【葛藤】正論を振りかざしても、「正しさとは何か」に辿り着けない。「絶対的な正しさ」など存在しない:映画『由宇子の天秤』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

出演:瀧内公美, 出演:光石研, 出演:河合優実, 出演:梅田誠弘, 出演:川瀬陽太, Writer:春本雄二郎, 監督:春本雄二郎, プロデュース:春本雄二郎, プロデュース:松島哲也, プロデュース:片渕須直
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この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 「独自基準の正しさ」を持ち、それを他人に強要する振る舞いがそこかしこで見られる現代社会
  • 主人公が「『正しさ』を生み出す側」でもあり「『正しさ』に侵食される側」でもあるという設定の見事さ
  • 「『正しさ』を他人に強要する社会」では、結局「正義」が遠のいてしまうという皮肉

みんながちょっとずつ”協力”して生み出したこの「歪んだ社会」に、私たちはこれからも生きざるを得ない

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

「正しい」と感じる時、私たちは何をどのように判断しているのか?そして、「正しい」とは一体なんなのか?映画『由宇子の天秤』が難しい問いを突きつける

「『正しさ』は人によって違う」という感覚さえ、すべての人と共有できるわけではない

私は普段可能な限り、「正しい」という言葉を口にしないようにしている。それは、私なりの基準で「正しい」と判断できる状況が少ないからだ。「主観的に『正しい』と感じる」状況は多々存在するが、「自分以外の誰もが、それを『正しい』と感じるべきだ」と主張できるような状況はほとんどない。

そのような考えの根底には、「『正しさ』は人によって違う」という前提がある。私は、このような考え方を「当たり前」だと感じるが、しかし世の中にはそうではない人もいるようだ。

正論が最善とは限りません。

分かりやすいのは、「正論こそ正義」と考えるような、いわゆる「正義中毒」の人だろう。私の考えでは、正論はあくまで指針の1つに過ぎず、正論ではない別の解が最善である可能性も残っていると思う。しかし、「正論=最善解」と考えたい人もいるし、そういう人からすれば、「正論を言っている自分の考えを受け入れないなんて信じられない」という感覚になるのだろう。そういう人は、「『正しさ』は人によって違う」という考えを許容できないと思う。

ただ、私は決して、そういう人たちを否定したいのではない「独自基準の『正しさ』」に固執しなければ社会の中で踏ん張っていられない、なんて人もいると思うからだ。もちろん、単純に思考力や想像力に欠けていて、「『正しさ』は人によって違う」という発想に至れないだけの人もいるとは思うが、パッと見でそれを判断することは難しい。だから私は、「正論を口にすることでしか自分を支えられない人なのだろう」ととりあえずは受け取ることにしている。

映画の中で、ドキュメンタリー映画のプロデューサーが、こんなことを言う場面がある

俺たちが繋いだもんが真実なんだよ。

「集めた素材をどう編集するかで、真実なんかいかようにでも作れる」という主旨の発言だ。これもまた、「『正しさ』は人によって違う」という主張の1つだが、「意図的に人を騙そう」というニュアンスが強いものであり、なかなか受け入れがたい。

しかし逆説的に考えれば、このような主張がまかり通ってしまうという事実こそが、「『正しさ』は人によって違う」という共通理解の難しさを示しているようにも感じられる。

どんな現実も、「どう切り取るか」「どこから見るか」で様相はまったく変わるはずだ。しかし、テレビやYoutube、Instagramなど、「そこから発信される情報を『正しい』と信じているメディア」から届く情報を、多くの人が無条件に受け入れてしまう。どんな情報も、意識的かどうかは別として、「誰かが、なんらかの”意図”を持って切り取った現実」に過ぎず、どんなメディアから発信されようが、「その情報が現実を正しく捉えている確証」などない

しかし私たちは、「分かりやすいもの」「理解しやすいもの」「受け入れやすいもの」を好んでしまう傾向があり、それが現実を正しく切り取っているかどうかに関係なく、「心地いいと感じる情報」を優先的に選んで取り込んでしまっているはずだ

だからこそ、「俺たちが繋いだもんが真実なんだよ」という言説がまかり通ってしまうことになる。つまりこれは、私たち受け手の問題だと言っていいだろう。

「『正しさ』は人によって違う」という認識を持てないことによって、その人自身が不利益を被るだけであれば、正直大した問題ではない。マズいのは、「他人に『正しさ』を強要する」という行為によって、「個人の断罪」がそこかしこで当たり前のように発生してしまうことだ

司法だけじゃない。社会が許さないの。

SNSなどによって、「『正しい』と主張する声」がどんどん増幅し、まるでそれが社会全体の意志であるかのように力を持つ。そうなってくるともう誰にも止められない。

そういう世の中では、誤った行為だと分かっていても「『自分は正しい』と主張する人に絡まれないための振る舞い」をせざるを得ないこともあるだろう。そしてその積み重ねが結局、「正義」を遠ざけることにも繋がってしまうはずだ。

なかなか捻れた社会だと思う

登場人物がそれぞれに、「正しさとは?」という問いを突きつけられる

映画の登場人物たちはそれぞれ、違った形で「正しさとは?」という問いに向き合わされる

由宇子はドキュメンタリーの監督として、3年前に女子高生が自殺した事件を追っている。「加害者は一体誰なのか?」について今も疑問が残り続けている事件であり、由宇子は「被害者家族」と「加害者と見做されている人物の家族」の双方にアプローチをし、事件の真相に迫ろうとしているのだ。

その一方で由宇子は、まったく想像もしなかった方向から「どう行動するのが『正しい』のか?」と逡巡する件に巻き込まれる。彼女はその暴風のような状況によろめきそうになるが、「隠蔽」という選択肢も含めた「最善解」を探る奮闘をせざるを得なくなった。

女子高生の自殺において「加害者と見做されている人物」は担任の教師であり、彼は自殺してしまっている。彼の母親と姉は、その無念を晴らそうと由宇子の取材を受ける決心を固めた。壮絶な「報道被害」にさらされ、幾度となく引っ越しを余儀なくされている2人は、「自分たちの平穏な生活」と「家族の無念を晴らしたいという気持ち」の狭間で、どう行動すべきか葛藤し続ける

由宇子の父は長年学習塾を経営しており、生徒から慕われている人物だ。由宇子もこの塾で学び、今では講師として父の手伝いをしている。彼はある状況を前にして大いに悩み、葛藤し、彼なりの「正しさ」を貫こうと決めた。しかし、この件で由宇子と意見が対立する。現実をより残酷に理解している由宇子には、父の「正しさ」が「本当に誰かを救う結果」を導くことになるとは思えない。

この塾に通うメイは父子家庭であり、恐らく学歴らしい学歴がないだろう父親の厳しい経済状況の下で不自由な生活を送っている。「普通に就職して、普通に給料をもらいたい」と覇気のない夢を語ることしかできない彼女こそ、この物語の「正しさ」の中心となる存在だ。しかしそんな彼女は、どのように「正しさ」を判断すべきか揺らぎ続ける。

メイの父親は、ひとつ屋根の下で暮らす娘とほとんどコミュニケーションが取れていない。共にお互いを理解しようとする気持ちが薄いのだが、あるきっかけを経て由宇子が間に入るようになったことで、父娘の関係が変わっていく。この父親は基本的に、映画における「正しさ」のほとんどに関わらない。しかし映画のラストは、まさに彼こそが否応なしに「正しさとは?」という問いを突きつけられることになる

作品の性質上、核心部分を避けて内容紹介をしたが、主要な登場人物が何らかの形で「正しさ」に直面させられるのだという点は理解してもらえたのではないかと思う

「正しい部分もあるし、間違っている部分もある」という受け取られ方が許容されない社会

普通に考えて、それがどんな物事であれ、「100%正しい」も「100%間違っている」もほとんど存在しないはずだ。大体どんな場合であっても、「ある程度正しく、ある程度間違っている」という状態だと考える方が自然だろう。

この映画の登場人物にしても同じだ。誰もが、「正しい部分もあるし、間違っている部分もある」という状態にいる「100%の被害者」も「100%の加害者」も存在しない。全員が少しずつ間違っているのであり、全員が正しい部分も持ち合わせているのである。

しかし、今の世の中では、「間違っている部分」だけが過剰に取り上げられ、「『間違っている部分』がある。だから、その人のすべてが間違いだ」という判断が当たり前のようになされてしまう

とても怖い

「100%の正しさ」が存在する可能性も決してゼロではないとは思うが、日常なかなかお目にかかれないほど稀だろう。世の中のほとんどのモノ・コト・人は「100%正しい」わけではない。それが何であれ「間違った部分もある」というわけだ。

つまり、「誰もが『あなたは間違っている』と吊るし上げられる可能性を有している」のである。

この映画は、私たちが生きているそんな社会の有り様を如実に映し出す作品なのだ。

主人公の由宇子が、「『正しさ』を生み出す側」でもあり「『正しさ』に侵食される側」でもあるという設定が非常に見事だと思う。彼女が立ち向かわなければならない現実は、確かに非常に特殊なものではある。しかしそれは一方で、私たちが日常生活の中で直面する可能性を増幅した現実だとも言えるだろう。

由宇子が抱える葛藤と相似形を成す苦しさを、私たちも味わう可能性がある。そういう社会に、私たちは生きているのだ。

難しいことは承知で書くが、結局のところ、「『間違いを含んだ正しさ』を許容する」という振る舞いを当たり前のものにしていくしかないのだと思う。「『間違い』を見逃せ」というのではない。「『間違い』は間違いとして非難するが、その『間違い』のレベルに合った程度にすべきであり、また、同時に存在しているはずの『正しさ』もきちんと認めるべき」と考えているのだ。間違いの中にも正しさはあるし、正しさの中にも間違いはある。結局多くの人がそういう理解を認めていくことでしか社会は変わっていかないと私は思う。

観客として、この映画を客観的に捉えているだけなら、「自分はあんな振る舞いはしない」と思っていられる。しかしもし自分がこの映画の登場人物の1人だったとしたら、彼らのような振る舞いをやはりしてしまうかもしれない

それはとても恐ろしい想像であり、不寛容が行き着いてしまった境地であるようにも感じられる

出演:瀧内公美, 出演:光石研, 出演:河合優実, 出演:梅田誠弘, 出演:川瀬陽太, Writer:春本雄二郎, 監督:春本雄二郎, プロデュース:春本雄二郎, プロデュース:松島哲也, プロデュース:片渕須直
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最後に

映画を観ながらずっと、「そんな社会でいいのか?」と突きつけられている気がした。そう聞かれて「いい」と答える人はきっといないだろう。しかしだからといってどうすべきなのか誰も分からない

社会のこの歪さは、どうしたら改善され得るのだろうか

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