者から指摘されたという内容についてカメラの前で語っていた。以前どこかでそのネタをやったことがあるのだろう、漫才の中で村本は「原発4つ」という表現を使っているそうなのだが、「『もんじゅ』は正確には『原発』ではないから表現として正しくない」みたいなことを言われたそうである。
さて、まずはこの指摘について考えてみることにしよう。確かに「情報を正確に伝えること」は大事だと思う。しかし、村本大輔がやっているのはあくまでも「漫才」だ。「報道番組」じゃない。もちろん「漫才」でも「逸脱してはいけない範囲」は存在すると思うが、では、「もんじゅ」を「原発」としてカウントすることはそれに抵触するだろうか? 私にはそんな風には思えない。もちろん、視聴者の中には局に文句を言ってくる人はいるだろうし、「そういう批判を完全に避けたい」のであればその指摘も妥当だろう。しかしそれでは番組制作など出来ないんじゃないかと思う。そんなわけで私には、この指摘は「過剰」に感じられるのである。
そして恐らくだが、村本にそう伝えた番組関係者もきっと、そんなことは分かっているのだと思う。彼らは恐らく、「どうしてネタを撮らせないといけないんだ」と村本に言われたから「もんじゅ」の話をしただけで、本当はそんなことはどうでもいいと思っているはずだ。実際には、「どうにか理由をつけて、ウーマンラッシュアワーの漫才を”事前検閲”したい」だけなのだろうと私には感じられた。
これが村本大輔とテレビを取り巻く状況であり、これを「干された」と表現しているのだと思う。恐らくだが、彼らがテレビから消えた「決定的な理由」は特には無いはずだ。ただ、「なんか危なっかしい」みたいな印象が積み重なり、「だったら使うのを止めよう」という判断になっていったのだと思う。
また村本大輔は、NHKについても言及していた。かつてNHKから「スタンダップコメディの密着をさせてほしい」と連絡があったという。「スタンダップコメディ」とは「お客さんと対話しながら進める一人喋り」みたいな芸であり、村本はそれまでにも劇場やワンマンライブで披露してきた。日本ではあまりやっている人は多くない印象だが(やはり漫才やコントが多いだろう)、欧米では主流のコメディーショーなのだそうだ。恐らくNHKは、「日本人で珍しくスタンダップコメディをちゃんとやっている」という理由で村本大輔に目を付けたのではないかと思う。
さて、もう少しスタンダップコメディについて説明しておこう。形式としては「マイク1本で喋る」というスタイルなわけだが、さらに「内容が多岐にわたる」ことも特徴だと言える。自身の話や時事ネタはもちろん、下ネタやブラックジョーク、あるいは、日本ではタブーとされることの多い政治や宗教の話も何でもアリなのだ。つまり、「どんな話題でもいいから己の喋りだけで笑いを取る」というのがスタンダップコメディなのである。そして村本は「『スタンダップコメディに密着したい』と言っているNHKは、それぐらいのことは当然理解しているはず」だと考えていた。
そのため彼は普段のスタイルのままスタンダップコメディをやっていたわけだが、その中で「日本は大麻を合法化した方がいい」と発言したことをNHKは問題視したようである。それで、密着企画はおじゃんになってしまった。しかし繰り返しになるが、スタンダップコメディは「テレビでは言えないタブーについても喋る」というスタイルなわけだし、そもそも「大麻をやっている」などと発言したわけではない。ただ「合法化した方がいい」と言っただけだ。しかしたったそれだけで、NHKは彼に密着することを止めてしまったのである。
これらの状況は、「村本大輔がテレビから消えた」のではなく「テレビが『危うい”かもしれない”もの』を排除しすぎた」ようにしか私には見えない。もちろんテレビ側にも言い分はあるだろうし、本作で描かれる状況だけから一方的に批判するのは正しくないとも思うが、それにしても、「テレビってつまらないなぁ」と感じさせるには十分なエピソードではないかと思う。
「村本大輔がテレビから消えた」のは、「テレビ」というよりも「大衆」の問題だと思う
本作のメインビジュアルには、「I AM A COMEDIAN」と本作タイトルが英語で記されていた。そしてこの文字は赤・白の2色で塗り分けられており、「COMEDIAN」の「MEDIA」が白く塗られていたのである。本作は村本大輔を追うドキュメンタリーなのだが、恐らく、「村本大輔を扱わないメディアにも焦点を当てる」というメッセージがこのデザインには込められているのだと思う。
ただ個人的には、「メディア」にすべての責任をおっ被せるのも違うように感じられる。もちろん本作で示唆されるように、テレビには間違いなく問題があると思う。しかし「テレビに問題がある」という状態は、本質的には「視聴者に問題がある」と捉えるべきだろう。何故なら、「テレビ」は圧倒的に「視聴率」を追いかけているからである。つまり、「どうすれば『大衆』に受け入れられるかを徹底的に考えている」というわけだ。犯罪者というわけではないのだから、どれだけ村本大輔が「危うい」としても、「大衆」が彼を望むなら間違いなくテレビは彼を起用するだろう。
つまり、より本質的には、「何かに文句を言いたいだけ大衆」の方にこそ問題があると捉えるべきなのだと思う。
いや、私は別に「村本大輔に関心を持て」などと言っているわけではない。そんなことはどっちだっていい。そうではなく、私がよく考えていることなのだが、「『好き/嫌い』と『良い/悪い』をもう少し区別した方が良いのではないか」と思っているだけなのだ。
本作には、X(旧Twitter)上の投稿が表示されるシーンがあった。恐らくだが、先述した「フジテレビのお笑い番組」に出演した後の反応をピックアップしているのだと思う。そしてその中に、「お笑い芸人が社会問題を語るなよ」「漫才に政治を持ち込むなんてダサい」みたいな感想があったのだ。
私は個人的に、「『好き/嫌い』はいくらでも自由に発言すればいい」と考えている。もちろん、「『嫌い』と発信することの是非」も議論に値するかもしれないが、私自身は「『好き/嫌い』は完全に主観的なもの」だと認識しているので、「誹謗中傷にならないような範囲でなら、好きに発言すればいい」というのがベースの考え方だ。
ただ、「良い/悪い」は違う。主観的にではなく、客観的に判断されるべきものだからだ。先程の「お笑い芸人が社会問題を語るなよ」という批判にしても、「社会問題を語るお笑い芸人なんか嫌い」という話なら主観的だが、「お笑い芸人が社会問題を語るのは間違っている」だと客観的な捉え方になる。そして、これはあくまでも私の感触だが、「大衆」の多くは今、「本来は『嫌い』と言うべき場面で『悪い』と口にしている」ような気がするのだ。「嫌い」だと「個人が批判しているだけ」みたいになるが、「悪い」だと、あたかも「みんなが批判している」みたいな雰囲気を醸し出せる。そして私は、「大衆」のそのようなスタンスがとても「嫌い」なのだ。
村本大輔が「嫌われている」だけなら別にそれでいい。ただ、「『大衆』が村本大輔のことを『悪い』と判断しているために彼がテレビに出られない」のだとしたら、やはりそれは適切な判断には感じられない。私はこの辺りのことに、どうにも違和感を覚えてしまうのである。
あらゆる問題に目を向け、自らが発することで広く届けようとする村本大輔
私が「大衆」に対して違和感を覚えてしまう理由にはもう1つ、「口(手)ではなく身体が動いている方がまとも」という感覚があるように思う。
村本大輔は漫才やスタンダップコメディの中で、米軍基地や原発、あるいは慰安婦問題など、日本が抱える様々な問題に切り込んでいく。そしてそれらを取り上げる前には必ず、自ら現地に足を運び、関係する人たちの話を聞いているのだ。このような行動を私は「身体が動いている」と表現している。一方、ネット上で他人の批判ばかりしている人は、「身体」ではなく「口(手)」だけが動いているはずだ。どう考えたって、空調の効いた室内でスマホをポチポチ打っているだけの人間よりも、村本大輔の方が圧倒的に「まとも」といえるのではないだろうか。
そんな村本大輔は恐らく、自身のことをある種の「拡声器」みたいなものだと考えているように思う。社会問題はそのままじゃ多くの人には認知されない。だから様々な形で取り上げ、1人でも多くの人にその現実を伝えようとしているのだろう。彼はたぶん、それを「自分の使命」みたいに捉えているんじゃないかと思う。
ワンマンライブの中で彼は、沖縄でのあるエピソードについて話していた。若者から写真を撮ってほしいと頼まれたので応じた際、彼らに「基地についてどう思う?」と尋ねたのだそうだ。すると若者たちは、「基地は必要です」「基地があるから仕事があるんだと思う」みたいな返答をしたという。基地に対して肯定的な立場というわけだ。そこで、村本大輔はさらに、「じゃあ、俺が基地に反対するような漫才をしてるのを見ると嫌な気分になる?」と聞くのだが、それに対して若者たちは次のように返したという。
無視しないでくれて嬉しいです。
「反対されるよりも、無視される方が辛い」というわけだ。確かにその通りだろうなと思う。恐らくだが、村本大輔はこれまでにもそういう話を何度も耳にしてきたのだろう。そんなわけで彼は、「社会問題を『お笑い』を通じて多くの人に届ける」と決意しているのだと思う。
そのことは、父親との会話の中でも感じさせられた。ある場面で父親が村本大輔に、「社会を変えたいなら、政治家になればいいじゃないか」と口にする。しかし彼は政治家になるつもりはないようだ。その理由を次のように話していた。
内閣を決めるのは国民なんだから、国民の雰囲気を変える方が重要。そして、お笑いにはそれが出来る力がある。
お笑い芸人がこんなことを言っていたら、普通は「ボケ」みたいに受け取られるだろうが、恐らく村本大輔は本気で言っているし、本気でやろうとしているのだと思う。それは、彼が抱いている「ピュアさ」と表現してもいいだろうし、そんな「ピュアさ」が本作の随所に現れている感じがした。
村本大輔の「伝わりにくい優しさ」
そして本作には、村本大輔の「優しさ」が随所に染み込んでいるようにも感じられた。しかし、その「優しさ」はとても伝わりにくい。そしてだからこそ私は、「村本大輔は本当に優しい人なんだな」と感じるのである。
「優しさ」というのはとても難しい。何故なら、大事なのは「それを相手が『優しさ』と受け取るか」であり、「自分が『優しさ』を発揮しているか」は本質的には関係ないからである。それがどんな行動であれ、相手が「優しさ」と受け取れば「優しさ」になるし、逆もまた然りだ。「優しさ」に限らずすべての感覚に対して同じことが言えるわけだが、特に「優しさ」は「相手にそうと受け取ってもらうことが難しい感覚」であるように私には感じられる。
そして私の個人的な感覚では、「本当に優しい人」は優しそうには見えない。そして、村本大輔もそのようなタイプであるように感じられた。
再びワンマンライブで彼が話したエピソードについて語ることにしよう。これも、細部はともかく、大枠では「実際にあったこと」だと私は捉えているのだが、実際のところはどうなのだろう。
ある日、村本大輔が劇場を出ると、車椅子の男性が出待ちをしていたそうだ。子どもの頃の事故で脚を失ったのだという。彼は村本大輔に、「村本さんの話を聞いて、僕もお笑いをやりたいと思った」と自らの決意を語り、そんなこともあって2人はそのまま飲みに行くことになった。ただ、それから村本大輔は、車椅子の男性の面白くもない話を1時間も聞き続けることになる。そして最後に、村本は男性にこう言ったそうだう。「お前、腕も無いな」。
この話がどうしたんだと感じるかもしれないが、私にはこのエピソードは「優しさの発露」であるように感じられるのだ。あくまで「実話」と捉えたまま話を続けるが、普通に考えると、「脚の無い人に『腕も無いな』と言う」のは「優しさ」とはかけ離れているように思えるだろう。しかし、これはあくまでも私の勝手な想像に過ぎないが、その車椅子の男性は「自分の存在が無視されなかった」と感じたんじゃないかと思う。沖縄の若者と同じ理屈である。「障害者」という括りに入れられて、「自分たちとは違う」と一線を引かれることの方が寂しいような気がする。私ならたぶんそう感じるだろう。そして村本大輔はきっと、「同じ土俵にいる者」として目の前にいる車椅子の男性を扱ったはずだし、私には、そのような振る舞いは「優しい」ように感じられるのだ。
もちろん、すべての「脚の無い人」が同じように感じるわけがない。村本大輔は当然、その車椅子の男性が「お笑い志望」だと聞いたから「腕も無いな」という発言をしたのだと思う。本作を観ていればなんとなく伝わるだろうが、村本大輔は常に「目の前の他者の気持ちを汲み取ろう」と意識しているように感じられた。そしてそうだとすれば、そんな意識から生まれる行動はやはり「優しさ」と言っていいんじゃないかと思う。そういうことをひっくるめた上で、私には村本大輔が「優しい人」に見えたのである。
さらに続けて、彼はこんなことも言っていた。
「障害者には皆、何かしらの才能がある」みたいなこと、よく言われますけど、才能の無い障害者もいます! ただ生きてるだけでいいじゃないですか。「障害者で才能の無い自分はダメなのか」みたいに感じさせられるのって辛くないですか? 「良かれと思って言っていること」が、全然相手のためになっていないみたいなこと、よくありますからね。
本当にその通りだなと思う。「障害者には皆、何かしらの才能がある」みたいなことを言う人は、一見「優しい人」に見える。でもそれは結局、「そうじゃない人」を追い詰めるだけの言葉に過ぎないのだ。一方で、「才能の無い障害者もいます」と口にする村本大輔は、一見酷い人に思えるかもしれない。しかしそれは、実際のところは「取りこぼしなく全員を肯定しようとする言葉」だし、それ故、本質的には村本大輔の方が「優しい」ように私には感じられるのだ。
「心地良いものしか受け入れられない」がデフォルトになってしまっている世の中
SNSの広まりと関係あるのかは分からないが、多くの人が「聞こえの良い言葉」にばかりに反応しているような気がしている。先程の「障害者には皆、何かしらの才能がある」もそんな1つと言っていいだろう。私の勝手な想像に過ぎないが、恐らく大多数の人が、「瞬発的に『心地良い』と感じられるもの」しか受け入れられなくなっているんだと思う。いや、「瞬発的」でなくても別にいいのだが。
私はかつて書店で働いており、その際に学生バイトから多く耳にしたのが、「小説やマンガは『ネタバレ』を知ってから読む」という話である。ネタバレしているサイトを読んだり、結末のページを先に覗いたりしてから読むかどうかを決めるのだそうだ。映画でも同じことをしている人はいるだろう。私にはその感覚がまったく理解できなかったのだが、「『不快に感じるラスト』だったら、それまでの時間が無駄に感じられるから、自分にとって『安心出来るラスト』であることを確認してからじゃないと読めない」みたいなことらしい。まあ、それを聞いたところで賛同はできないのだが、理屈は理解できたし、そういう人が増えているというのであれば受け入れていくしかないのだろう。これもまた、「『心地良いもの』しか受け入れられない」という話に通ずると思う。
また最近では、SNSやGoogle検索などで「検索履歴を利用したサジェスト」が最適化されているため、「『心地良いもの』以外がそもそも視界に入らないようになっている」とも言えるだろう。つまり、「ネットばかり見ていると『心地良いもの』にしか触れられない」ということになる。まあ恐らく、多くの人がそういう世の中を望んできたからこうなっているのだと思うが、私にはあまり良い世界には思えない。そして当然だが、そういう世の中であればあるほど、村本大輔のような「心地良くない存在」は”排除”されていくだろう。「お笑い好き」にとって村本大輔はあまりに「異物」だろうし、そもそも「社会問題にわーわー言っている人」は一般的に「心地良さ」を与えないからだ。
先ほど示した通り、「聞こえの良い言葉」を垂れ流している人より、村本大輔の方が本質的には「優しい」はずだと思う。しかし情報に対する価値判断があまりにも早くなりすぎた現代においては、「聞こえの良い言葉」の方が評価されてしまうのだ。「本質」よりも「ガワ」ばかりが重視され、「本質」が優れていてもあっさり排除されるのに、「ガワ」さえ良ければあっさり受け入れられる。嫌な世の中だなと思う。
書店員として働いていた頃にも似たようなことをよく考えさせられたし(「こんな本が売れちゃうのかー」みたいなこと)、だから私はずっとそういう世の中に違和感を覚えてきたと言っていいだろう。だからこそ、本作に映し出される村本大輔の姿に好感を抱かされたのだと思う。村本大輔は、むしろ積極的に「心地良くないもの」と関わっていく。きっと、「多くの人が注目していない状況こそ、自分がしっかりと見なければならない」と考えているのだろう。
そのような感覚は恐らく、幼少期に培われたのではないかと思う。本作には村本大輔の幼馴染も登場し、飲みながら話をする場面が映し出される。そして会話の中で、「村本大輔は勉強も運動も全然出来なかった」という話になったのだが、それでいて優等生グループと仲が良かったこともあり、村本大輔は昔から「劣等感」を強く抱いていたのだそうだ。また、両親は仲が悪く、学校から帰っても両親共に家にいないことの方が多かったという。そんなこともあって、「誰も自分のことを見てくれてはいない」というような感覚を強く抱いていたと話していた。
だからだろう、彼は去り際、ライブを見に来てくれた人に対して、「聞いてくれることはとても嬉しい」「皆さんに生かされました」と涙ながらに口にするのである。つまり、「あなた方が見てくれるから、自分は今生きていられる」みたいな実感を抱いているということなのだろう。そしてそんな感覚を抱いているからこそ、「『あまり見てもらえていない自分みたいなヤツ』をちゃんと視界に入れよう」という意識を強く持っているのだと思う。
そんな、とにかく「利他的」に見える村本大輔は、私の目にはとても「優しい人」に映るし、本作を観た人はきっと、同じような感覚を抱かされるんじゃないかと感じた。なかなか興味深いドキュメンタリー映画である。
さて、最後に1つどうでもいいことを。本作は「全編英語字幕付き」での上映だったため、字幕の方もちょいちょい見ていたのだが、その中にとても興味深い表現があった。お笑いの「ネタ」が「material」と訳されていたのだ。確か、「ネタをやる」は「do material」だったと思う。英語圏の人にどんなニュアンスで伝わっているのか聞いてみたい気もするが、個人的にはとても意外な訳だったので気になってしまった。
最後に
冒頭でも書いた通り、私は村本大輔に特段の関心はなかったのだが、本作『アイアム・ア・コメディアン』を観て、ちょっと興味深い存在に思えてきたことも確かである。この感覚は、少し前に観た、猟師になった東出昌大に密着した映画『WILL』を観た時の感覚に近い。同じく東出昌大にも全然興味がなかったのだが、映画を観て大分印象が変わったのだ。
村本大輔に対する一般的な評価をちゃんとは知らないのだが、私の感覚では、「村本大輔のアンチ」以外の人には結構面白く観られる作品だと思うし、村本大輔に対して特に何の印象も持っていなかった人が観れば、かなりプラスのイメージに変わるのではないかと思う。ドキュメンタリーをあまり観たことがない人でも触れやすいテーマだとも思うので、機会があれば是非観てほしい。
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