【感想】映画『ルックバック』の衝撃。創作における衝動・葛藤・苦悩が鮮やかに詰め込まれた傑作(原作:藤本タツキ 監督:押山清高 声:河合優実、吉田美月喜)

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:押山清高, プロデュース:勝股英夫, プロデュース:瓶子吉久, プロデュース:押山清高, Writer:押山清高, 出演:河合優美, 出演:吉田美月喜
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 映像作品とは思えないほどセリフも動きも少ないが、たった58分しかないとは思えないほど感動的な物語に仕上がっていることに驚かされた
  • 人物の描写だけではなく、全体の構成や展開もとても見事で素晴らしい
  • 原作マンガが発表された際に巻き起こった「批判」に対して私が抱いてしまう違和感

葛藤も情熱も青春もすべて鮮やかに詰め込まれた映画で、とても満足度の高い作品だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

映画『ルックバック』の58分間とは思えない濃密さ!葛藤・情熱・青春が鮮やかに詰め込まれた「創作」の物語

私は普段、世間の評判を元に観る映画を決めたりはしないのだが、本作は間違いなく、「世間で話題になっていたから観た作品」だ。公開されることは知っていたし、若干注目もしていたが、しかし公開直後の盛り上がりは凄まじく、「やはりこれは観ないわけにはいかないか」という感じになったのである。

観る前の時点で「58分の作品」ということは知っていて、その点は気になっていた。実写でもアニメでも、90分程度の映画はよくあるが、なかなか1時間を切る作品に出会うことはない。そして本作は、そんな短い物語にも拘らず、観客を深い感動に陥らせることが出来ているのだ。凄いものである。というか、そもそも私には90分ぐらいの体感に思えた。そのことも驚きである。鑑賞後に知ったことだが、本作は原作を忠実に映像化したのだそうで、その結果の58分ということなのだろうと思う。

ちなみに私は、原作を読んではいない。本作においては特に、「原作を読んだ上でどう鑑賞したのか?」という観点にも興味が向けられるだろうが、私はそのような視点では感想を書けないというわけだ。「原作未読の人間が記事を書いている」と理解して読んでほしい。

映画『ルックバック』の内容紹介

登場人物はほぼ2人に絞られている。1人は、小学4年生の藤野だ。

彼女はどうやら運動が得意なタイプで、クラスでも人気者のようだが、そんな彼女にはもう1つ得意なものがある。漫画だ。彼女は、学年新聞に毎回4コマ漫画を描いており、その絵はクラスメートや家族からも絶賛されている。もちろん藤野自身も、「絵が上手い」と自信を持っていた

さてある日、藤野は教師から「隣のクラスの京本に、漫画の枠を1つ分けてくれないか」と頼まれる不登校の生徒で、会ったことはない。藤野は快くOKしたのだが、後日学年新聞に載った京本の絵を見て驚愕した。特段ストーリーがあるわけではない風景の羅列のような4コマ漫画なのだが、その描写力が圧倒的だったのだ。

その日から、藤野の人生は大きく変わった。京本という凄まじい才能の存在を知った藤野は、「漫画漬け」の日々を送ることにしたのである。教本とスケッチブックを買い、後はひたすら描き続けた。友だちからの誘いもすべて断り、家族から心配されても意に介さず、藤野はただひたすらに漫画と向き合ったのだ。

しかし彼女はある日、漫画を描くのをパタッと止めた。6年生になっていた藤野はこうして、「漫画漬け」になる前の生活に戻ったのである。

そのまま卒業の日を迎えた藤野は、式の後担任の教師に呼び出された。そして、結局卒業式にも来なかった京本の家まで、卒業証書を届けてくれと頼まれたのである。藤野はまったく乗り気ではなかったが、教師に説得されて渋々京本の家まで足を運んだ

そして藤野は、部屋から出てくるつもりなどまったくなかっただろう京本と偶然邂逅した。さらに京本から、「ずっとファンだった」と告げられたのである。この出会いをきっかけに2人は、一緒に漫画を描き始めるのだが……。

「強烈な情熱」を内包しつつ、「感情の発露」が抑制された物語

観ながらとても印象的だったのが、セリフや動きが極端に少なかったことだ。アニメに限らないが、映像作品は基本的に、「どうやって人物を動かすか」に焦点が置かれることが多いように思う。しかし本作はそんな「動的」な作品ではなく、「漫画を描いている後ろ姿」が頻出するという「静的」な発想で作られている。もちろん、漫画を描いている間は会話も独り言もないので、必然的に動きもセリフも少なくなる。そして、そんな「静的」な要素が多い物語が、たった58分しかないのだ。よくもまあこんな条件で、多くの人を感動させる物語を紡ぎ上げたものだなと思う。

さて、そんな極小の要素しか存在しない作品において、観客が何に惹きつけられたのかと考えると、やはりそれは、藤野と京本が共に有している「情熱」と言えるだろう。「静の極地」を突き詰めたような2人はしかし、ほとばしるような「情熱」を秘めており、そのことが2人の様々な描写から否応なしに伝わってくるからこそ、このような作品が成立しているのだと思う。

彼女たちは、ほぼ「漫画」のことしか見ていない。もちろん作中には、「漫画を描く」以外のシーンも存在するのだが、しかし観客は、「2人の人生にはほぼ『漫画』しか存在しないのだろう」と理解するはずだ。そしてそんな「漫画への情熱」によって、彼女たちの人生は大きく駆動していく。2人は、中学生の頃に共作で45ページの漫画を完成させて出版社に持ち込みデビュー、その後高校生の間に7本の読み切りを発表するなど、若くして凄まじい活躍を見せるのである。

そしてそんな「成功」は、お互いの存在なくしては実現しなかった

藤野が6年生の時に漫画を描くのを止めたのは、京本とのあまりの画力の差に絶望したからだ。卒業式の日に京本と邂逅することがなければ、恐らくそのまま漫画を描かない人生を歩んでいたことだろう。一方の京本は、漫画への情熱は秘めつつも、学校にさえ(「さえ」という表現が適切かはともかく)行けない社会性の無さに苦慮していた。京本もまた、藤野と会うことがなければ、そのまま自室に引きこもったままだっただろう。そしてそんな2人がお互いを補完し合うことで未来が拓けていくというわけだ。

このような展開は非常にフィクション的だし漫画的なのだが、それが悪いなんてことは全然ない。こういう「お互いを補い合える関係性」は現実世界でも生まれ得るだろうし、さらに本作の場合は、「共に圧倒的な情熱を抱いていた」という点が重要なわけで、そこを重点的に描き出すことによって「違和感として浮き上がりそうな部分」も上手く調整できていたように思う。この点は「原作の良さ」として評価すべきなのだろうが、よく出来ていると感じた。

しかしそんな2人は、情熱がありすぎたが故に関係性が変わっていってしまうのである。

さて、「本作にはセリフが少ない」と先述したが、「感情表現」も少ないように思う。そしてその雰囲気は、京本と藤野で少し異なる。京本はたぶん、「藤野にだけは感情を露わに出来る」みたいな設定なのだと思う。しかし藤野の方は、「そもそも人前ではあまり感情を出さない」というキャラクターであるようだ。それは京本に対しても同様で、観客視点では「藤野が京本に強い想い入れを抱いていること」は明らかなのだが、京本がそれを実感できずにいた可能性はあるんじゃないかと思う。もしかしたらそのことも、2人の関係の変化に影響を与えたのかもしれない

そして、藤野がそのようなキャラクターだからこそ、彼女が感情を露わにする場面はとても印象的に映ることになる。特に、彼女が「私のせいだ」と口にする場面は、京本に対する想いの強さを実感させるシーンだったなと思う。そしてさらに言えば、「そのことを京本に伝える機会が失われてしまった」という絶望をも内包するような雰囲気があり、とても強く響いた。

実に上手い構成と、非常に印象的だったあるシーンについて

さて私には、その後の展開がとても印象的に感じられた。そこから「あり得たかもしれない未来」が描かれていくのだが、予想を裏切るような展開になっていくのである。普通なら、「私のせいだ」と感じている藤野を映し出した後に続く物語としては、「藤野のせいじゃないぞ」のような展開が描かれるのが自然だろう。しかし本作では、そんな話にはならない。どんな展開になるのかには触れないが、「なるほど、そうなるのか!」という感じだった。さらに、そんな「あり得たかもしれない未来」の描写が、巡り巡って、本作のタイトルにもなっている「ルックバック」という言葉に繋がりもするのである。これはとても上手い構成に感じられた。

さらに本作では何度か、「お互いが描いた4コマ漫画が、ドアの下の隙間を通り抜ける」ことによって物語が進むのだが、ラスト付近で描かれるこの展開は本当に絶妙だなと思う。普通なら繋がるはずのないシーンを上手いこと接続させる要素として機能しており、とても印象的だった。人物の描き方だけではなく、構成や展開もとても見事な作品だと思う。

また、映像的にとても印象的だったのが、藤野がスキップするシーンである。まず、スキップそのものが凄く変なのだが、そのことが「藤野らしさ」みたいなものに繋がっているのが良いと思う。さらに、「人前では感情を出せない藤野」が、「変さ」を全面に押し出すスキップをすることで、「藤野が感じている喜び」が一層強く伝わってくる感じもあった。この「変なスキップ」によって、「藤野のキャラクター」と「感情表現」を同時に成立させており、シンプルながら奥深い描写だったなと思う。

そしてこの「変なスキップ」のシーンを観ながら私は、以前読んだ『コンテンツの秘密』(川上量生/NHK出版)のある記述を思い出していた。これは、ドワンゴの川上量生がジブリに通い詰め、「コンテンツの秘密」についての自身の考えをまとめた作品だ。

映画『ハウルの動く城』の中に、主人公のソフィーが荒地の魔女と共に長い階段を上るシーンがある。そして宮崎駿は当初ここに、「ソフィーが荒地の魔女に手を差し伸べるシーン」を入れる想定をしていたそうだ。この描写によって「荒地の魔女が階段を上る苦しさ」を表現しようというのである。

しかしその後、このシーンを大塚伸治というアニメーターが担当すると聞いた宮崎駿は、「手を差し伸べるシーン」をカットすることに決めたという。何故か。それは、大塚伸治が「人間の『らしい動き』を絶妙に描き出すアニメーター」だからである。つまり、「大塚伸治が描くなら、『手を差し伸べるシーン』がなくても、荒地の魔女の苦しさを表現出来るだろう」と判断したというわけだ。

このように「『人間の動き』アニメで表現すること」はとても難しいようで、何で知ったのか記憶にないが、「アニメでは『食事シーン』を描くのが難しい」という話も聴いたことがある。そして、藤野の「変なスキップ」にも同じことを感じたというわけだ。あくまでも私の印象に過ぎないが、このスキップのシーンは、並のアニメーターには表現しきれないのではないかと思う。ただ本作の監督について、公式HP上で原作者・藤本タツキは「アニメオタクなら知らない人がいないバケモノアニメーター」と評していた。なので、そんな凄腕のアニメーターが監督を務めたからこそ実現したシーンだったのではないかと勝手に想像している。それぐらい、奇妙さと感情表現が絶妙に融合したシーンに感じられた。

原作が発表された当時の騒動について

さて最後に、アニメ映画である本作とは直接的には関係のない話をして終わりにしよう。『ルックバック』という作品に触れる際はどうしてもこの話が想起されるし、言及しておきたいという気分にもなる。

とはいえ私は、本作のあるシーンを観るまでこの事実を思い出さなかった。作中のあるセリフを聞いて、「あぁそうだ、確かそんな騒動があったな」と感じた程度である。原作を読んでいない私には、原作が発表された時に出てきた「批判」にはさほど興味がなかったのだ。だから、その当時の自分が何をどう感じたのかはよく覚えていない

というわけで、今どのように考えているのかを書くことにするが、やはり私は、当時寄せられた「批判」に対しては強く違和感を抱いてしまうのである。

知らない人のために一応書いておくと、その「批判」は、「実際に起った事件を想起させる」という点に関するものだった。その事件というのが「京都アニメーション放火殺人事件」である。あまりに衝撃的だったし、特に漫画家にとっては無視できない事件だったはずで、藤本タツキも何らかの想いを持って作中に組み込んだのだと思う

さて、当時噴出した「批判」がどんなものだったのか具体的には知らないが、それでも私は、それらの「批判」は的外れだろうと考えている。というのも、原作あるいは映画での描かれ方を踏まえれば、「事件の犯人を称賛するような取り上げ方ではない」ことは明らかだからだ。もしそんな風に描いているのであればもちろん批判されて当然だと思うが、本作ではそんなことはない。

また、「被害者や遺族に対して不謹慎だ」みたいな意見もあるようなのだが、私はこのような主張に憤りを感じてしまうことが多い。「お前は『被害者』でも『遺族』でもないだろ」と感じてしまうからだ。もちろん場合によっては、「被害者や遺族が声を上げづらい状況」もあるだろうし、そうであるなら、他人がそれを代弁するのも許容されるだろう。しかし、これも私の勝手な予想でしかないが、『ルックバック』という作品に対して被害者や遺族がマイナスの印象を抱く可能性は低いのではないかと思う(もちろん、マイナスの印象を抱く人がいてもいいのだが)。そしてそうだとすれば、「被害者や遺族の気持ちを”代弁する”と言いながら、ただ自分の主張をしたいだけ」に感じられてしまうのである。

本作『ルックバック』は「漫画を描くことに情熱を注ぐ者たちの物語」だ。そしてそれは、「京都アニメーションで働いていた人たち」にも通ずるものがあるのではないかと思う。だから、もちろん誰が何をどう受け取ってもいいわけだが、特に遺族からしたら、「あの子もこんな人生を歩んできたのかもしれない」みたいな捉え方が出来たりもするんじゃないだろうか。そしてそうだとしたら、それは良いことではないかと思うのだ。

その「良さ」というのは端的に言えば、「思い出されること」と表現できるだろう。

一昔前であれば、良し悪しで言うなら悪い慣習だったと思うのだが、何か事件が起こった際に「被害者の卒業アルバム」などを引っ張り出して報じたりしていた。最近はあまり見ないし、恐らく「コンプライアンス」的な観点から無くなっていったのだと思う。そのような風潮は良いことだと思うのだが、しかし一方で、私たちが「被害者」について考える機会は以前より減っているとも言えるだろう。そのため、何か事件が起こっても、「人が1人犠牲になった」みたいな無機質な捉え方しか出来にくくなっているように思う。

だからこそ、フィクションとはいえ、本作で描かれている藤野・京本の「情熱」から、「『京都アニメーション放火殺人事件』の被害者の人生」が推し量れる可能性があるという事実は、私には本作『ルックバック』が持つ「良さ」であるように感じられるのだ。もちろんそれは、本作で「『京都アニメーション放火殺人事件』を彷彿とさせる描写」が存在するからであり、だから私には、「実際に起こった事件を想起させる」という点について批判が集まることに理解が出来ないのである。

もちろん、繰り返しになるが、原作が発表された当時どんな「批判」が集まったのか具体的には知らないので、私がここで書いたような話はまったくの的外れかもしれない。そうだとしたら申し訳ないとしか言いようがないが、いずれにせよ私には、本作『ルックバック』が「実際に起こった事件を想起させる」という理由で批判されたことが理解できないのだ。そのような判断はあまりにも短絡的に感じられる。さらに、そのような「短絡的な判断」が積み重なることで、「社会に影響を及ぼす安易な批判」が増えているように感じられる現状に対しても、嫌な気分を抱かされてしまうのだ。

本当に、嫌な世の中になったものだなと思う。

監督:押山清高, プロデュース:勝股英夫, プロデュース:瓶子吉久, プロデュース:押山清高, Writer:押山清高, 出演:河合優美, 出演:吉田美月喜
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最後に

原作はネットで読めるようなのでリンクを貼っておこう。私は読んでいないので、全部無料で読めるのかは知らないが

原作を忠実に映像化しているようだが、少なくとも「京本の方言(山形弁?)」の雰囲気については漫画では分からないと思うので、その独特さは映画を観て体感するのが良いだろう。また個人的には、藤野を演じた河合優実を推していることもあり、その配役が本作を観るきっかけの1つになったことも確かである。

さて本作は、内容そのもの以外についても印象に残る点があった。エンドロールである。恐らくアニメ映画の場合、「声優の名前」が先に出てくるのが通例だと思うが、本作では「アニメーターの名前」から列記されるのだ。「創作」について描く物語なので、クリエイターを真っ先に表示する選択は、作品全体のテーマからしてもとても良いものに感じられた

そんなわけで本作は、何らかの形で「創作」に関わったことがある人には突き刺さるだろうし、「創作」でなくても、何かに強い情熱を持って突き進んだ経験のある人にもグサグサ来る作品だと思う。原作を先に読んでおく方がいいのかに関しては私には判断できないが、少なくとも、原作未読の私でも全然楽しめたので、どちらでも問題はないだろうアニメ映画には『鬼滅の刃』を始めヒット作が多いものの、本作はそれらとは異なる形で大ヒットを飛ばしている印象があり、「日本アニメ」のまた違った一面が垣間見える作品と言えるのではないかと思う。

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