【誠実】映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』で長期密着した政治家・小川淳也の情熱と信念が凄まじい

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:小川淳也, 監督:大島新, プロデュース:前田亜紀

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 良い意味でまったく変わらない小川淳也の、「発した言葉が言葉通りに伝わる凄さ」について
  • 「総理大臣になりたいか?」「政治家に向いているか?」という2つの問いを中心に、1人の政治家を描き出す
  • 党利党益や出世争いに関心が持てないが故の、政治家としての致命的な弱点とは?

彼のような政治家にしか期待できないことがあると強く実感させられる映画だった

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

政治家・小川淳也に長期密着した映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』が描く「あるべき政治の姿」

とても面白い映画だと思う。ただ私としては、同じく小川淳也に密着した映画『香川1区』の方が面白いと感じた。とはいえ、この面白さの判断は、作品そのものの出来の差からくるものではないと考えている。上映されたのは『なぜ君は総理大臣になれないのか』の方が先だが、私が先に観たのは『香川1区』の方だ。もし、『なぜ君は総理大臣になれないのか』を先に観ていたら、こちらをより面白いと感じていただろう。単に観た順番の問題というわけだ。

まずはその辺りの理由から触れていきたいと思う。

良い意味でまったく変わらない小川淳也の、「話していることが本当っぽく聞こえる」ことの凄さ

映画を観た順番で評価が変わるのは、結局のところ、「小川淳也という人間・政治家が、良い意味でまったく変わらないから」だと思う。どちらの映画を先に観ても、「こんな政治家がいるのか!」と感じるし、そのイメージがもう一方の映画を観ても継続する。だから、先に観た映画の方が強く印象が残るので、より面白く感じられるのだと思う。

小川淳也はかつて、所属する党を変えたことがある。民進党から希望の党に移ったのだ。そのせいで彼は、支持者たちから多くの批判を受けることになる。しかし、そんな中で行われた選挙のポスターには、「小川淳也は変わりません」と大きく書かれていた。演説でも彼は、「党は変わっても私は変わらない」と繰り返したのだ。

まさにこれこそが、小川淳也という人間の本質を表していると私は感じた。他にも、選挙事務所開きの日の演説では、

まっさらな、14年前と変わらない初心が私の中に息づいています。
今も脈打っています。

とも口にしている。また彼の父親は、突然代議士になると言って選挙運動を始めた息子についてこんな風に語っていた

あいつが言っていることは、32年間見てきた私の感覚では、本当のことだと思いますよ。ただ、もしその初心を忘れて、全然違う方に進んでいたら、先頭に立って引きずり下ろすと、本人にも伝えています。

「親の欲目」がまったく無いとは思わないが、とはいえ、親の目から見ても、「息子の行動には一貫性があり、まったくブレていない」のだと思う。これだけでも、なかなか稀有な存在だと言っていいだろう。

『香川1区』の感想でも少し触れたが、小川淳也の凄さは、「普通に話したら嘘臭く聞こえがちな発言でも、本心だと伝わるような話し方ができること」にあると思っている。これは決して、「政治家にしては凄い」みたいな話では全然ない。人前に立つ人なのかかどうかに関係なく、これは誰にとってもかなり難しいことだと私は思っている。

政治家はどうしても、理想や希望を多く含んだ言葉を口にせざるを得なくなるだろう。そのため必然的に、「本心からそんなこと言っているんだろうか?」と疑いの目を向けられることになるはずだ。しかし小川淳也には、「本当にそう思っているんだろう」と感じさせる何かがある。それは、地元香川での最新の選挙戦を描いた『香川1区』でもそうだったし、2003年から密着を続ける『なぜ君は総理大臣になれないのか』でも同じだ。この点こそ、「小川淳也の政治家としての特筆すべき点」だと私は思う。

その才能は、希望の党へと鞍替えしたことで支持者たちから不信感を抱かれた際にも発揮された。映画には、小川淳也が支持者を集めた説明の場を設け、支持者から直接批判を浴びた上で自らの言葉で説明する場面がある。その場で彼の話を聞いていた人が納得感を得たかどうか私には判断できないが、少なくとも私は、彼の発言はとても「本当っぽい」と感じた

この場面における彼の振る舞いがどうして「本当っぽい」のか考えてみると、恐らくだが、「すみません」のような謝罪の言葉を一切口にしなかったことにあるように思う。私の記憶では、彼は謝罪の言葉を使わなかったはずだ。正直世の中には、「さっさと謝っちゃった方が楽」みたいな状況も山ほどあるはずだと思う。だから、謝罪の気持ちを抱いているかどうかに関係なく、安易に謝ってしまうみたいな人もかなりいるだろう。

まさに小川淳也も、客観的に見ればそのような状況にいたと思う。目の前に、自分に対して怒りを向けている人がいたら、「とりあえず謝っちゃおう」という発想になるのは、割と自然な感覚ではないだろうか。

ただ彼にとって、それは「誠実」ではないという判断になったのだと思う。その感覚は、私にも理解できる。小川淳也としては、熟慮の末の鞍替えだったはずだ。だから、必要なのは「謝罪」ではなく、「説明を尽くして理解してもらうこと」だと考えていたのである。それ故に、彼は謝罪の言葉を口にせず、説明のために言葉を尽くしていると感じた。

正直なところ、そのような振る舞いが、社会の中で正しく評価されるかは何とも言えない。日本は特に、「とりあえず謝れば許す」みたいな感覚を社会が有しているように感じるし、「謝らないことこそが誠実である」という感覚がどこまで通用するかは不透明だ。ただ私個人としては、彼の「『謝罪すべきとは思えないタイミング』では謝らない」という決意が、とても誠実なものに感じられた

そしてだからこそ、彼が「すみません」「申し訳ない」と口にする場面では、その言葉の重みがきちんと届きもする。「本当に申し訳ないと思っているのだ」と、素直に受け取ることが出来るからだ。私は割と「言葉の重み」に敏感な方であるはずで、だからこそ、世の中の多くの人が発する「ぺらっぺらの言葉」に違和感を覚えてしまうことが多い。そういう中にあって、「発した言葉が、言葉が持つ意味のままダイレクトに届く」という小川淳也のような存在は非常に希少だと思うし、そういう人物が政治家として闘っているという事実には、「一抹の希望」を感じさせられた。

「総理大臣になりたいのか?」という問いと、それに対する答え

映画『なぜあなたは総理大臣になれないのか』の中で監督の大島新は、中心となる大きな問いを2つ、小川淳也に対して突きつけている。そして、その2つの問いこそが、「小川淳也を追う」という監督の原動力そのものであるのだと私には感じられた。

その2つが、

  1. 小川淳也は総理大臣になりたいのか?
  2. 小川淳也は政治家に向いているのか?

である。映画では様々な場面が描かれるのだが、監督の関心は常にこの2点に集約されているように感じられた。

ではまず、「総理大臣になりたいのか?」という問いについて書いていこう。

小川淳也に対して監督が、この問いを直接的にぶつける場面は確か2度あったと思う。1度目は、民主党が政権交代したお陰もあって、小川淳也が小選挙区で初当選を果たした、その前後でのことだったと思う。監督は映画の中で、

あとから振り返れば、この頃が一番輝いていた。

とナレーションを入れていた。それぐらい小川淳也は、後に苦難の政治家人生を歩むことになる。それについてはまた後で触れるとして、とにかくこの時期は、小川淳也の政治家人生の中でも希望・可能性ともに満ち溢れていたと言っていいだろう。

その頃に「総理大臣になりたいのか?」と問われた小川淳也は、こんな風に返していた

もちろんやるからには志は高く持っています。
やるからには、自分で舵取りしていきたい。

まあ当然、政治家を目指す者の多くが、このように考えているだろう。

小川淳也は32歳の時に初めて選挙戦を闘った。その際のチラシに、「ダラダラと政治家をやるつもりはない。20年間汗を流し、50歳で辞める」と書いている。彼は後に、この時の言葉が十字架のように重荷になっていると語っていたが、それはともかく、政治家を目指した当初は、「40代で大きな仕事をして政界を去る」というのが彼の目標だったというわけだ。つまりそれは、「40代で総理大臣になる」という意思の表れだと考えていいだろう。

しかし、現実はそう上手くはいかない。先程も書いた通り、彼の政治家人生には様々な困難が降りかかり、「すべてが苦しい方向に転がっていく」という状況になってしまう。「40代で総理大臣」どころの話ではなかったのである。

さて、監督が再び同じ質問をしたのは、新型コロナウイルスが世界中で蔓延し始めた2020年5月のこと。この場面は、映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』のラストシーンでもある。政治家として色んな艱難辛苦を経験してきた小川淳也は先の問いに対して、

一言「イエス」と言えばいいだけなんだけど。

慎重に前置きをした上で、自身の悩ましい心情について語っていた。それは大雑把に要約すると以下のようになる。

「総理大臣になる」という思いは、今も強く持っている。しかし現状、花が咲かないどころか、蕾も開かないような日々が続いていることも確かだ。しかも、単純な時代ならともかく、「ポストコロナ」ということを考えれば、「初めての型式のリーダー」として国家の舵取りを担う必要があるだろう。となれば、通常時よりもさらに自分を捨てて打ち込まなければ、それほどの役割を全うできないだろうとも思う。そんな風に考えれば考えるほど、怯んでしまう自分もいる

弱気とも取れる発言ではあるが、しかしそれでも、

最終的にその答えが「ノー」なら、今日辞表を出しますよ。「イエス」だから、まだ踏ん張れてます。
そういう気持ちです。

とも語っていた。

そしてこの場面でも私は、「本当っぽく聞こえる小川淳也の凄さ」が発揮されていると感じたのである。彼の返答を聞いていれば、「聞かれたから、今その場で答えを考えています」みたいな雰囲気がまったくないことが分かるだろう。彼は、「自分は総理大臣になれるだろうか? なりたいだろうか?」と常に問い続けているのであり、「しかしそれでも、あまりに難しい問いだからこそ答えに逡巡してしまう」みたいな雰囲気が如実に出ていたと思う。「これが今の彼の本心なんだな」と、スッと受け入れられる発言に感じられた。

「政治家に向いているのか?」という問いと、それに対する答え

では2つ目の問いの話に移ろう。「小川淳也が政治家に向いているかどうか」という話だ。監督がこの問いを彼に直接突きつける場面は、映画の中で1度しかなかったと思う。その場面についての話は後で触れるが、監督はとにかく、「小川淳也という人間は、政治家に向いているのだろうか?」という視点からカメラを向け続けていたような印象がある。つまりそれは、「小川淳也は、政治家には向いていないのではないか?」という感覚がずっと付きまとう、という意味だ。

その辺りの話をするために、まずは、監督の大島新が小川淳也に長期密着することになった経緯から始めよう。

小川淳也の名前を最初に知ったのは、妻の口からだった。大島新の妻が小川淳也と同級生であり、妻から「政治家の家系でもないのに、家族の反対を押し切って政治家になろうとしている人がいる」という話を聞いたことで関心を抱き始めたのだ。そして、最初は単なる興味本位で小川淳也に会いに行くことにしたのである。

その際、大島新は彼に対して、

負けた側を思いやるバランス感覚と、世の中を変えたいという熱い想い。

を強く抱いた。こうして彼は、小川淳也という人間に惹かれていったのである。そして、発表するあてもないままカメラ片手に年に数回顔を合わせるような関係になっていき、そんな風に始まった長期密着が、映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』として結実したというわけだ。私は映画で観ていただけだが、それでも、小川淳也という人間の「情熱」や「誠実さ」は画面越しに伝わってくる。直接会えば、さらにそれを強く感じられるのだろうと思う。

小川淳也に本格的に密着する前の時点で聞いていた話の中で、監督が「印象に残った言葉」として紹介しているのが「51対49」の話である。これについては映画『香川1区』でも語られており、私にとっても非常に印象深いものだった。

何事も0か100で受け取られる。しかし実際にはそうではなく、何事も51対49なんです。ただそれは、出てくる結果としては0か100かに見えてしまう。だから私は、勝った51が負けた49をどれだけ背負えるかが大事だと思ってるんです。でも、今は違いますよね。今は勝った51が51のためだけに政治をしているんです。

この言葉はまさに、「政治家・小川淳也」の芯の芯を表現したものだと感じる。

「勝った51が51のためだけに政治をしている」というのは、特に安倍晋三が総理大臣だった頃に強く感じさせられた。私は政治に詳しくないので、安倍晋三が総体的にどのように評価される政治家なのか分からない。しかし、選挙演説や国会答弁などを断片的に耳にしていた印象では、「自分を支持してくれる人のため”だけ”に政治を行っている」という風に私には見えていた。そしてやはり、同じように考えている政治家が多い気がしている。そういう世の中がずっと続いていたように思うので、「『支持者のため”だけ”に政治を行う』ことが正常なのかもしれない」という風に感じていた部分もあったはずだ。

しかし小川淳也の「51対49」の話を聞いて、確かにその通りだなと感じさせられた「勝った51が負けた49をどれだけ背負えるか」こそが政治であり、政治家の役割でもあるはずだ。それこそがまさに「政治の理想形」であるように感じられるし、そのように考える人物こそが国を動かしていくべきだろうとも強く思わされた。

さて、この「政治家・小川淳也の芯の芯」を理解した上で、改めて「小川淳也は政治家に向いているのか?」という問いについて考えていこう

実は監督は小川淳也に、「『政治家に向いていないかもしれない』という感覚はあるか?」という風に問いかけている。「政治家に向いているか?」ではなく、「向いていないのではないか?」と問うているのだ。タイミングとしては、民進党から希望の党へと鞍替えをした後、その希望の党も離党、無所属の時期を経て立憲民主党に合流した辺りのことだったと思う。彼は先の問いに対して、「なくはない」と答えた上で、さらにこんな風に語っていた

偉くなりたいだとか、権力を持ちたいだとか、栄華を誇りたいだとか、そういう突き上げてくるような欲望が私は薄い。
そしてそれは、政治家としては致命的だと思うんです。

権力に対する欲望の薄さが、政治家としての自身の弱みであると、彼自身も自覚しているというわけだ。確かにこの辺りのことは、映画を観ていると強く実感できるだろう。とにかく彼は、真剣に「未来の日本」を案じ、「持続可能な社会」をどのように構築するかに頭を悩ませているのだ。政策立案に強く関心を抱くタイプの政治家なのである。

この性質は、一面では良いが、やはりそれだけでは政治家としてはなかなか上手くやっていくことはできない

小川淳也ははっきりと、「党利党益には関心が持てない」と語っていた。国や国民のために奉仕したいと考えているからだ。

しかし当然だが、党の役に立つような貢献をしなければ党内での出世は叶わず、必然的に発言力も低いままである。元々彼は、小選挙区で勝つことを常に目標に掲げながらも比例復活を繰り返しており、そもそも発言力が弱いのだ。小選挙区で勝った者の方が、国民から直接的に支持されていると判断されるのは当然のことだろう。その上、党利党益にも関心が持てないのだから、どうしても政治家として功績を残すことが難しくなってしまう

今の政治は、安倍さんが長期政権の維持だけを目的としていて、野党はスキャンダルで叩く。そんな議論しかしないという状況が一世風靡しているわけじゃないですか。本当は、高齢化とか人口減少とかの対策を考えないといけないんですけど、私がそういう主張をしても存在感はないですよね。
本当の本当は必要とされていると思うんですよ、こういう話も、奥底では。でも、日の目を見ないですよね。

私も、政治家は本来的には「小川淳也的な信念」を持たなければならないと考えている。しかしやはり、それだけでは政治家としてはやっていけない。党利党益や出世争いみたいなものにも力を入れていかなければならないのだ。そして残念なことに今の政治は、党利党益や出世争いに長けた者ばかりがのし上がっていく世界になってしまっている。「小川淳也的な信念」がもう少し支持される世の中であってほしいと私は感じるが、正直難しいだろう。残念な世の中だなと思う。

それでも「政治家に”ならなければならない”」と思っている

小川淳也の家族も、息子の現状に同情的である。両親は、「親族は誰も、息子に代議士を続けてほしいなんて思ってない」と言っていた。本人がやりたいのであれば応援も協力もするが、辞めたければスパッと辞めて戻って来なさい、という想いだそうだ。母親はさらに、

世間があの子を必要としていないなら、早く私のところへ返してください。

という印象的な言葉で、息子の不遇を嘆いていた

しかしそれでも、小川淳也は政治家の道を諦めようとはしない

話を、大島新が小川淳也に初めて会った時まで戻そう。彼は事前に企画書を送っていたのだが、小川淳也はその中の「政治家になりたい」という文言に違和感を覚えたという話をする。

正直な話、私は「政治家になりたい」と思ったことはないんですよ。「ならなきゃ」「やらなきゃ」そういう気持ちが根っこにはあります。

小川淳也の中には、熱き使命感があるのだ。彼は、「自分たちが選んだ政治家を笑っているようでは、日本は絶対に変わらない」とも語っていた。本気で「日本をどうにかしないといけない」と考えているのである。

大島新はさらに、「官僚として出世するのではダメなのか?」という問いも投げかけていた。小川淳也が総務省の官僚だったと知っていたからだ。この問いについても彼は明快に答えを返していた。ざっくり要約すると以下のようになる。

省庁のトップは大臣である。しかし現状の制度では、大臣は「実権のない名誉会長」のようなものでしかない実質的な省庁のトップは事務次官であり、さらに、実際にはそんな事務次官よりもさらにOBの方が強いのである。また役所というのは、「惰性と慣性の理屈」でしか動いていない。つまり、「昨日やったことを今日もやり、今日やったことを明日もやる」という力学しか働いていないのである。そんな省庁を変えようと思ったら、今は単なるお飾りでしかない大臣が正しく権限を発動できる仕組みにしなければいけないし、そのためには政治家にならなければならないのだ。

そして、そんな覚悟を抱いて政治家の道を歩む小川淳也は、ある意味での「才能の無さ」を痛感させられる日々を過ごしている。彼は、小池百合子に翻弄された一連のバタバタの最中、監督にこんな話をしていた。

政治家に必要なものって、「誠実さ」とか「人徳」「一本の筋」みたいな、教科書的な答えが色々あるわけじゃないですか。でも細野(豪志)さんとか小池さんを見てると、必要なのは「したたかさ」だけなんだろうか、と感じてしまう無力感みたいなものはありますよね。

映画には政治評論家の田崎史郎も登場するが、彼に「今さら手練手管でどうにかしようとしてもできないでしょ?」と指摘される場面もある。小川淳也は、「自分にはその意欲も才能もありません」と断言していた

残念ながら、今の政治の理屈では、彼がその手腕を発揮していくのは難しいのではないかと思う。

「厳しいことを言う人間」が必要とされる世の中でなければならない

小川淳也の父が、こんなことを言う場面があった。

これからは、政治家が本当のことを言って、未来はもの凄く大変ですと土下座してでも「お願いします」と言えるような政治家が出てこないことには、この国は終わりだと思ってるんですよ。
で、それができるのは淳也だけなんじゃないか、と思うことがあります。
万分の一の可能性もない、針に糸を通すような話ですけど、それでも、できるとしたら息子ぐらいなんじゃないか、と。

そう、私も小川淳也には、そのような期待をしてしまう。小川淳也自身も、成すべき役割はそこにあると自覚しているようだ。

これからの政治家は、果実を分配することから、負担や負荷を国民の皆さんにお願いに回るような、そんな仕事に変えていかなければならないと思っているんですよ。

聞こえの良いことを言う人間は世の中にたくさんいる。政治家も、そんな印象を強く持たれる存在だろう。確かに時には、大衆を扇動するような音頭取りが必要になる場面もあるとは思う。しかし、そんなことばかりやっていたら進むものも進まなくなってしまうだろう。

先述した通り小川淳也には、「嘘っぽく聞こえがちな主張を本心だと信じさせる力」がある。だから、もし彼が政治の世界で発言力を持つようになり、「現実はこうなっています。だからみなさん、申し訳ありませんが全員で少しずつ痛みを分け合って未来へ進んでいきましょう」と主張すれば、その言葉は多くの人に届くのではないかと期待してしまう。そんなことが出来るのは確かに、小川淳也ぐらいかもしれない。

ある場面で小川淳也は、トランプ政権が誕生したことを受けて、こんな風に語っている

「自分たちが置かれているこの状況はなんなんだ」と感じている人たちが、恐らく事実に基づかないであろう、情動的な答えにすがりつこうとする。
「この不安の正体は何だ?」という疑問に、簡便な答えをくれる人に飛びつく。
そういうことが日本でも起こると考えています。

まさに現実はそのように進んでいると言っていいだろう。宗教でもインフルエンサーでもなんでもいいが、根拠のあるなしに拘らず、「これはこうだ」と断言してくれる存在は、不安定な時代にこそ重宝されるだろうし、実際にそういう言説に人々が飛びついている印象もある。しかし、それでいいはずがない。だからこそ小川淳也的な信念は、否応なしに厳しい未来を背負わざるを得ない若い世代にこそ受け入れられてほしいと思う。

家族総出で選挙戦を闘う小川陣営の素晴らしさ

映画『香川1区』の方でより濃密に描かれるが、映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』でも選挙運動の様子が映し出される。小川淳也はいつも、家族を総動員して選挙戦を闘い抜くのだ。その姿もまた魅力的と言えるだろう。

彼の妻が、まだ幼い娘を祖母に預けて選挙運動を手伝っている最中、カメラの前でこんな風に語る場面がある。

子どもたちの未来のためと思って、その1点だけでなんとか自分を納得させてます。ただ、未来も大事だけど、今だって大事でしょう?

やはり、政治家の妻というのは相当に大変そうだ。それでも妻は、「こんなに大変だと知ってたら、もっと躊躇してたと思うけど」なんて口にしつつ、ずっと夫のことを献身的に支え続けている

映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』で監督は、17年という長期間に渡り小川淳也に密着していたこともあり、その間に、幼かった娘たちは成人を迎えた。彼女たちは、「小さい頃は父親が政治家であることが嫌だった」と語る。小学校の前に父親のポスターが貼られることになった時には、母親に泣いて訴えたこともあるそうだ。

大人になった彼女たちは、父親の選挙活動に積極的に協力している。その最中、監督から「子どもの頃は選挙活動に参加することに抵抗があるって言ってたよね?」と水を向けられると

抵抗なんかしてる場合じゃない。どうしても勝ちたいから。

と答えていた。「娘です。」と書かれたたすきを掛け、父親と共に自転車に乗って市内を駆け回り、誰にも受け取ってもらえないチラシを雨の中配り続ける。全力で父親のサポートをしているのだ。

小川淳也の両親ももちろん選挙運動に協力しているが、こんな本音も漏らしていた。

普通の家の子どもが政治家になるような社会は凄くいいと思うんです。でも、それが自分の息子だと思うと複雑ですね。

確かにその通りだろう。いずれにせよ全体的に、小川淳也の周囲にいる人たちが、思っていることを素直に口に出している感じがあり、そのこともまた、小川陣営の風通しの良さを感じさせる要素になっていると感じた。

様々なドタバタを乗り越え、背水の陣で臨んだ選挙は、「79383票 対 81566票」という僅差で惜敗に終わる。彼は、「たらればだけど」と前置きした上で、「無所属だったら、あるいは台風じゃなかったら」と、起こらなかった「もしも」について考えており、その姿もとても印象的だった。

出演:小川淳也, 監督:大島新, プロデュース:前田亜紀

最後に

映画の中で一箇所、泣きそうになった場面がある。慶應義塾大学教授の井手英策が、小川淳也の選挙の応援に駆けつけ、支援者たちの前でスピーチした場面だ。もの凄く良い演説だった

私は政策ブレーンとして様々なところからお声掛け頂いたが、それらをすべて断り、友人である小川淳也の応援に駆けつけた。「政治にだけは絶対に関わらないでくれ」と念押ししていた母もきっと喜んでくれるはずだ。それで皆さん、小川淳也の顔を見てください。あんな悲壮感の漂う顔は、私が知っている小川淳也の顔ではない

そんな風に熱弁を振るい、小川淳也陣営を盛り上げようとしていた。彼もまた、その言葉で人を動かせるだけの力を持つ稀有な人物なのだと思う。

映画『香川1区』と合わせて、是非観てほしい1本である。

次におすすめの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次