【変異】映画『動物界』は斬新で刺激的な作品だった。我々はまさにこんな”分断社会”に生きている

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

監督:トマ・カイエ, Writer:トマ・カイエ, 出演:ロマン・デュリス, 出演:ポール・キルシェ, 出演:アデル・エグザルコプロス, 出演:トム・メルシエ, 出演:ビリー・ブラン

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

この記事の3つの要点

  • 舞台となるフランス以外でも広まる世界的なパンデミックを背景に、主人公が政府を相手に奮闘する物語
  • 実に魅力的な設定の中で、我々が生きる社会に通底するような「分断」がビジュアル的に分かりやすく描かれる
  • 「動物化した者は隔離」という国の方針に抗おうとする主人公の虚しい奮闘の結末は?

荒唐無稽でありながら、現代社会の一端をリアルに描き出す作品で、非常に興味深く感じられた

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

映画『動物界』は、SF的な設定で展開される実に奇妙な物語だが、我々が生きている「分断社会」のリアルを映し出す作品でもある

これは実に刺激的な作品だった。映画館で初めて本作の予告映像を目にした時から「絶対に観よう」と決めていたわけだが、やはり観て良かったなと思う。上手くは説明できないが、脳みその奥深くがぐりんぐりんとかき混ぜられているような感じで、知的好奇心がかなり強く刺激される新鮮な映画体験だった。

映画『動物界』の内容紹介

本作の舞台となる世界では、ある種の「パンデミック」が発生している

しかしそれは、ウイルスや感染症などではない「人間が突然動物化する」という奇病が蔓延しているのだ。「どういう人間が動物化し、どんな動物に変わってしまうのか」みたいなことは、恐らくまだ判明していない。作中の医師の発言を踏まえると、この奇病が蔓延し始めてから2年ほどしか経っておらず、まだまだ研究途上であるようだ。なお、本作の舞台はフランスなのだが、どうも世界で同じようにパンデミックが起こっているらしい。というのも、作中で主人公が「ノルウェーでの対応」に言及する場面があるからだ。作中ではまったく触れられはしないが、恐らく日本も同じ状況にあるのだろう。そういう世界的な問題としてこの奇病が登場するというわけだ。

さて恐らくだが、この奇病に罹る確率はそう高くはないと思われる。というのも一般市民は、「自分が動物化してしまったらどうしよう」という心配よりも、「動物化したヤツに襲われたらどうしよう」と考えているようだからだ。また、動物化した者は強制的に隔離措置が取られるのだが、そんな対応が出来るのも絶対数が少ないからだと思う。

ちなみにフランスでは、「動物化してしまった者」を正式には「新生物」と呼称しているのだが(ニュースなどではそのように報じられている)、一般市民は「獣」と呼んでいる「新生物にも自由を」とその権利を認めようと活動している市民団体も存在するので、その捉え方にはかなりグラデーションがありそうだが、1つはっきり分かることは「フランス政府は『新生物』に権利を認めていない」ということだろう。先述した通り、隔離の方針を取っているからだ。この点については、コロナウイルスによるパンデミックと同様、国によって対策が異なるようである。

さてフランスでは、隔離のための施設が南仏に新設された。そして本作では、この施設がある南仏が舞台となる。

主人公フランソワの妻ラナは動物化してしまい、強制的に隔離措置が取られてしまった。フランソワは当初、妻が動物化したことを隠して自宅に匿っていたのだが、息子エミールに危害を加えたことがきっかけで施設送りにされてしまったのだ。フランソワは、フランス政府のそんな対応に納得出来ない思いを抱えてはいるものの、「政府の方針だから仕方ない」と無理やり自分を納得させようとしている。

一方、息子のエミールは「母親が動物化してしまった」という事実自体をまだ受け入れられていない。本作は、車に乗ったフランソワとエミールが渋滞に捕まっている場面から始まるのだが、エミールは不機嫌な様子で座っている。父親の勧めで母親が隔離されている施設へ向かう途中なのだ。しかし、以前から予定を聞いていたにも拘らずエミールは行きたがらず、それどころか、渋滞で動かない車から降りて家まで帰ろうとしたぐらいである。よほど動物化した母親に会いたくなかったのだろう。

そしてそんな母親が、南仏に新設されたセンターに移送されることが決まったため、2人も一時的に生活の拠点を南仏に移すことにした。本作は、ここから物語が動き出していくのである。

南仏の学校に転校したエミールは、変な時期だったこともあり色々と聞かれたのだが、彼は「母親は死んだ」と嘘をついた。この地域では時々センターから新生物が脱走するようで、その度に外出禁止令が出されている。そんな場所で「母親が動物化した」などとは、やはり言えないだろう。

そうやって2人は新たな生活を始めたのだが、ある日、嵐によって倒れた木がバスに当たり横転するという思いがけない出来事が起こる。そしてそのバスはなんと、新生物の移送中だったのである。軍や憲兵隊が付近の捜索に駆り出され、行方が分からない新生物の捜索に乗り出すのだが、一筋縄ではいかない。

そして、フランソワとエミールにとっては最悪なことに、バスに乗っていて行方不明になった新生物の中にラナも含まれていたというのだ。そのためフランソワは、妻の行方を探そうと奮闘するのだが……。

パンデミック下で描かれる、壮絶な「分断」の物語

本作はとにかく、特に細かな説明をしないまま、「この世界では、人間が動物化する奇病が蔓延している」という宣言だけで物語が始まっていく。どうしてそんな事態が起こるのか、どういう条件で感染するのかなどは語られない。「奇病が蔓延している」という設定だけがどーんと提示され、それを前提に物語が進んでいくというわけだ。

本作のような物語は、コロナ禍を経たことで受け取られ方が変わったと言えるかもしれない。コロナ禍前だったらたぶん「完全なSF作品」みたいに捉えられただろうが、コロナ禍を経た今となっては違うんじゃないかと思う。我々は「未知の病気によって大混乱に陥った世界」を経験した。そしてだからこそ、本作で描かれる物語を「完全なSF作品」みたいには受け取れないんじゃないかという気がするのだ。

また、「人間の胎児は母親のお腹の中にいる間に、『生物の進化の過程』を再現するかのような成長をする」みたいな話を何かで読んだことがある。生物は、無脊椎動物→脊椎動物→魚類→両生類→哺乳類みたいに進化してきたわけだが、胎児はそんな進化の過程を1週間で再現するのだそうだ。これが事実であれば、「人類には生物の進化の記憶が含まれている」ことになるし、だったら「何かの拍子に動物化してしまうこと」だってそこまで荒唐無稽な話ではないようにも思う。

そして本作は、そんな興味深い設定を中心に据えながら、我々が生きる社会に蔓延っている「分断」を強く描き出していく作品でもある。そういう観点から私は、以前観た映画『CURED キュアード』のことを思い出した。『CURED キュアード』は、「感染するとゾンビ化するが、一部は治癒し感染前の状態に戻る。ただし、ゾンビ化していた時の記憶は残ったまま」という設定の物語である。その中では「ゾンビ化しなかった者」「ゾンビ化したが治癒した者」「ゾンビ化し、そのまま治癒していない者」という3者が共存する社会において否応なしに生まれてしまう「分断」が絶妙に描き出されていたように思う。そして本作『動物界』にも、かなり近いものを感じたのである。

『CURED キュアード』でも『動物界』でも、最も重要なポイントは「元々は同じ人間だった」という点だろう。本人に何ら責任のない「病気」が理由で「人間ではなくなってしまった者」が存在する一方で、社会には当然「ずっと人間のままの者」もいるわけで、その両者の間でとてつもなく深い分断が生まれてしまうのである。

そしてこの2作では、「そのような『分断』をビジュアル的に描き出している」という点に大きな特徴があると言えるだろう。我々が生きている社会で散見される「分断」というのは一般的に、「信仰」や「支持政党」など「内心」に関わるものが多いはずだ。それらは、本人にその意思があれば隠せてしまうし、だからこそとても分かりにくい。一方で、『CURED キュアード』『動物界』で描かれる「分断」は見た目でそうと分かるものであり、実に捉えやすいのである。

もちろん、「見た目」に起因する差別・区別は大昔から存在したが、それらは、『CURED キュアード』『動物界』で描かれる「分断」とは少し違うように思う。例えば「黒人差別」場合、差別をする白人は黒人に対して「元々は同じだった」みたいな感覚を抱かないはずだ。差別意識を持つ白人は恐らく、「自分と黒人は生まれた時から異なる存在であり、だからこそ受け入れられない」みたいに感じているんじゃないかと思う。

一方、『CURED キュアード』『動物界』で描かれている世界では、「奇病に感染することで、いつ誰が変わり果てた姿に変わってしまうか分からない」のである。やはりこれは本質的に異なる状況だと思う。そしてどちらかと言えば「信仰」や「支持政党」などによる「分断」に近いと考えていいだろう。「信仰」の場合は「生まれた瞬間から決まっている」みたいなパターンもあるだろうが、ただやはり「信仰」や「支持政党」は後天的に決まることの方が多いと思う。つまり、「『生まれた時には同じだった存在』が、後天的な変化によって『分断』されてしまう」というわけだ。「奇病によって動物化してしまう」という本作の設定は、そのようなものとして受け取られるべきだろう。

そしてだからこそ余計に難しいと言える。フランソワのように「かつて同じだったこと」に注目するか、あるいは世間のように「今違っていること」に焦点を当てるのかで、捉え方がまるで変わってくるからだ。本作ではこのように、ある種のSF的設定を使って実に興味深い「分断」を描き出しているのである。

「家族」を中心とした、実に複雑な人間模様を描き出すしていく

そんなわけで本作では「分断社会」が描かれているわけだが、同時に、やはり「家族」の物語でもある。特にそれを体現するのが主人公のフランソワだろう。彼は、動物化してしまった妻を今でも愛しているし、「新生物は隔離する」というフランス政府の方針に納得できない思いも抱いている。そんなフランソワは冒頭で、「不服従こそが本当の勇気だ」とエミールに言うのだが、まさにそのようなスタンスを実践し続けている人物だと言っていいだろう。

正直に言えば、私はフランソワの「俺の言っていることが正しいんだ」みたいなスタンスがどうにも好きになれない。ただ、それはそれとして、彼が家族を心底想っていることは理解できる。だから余計に、受け取り方が難しいなと思う。本作では中盤から、「そんな展開になるのか」みたいな感じになっていく(公式HPでは中盤以降の展開にも触れられているが、この記事では書かないことにする)。そしてその展開に対するフランソワの反応に受け入れがたい感覚を抱かされたり、その一方で、「まあそれしかないか」とも感じさせられたりしたというわけだ。どこからどう見るかによって捉え方が大分変わる人物であり、好きではないが嫌いにもなりきれないという何とも複雑な感覚を抱かされてしまった。

さてまた少し違う話だが、我々が経験したコロナウイルスによるパンデミックや、あるいは先ほど紹介した映画『CURED キュアード』では、「自分が感染したら、他者にも感染させる可能性がある」ため、「『感染者』は『感染した』と自己申告せざるを得ない」という状況に置かれる。そしてこの点において、本作『動物界』は大きく異なると言えるだろう。恐らくこの奇病については、「空気感染などしない」という共通理解がなされているのだと思う。そしてそれ故に、「感染を隠蔽する」という選択肢が生まれ得るというわけだ。

もちろん、「動物化」では見た目が変質するので、隠そうにも限界はある。ただ、発症初期は動物化のレベルも浅いため、「発症を申告せずに匿う」みたいな行動も採り得るのだ。だから余計にややこしいと言えるし、「妻を愛するフランソワの行動」の受け取り方も複雑になるのである。

さらに言えば、「フランソワが、憲兵隊として働くジュリアと親しくなった」という事実も、状況をより難しくする要素だと言えるだろう。憲兵隊はもちろん、国の方針に沿う形で「新生物を隔離する」というスタンスを堅持するしかない。一方でフランソワは、そんな政府の方針に歯向かおうとしているのだ。ジュリアは、個人としてはかなり協力的な姿勢を見せてくれるのだが、やはり憲兵隊という立場上出来ないことも出てくる。その辺りの人間関係もまた、物語をややこしくしているというわけだ。

このように、シンプルな設定ながら人間関係を奥深く描き出す物語であり、そういう点でも実に興味深い作品だった。

監督:トマ・カイエ, Writer:トマ・カイエ, 出演:ロマン・デュリス, 出演:ポール・キルシェ, 出演:アデル・エグザルコプロス, 出演:トム・メルシエ, 出演:ビリー・ブラン

最後に

「奇病によって動物化する」というのは確かにシンプルだが、一方でとてもダイナミックな設定でもあると思う。しかしそんな設定の物語が描き出すのは実に繊細な人間関係であり、その辺りのバランスがとても見事だった。脳みそをバキバキに刺激する、実に魅力的な作品である。

次にオススメの記事

この記事を読んでくれた方にオススメのタグページ

タグ一覧ページへのリンクも貼っておきます

シェアに値する記事でしょうか?
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次