【異様】ジャーナリズムの役割って何だ?日本ではまだきちんと機能しているか?報道機関自らが問う映画:『さよならテレビ』

目次

はじめに

この記事で取り上げる映画

「さよならテレビ」HP

この映画をガイドにしながら記事を書いていきます

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この記事の3つの要点

  • どう捉えるべきか、観終わってからも悩まされる映画
  • 今のメディアは「弱者を助ける報道」「権力の監視」が行えているのか?
  • メディアに触れる我々も変わらなければならないのではないか

「視聴率の獲得」と「権力の監視」は相容れない。その現実の中で、メディアはどうあるべきだろうか?

自己紹介記事

どんな人間がこの記事を書いているのかは、上の自己紹介記事をご覧ください

東海テレビが「東海テレビ」を撮るドキュメンタリー映画『さよならテレビ』は、「メディアとは何か?」を問いかける

どう受け取るのが正解なのか分からない映画

東海テレビと言えば、『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』など、ドキュメンタリー映画の話題作を次々に発表する、その世界ではよく知られた存在だ。

そんな東海テレビが、「東海テレビ」自身を被写体にドキュメンタリー映画を撮る、という。

カメラが報道局に持ち込まれるわけだが、映画を観ている限り、監督である土方氏のほぼ独断のような形で撮影が始まったように感じられる。少なくとも、報道局の面々は誰も聞かされていなかったようで、持ち込まれたカメラとマイクに困惑していた。

翌日、当然報道局は抗議し(このようなやり取りが「社内」で行われている、というのがなんだか凄まじい)、両者で話し合いが持たれることになった。そして、最初の日から2ヶ月後、

  • 机にはマイクを設置しない
  • 打ち合わせを撮影する場合は事前に許可を取る
  • 公開する前に試写を行うこと

という3つの条件を遵守することで、改めて報道局内にカメラが入ることになる。この冒頭のやり取りだけでも、なかなかに異様だ。

正直なところ、どこまで「ドキュメンタリー」なのか、つまり、映し出されている映像に演出や意図的な改変がないのか、私にはなんとも言えない。しかし、ドキュメンタリーで鳴らした東海テレビがそんなやり方をしていた、ということが発覚すれば致命的だろう。そう判断し、「これはドキュメンタリーなのだろう」と受け取っている。

というように、見方に非常に悩まされる映画ではある。言葉を正確に使えていないかもしれないが「自家撞着」のような雰囲気もあるし、「ウロボロスの蛇」のような捉えにくさもある。

映画の中で、

ドキュメンタリーって現実ですか? カメラが回ってるって状況は現実ですか?

という問いかけがなされる場面が出てくるが、まさにこの映画全体がそんな状況にあると言っていい。そもそも「そこにカメラが存在する」という時点で既に「普段の現実」とは違う。ドキュメンタリー映画は元々そのような矛盾を孕む存在ではあるが、さらにこの映画では、「撮る側が撮られている」「報じる側が報じられている」という階層も存在することになる。

ややこしくならないはずがない

この記事では、この映画のそういう「ややこしさ」には深入りしない。どうしても言葉で捉えるのが難しいし、やはりそれは自分で体感してもらうのがいいと思うからだ。

同じようなドキュメンタリーが過去に存在したのか寡聞にして知らないが、「ありそうでなかった設定」と感じるし、「メディア」というものの性質や存在意義にも改めて意識が向くのではないかと思う

映画『さよならテレビ』の内容紹介

先述した通り、報道局に無断でカメラを持ち込んだ後、話し合いの末ルールが策定された。そして、3人の人物を中心として、報道局の日常や業務、報道が担うべき役割、報道を生業とする者たちの人生などを切り取っていく

東海テレビが「東海テレビの報道局」を被写体にした理由には、ある背景が存在する。具体的には書かないが、2011年に東海テレビはワイドショー番組の中で、信じがたいミスをしてしまったのだ。そのミスは報道局が犯したものであり(この映画からそうだろうと断した)、それもあって「東海テレビの報道局」が被写体として選ばれたのだと思う。

勝手な予想だが、「過去にとんでもないミスをした」という事実がなければ、仮に同じ社内同士であっても、「報道局内部をドキュメンタリー映画として撮影させる」ことなど認めなかっただろう。東海テレビは、かつての重大なミスを再び起こさず、報道を担う者としてどう向き合っていくのかを示していく必要がある。そんな決意を込めた合意であり、先の3条件という譲歩をしたのではないかと勝手ながら想像した。

この映画で主に映し出される3人は、以下のような面々である。

  • 「みんなのニュースOne」のキャスター・福島
  • 契約社員として働き始めたばかりの新人記者・渡邉
  • ジャーナリズムに熱い50代の契約社員・澤村

福島は、報道局が制作を担当している夕方の報道番組のメインキャスターだ。映画の冒頭では、福島が原稿を読み込み、相当準備をした上で放送を迎える、という一連の流れが映し出される。仕事熱心だと感じるだろうが、彼のこのスタンスはスタッフ受けがあまりよくない。事前にガチガチに準備してしまうせいで臨機応変の対応が出来なくなり、面白味に欠けると受け取られているのだ。

しかし、福島が念入りに準備をするのには理由がある。福島は、2011年の重大なミスを犯した番組でもメインキャスターを務めていたのだ。彼自身のミスではないが、彼にとって2011年の記憶は非常に苦しいものとして刻まれている。だからこそ、僅かのミスもないように、準備を怠らないのだ。

新人の渡邉は、記者としての基本があまり分かっていないまま報道の仕事に携わっている。彼がテレビの仕事に興味を持つようになったきっかけは変わっていると言っていい。自分が推しているアイドルから、「テレビの仕事がいいんじゃない」と勧められたからなのだ。映画には、彼がアイドルのライブイベントに参加する姿も映し出されている。

そんな渡邉は、やはりというべきか、残念なミスを連発してしまう。そして彼のミスを上司はこっぴどく叱るのだ。渡邉は、2011年のミスを自分の経験として知っているわけではない。そしてそれ故に、上司との間に温度差があるように感じられる。あんなミスを二度と犯したくはない上司と、その重大さが理解できていない渡邉との間の溝が描かれるというわけだ。

澤村は「是非モノ」、通称「Z」と呼ばれる取材を担当している。「是非モノ」というのは、「『是非取材に来て下さい』とお願いされるもの」であり、スポンサーなどが絡むこともあるものだ。

澤村は、自宅に関連本を多数揃えるほど、「ジャーナリズム」に対して信念を持っている。契約社員という身ではあるが、報道局の中でも「ジャーナリズム魂」は負けていないと自負しているほどだ。そんな澤村からすれば、「是非モノ」の取材は自分の理想とする仕事とは程遠い。しかし職務は職務として全うし、一方で自分の時間を使ってジャーナリズムに関する集まりなどに参加している。

この3人を中心に展開される映画だ

マスコミの3つの役割と視聴率

彼らがどのような存在として映し出されるかの説明には、この映画の随所で挿入される「マスコミの役割」に触れる方がいいだろう。これは、子どもたちに向けて「マスコミとはどのような存在なのか」を説明するものとして描かれるものだ。

この映画では、「マスコミの役割」を以下の3つに集約している

  1. 事件・事故・災害・政治について伝える
  2. 弱者を助ける
  3. 権力を監視する

福島と渡邉は「②弱者を助ける」の観点から描かれる。「かつてミスによって弱い立場の人を傷つけてしまった福島」と、「自身が弱い立場にいる渡邉」という視点である。

映画の中でこの「マスコミの役割」が何度も登場するのは、自己批判を兼ねているのだろうと思う。「自分たちは、『弱者を助ける』報道が本当に出来ているだろうか」と。ともすれば、報じる側も見る側も、「マスコミは『弱者を助ける』責務があるのだ」ということを忘れがちだ。東海テレビは『さよならテレビ』という映画を通じて、その自戒を促しているのではないかと思う。

一方、澤村は「③権力を監視する」に絡む形で取り上げられる

澤村の基本的な担当は「是非モノ」だが、報道局にいる以上、そうではない企画を提案することももちろんできる。映画で澤村は、「共謀罪」に注目していた。「共謀罪」の容疑で逮捕されてしまった市民の存在を知った澤村は、「共謀罪」の是非を問う企画を提案し、実際に自ら取材を行う場面が描かれていく

まさに澤村の「ジャーナリズム魂」がほとばしる取材だ。

しかし、そんな澤村が抱く「ジャーナリズム」への熱量に対比させるような形で、「視聴率」の話題が登場する。というか、報道局の会議では「視聴率」の話題ばかりが取り上げられていた。

マスコミにおける「視聴率」の問題はなかなか難しい

「ジャーナリズム」を志向する澤村は、自身が契約社員という立場だということもあるのだろう、「視聴率」至上主義になってしまっている今のマスコミに批判的な発言を随所でする。

日本のメディアって、結局会社員なんですよね。収入を維持するためにしがみつく、みたいな。

このフロアにも、共謀罪に関心ないって人の方が多いんじゃないですかね

「ジャーナリズム」への想いが強い澤村にとって、メディアとは何よりも「権力を監視する存在」であるべきであり、そんな彼には、

急にテレビと新聞が嘘っぽくなっちゃったんだろうね

という感覚が拭いきれないでいる。

もちろん彼も、「テレビだって民間企業であり、評価の指標となる視聴率は重要だ」という意見を無視していいわけではないと分かっている。そしてその上で、「メディアなのだから、権力の監視もすべきだ」という理想が語られるのだ。

しかしこの2つを両立させることは難しい。「権力の監視」では「視聴率」を取れないことの方が多いからだ。さらに言えば、ちゃんと効力のある「監視」を行うためには、ある程度以上「視聴率」の取れるメディアでなければ役割を果たせない、という側面もあるだろう。となれば、まず「視聴率」が優先されるべきだと考えることもできるかもしれない。

しかし澤村はそう考えない

ジャーナリズムっていうのは、問題を解決する気概でやらないと。もちろん、テレビも新聞も、結局は問題を解決できないですよ。でも、どうやったら解決できるのか、ギリギリまで考えるべきで、その上で成り立つ表現っていうのがあると思うんです。それを本気でやらないと。けど、目先の数字を追いかけるばっかりになっちゃってる

もちろん、澤村の主張はもっともだ。しかし一方で、残念ながらそれは理想論でしかないとも言える。「組織の論理」の中で物事を動かしていくことはとても難しいからだ。取り繕った言い方をしなければ、「契約社員という立場だからこそ言えること」でしかないだろう。

映画には、こんな場面があった。管理職だろう人物が、「残業を減らすのを徹底してくれ」と報道局のメンバーに伝えるが、局員は「残業は減らせ、でも他局は抜け、なんて無理です」と反論する。それに対して管理職の人物が、「もうとにかく仕方ないんだよ」みたいな返答をするのだ。

その管理職にも、個人としての想いは様々にあるだろう。しかし、「組織の論理」がそれを許さない。「報道」も「権力の監視」もすべて、「組織が存続していること」が絶対条件だ。そして「組織の存続」のためには、無理を通すしかない。

そこに理想論が入り込む余地はほとんどない

メディアが今以上に衰退し、民主主義の根幹である「権力の監視」が適切に行われなくなることで、国家が誰も望んでいないような悲惨な状況に陥る可能性は否定できない。そうなってから、「メディアによる『権力の監視』をもっと重視していれば良かった」と嘆いても遅いだろう。だから報じる側も見る側も、もっと「権力の監視」という役割に注目する必要がある

しかしやはり、そのような理想論はなかなか現実的ではない

この映画はそういう意味で、メディアをメディア内部から描きながら、同時に、「権力の監視」に関心を持たない我々視聴者の現状まで切り取っていると言えるだろう。

最後に

テレビ的な現実を切り取ってるだけじゃないか? テレビの枠内に収まっちゃってるんじゃないか?

「テレビ」という枠内にありながら、「ドキュメンタリー」という境地を切り開いていく者だからこそ見える「テレビ的な現実」「テレビの枠」を自覚しつつ、自己批判を兼ねて「メディア」というものを切り取っていく。冒頭で書いた通り、受け取り方の難しい映画ではあるが、「メディアはどうあるべきか?」だけではなく、「『メディアが理想的な存在である』ために、視聴者である我々はどうあるべきか?」と問いかける、野心的な映画でもある。

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